ICSB国際中小企業協議会第54回世界大会(ソウル)へ行ってきました (1)





 日本の学会としての国際交流を推進するためにも、またいろいろ最新の研究動向や政策の動きなど知るためにも、国際的な機会は重要です。


 昨年秋には、私も会員であるISBE英国中小企業研究学会の第31回大会がベルファストで開かれたのに参加してきましたが、これは日本に事務局のあるISBC国際中小企業会議の第35回大会との「共催」というかたちでした。
 ややこしいですが、世界ではICSB国際中小企業協議会という組織があり、国際学会的な研究発表や討論の機会としては明らかにこちらが主流です(ICSBは、「研究者、教育者、政策立案者、実践家」の4つを柱としていると公称しています)。米国にICSBの事務局がありますが、欧州ではECSB欧州中小企業協議会という組織を置き、多くの国の研究者がこれに関わっています。今回の大会開催でわかるように、韓国の学界はICSBとの関係が強力です。

 私は3年前、ISBCを支える「日本中小企業国際協議会」から、このICSBの方も「偵察してこい」という命を受け、第51回世界大会の開かれたオーストラリアメルボルンに行ってきました。多くの人たちと交流や再会ができましたし、なにより各国の若手研究者たちが自分たちの中小企業研究の成果発表に尽力している姿が印象的でした。


 それから3年、今年の世界大会はお隣の韓国ソウルです。これはなんとしても見てこなければと、頑張って行ってきました次第です。

 
 
 

 
6月19日、日本発

 
 
 6月19日、羽田を発ってソウルに向かいました。

 
 その前夜、私は通夜の席に出ておりました。横浜国大の同僚、経済学部の金澤史男教授が6月16日に急逝され、18日夜に横浜戸塚で通夜が執り行われたのです。55歳の若さで、教育研究や学務、大学運営、さらには神奈川県の政策立案などあらゆる方面で活躍の最中、16日も担当授業を終えられた直後に校舎内で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのです。あまりのことに、誰もが驚きと悲しみ以上の衝撃を表すすべもない出来事でした。

 戸塚の斎場は弔問の人があふれていました。鈴木学長、松沢県知事が出席して弔辞を述べられ、故人の業績の大きさと、失われたものの限りないことを改めて思い起こさせるものでした。私個人にも、実は前任校から横国大に「来ませんか」と声をかけてくれたのが、金澤教授だったのです。それまで未知の人であり、突然の電話に大いに驚いたのですが、せっかくのお話でもあり、勤続20年目が一つの潮時かなという決意を促してくれた、その恩人でもありました。私の転任前後にも、金澤教授は何かと詳しい情報を教えてくれ、適切なアドバイスを下さいました。そして、金澤教授と直接にお話しした最後は、私の名前も出ている「横浜国大社会科学系史」の編集稿を、確認のためにわざわざ持参下さった、その機会でした。多忙を極めておられる中、最後まで丁寧な気配りの人でもあったのです。「それよりも、なによりももっとご自愛下さったら……」、そんな思いはいま何の役にも立ちません。あまりにも慌ただしく旅立ってしまった金澤先生を呼び戻すことは永遠にできません。


 
 羽田から金浦空港に向かうアシアナ機の中では、機内ムービーのメニューのうちに「おくりびと」を見つけました。2時間ほどの飛行時間のうちでは全編は見られず、帰りの機内で後半を見ることになったのですが、映画のなかの、棺のうちに収められた亡き人の姿に、前夜お別れを告げた金澤教授のもの言わぬ、瞼閉じられた顔がどうしても重なり、涙のあふれるのを押さえられませんでした。いま、ここに記していても、心重く、目が潤んでくるのを覚えます。悲しすぎるお別れでした。


 

 
 ソウルを訪れるのは実に19年ぶりでした。その際にもやはり、国際会議出席のためで、11年前に亡くなられた佐藤芳雄教授らと第17回ISBC国際中小企業会議へ、東信協の支援で参ることができたのです。現在豊橋創造大学におられる森田和正氏が案内役を務めて下さいました。

 19年ぶりのソウルは、ますますの発展と混雑ぶりでした。金浦空港(インフルエンザ騒動で、到着客は皆、「一応」体温チェックを受けました)から乗ったタクシーは幹線道路の渋滞につかまり、容易に進まず、結局ホテルまで1時間20分くらいはかかりました。ちょっと日本語も話せる運転手氏と、「困ったもんよ」「金曜日の午後だからね」などといったやりとりをしながら、当初「3萬ウォン」の料金ということだったのを降りる際には「3萬5千」に増えていたのですが、まあそのくらい貰わないとこの時間かけたのには合わないだろとそのまま払ってやりました。この間の円高ウォン安のおかげで、万の単位が飛び交っても、実際には3千円にもならないのですから、気の毒なくらいではあります(羽田で両替をしたら、それこそ「立ちそうな」厚さの万札の束が出てきて、どこに仕舞うか困ったくらいです)。

 
 泊まるホテルは、ICSB会場でもあるCOEXソウルコンベンションエキジビションセンター内にあるCOEXインターコンチネンタルホテルです。ソウル旧市街からは漢江を挟む南側の、近年開発発展めざましい江南地区に属します。ホテルの部屋は36階、眼下には江南の街中から、さらに漢江、その向こうの市街も望めますし、すぐそばにはオリンピックスタジアムもあり、眺めは絶好です。ホテルの前には古い禅宗のお寺らしい、奉恩寺という大きなお寺があって、参拝の人も大勢のようでしたが(のちに見に参りましたが)、なにより目立っていたのは、寺の外壁にかけられた大きな横断幕の、故廬武鉉前大統領の遺影でした。すべてハングル文字で書かれた幕に記された意味はわかりませんが、ひと月前に自殺した前大統領の、死の衝撃、追悼の思いの深さはおのずと伝わってきます。



 
 その日は、なにせ外は暑かったので(タクシーの運転手氏も言っていましたが、夏のソウルは暑い、これから「梅雨時だ」というんで、日本の梅雨の蒸し暑さから逃れられるのでは期待していた私はがっかりでした)、COEX全体など見て回りました。COEXは大規模なコンベンション、エキジビション施設で、そのときもあれこれ展示会やイベントなどあるようでした。しかも、オフィスビルやホテル、さらにデパートまでつながっているだけでなく(カジノもあります)、地下全体が大変な規模のショッピングモールになっていて、だいたいそこで用が足りてしまいます。日本風のレストランどころか、日本のキャラクターショップもあります。若い人たちでいつもあふれています。19年前にはまだ、「日本文化」への制限があって、こういった店は考えられなかったし、日本風の店もあくまで「日式」を名乗っていたのですが、いまでは何の抵抗感もなく、日韓双方の文化が大いに交流し合っている観もあります。現代デパートはホテルと反対側になるのですが(もう一つのインターコンチネンタルホテルはデパートの並びで間違えやすいのですが)、そこの地下の食品売り場で、キムチやら果物や飲み物やらあれこれ仕入れました。でも、悪い癖でちょっと買いすぎたし、韓国のビールはあまりうまくないですね。








 
 


6月20日には


 翌朝早々に、李ユンポ氏(建国大学)のアレンジにより、ホテルのレストランで韓国中小企業学会の方々との朝食会ということになりました。李氏は日本の大学で学位を取った日本通でもあり、19年前のソウル訪問の際にも非常に歓迎してくれ、あれこれと案内を下さった恩人です。いまでは「見かけ」も中身も「大物」になってしまいましたが、気の良さ、飲みっぷり食べっぷりなどは変わりません。

 KASBS韓国中小企業学会からは、李氏のほか、郭スゥクン会長(ソウル国立大)、韓ユンファ前会長(漢陽大)、金キチャン氏(韓国カソリック大)の4名が出席され、情報交換とともに、今後の日韓の交流連携の推進を確認し合いました。韓国側では、アジア規模のジャーナルを出す意図もあるそうで、日本側の協力を期待しておりました。日本からは今後の学界間交流をいっそうすすめること、特に今秋熊本で開催の日本中小企業学会全国大会には、「お近く」でもあるので、ぜひ参加してほしいと話しました。ただ、私も知らなかったのですが、このときがちょうど韓国の「お盆」なのだそうで、日本に行くか、家族孝行をするか、悩ましいことなのだそうです。

 
 私にはこうした機会に、韓国の学会幹部の方々と直接、個人的に接することができたのは実に嬉しいことでした。22日のICSBバンケットのあと、「二次会」を郭会長のご招待でもって貰い、大いに盛り上がるなど、郭会長のお人柄にも触れられ、ICSB大会の開催サイドとして多忙を極め、激務でもあろうに、そんなことをおくびにも出さず、にこにこして気配りある、しかもなにか飄々としたところに、「カウンターパート」であるはずの私など、ちょっと恥ずかしくなるくらいでした。




 
 その日は、せっかくですから、市内見学、特にソウルらしさの代表である東大門、南大門両市場をぜひに見に行かなくてはと、折りから降り出した雨をついて、出かけました。地図やガイドブックを確認し、なにより地下鉄利用が正解と、COEX地下のモールをずっと下って地下鉄2号線三成駅まで濡れることなく来られたのですが、地下鉄の利用もなかなかやっかいです。だいたい日本のガイドブックに書いてあることと一致しません。どうもごく最近に仕組みが変わったらしいので、片道一回の切符を買うにも、自動販売機で、行き先駅を探し、そこまでの料金を表示させ、さらに「カード代金」500ウォンを加えてお金を入れなくてはならないのです。もちろんデフォルトの表示はハングルですから、英文表示をまず呼び出さないといけません。

 それで何とか地下鉄に乗ったのですが、動き出してから、あれ、これ逆方向じゃないかな、と気がつきました。2号線は環状線なので、方向表示がはっきりしないうえ、自分の山勘で歩いているうちに方向感覚がずれてきていたようです。環状線ですからそのまま乗っていても、いつかは目的の駅にも着けるわけですが、時間の無駄でもあるので、一生懸命地図をにらみ、途中で乗り換え、今度は4号線で北上すれば、目的地に近づけるなと確信しました。その通りで、ようやく東大門運動場駅にまで到着しました。

 ちなみに、地下鉄の切符に代わったカードは不思議なことに一回しか使えず、再度これにチャージしてということはできない仕組みです。その代わり、自販機の隣に「換金機」があって、そこに納めると500ウォンが戻ってくるのです。要するに、みんな一回一回切符を買うようなことはやめて、日本のスイカパスモのようなチャージ型ICカードを持つようにしろというねらいなんでしょうが、私だけじゃなく、多くの「ローカルピープル」も戸惑っていました。ソウルでは地下鉄が重要な市民の足となってきたようで、いつ乗っても混んでいますし、だいたい安い(初乗り最短で1000ウォン、つまり70円ちょっと!)ですが、主な表示はハングル、アナウンスも韓国語主体で、若干アルファベット表示や英語などもあるだけ、全線の案内図も少ないですし、いまも外国人客にわかりやすいとは言えませんね。

 
 駅を出るともう土砂降りの雨です。ここであきらめてはと頑張っていくうちに、案内所の看板を見つけ、駆け込んで地図を入手しました。まあ地図などなくても、あたり一面東大門市場の店だらけです。平和市場など大きな建物に入ると、延々と店が内部に続きます。衣料品や生地や付属品、雑貨などの同じような店が、よくもまあこんなにあるというくらい連なっているのです。値段を見ればめちゃ安ですが、基本的に卸ですから。土曜日だし、この雨だし、買い出しの客は少ないと思いますものの、それでも熱心に商談をしている人も見かけます。



 東大門市場では、単に卸の店がいっぱいあるだけではなく、それらを集め、あっという間にファッション製品を仕上げ、その日のうちにでも韓国国内だけでなく、日本にでも送り届けられるという、超クイックレスポンスのメーカーが多数あり、見事な集積の利益を発揮しているというのは、許伸江さんなどの研究の指摘するところです。残念ながらこの雨では、その辺までを探索する余裕がありませんでしたが、広蔵市場あたりの屋台の食べ物や風景は大いに満喫しました。いや所狭しと並ぶ食品や料理やその迫力、ただ者ではありませんね。もっとも、食べても大丈夫かな、と旅行者としてはちょっと心配でしたが。



 
 昼にはまた地下鉄でソウル中央駅に移動、駅風景や車両などカメラに納めました。ところがあとでガイドブックなどよく読むと、韓国ではいまも、空港はもとより、鉄道駅など基本的に撮影禁止、重大な国防秘密の扱いだというじゃありませんか。もっとも私も、駅でも気をつけ、そういった表示があるのかと見渡しましたが、全然なかったですし、もちろん地下鉄の駅にもなにもなしでした。とがめに来る「当局の人間」もいませんでした。

 鉄道にはあまり力を入れなかった国策で、ソウル中央駅もちょっと寂しいものです。釜山までを結ぶ、自慢のKTXもかなり走っていましたが、残念ながらいい位置で撮ることはできませんでした。

 
 ソウル駅構内の「駅食」といったところで、昼に冷麺を食しました。まあそれなりにおいしかったし、なんといっても「安い!」ですから。いやというほどキムチなどついてきますしね。ここで悠々談食酒盛りに、長時間滞在中の人たちも多いようでした。






 
 午後はまた頑張って、南大門市場に向かったのですが、雨は小降りになるどころかますます激しくなります。道路を滝のように水が流れます。南大門市場のところまで地下鉄駅から歩くだけで、いくら傘を差していてももうびしょ濡れです。南大門市場は雑貨類、洋品、食品からファッション関係、輸入品まで幅広い店が集まっていますが、なにより目立つのは日本人客ねらいの商売です。日本語の看板が至るところにあり、日本語の呼び声が飛び交っています。「ニセモノ、ニセモノ!」の声も早速に聞こえてきました。不思議なのは眼鏡屋がいくつもあって、若い日本人相手に呼び込み熱心なことです。ここでめがねをつくる日本の若い人が大勢いるんでしょうか?

 
 19年前にはこの南大門近くの有名な店で、佐藤先生らとサムゲタンを食した記憶があるのですが、この雨のなかまた探し歩く気も、それどころか掘り出し物を見つける気もそろそろ失せ、戻ることにしました。









 ホテルに帰り着いたのは午後6時過ぎであったかと思いますが、さすがに疲れ、その夜はそのまま、買いだめの食品と飲み物を口にしただけで休みました。これからの「公式日程」で食う飲むのは目白押しですし。服も、バッグもびしょ濡れで、中まで雨がしみこみ、ガイドブックや地図は崩壊寸前の状態でした。カメラはケースに入れておいて助かりました。これではほとんど悪天候を押しての山登りです。ソウルの梅雨はあなどってはいけません。


 












(2)に続く