【手帳にもとづき作成の日記】

 11日、日曜の朝にケルンをバスで出発。デュッセルドルフ空港には9時過ぎの到着。最初、戻し税の列に並んだのは十人近く。既にできていた長蛇の列は遅々として進まず。何人かはあきらめたが、4組だけが残った。待った。フライトは11時35分の予定。待つこと1時間半。どうにかスタンプをもらって、お隣りと向かいの窓口でペイバックを受けた。スキポールのような大きな空港だと、払い戻しの窓口も分散しているのでかなり大変とか。いい勉強になった。

 デュッセルドルフには1時間ほどで到着。アムステルダム発は14時50分。成田着は9時40分。

 機内で「スノーホワイト」を観た。いわゆる「怖いグリム童話」。グリム兄弟が著わした白雪姫とも違うダーク・メルヘン。グリムでは白雪姫は性悪娘なのだが、ヒロインを悪くは描かないのがハリウッド。なかなか面白かった。

 これからいつものメンバーで飲み会。着いた日そうそうはどうかなと思ったが行けそう。(11/12/2012)

【手帳にもとづき作成の日記】

 きのうはライン川とモーゼル川が合流するコブレンツに停泊した。夜、チターの演奏会がラウンジであった。「チター」の名前は知っている。だが実物は想像とはずいぶん違った。

 そのあと、**(家内)が腰がひどく痛むと言いだした。外見は色も変わっていないし、傷跡のようなものも見あたらない。嫌な想像をして眠れなかった。

 朝食後、看護師をしていた*さんに見てもらう。炎症ではないかということで、貼り薬と痛み止めの飲み薬をいただいた。貼り薬が効かないようなら痛み止めを飲んで帰国次第、すぐに医者に行きなさいとのこと。幸い貼り薬で痛みはおさまった。

 クルージングの最後の催し、ビンゴ大会。ビンゴ!!、そのあと**(家内)も。夫婦ともども商品ゲット。午後、このツアーの最後の観光、ケルンの大聖堂を見て、周辺を散策。とうとうトランクのパッキングをする日が来た。(11/10/2012)

【手帳にもとづき作成の日記】

 いい天気だった。今回の日程の中で朝からこれほど晴れ上がったのははじめてかも。

 ニーダーヴァルトの丘へ登るリフトの営業開始を待って、リューデスハイムの街をブラブラ歩き。北九州から来たおばさん3人組とともにワイン倉を見学させてもらう。地下には仕込んだばかりのワイン。樽の中でぶくぶくいう音を聞きながら、まだワインになる前段階のものを試飲させてもらった。製品を売るための呼び込みかと思いきや、そうではない。ちょっと大滝秀治に似たおじさんはドイツ語オンリー。話はとんと通じないながら、すごく温かい気持ちでお礼を言いながら倉を出た。

 驚きはそれから。おばさんの一人は九州支社の営業にいた**さんの奥様。**さんはずいぶん前に亡くなったのだが未亡人は強い。3人はすべて寡婦。こうして海外旅行をする仲間とのこと。

 ニーダーヴァルトの丘へ登るリフトは2人乗りの小さなゴンドラ。丘からは蛇行して流れるライン川、リューデスハイム、対岸のビンゲンの街。素晴らしい眺め。

 午後、古城谿谷クルージング。屋上デッキで景観を楽しむ。寒いけれど、両岸に点在する「観光スポット」を見逃さないためには、ラウンジに退散したり、部屋に籠もるわけにはゆかない。

 船は行きすぎる、ローレライの岩を。このツアー参加者のほとんどは歳上の人だから間違いなくあの歌を思い出しているだろう。・・・イッヒ ヴァイス ニヒト ヴァス ゾル エス ベドイテン ダス イッヒ ゾー トラウリッヒ ビン(思い出せるのはここまで)。これを「なじかは知らねど 心侘びて」と訳した近藤朔風の「工夫」を吉田秀和が誉めていた。・・・入り日に山々 赤く映ゆる・・・船はとっくにかつての難所を通り過ぎていた。(11/9/2012)

【手帳にもとづき作成の日記】

 朝、起きると、船はフランクフルト。正確にはフランクフルト・アム・マイン。

 きょうはこれからハイデルベルク。梶浦さんが「旭稜」に訪問記を寄せていた大学都市。「アルト・ハイデルベルク」は我々の年代には名前のみだが、ある年齢以上の人にとっては想い出の一冊。

 街を見下ろすハイデルベルク城、ここも廃城。きのうのヴェルトハイム城よりは形が残っている。落ち着いた美しい街。ネッカー川にかかる石橋は優美。学生牢から大学博物館を見て回る。

 大学広場に面した本屋でリルケの詩集を買った。ドイツ語はダメだが、詩集ならば単語から見当をつけて訳詞を見つけることができるかもしれない。できればレクラム文庫でと思ったのだが見あたらない。店員に訊ねることもできないうちに集合時間が来てしまった。

(購入した本のタイトルは ” Das Stundent-Buch “ 邦訳名は「時祷集」:11/16入力時補足)

 バスでマインツへ。マインツはマイン川とライン川の合流点の街。夕食の間に出航。リューデスハイムへ。8時過ぎに下船、「つぐみ横町」。狭い路地に酒場が並ぶ様はそのまま日本の飲み屋街。

 いま、思い出した。おととい、ローテンブルクの城壁を歩いているとき、「酒呑み処」と書いた赤提灯が窓にかけてあるアパートを見た。欧米人には「洒落た小物」に見えるのかもしれない。(11/8/2012)

【手帳にもとづき作成の日記】

 夜のうちにヴュルツブルクからヴェルトハイムに移動。晴れの予報が雨。本格的に傘をさしたのはきょうがはじめてか。

 廃城に登って見下ろす街は湾曲して流れるマイン川にタウバー川が合流するポイントを囲むように拡がっている。お昼の帰船までの間にたけちゃんへのみやげに色鉛筆のセット、自分用にキルティングになっているフェルトキャップを買った。

 午後はヴェルトハイムからフランクフルトまでクルージング。天気はいまひとつパッとしないが、これもまた人生の秋には似合っている一日。

 アメリカ大統領選、オバマの再選が決まったらしい。獲得選挙人数はオバマが303人、ロムニーは206人。まだ決まっていない州がある由、いつものごとくフロリダ州、ブッシュが大統領職をゴアから盗み取った選挙戦以来、札付き州になった。まだ、ブッシュの弟が牛耳ってインチキを仕掛けているのか。

 CNNのキャスターはうるさい。Richard Quest。力こぶを入れてアクセントをつけるのが米語の特徴か。左肩を入れてインタビュー、相手が話し中でも遮ってしゃべり出す。アメリカ流とはこれ。耳障り。BBCに変えたいが、電波事情が悪いそうで映らない。ほんとうに聞くだけで疲れる。(11/7/2012)

【手帳にもとづき作成の日記】

 キッツィンゲンからローテンブルクまでバスで45分ほど。天候は「晴れ」なのだが、時折、雨粒が落ちてくる。寒い。手袋をするとカメラやビデオの操作には不便だが、手袋なしというわけにはゆかない。ブルク公園から望む丘陵と谷間の紅葉(赤はない、ほとんどが黄色のバリエーション)とちらほら見える建物がきれい。

 聖ヤコブ教会で聖血祭壇(いわゆる聖遺物の類だろう)。市庁舎前の建物の仕掛け時計はミュンヘンに比べると時間も短く簡素だが毎正時に鳴るところが観光客にはありがたい。

 今回、ミュンヘンを含めて市中のレストランでの昼食には恵まれなかったが、きょうのロールキャベツとマッシュポテトはおいしかった。

 昼食後、旧市街を囲む城壁に登った。万里の長城のような「屋上ハイウェイ」ではなく、屋根付の「蜀の桟道」が城壁の内側にはりついているといったイメージ。城壁にはメンテナンスに寄付した人や団体のプレートがはめ込んである。「世界まるごとハウマッチ」などというのもあった。

 帰船はキッツィンゲンではなくヴュルツブルク。(11/6/2012)

【手帳にもとづき作成の日記】

 午前中はバンベルクの街。新宮殿のバラ園からは街並みを見下ろすことができる。東の空は雲が切れてきて、西の空に残る雨雲にきれいな虹がかかった。大聖堂で騎士像とハインリヒ二世・クニグンデ皇后の墓(石棺?)などを見てから、レグニッツ川にかかる橋の上の市庁舎門をくぐり商業地区。ラオホビール(燻製ビール)を買ってきた。

 午後はバンベルクからキッツィンゲンへ向けてマイン川をゆったりとクルージング。

 **君から京都舞妓さんツアーの日程について確認のショートメール。こちらはいつでもかまわないと返答。(11/5/2012)

【手帳にもとづき作成の日記】

 起きたときにはニュルンベルクに入港していた。

 バスからナチス党大会の屋外会場、ニュルンベルク裁判の法廷のある建物などを見る。小雨の中の屋外会場。リーフェンシュタールの「意志の勝利」の映像がフラッシュバック。あれはデモーニッシュな映像美だった。

 カイザーブルクに入るころ、雨が少しきつくなり、この旅行ではじめて傘をさした。午後、自由散策。カイザーブルクそばのデューラーの家を見る。日本語のオーディオガイドを借りるが、少し固い日本語。たぶん日本人は制作にタッチしていないのだろう。3階の窓からカイザーブルクの城壁が見える。この角度からデューラーも空を見たのか。

 また午後には薄日が射してきた。しかし寒い。きょうは日曜。ほとんどの店は閉まっている。少し持て余し気味の自由時間の後、帰船。(11/4/2012)

【手帳にもとづき作成の日記】

 夜のうちにパッサウからドナウ川をさかのぼり、9時15分、レーゲンスブルク入港。

 「マクデブルクの半球」実験はここで行われたはず。優美な石橋と大聖堂。きょうもお昼に向かうごとに雲がとれ、午後のドナウクルージングは快適だった。

 ほどなくドナウ-マイン連絡運河に入った。意外だったのは、運河に入る前、ドナウ川を航行するうちに高低差調整用のゲートを通過したこと。航路上の橋の下面と水面が狭いところが多いため、屋上デッキはライン川に入るまで閉鎖。寒いのであまり上がらないとは思うが、少し残念。(11/3/2012)

【手帳にもとづき作成の日記】

 午前中、ミュンヘン市内を観光。ワールドカップ会場となったアリエンツ・アリーナ、ニンフェンブルク城をまわり、マリエン広場あたりを歩く。正午、広場に面する新市庁舎の仕掛け時計。上段の騎士の対決、下段の人形の輪舞、そして最後は「ムシデン」のメロディ。ドイツ語の授業を思い出す。長い。首が痛くなる。ビデオを回す指も冷たくなってくる。

 午後、ドナウ河畔のパッサウに向かう。バスの車窓から原発とおぼしき建物が見えた。1基のみ。ドイツでは一つ作ればそこに何基も集中的に作るということはしないらしい。ある意味で危険分散をしているのかもしれない。

 きょうも昼過ぎから晴れ間がのぞきはじめ、セレナーデ号に着くころには秋の夕陽が降りそそぐようになった。船の入り口にあの元気おばさんベリアさん。憶えていてくれたと思うのはこちらの思い込み?(11/2/2012)

【手帳にもとづき作成の日記】

 6時半起床。時差があってもいつもと同じ6時半か。予報は小雨。気温は7℃。8時45分ホテル発。バスは霧雨の中をノイシュバンシュタイン城へ。ここ数日の間に降った雪がそこここに残る。

 城へ登るシャトルバスは運休。馬車で途中まで。御者の横に座ってビデオを回す。2頭だて。登りはじめてすぐに馬を止めると、右側の馬が糞。左側の馬は屁。糞よりは屁の方が臭い。

 絵葉書などにある城の写真はマリエン橋という橋から撮ったものとのことなるも、シャトルバスが運休で行けず。歩いてでもというところだが、通行禁止の由。じつに残念。

 城内の見学中から晴れてきた。昼食後、ヴィース教会へ。内部は白壁に金の装飾、天井のフレスコ画も色鮮やか。世界遺産登録も頷ける。空はすっかり晴れ上がり、飛行機雲さえ見えた。

 17時48分ホテル帰着。(11/1/2012)

【手帳にもとづき作成の日記】

 6時半起床。7時15分朝食。サーチャージ(空港使用料なども含んでいるのだろう)二人分で78,800円というのはかなり痛い。

 10時空港。11時には出国手続き完了。11時45分発の予定がターミナルを離れたのは12時45分。貨物室のドアの部品交換をした由。13時5分離陸。機内のナビゲーション画面によるとアムステルダムまで9,553キロ。

 16時5分スキポール着。17時40分発。18時45分ミュンヘン着。20時ホテル着。今夜はぐっすり眠れそう。

 以下、機中のメモ。

 西部邁・佐高信コンビの「快著快読」、読了。シュリンクの「朗読者」に対する西部の読みに拍手。たぶん秋野さんご推薦の映画の原作。タイトルの邦題がよくなかった。いかにもという気がして敬遠してしまった。ところで映画ではどのていどまで描かれていたのだろう。

 眠るのをあきらめて映画を見る。テレビで予告宣伝していた「リンカーン」(リンカーン大統領はバンパイア・ハンターだったという活劇)を見る。(10/31/2012)

【手帳にもとづき作成の日記】

 ドナウ・マイン・ラインの船旅、あした出発。今晩は成田に前泊。午後2時に家を出て成田には4時。スカイライナーを利用すると、さほど時間はかからない。

 スカイライナーのシートポケットに「外貨両替はナントカで」というパンフレットが入っていた。FX業者らしい。かなり外貨手数料を下げられる。だがその業者に口座を作って、それからの話。きょう、すぐに利用できるわけではない。今後の研究事項。

 きょうのうちに携帯の設定確認と両替。千葉銀行が両替手数料10%割引キャンペーン中、あしたまで。手数料込み106円台(106.75)は千葉銀だけだった。ラッキー。ターミナルビルで夕食、ホテル日航成田にチェックイン。

 テレビでは日本シリーズ第3戦。ジャイアンツ連勝で始ったシリーズ。やっとファイターズも一矢報いそうな展開。(10/30/2012)

 今度の旅行にはビデオが欲しいと**(家内)が言う。ビデオはお孫ちゃんができてからと思っていたが、この状勢ではいつのことになるやら。ひょっとすると永久にそんな幸せは訪れないかも。いや、やっとできたころには、ビデオを買っても使いこなせなくなっているということもありそうだ。最近は取説を読むこと自体、面倒くさくなっている。新しい物を買うのは今のうちかも・・・などなどあって、**(家内)と池袋まで買いに出た。あさって出発というこのタイミングでの買い物。

 家を出るときには、ソニーのCX720Vの予定だった。プロジェクター機能はいらないと思ったから。買ったのはPJ760V。ビックカメラの店員が言うのには、720の記憶容量は64ギガだが760は96ギガ。増設用のメモリカードを利用すると実質的な価格差は縮まり、プロジェクター機能の分だけお得になりますという説明。いままでならばメモリカードの価格を調べるところだが、その根性が最近はない。(メモリ規格の違いなど、いろいろ確認事項が多すぎるから)

 GPSを搭載しているので内部時計は自動修正され、地図から撮影した画像を検索することもできる。電子化の極致と思うのは歳をとったからか。

 閑話休題。

 東電OL殺人事件の再審第一回公判が東京高裁であった。弁護側は当然として、検察側もゴビンダ・プラサド・マイナリ被告の無罪を主張し、開廷時間はわずか25分間で、即日結審した由。

 夜のニュースなどを見ていると、再審開始後に新たに行った鑑定(被害者の右手の爪から被告のDNA型とは異なる第三者のDNA型をもつ皮膚が検出された)の結果、検察側も誤りに気がついたかのように説明されているが、この第三の人物の存在が明らかになったのは捜査段階でのことだった。つまり「新鑑定」なるものは検察のメンツを守るために持ち出されたに過ぎない。

 東京高検の次席検事・青沼孝之は「検察が証拠を隠した事実はなく、捜査・公判に問題はなかった」とコメントしていたが、よくもこんなウソが言えたものだ。すぐに思い出す一事のみ書いておこう。事件現場の部屋のカギの件で被告と同居していたネパール人リラ・バハドゥル・ラヤに偽証を強い、違法な便宜供与まで行ったのはどこのどいつだ。手の込んだ証人でっち上げそのものではないか。

 この捜査に拘わった警察関係者と公判維持に拘わった検察官全員の氏名を公表し、責任者はすべて「お白洲」に引き出した上で、責任の有無を問うべき案件であることは間違いない。彼らのうちの一部の人間は悪意を持って無辜の人間に罪を着せるという悪事を積極的に行ったことはたしかなのだから。彼らのなしたことは立派な犯罪行為だった。

 夕刊には「・・・1997年当時、警視庁捜査1課長として捜査を指揮した平田冨峰さんは・・・」とある。平田富彦、改名でもしたのか。よほど恥ずかしいのかしらね。卑怯な男だ。それともこれは「号」のつもりか。卑しい人間でも雅号を名乗ることはできる。誰もそれに値するほどの人物と思わぬのが本人も情けなかろうが・・・。

 判決は来月7日に言い渡されるそうだ。当日、日本にいないのが残念だ。(10/29/2012)

 秋の旅行、ことしは奥飛騨平湯温泉。メンバーは総勢9名。コアメンバーに、プラス、**、**、**、**、**。

 きのう、「8時ちょうどのあずさ5号(残念ながら、何年か前から偶数号は上り列車になった)で」松本へ。駅ナカで弁当を買い、手配済みのジャンボタクシーで新穂高温泉へ。ロープウェイを乗り継いで西穂高口まで登った後、夕方、平湯温泉に入った。はじめ曇りがちだった天気も、西穂高口では一部青空が見え、紅葉など十分に楽しめた。

 きょうは、バスで上高地まで行き、霧雨模様の中を散策、その後松本へ出て、釧路まで帰らねばならない**君を送り、残りメンバーはお城と開智学校などを遊覧、3時過ぎのあずさ24号で帰ってきた。

 5時半八王子着。帰宅を急ぐ**さん、**さんはそのまま新宿まで乗車、残りメンバーは八王子で夕食。あずさに乗るまでは何とか降らずにもってくれたので、まあ、ラッキーだったかも。

 来年は幹事番。(10/28/2012)

 突然の慎太郎ご乱心で昨夜来のマスコミはそればっかり。これがロウソクの最期の瞬きだとは、ご本人はもちろん、囃し立てるマスコミもわかっていないのだろう。

 きょうは、空騒ぎを伝える朝刊一面の下段、「天声人語」が面白い。あのスーパーマン、クラーク・ケントの消息を伝えている。

▼その人が新聞社を辞めるという悲報にうろたえた。おととい米国で発売された新作で、上役に「スクープが少ない」と叱られ、こう息巻いて職を辞したそうだ。「新聞はもはや、ジャーナリズムではなく娯楽になり下がった」▼作者によると、退社後は「現代的なジャーナリスト」として独立し、インターネットでの発信に挑むらしい・・・(略)・・・▼1938年に登場した正義の異星人。一貫して新聞記者の設定で、作者が代わっても勤め先は同じだった。「勤続70年」の転職である。同業の目には無謀と映るし、ひがみ半分、いわば副業だけに気楽なもんだとも思う▼娯楽だと嘆いたのは場の勢いだろうが、新聞の暗中模索は米国に限らない。メールも携帯小説も同じ文字文化だから、課題は活字離れではなく、紙離れだろう。小紙を含め、有料の電子版が競う世だ。空さえ飛べる男が時流に乗るのは道理かもしれない▼記者としての彼の難は、スーパーマンが降臨するほどの修羅場で「突然いなくなる」ことだった。体が一つしかないのは当方も同じ、あれもこれもの器用さは持ち合わせない。ひそかな自慢が業界を去っても、新聞という地味な人助けにこだわりたい。

 「オチ」は冴えないが、クラーク・ケントがデーリー・プラネットにおとといまで在席していたというのは意外だったし、その彼が椅子を蹴った理由が「新聞はもはや娯楽に成り下がった」というのも我が青春のヒーローはかくあって欲しいという願望に十分に応えていてうれしい。ネットでの情報発信に挑むというのはいささかステレオタイプな気がするが。

 クラーク・ケントの消息はそれとして、もうひとつ知りたいことがある。ロイス・レーンの消息だ。彼女はまだデーリー・プラネットにいるのだろうか。

§

 旅行用のパッキング、どうにか終了。あした・あさって、恒例の秋の旅行。月曜日の宅送にするためには、日曜、帰宅後が忙しい。バタバタすると忘れ物が出るものだ。というわけで、あしたの宅送、きょうのパッキングということにしたわけ。(10/26/2012)

 石原慎太郎が東京都知事を辞めて新党を結成、衆議院議員復活を狙う旨の宣言。

 最初に思い浮かんだ言葉は「歳は取りたくないものです」という言葉だった。中村光夫が広津和郎との論争のラストに投げつけた言葉。もちろんリアルタイムでこのやり取りを見ていたわけではない。ただ感性の低下に気づかぬ老人を見るたびにつぶやいてきた言葉だ。勤めていたころ、たんと見てきた景色だ。永らえて恥を晒さずにすむ人は少ない。だから知恵のない者は早めに下りた方がいいのだ。

 もっとも石原は所詮小人物。「否定」でしか主張を語れないのはその証拠。彼の「感性」など「小心者の強がり」ていどのものだから、いまになって「低下」などと評するものでもなかろうが、それすら鈍磨したかと思うといささか哀れをもよおす。記者会見でのこのやり取りを聞くとその感を深めるだろう。

――次期衆院選では、どの選挙区から出馬するのか。

 まあ比例選で。80歳の俺が、なんでこんなことやらないといけないのか。若い人しっかりしろよ。

 なんだよ、比例区狙いかよ。最後のご奉公というなら「背水の陣」が相場というものだ、情けない。それだけじゃない、若者に苦言を呈するなら、バカ息子をなんとかする方が先ではないか。

 ふつう、寝首を掻いたら本懐は遂げるものだ。谷垣の寝首を掻いて、なお、自らも討ち死にするような無様な伸晃クンのことは忘れたのか。他人様の子供をとやかく言う前に、己がトッチャンボウヤを督励するのが順序というものだよ。そうか、自分がトッチャンボウヤではそうもゆかぬか、呵々。

 石原が都知事を辞するのは都民にとっては幸い(このバカ都知事のおかげでいったいいくら都民は税金をドブに棄てたことか)だが、議員にでもなられた日には国民は不幸だ。お前がかき回した尖閣問題を引き金としてトヨタ、日産、ホンダは大苦戦、中国進出企業は軒並み大迷惑をこうむった。くだらない動機(これこそマスコミが批判する「政局」作りそのもの)、後先も考えられぬ短慮、・・・、ただでさえ無用の議員がまた一人増えるかと思うと、税金を払うのが嫌になる。(10/25/2012)

 秋晴れ。ウォーキングコースからは冠雪した富士がくっきりと見えた。

 昼食後、**(家内)と**(弟)の墓参り。

 もう9年になる。死んでしまって、いないからこそ懐かしいのかもしれない。もし生きていれば、所沢の家を売り、この家に戻って、あっさりと年金生活に入るという選択も、結果的にそこに落ち着いたとしても、すんなりとは決まらなかっただろう。なにがしかの軋轢が生まれたかもしれない。

 **(母)さんもあっさりと遺言書をまとめたりはできなかっただろう。親からすれば、どちらも子ども。とくに母親にしてみれば、どちらからも憎まれたくないという気持ちが先に立つ。**(父)さんの手書きの遺言書はあっても、母親として意思表示をするとなれば、憎まれたくない気持ちは打ち消しがたい。**(弟)が亡くなっていたから、「家は仁則に、墓守もお願いします」と書きやすかったのではないか。

 代襲相続については**(母)さんも知っていた。だがあまりに偏ってはいけないと思ったから、遺留分の規定とその考え方の背景についての話はした。現金の配分は十分に配慮はしてもらえたし、自分がどう考えてそのようにしたかについても明確に遺言書に盛り込んでくれた。やはり、既に**(弟)がいないということが、考えをまとめやすくしたことは事実だったろう。

 幸運だったのだ。

 **(弟)が**(父)さんと**(母)さんよりも先に逝ってしまったから、すべて自分でやるより他なかった。

 週末にはホスピス棟の母のもとに通い、洗濯物を持ち帰り、仕上がったものを届ける、外見的にはよい息子を演ずることができたのは、**(父)さんから引き継いだ寡婦年金で医療費も差額ベッド代もまかなうことができたからのこと。もし、いくらかでも負担がのしかかるような状況だったなら、あんな穏やかな表情で2年以上も通えなかったに違いない。

 成り行きによっては、自分の中の一番嫌なものがすべて出て、まわりからは何という人物かと思われ、自分でも自分が嫌になるようなことになっていたに違いない。

 **(弟)、ありがとう・・・でもね、もうちっとは長生きしていて欲しかったよ、バカ野郎。(10/24/2012)

 夕刊に連載の「原発とメディア」はきのうから「子ども」というテーマ。そしてきょうのタイトルは「偽アトム」。

 書き出し。「1978年3月、『鉄腕アトムよみがえるジャングルの歌声』という漫画冊子が発行された。物語は、こうだ。ある日、アフリカの動物たちが『原発をつくりたい』とアトムを頼って日本にやってくる。アトムは原発の仕組みを教え、アフリカで無事に完成。その後、大地震がアフリカを襲い、津波も押し寄せたが、原発はびくともしなかった――」

 誰しも、「そうか、そもそもアトムというのは原子のこと、手塚治虫は原発を科学技術の成果として評価していたのだな。それにしても、大地震にも津波にもびくともしなかったというのは、手塚も安全神話に囚われていたというわけか」と思う。

 しかし、「このアトムは手塚治虫が描いたものではない。表紙裏の隅に『作画・田中省三』と小さく書かれている。・・・(略)・・・発行したのは『漫画社』(2008年解散)。国や企業などの依頼を受けて漫画による解説本などを作っていた会社で、アトムの冊子は電気事業連合会と東北電力などに計数千部納められた」。これに続く当時の社長・樋口信(74)のおとぼけぶりが嗤える。取材に対し、樋口はこう言う、「事前了承はあったはず」と無断利用を否定、「アトムって名前からして原子力なんだから、手塚さんは賛成派じゃないの?」

 続きはこのように書かれている。

 手塚のもとには、電力業界から「アトムを原発のPRに使いたい」との依頼が時々あった。「原子」の名をもつ子どもたちのヒーローは、格好の広報素材だったからだ。だが、反原発を明言していた手塚は、すべて断っていた。
 手塚は、電気そのものは「終戦の日に、真っ暗な街に明かりがともり、平和の象徴に見えた」と大事にしていたが、「原発だけは別」と話していた。晩年の漫画情報誌のインタビューでも、核兵器も含め「あらゆる核エネルギーに反対」と語っている。
 手塚の死後に出されたエッセー集「ガラスの地球を救え」に、「アトムの哀しみ」という章がある。「鉄腕アトム」が科学による繁栄を幸福に描いた漫画と誤解されることに「迷惑している」と切り出し、こう続けた。「ひたすら進歩のみをめざして突っ走る科学技術が、どんなに深い亀裂や歪みを社会にもたらし、差別を生み、人間や生命あるものを無残に傷つけていくかをも描いたつもりです」

 樋口信はビー玉のような粗悪な眼を持ち、手塚には曇りのない眼があったということだ。

 ところで手塚の了承なく、著作権を侵した田中省三(もしこれがペンネームであの田中正造から名前を借りたとしたら、なかなか皮肉の効いた名前だ)なる人物は実在するのだろうか。

 Wikipediaには「田中しょう(たなかしょう、1955年2月20日-)日本の4コマ漫画家、長野県佐久市出身、本名田中省三」なる人物が載っている。活動期間は「1979年から」となっているから、この男がプロとして一本立ちする直前、本名で仕事をしていたころのこととすれば符合する。断定はできないが、この男が「偽アトム」の作者ではないか。「容疑」は濃厚だ。

 この世には二種類の人間がいる。食うためには泥棒(著作権侵害は立派な泥棒)だってする奴と、渇しても盗泉の水は飲まない奴だ。ウソなくしては成り立たぬ原発のすそ野に住む人間ならば、泥棒くらい何ということもなかったとしても不思議ではない。(10/23/2012)

 けさの朝刊の一面を見て嗤った。きのうの朝刊で「紛失した」と報ぜられたオリンピック招致活動に関わる書類が見つかったという記事があったから。

見出し:都「五輪書類見つかった」/紛失と説明の8事業分

 2016年五輪招致で東京都が支出した費用の経理書類をめぐり、保存期間内の8事業約18億円分について都が朝日新聞の情報公開請求に紛失したと説明していた問題で、都は21日、記者会見を開き、「文書が見つかった」と発表した。
 都スポーツ振興局の松永竜太招致推進部長は「情報公開の請求期限では探しきれなかった。申し訳ない」と述べた。5月の情報公開請求に対し、都は8月、経理書類を開示したが、8事業の文書は不存在としていた。招致推進課長や招致調整担当課長は紛失したと説明していた。都の情報公開制度への姿勢が問われる。
 都によると、朝日新聞の取材を受け、担当職員が19日夜から都庁内の書庫を調査。21日午後3時までに8事業の経理書類が見つかった。開示請求当時は、書庫で見つけられなかったという。松永部長は「隠す意図はなかった」と述べた。
 見つかった書類で契約金額が最も高い「申請ファイル作成委託費」(6億9889万円)は「ファイルの背表紙にファイル名が書かれておらず、当初見つけられなかった」と説明した。

 日曜日の朝刊に「巨額の発注書類が紛失」と報ぜられるやいなや、その日のうちに記者会見を開いて「ありました」と発表する。舞台裏がミエミエ。

 社会面の記事は、上記一面の記事よりももっと嗤わせる。

 2016年五輪招致をめぐる経理書類をめぐり、情報公開請求で不存在とした公文書について、東京都は21日、一転して「文書があった」と説明した。朝日新聞の19日の取材を受け、開示請求時よりも多い職員が文書探しにあたった。
 朝日新聞は5月、06~09年度の都の招致活動費に関するすべての資料の開示を請求した。都は6月上旬、「請求文書の内容が複雑」として開示を延期し、6月下旬、事業の支出名目などを示す契約台帳を開示した。
 一方、事業の詳細を記した仕様書などの経理書類一式について、都は再請求を要請。朝日新聞は6月下旬に手続きをとり、8月上旬に公開された。
 契約台帳に記載されていた8事業については、8月の開示では経理書類一式がなかった。開示前の7月、招致推進課長への取材で経理書類一式がないことを知った記者が理由を問うと、課長は紛失したことを説明。8月の開示時、招致調整担当課長も紛失したとの見解を示し、今月19日の取材にも担当職員は紛失を否定しなかった。朝日新聞は21日付朝刊で報じた。
 都によると、朝日新聞が情報公開請求をした5月から8月にかけて、スポーツ振興局の職員2人が保管先の都庁41階の書庫などで文書を探したが、8事業について見つからなかった。
 文書の不存在について朝日新聞が再取材した19日、都は職員10人で41階の書庫などを探し、21日午後3時までに8事業の文書を見つけたという。一部は、五輪担当部署が以前置かれていた都庁15階の書庫にあったという。
 開示請求時に文書が見つからなかった理由について、都は(1)担当部署の都庁内の移転の際に文書管理の引き継ぎが良くなかった(2)ファイルに背表紙がなく、文書が分からないケースがあった(3)ファイルに事業名とは別のタイトルが付いていた、と説明した。
 課長が紛失したと説明したことについて、都スポーツ振興局の松永竜太招致推進部長は「担当者とのやりとりは詳しくは分からない。紛失したという認識はもっておらず、文書がないので引き続き探すというスタンスだった」と語った。

 「資料を開示してください」・・・「バックデータも開示してください」、「バックデータの開示請求は、別途、手続きが必要です」、「通常の開示請求よりも面倒ですね」、「面倒でも何でも請求理由をきちんと書いてください」・・・「再請求していただきましたが、ご請求の書類は見あたりません」、「見あたらないって、どういうことですか」、「紛失したようです」。ここまでが8月段階のことだろうか。

 なにゆえ、朝日がそれから2カ月以上もこれを記事にしなかったのかは謎だが、今月になって・・・「請求した書類は見つかりましたか」、「いえ、見つかりません」、「見つからないって、紛失したってことですか」、「どうもそのようです」、「紛失したって、問題でしょう」、「問題でも何でも紛失したらしいことは事実ですから」、「じゃ、紛失したということで記事にしますが、いいですね」、「報道するんですか」、「公の書類が紛失して、億ものカネがどう使われたのかわからないってことは、十分、報道に値しますよ」、「そうですか」、「紛失ということでいいですね」、「紛失したということになってますから・・・」。ここまでが19日段階のことだろうか。

 さて、ここからは推測がふたつに分かれる。

 ひとつめの可能性。「朝日が記事にするといってますが・・・」、「おいおい、そんなことになったら、これからの招致活動にも影響するぞ。とにかく、探せ。いいか、紛失はまずい。探せ、探し出せ」。

 ふたつめの可能性。「朝日が記事にするといってますが・・・」、「おいおい、そんなことになったら、これからの招致活動にも影響するぞ。仕方がない、開示しろ」、「以前のご指示通り、紛失したとウソをつきましたが、いかがしましょう・・・」、「バカ、探したら、見つかったといえばいいんだ」。

 朝日の確認取材が19日の何時ころ、行われたのかはわからない。はっきりしているのは、都庁の中で、書類の捜索もしくは開示の決定がなされるまでに、その確認取材から20日金曜日と21日土曜日のまるまる二日間がかかったということだ。関係部署ではてんやわんやの騒ぎだったのではないか。

 庁舎内の引越しくらいで資料の存在が分らなくなるというのはある種の未必の故意(無くなったら無くなった方がいいと考えていること)があるからであり、紛失したというウソをついてまで存在を隠したかったとすれば、それなりの理由があるからだ。

 確信犯的ムダ遣いは石原都政の宿痾とも言える。見つかったという書類が改竄されていないか、あるいは欠けていないかは分かったものではない。朝日新聞よ、十分に内容を精査しておくれ。(10/22/2012)

 A4版で50ページほどのオリンピック開催計画概要をまとめたIOC提出用の開催申請資料の作成。内容は東京湾臨海部にメインスタジアムを作り、競技会場のほとんどを半径8キロ以内にまとめたコンパクトな大会にするつもりですというもの。その作成に6億9,889万円かかったと聞けば、常識的には「どんな作業項目、どんな体裁の資料・・・いろいろあるとしても、なににそんなにカネがかかったの?」という疑問が浮かぶ。通常ならば、その疑問の答えは業務の発注仕様書、内訳書、個別の請求書などを見ればよい。ところが都のスポーツ振興局は「書類が無くなった」と言ってのけた。そんな記事が朝刊の一面と社会面に載っている。

 公金の支出内容を明示する書類が「紛失しました」の一言で済ませられるものか、日々の暮らしに追われる陋巷の民には信じ難い。さすがに一千億を超える金をドブに棄てて(新銀行東京のことだ)も、ツラッとしていられる東京都ともなれば鷹揚なものだ。

見出し:五輪招致書類を紛失/前回活動費/都、8事業18億円

 2020年夏季五輪の招致を目指す東京都が、前回16年五輪招致で支出した費用の経理書類をめぐり、保存期間内の8事業計約18億円分の文書を保存していなかったことがわかった。朝日新聞の情報公開請求に、都は「紛失した」と説明している。
 文書がなくなった事業では、都議会で「金額が業者の言いなりではないか」との指摘があった。だが、具体的な内訳を示す経理書類がないと事業内容の検証ができない。今回の紛失は、20年五輪の招致機運にも影響が出そうだ。
 06~09年度の都の招致活動費に関するすべての文書の開示請求に対し、都は(1)事業の支出名目や支払総額、契約時期を示す「契約台帳」(2)事業の詳細を記した「仕様書」や「内訳書」などの経理書類一式を開示した。
 「契約台帳」には621事業、計46億1275万円が記されていた一方、「仕様書」などの経理書類一式は515事業、計25億7236万円分しかなかった。都の文書管理規則は、支出6千万円以上の事業の保存期限が5年間、300万円以上は3年間と定めるが、保存すべき経理書類一式が8事業計18億540万円分でなかった。
 8事業は、国際オリンピック委員会(IOC)に提出する計画書「申請ファイル」作成委託費(07年度、6億9889万円)や、IOC評価委員会訪問対応の準備委託費(08年度、5億150万円)など。高額の事業は競争入札でなく、都が特定のノウハウを持つ業者と結ぶ「特命随意契約」で、契約先は大手広告会社の電通と大手旅行会社JTBのグループ企業だった。
 都スポーツ振興局は「書類はまとめて都庁内の棚に保管しているが、紛失した。外部に持ち出したことはなく、なぜ無くなったか分からない」と話す。高額支出に集中したことも「分からない」としている。(藤森かもめ、山田明宏)

 外部に持ち出したことがないにもかかわらず無くなったのは、誰かが意図的に処分したからだろう。書類に足が生えて役所の棚から「家出」するわけはないのだから。

 もちろん論理的には誤って「処分」する可能性がゼロではない。しかし「高額支出に集中した」ことを考え合わせるとその可能性は著しく低い。では下手人の動機はなにか。明らかになっては都合が悪いからということ以外はあり得ない。

 いったい誰にとって、都合が悪いのかは書かぬが花。おそらくは「余人をもって変えがたい人か、業者か」なのかもしれぬから。

 所詮、「お祭り騒ぎ」などというものは、神主やら、氏子総代やら、ヤクザのような意地汚い連中がハエ、ウジ、アリのようにたかるためにやるものと相場が決まっている。近ごろではオリンピックそのものではなく、オリンピックを招致すると称する運動でも十分にその役に立つのだろう。(10/21/2012)

 ウォーキング向きに気持ちよく晴れ上がった空。やっと秋という感じになった。学大付属養護学校(現在の正式名称は「特別支援学校」というらしい)はきょうが運動会。気のせいか、ここは来ている父兄の数が幾分多いように思う。なによりほとんどの人がグランドに集中している。最近はグランドを中止している父兄が半分、その外側で携帯かなにかをいじっている父兄が半分という運動会が多い。

 東京病院でお手洗いを借りた。ロビーに緩和ケアについての展示があった。救世軍病院、信愛病院、東京病院三院共同の企画。**(母)さんがいよいよ消化器外科の病室にいられなくなり、転院先を探して回ったのは6年前のいまころだった。

 ・・・とここまで書いて、そのころの日記を見てみた。ホスピス病棟を求めて、救世軍病院や信愛病院に行ったのは10月ではなく12月のことだった。天皇誕生日の振替休日だった22日年末休暇に入った29日に記載がある。勤めていたころで、休みの日にしか動けなかった。

 あの年は大変な年だった。**(母)さんは検査入院のまま入院を続けてまる1年を超え、**(父)さんのケースからすれば、いつ転院を切り出されてもおかしくないフェーズに入っていた。転院先を探す心理的負担感は大きい。病院廻りをする肉体的疲労より精神的疲労の方が消耗させる。その上、**(家内)も入院、手術しなければならなかった。ガン患者が二人というのは応えた。野菜ジュースとゼリーだけしか喉を通らない日もあった。

 **(家内)はどうやら逃げ切ったようだ。これから何年いまのような平穏な生活が続けられるか、それはわからない。人生の秋が長いのか短いのか、いまはそんなことを考えずに、日曜の午後のような気分でゆったりと夕暮れまでの時間を楽しむのみ。きょうは土曜日だけど、呵々。(10/20/2012)

 居間のファンコンベクターの設置も午前中に終わり、エネファームの試運転と東電との連系確認も3時ころに終了。これで燃料電池による発電ができるようになった。

 エネファームは「熱主電従」、つまり必要な量のお湯を燃料電池の熱で沸かすことをメインにするシステムだ。老夫婦二人のお湯の需要量では能力ほどの発電はできないかもしれない。また当初10年間の保守管理は無料だが、10年経った時点での部品交換(ユニット交換になるかもしれぬ)はこちらの負担。よほど電気料金が上がらない限り、トータルに考えれば、ペイしない可能性は大。それは承知。

 それでもフローリングの張り替えなどを含めて300万以上もかけたのは、なにより東京電力なんぞに電気料金を払うのが、吐き気をもよおすほどに腹立たしいからだ。東電から電気を買わないという手段があるなら即日そうしたい。だが一般家庭ではいまのところそれはできない。ならば東電に支払う電気代を一円でも安くしよう。エネファームを入れたのはそれが最大の動機。

 さて、思惑がどのていど実現できるか。楽しみに見てゆこう。(10/19/2012)

 おととい未明、沖縄でアメリカ海軍兵が帰宅途中の女性を強姦し、県警に逮捕されるという事件があった。けさの朝刊は続報としてこんなことを伝えている。

 県警は17日、2人を那覇地検に送検した。いずれも米フォートワース海軍航空基地(テキサス州)の上等水兵クリストファー・ブローニング容疑者(23)と、3等兵曹スカイラー・ドジャーウォーカー容疑者(23)。
 捜査関係者によると、被害者の女性は2人と面識がなく、帰宅途中に声をかけられた。立ち去ったが、後をつけられ、背後から物陰に引きずり込まれたと話しているという。女性のカバンがなくなっており、ドジャーウォーカー容疑者は「自分たちが取った」とほのめかしているという。
 在日米海軍司令部などによると、2人は3日に来日して厚木基地(神奈川県)を経て14日に沖縄入りした。兵站部隊として米軍嘉手納基地で働きながら、本島中部のホテルに泊まっていた。
 県警が基地周辺を捜していたところ、16日午前6時ごろ、ホテルの従業員が「早朝に戻ってきた米兵がいる」と伝え、逮捕につながった。2人は部屋で寝ており、調べに「グアムへ移動するため、16日午前には嘉手納基地へ行く予定だった」と話しているという。
 ホテルによると、2人は15日午後11時ごろに外出。16日午前5時15分ごろ、ホテルに戻った1人が「鍵をなくしたのでドアを開けてほしい」と頼んだという。従業員は「警察が来るのが一歩遅れたら米国に逃げられていた」と話した。

 奴らのもくろみはこんなところだろう。「あしたはカデナ納経由でグアムだ。こんやのうちにニッポンの女を味見しようぜ。なあに基地のゲートをくぐってしまえば、ジャップには手は出せないんだ。なにしろニッポン、中でもオキナワはやり放題天国だって話だぜ」

 尖閣の「せ」の字だけで異常に発情する手合いはゴロゴロいる。不思議なのはそういう連中に限ってアメリカ兵が、日米地位協定なる不平等条約に守られて、万引き、窃盗、強盗、強姦、殺人、ありとあらゆる犯罪をやらかしても保護されているという事実(事実上の「治外法権」)には沈黙して、まるで借りてきた猫、否、宦官のように妙に大人ぶっていることだ。

 宦官、キンタマを抜かれた腑抜け。たとえば安倍晋三なんぞもそんな代表的人物だろう。(10/18/2012)

 ようやくカスペルスキーテクニカルサポートセンターから回答が来た。

 その回答というのが嗤える。「Tempファイルの削除」を行ってから「再インストール」して下さいというもの。呆れ果てたお役所型回答。

 それでも回答をくれたことはたしか。一応レスを返しておいた、こんな風に。

 回答ありがとうございました。
 10月12日17時過ぎのデータ送信から120時間ほど経過しての回答でしたね。
 さて、当方では10月12日の21時頃に、2013のインストールはできました。
 10月13日夜、
  >他に書きたいことがありますが、いまは書きません。
  >迅速な回答を待っています。どのくらいの時間がかかるかを注目しています。
と書いたのはそういう意味です。
 結論から書くと、貴社のサポセンはあまり役には立ちませんでした。

 今回の回答内容の
  1.tempファイルの削除
  2.kavremoverのダウンロードとコレによる2012関係ファイルの削除
  3.「Kaspersky Lab」フォルダー」が削除されていることを確認する
などは、10月11日夜から12日午後までに既にやっていました。(2は11日の最初の問合せ時に教えていただきましたから)
 つまり、今回の回答内容をやり続けた上で2013のインストールに失敗し続けていました。
 ですから、今回の回答通り作業をしても、たぶん、事態はなにも改善しなかったでしょう。・・・・(嗤い)・・・何しろ、この内容を繰り返して、解決しなかったのですから。
 日本語では「屁の役にも立たなかった」という言い方をします。

 12日の11時50分から16時30分まで、データ提出に関するメールを4時間近く待たされてイライラしている間(ついでに書くとkosanjin@private.email.ne.jp宛のデータ収集指示メールはついに来ませんでしたよ)に、「これは週末の休みを確保するためのサボタージュかもしれない」と思い、自力でやれることを考えていました。

 では、小生はどのようにして2013のインストールができたか。
 この時点で「プログラムの追加と削除」の一覧に「2012」があることが気になりました。
 ネット検索などで、windows installer cleanup というユーティリティーの存在を知りましたが、元の提供元のマイクロソフトは提供を中止しているらしく、あまり評判のよくない brothersoft からダウンロードしなくてはならない。
 肝心のウィルスチェッカーが機能していないところで、インストールし、起動するのは怖いが、貴社はどうにも頼りならない。
 仕方なく一か八かに賭けることにしました。
 いずれにしても、レジストリの内容とファイルの存在状況がアンマッチであることが問題という「仮説」にたって、市販ユーティリティを使ってレジストリのチェックをし、再構成をすることにしました。・・・などなどを行い、2013のインストールにチャレンジして、なんとか12日の21時頃に「解決」しました。

 できるならば、気持ちの悪いサイトからダウンロードしたアプリなど使いたくなかったし、レジストリをいじるのも気が進まなかったのですが、何日間もセキュリティソフトなしで過ごすことは、もっと気が進まなかったからです。

 もう一度書きます。貴社サポセンは、ほとんど何も役に立ちませんでした。
 それに比べれば、アドビのサイトのデータは非常に役に立ちました。あのくらいの充実度がなければ、アプリ提供会社としては失格でしょう。
 3年分も支払ったので、3年間はおつきあいしますが、その先については未定です。今後の改善を待ちます。

 たしかに2013をインストールするにあたって、現行バージョンのアンインストールをしなかったのだから、根本原因はこちらのミスにある。しかし、アンインストールが必須であり、それを怠ると場合によってはサポートセンターもお手上げになるような状態になりかねないのだとしたら、インストーラーにチェックポイントを設けておくか、あるいは新バージョンのダウンロードページにその旨注意喚起をするメッセージを掲載しておくべきだろう。

 別にカスペルスキーに限った話ではないが、あれだけ自社の権利主張を高圧的にユーザに押しつけるソフトアプリーション会社ならば、その口振りに見合ったサポート能力、細かな配慮を製品の隅々に行き届くようにして欲しい。微に入り細にうがった使用許諾契約書を作成する努力の数十分の一でいいから、ごく当たり前のところにも気をつかってもらいたい。(10/17/2012)

 気の抜けたような記事を読売新聞から。

見出し:幼稚園脅迫メール、福岡の逮捕男性は無関係か

 インターネット上でなりすましの犯行予告が相次いで書き込まれていた事件で、警視庁は16日、当初、容疑を認めていたとしていた福岡市の男性(28)(威力業務妨害容疑などで逮捕、その後釈放)が「同居女性をかばうために容疑を認めた」と供述していたことを明らかにした。
 弁護士などに届いた犯行声明とみられるメールには、犯人しか知り得ない「秘密の暴露」が書き込まれていたが、この事件についても「私が関与した」としており、同庁は、取り調べに誘導がなかったか検証を進めている。事態を受け、警察庁は4年前にさかのぼり同種の犯行予告事件を見直すよう都道府県警に指示した。
 お茶の水女子大付属幼稚園に脅迫メールが送られた事件で、警視庁は福岡市の男性から任意で聴取。男性は当初、否認したが、男性宅のパソコン内にメールが残っていることを追及すると、「私がやりました」と容疑を認めたため、9月に逮捕したという。
 その後、「同居の女性がやったと思い、かばうつもりで容疑を認めた」と否認。女性が「やっていない」と話していることを伝えると「やっぱり私がやりました」と供述を変えたという。
 しかし、大阪府警などで逮捕された男性2人のパソコンが遠隔操作型のウイルスで操られていた可能性が浮上し、福岡市の男性のパソコンも調べたところ、同型ウイルスに感染していた痕跡を発見。また、今月9~10日に都内の弁護士などに届いた犯行声明とみられるメールでも「男性は強引な取り調べで認めてしまったことと予想されます」などと記載されていた。警視庁では事件と無関係の可能性も視野に検証するという。(15時01分 読売新聞)

 先日のiPS細胞臨床応用騒ぎ(新規の医療技術による心筋移植手術だ、ハーバードほどの大学であれば手術の是非を判断する倫理委員会にかかったのではないか・・・素人でも抱く疑問の裏も取らずに一面トップ記事、なんともお粗末な一件だった)についての「大誤報」でも露呈したことだが、読売新聞は「科学」・「情報」に関する取材力が著しく低いようだ。

 犯行声明に関する報道は先週の土曜時点で既に報ぜられている。その内容に「秘密の暴露」を含むことから本物である可能性が高いこともきのうの午後から報ぜられている。警察の「不祥事」なのだから、警察発表が遅くなるのはあたりまえだのクラッカー。そんな警察発表をそのままウケウリするだけの記事を後追いで載せたとはね。これなら気の抜けたサイダーの方がよほどまし。

 この記事、読みようによっては「警察の間違いも無理はなかった」というように読めなくもないところが、いかにも読売らしい。

 まあ、ここは「IPアドレスのみを手がかりに逮捕しちゃいました」というバカ警察の呆れた発表を聞きながら、iPS大誤報の記憶がよみがえって、本能的にブレーキがかかったのだろうと好意的に解釈して差し上げるべきかもしれぬ。科学記事に弱い「車夫新聞」とあらば是非もないこと、呵々。(10/16/2012)

 エネファーム関係工事の第二段階スタート。きょうはまず床暖房。いまある電気床暖を撤去、ガス床暖マットのセットと配管工事。**さんのチームが大工・電工・**さんで3人、東京ガスのチームが7、8人というところだろうか。10人以上の作業者が入れ替わりで居間と台所、床下に出入りする。さして広くはない我が家はちょっとした繁華街。

 午後、旅行説明会。**(家内)を留守番にして、一人で出席。池袋でガイドブックなどを買い、帰宅すると、フローリングは隅を残してはぎ取られ、銀色の床暖マットがセットされていた。東京ガスの作業は居間のファンコンベクターを残すのみ。

 2チャンネルの掲示板に犯罪予告を書き込んだとして摘発された事件について、自分が真犯人だと名乗り出るメールがTBSに届いた。書かれている犯行は12件、公にされていない事件を含んでいるだけではなく、いわゆる「秘密の暴露」にあたる内容が詳細に書かれており、既に逮捕された被疑者はすべて誤認逮捕、起訴あるいは家裁で保護監察処分が決まった「被告」さんたちは全員が冤罪であることが確定的になった。

 「自白メール」の宛先がテレビ局であったこと、新聞休刊日であったことなどで、主要新聞サイトの反応は鈍い。夜7時のNHKニュースでは、横浜市サイトに市内小学校への襲撃予告を書き込んだとして逮捕、保護監察処分が決定した男子大学生の例を取り上げ、「当初、男子学生は『何もやっていない。不当逮捕だ』などと容疑を否認していましたが、その後、『楽しそうな小学生を見て、自分にない生き生きとしたものを感じ、困らせてやろうと思った』と容疑を認めたということです」と報じていた。

 「講釈師、見てきたようなウソをつき」というのは一昔も前のこと。最近は警察官や検察官も「見てきたような供述調書」を鮮やかにでっち上げることができる詐欺師も顔負け、講釈師以上のプロフェッショナルだということが常識になりつつある。

 「自白メール」には、ステップボードの目的を達した後、通常なら削除して犯跡をくらますはずの「トロイ」を故意に残しておき、警察や検察を罠にかける意図のあったことが書かれている由。

 警察が被疑者を特定した手法は、単にIPアドレスを割り出し、そのパソコンの所有者を犯人と特定したというだけなのだろう。脅迫電話の電話番号をつきとめて、その電話の持ち主が犯人だと判断したのと何ら変わらない話。バカバカしくて、話にならぬ。「素朴な話」というよりは「粗雑な話」。

 粗雑な「捜査」で「獲物」を捕らえたら、あとは「素直に白状したら、悪いようにはしないから」という粗悪な取り調べをして、噴飯物の「供述調書」をでっち上げ、「一件落着」。警察官、検察官ほど楽な商売はないのかもしれぬ、呵々。(10/15/2012)

 9日からきょうまであいだ、世界銀行・IMFの年次総会、合同開発委員会、G7財務相・中央銀行総裁会議などが日替わりのようにして東京で開催されていた。日本での開催は48年ぶり(つまり東京オリンピックの年ということ)とか。本来ならホスト国としてのアピールが報ぜられて然るべきはずだが、この一週間に報ぜられた日本がらみのニュースは「中国のトップ(謝旭人財務相・周小川人民銀行総裁)のみならず、中国銀行、中国工商銀行や国家ファンドの首脳陣までが欠席し、実務責任者レベルの出席にした。日本のメンツを潰すためだろう」というものだった。

 我がマスコミは中国の子供っぽい振る舞いを批判することに集中したが、自らのありようについての指摘は見た限りではあまりなかった。

 陋巷の民でもいささか気になるのはホスト国の財務相の存在感。なにしろ新任の城島光力は大臣体験(前任は「国会対策委員長」)なし、経済・財政に関する知見は未知数(と書くしかなかろう)、当然、財務相としての国際的知名度はほぼゼロ。いくら人材の層の薄い民主党でも世銀・IMF総会、G7を目前にした時期の人事とは思えぬ。ノダメはいったい何を考えていたのか。

 それに比べれば白川方明総裁の方は多少知名度もあるが、半月先にはこのセレモニーをホスト国として引き受けることを知りながら、「戦力の逐次投入」のようなチマチマした金融緩和策でお茶を濁したばかりという典型的な日銀的小役人。

 中国の振る舞いが大人になりきれない幼稚なものだと批判するのはよかろう。だが、大人のはずがちっとも大人になりきれない我が政府と日銀についても、批判の目配りができないようでは我が新聞もテレビも「五十歩百歩」ではないか・・・ひそかに嗤いつつ、「どこまで沈むのだろうね、我が祖国は」と溜息をついた。

 丸谷才一が、きのう朝、心不全で亡くなった。87歳。丸谷というと思い出すことがある。

 ネット右翼のほとんどは教養ゼロのパープリンばかりというのが常だが、まあまあのレベルを維持していた掲示板があった。そのボードでハンドル名が「機械計算課長」という御仁が丸谷才一批判らしきものを書いていた。ハンドルが記憶に残っているのは、無理を重ね背伸びをして書いている様が手にとるように見てとれて、どこか痛々しい気がしたからだ。

 彼(彼女かもしれないが)がどのような「批判」を書いていたかはあまりよく憶えてはいない。丸谷が旧仮名遣いで書くから「味方」だと思って読んだらそうではなかった・・・というような「お話」だったかと思う。その「批判」の中でウソを書いた。おそらく「批判」をする都合からだろう、彼は丸谷の日本語論はすべて眼を通したと書いたのだが、丸谷の日本語論のトップバッターにあたる「日本語のために」をその本が出るよりも数年早く読んだと書いてしまったのだ。

 そのくらいのことは背伸びをしているチンピラのご愛敬、いつもならROMを貫くところだが、その日はたまたま会社で腹に据えかねることがあってストレスが溜まっていた。ちょっと意地悪な気持ちが勝って、皮肉たっぷりにウソを指摘した。きっと踏み台を蹴飛ばされた思いがしたのだろう、「機械計算課長」は怒り狂った。その逆上ぶりが面白かったので数回ほどお相手をして差し上げた。ドツボにはまった彼を助けたのは管理人だった。いつまでもいたぶる気はなかったので、「これからもフロアから興味深く見学させていただきます」と書いて終わりにした。ただ、管理人の口振りから、そのボードも傷のなめあいが身上のよくあるたまり場以上のところではないと知れた。次第に足が遠のくうちに、ほどなくその掲示板は下火になってしまった。あそこを生きがいのようにしていたあの痛々しい彼(または彼女)がその後どうなったのか、丸谷の名前を目にするたびに思い出す。(10/14/2012)

 どうもうちは悪いタイミングでカスペルスキーとつきあい始めたらしい。9月はじめに期限が来るのでだいたい8月末くらいに更新する。カスペルスキーの商品投入サイクルは毎年10月はじめ。

 セキュリティソフトの最近の流れなのだろう、ことしの新商品には「マルチプラットフォーム」がある個人が所有するPC、スマホ(もうこれが通常の呼び方になってしまった:スマートフォン)、タブレットならば、OS対応も混在で最大10台まで使用できるという仕様。当分、スマホを使うつもりはないが、タブレットについては考慮中。それなりの魅力はある。(「個人所有」をかなり厳格にしているが、こんなつまらないところにこだわると客を逃がすことになるだろう。あるていどの度量を見せた方が結果的には有利なはず。現実は理屈のようにはならないのだから)

 しかし既に先月、従来型契約内容(3台3年)で更新したばかり。2年前の経験によれば、「買ったばかり。なんとかしてくれないか」と言っても絶対に特例は認めないだろう。あの時はちょうどジャストシステムからカスペルスキー日本法人への移行時だったのでジャストに救ってもらったが、カスペルスキーからの回答はお役所にも負けない頑迷そのものの姿勢だった。

 懸念したとおり土日はお休みで、送信したこちらのデータを解析するのは週明けかららしい。それでもアリバイ作りか、こんな「返信」が来た。

【Kaspersky】お問い合わせの件について
 このたびは、ご多用中のところ、調査用データをご提供くださいまして、ありがとうございます。
 また、大変なご面倒をおかけしておりますことを、深くお詫び申し上げます。
 お問い合わせの件につきまして、恐れ入りますが、ご提供くださいました調査用データにより、現在、弊社にて詳細を確認しております。
 確認には、多少お時間を要することも予想されますが、なにとぞご了承いただきますようお願いいたします。
 詳細が判明次第、改めてご連絡させていただきますので、今しばらく弊社よりのご連絡をお待ちくださいますようお願いいたします。
 以上、お手数をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。

 典型的な自動返信用の文面。それならそれでいい。月曜日中に回答が来るかどうか、まず、そのあたりから「見て」ゆこうと思いつつ、評価を「とても不満」として、こんなメッセージを返しておいた。

 セキュリティソフトはなんのためにあるのか。
 ネットワークの大通りを素っ裸で歩くようなマネをしたくないためにカネを払って、購入をしているのです。
 こんな悠長なことでは、ほとんど役に立たない。
 言葉は丁寧でも、ユーザーには不親切極まりない。
 他に書きたいことがありますが、いまは書きません。
 迅速な回答を待っています。どのくらいの時間がかかるかを注目しています。

 「既に解決した」とは書かない。最後の二行の意味については「回答」が来た段階で教えてやろう。(10/13/2012)

 カスペルスキーから新バージョンの案内が来た。ナントカとタタミとセキュリティソフトは新しい方がいい。新バージョンに切り替えておこう。作業を始めたのはきのうの夕方のことだった。

 バージョンアップ。一番楽なのは「ホームページ・ビルダー」タイプ。現行バージョンがあってもそのまま新バージョンのインストール作業を始めてよい。作業開始直後に現行バージョンを残すか、削除するかを尋ねてくる。削除を選択すればきちんと現行バージョンを削除してくれる。なにも悩まなくてよい。ホームページ・ビルダーの場合、これはオリジナルのIBMのときから現在のジャストシステムに移管されてからもそのような方式になっている。

 セキュリティソフトは性格上、旧バージョンとの平行使用はあり得ない。現行バージョンは削除しなくてはならない。複数年契約や契約期間中のバージョンアップは現行ライセンスの引き継ぎがある(はず)ため、通常は「完全削除」ではなくライセンス情報を残した上での削除をしなければならない。

 それは重々承知していたのに、先日、行ったばかりの「ホームページ・ビルダー」のバージョンアップのイメージがあって、うっかり現行バージョンの削除をせずに、新バージョンのインストールをはじめてしまった。(ライセンス情報云々はメーカー側の事情なのだから、機械的削除をユーザー側にやらせるのは本来筋違いとも言える)

 「カスペルスキー・インターネットセキュリティ2012があります。これを削除してから2013のインストールをしてください」などというアラームを出してくれればよかったのだが、そんなアラームは出ずに作業は粛々と進み作業進捗グラフが100%に近づいたところでアラームが出た。

 「エラー1311。次のソースファイルが見つかりません。\windows\installer\kaskis.cabファイルが存在すること、アクセス可能なことを確認してください」。

 ここですぐに「2012をきちんと削除しなかったからだ」と気がつくべきだった。しかし「kavkis.cabファイルが存在すること、アクセス可能なことを確認してくれ」というメッセージを読むと、どうしてもその「指示内容」に引っ張られてしまう。

 ここから先は泥沼だった。ユーザーのtempフォルダーにあるcabファイルを指定のフォルダーにコピーしてリトライ。するとこんどは「エラー1334。Adb_Bases_adbu.setがキャビネットファイルkavkis.cab内に見つからなかったため、インストールできませんでした」。ところが件のキャブファイル内を見ても、そんなファイルなどない・・・、もうここからは地獄。大局を忘れて、細々したエラーメッセージに振り回されてしまった。

 「2012を削除しなかったからだな」と思い当たり、上書きインストールのつもりで「カスペルスキー・インターネットセキュリティ2012」に戻そうとしたが、これも途中でエラー終了。

 万策尽きてテクニカルサポートセンターへ問い合わせる。そのころにはあちらこちらをいじり回していて、もう「元の場所」には戻れなくなっていた。受付時間を確かめると18時まで。ギリギリセーフとともかく電話したのは17時40分ごろ。

 「記事IDの欄に1416とインプットして検索してください」・・・サイトからカスペルスキー製品の「ゴミ」を削除するツールkavremoverをダウンロードする。セーフモードで起動し、懐かしいDOS窓からこれを起動する。これで2012のゴミは掃除されたはず。これで終わると思った。しかしダメ。

 「エラー1316。\windows\installer\kaskis.msiからの読み込み中にネットワークエラーが発生しました」。結局、きのうの夜は解決しなかった。他のアプリケーションならば、windowsが立ちあがってくれさえすれば、それだけをあきらめればすむが、セキュリティソフトだけはそういうわけにはゆかない。アンチウィルスなしというのは、ネットワーク大通りを素っ裸で歩くのに等しい。

 ウォーキングを早々とすませて、再度、メモを取りながらチャレンジ。その後、テクニカルサポートセンターに電話。きのうは一発でつながった電話がきょうは待たされる。やっとつながり、症状を説明すると、windows installerのバージョンを調べさせられた。「3.1.****とあります」というと、「4.5以上にすると改善されるかもしれません」などという。「一応、アップデートするけど、たぶん、それでは解決しないと思うよ。それがダメだったら、どこをチェックすればいいですか」と訊くと、「お客様のパソコンのデータを送っていただくことになります」と言う。

 いったん電話を切って、マイクロソフトのサイトからバージョン4.5をダウンロードしインストール。再度インストールにチャレンジするが予想通りダメ。テクニカルサポートセンターに電話。一回一回担当者が変わるから担当が前回までの内容を確認するまでにかなり待たされる。パソコンデータの収集指示のメールをもらうことにする。それが11時50分のことだった。ところが2時間待ってもメールが来ない。再度電話。「いまの段階は個別の状況を把握するために、このデータとこのファイルを送れという指示の段階でしょ。おそらく決まりきった手順なんだから、そんな内容のメールなんか、すぐ出せるでしょ。なんで2時間も待たされるの。3時くらいまでには出してよ」。

 16時をまわっても来ない。怒り心頭で電話をすると「2時54分に発信しました。・・・もしかすると、お客様の迷惑メールホルダーに入っていないでしょうか」などととぼける。「じゃ、ヤフーメールとグーグルメールのアドレスも言うから、そちらにも送って」。結局、サポートセンターに登録してあるメールアドレスには着信せず(迷惑メールホルダーにもない)、ヤフーとグーグルメールに着信した。なんと16時30分。すぐに作業をして指定データを送信したのが17時20分ころ。嗤えることに数分したらコンファームメールが、ついに指示メールの来なかったメールアドレスに着信した。大嗤い。

 要するに金曜日の終業時まぎわのデータ取得という形にしたいのだろう。督促電話を入れるころには、そんな予測があり、もう自力しかないのではと思いはじめていた。

 原因は2012の痕跡が残っていることだろう。ファイルベースはおそらく完全に削除されている。とすればレジストリの内容とのアンマッチが原因ではないか。「プログラムの追加と削除」のリストには「カスペルスキーインターネットセキュリティ2012」の名前があるが、選択をしても通常現れる「変更と削除」の押しボタンが表示されない。

 午前中にネット検索でダウンロードしておいた「Windows Installer CleanUp」。マイクロソフトから提供されていたものは不具合の懸念から既に提供停止になっている。ダウンロードサイトが「Brothersoft」といかにもの名称。評判はあまり芳しくないので、できるならばインストールしたくない。なにしろウィルスチェッカーが機能していないのだ。

 しかしカスペルスキーの回答を待つということは最低限この週末は「ネットワーク大通りを素っ裸で歩く」ことを意味する。「ソフト作成者:Microsoft」を信頼すること(何の保証もないのだが)にした。

 レジストリにはまだ2012の記述が大量にあるはずと思い、「Advanced SystemCare」のディープケア機能で無効レジストリをリストアップ、削除した。さらに念のため「コンピュータの管理」のサービス一覧から「Windows Installer」のサービス状態を手動で開始して、インストールにチャレンジした。

 先ほど、成功。結局、カスペルスキーテクニカルサポートセンターは何の役にも立たなかった。よほど「問合せ」のページに「自力解決した」と書き込もうかと思ったが思い直した。彼らが週明けからどれくらいの時間で回答してくるかをチェックしてやろうと思ったからだ。

 彼らにはムダに時間を使わせることになるが、こちらも不親切なインストールソフトのおかげでほぼまる一日ムダな時間を使わせられたのだから、ある意味、アイコだ。さて、サポートセンターの処理能力はどのていどのものか、楽しみに待つことにしよう。(10/12/2012)

 東電OL殺人事件の再審が今月29日に開始される。従来のゴビンダ・プラサド・マイナリの有罪を主張するものと思われていた検察が一転して無罪判決を求めるのではないかという観測が夜の各局のニュースで報ぜられた。

 再審開始が決定した後、検察側が行った再鑑定により、被害者の両手の爪に被告とは異なる男のDNA型の付着物が複数見つかったかららしい。この付着物のDNA型は被害者の体内にのこっていた精液のDNA型とも一致している由。より細かなことは29日からの再審で明確にされるだろう。

 捜査1課長として捜査の指揮をとった平田富彦の職務怠慢がより明確にされるに違いない。仮に、当時の鑑定水準では難しかったということであっても、容疑者をゴビンダ・プラサド・マイナリ一人に絞り、数々のでっち上げ工作を警察が行い、平田がその「謀議」に加わったことは間違いない。

 東京高裁が再審開始を決定し、刑の執行停止を決定したとき、インタビューを受けた平田は薄ら笑い(おそらく絶望的な照れ笑いだったのだろう)を浮かべながら「犯人はゴビンダだ。疑う余地などない」と言ってのけた。再審法廷で平田の「思い込み捜査」が瓦解したら、この「岡っ引き」(というよりは「バカっぴき」と呼ぶべきか)がどんなツラをするのか大いに興味がある。マスコミ各社には是非とも平田富彦のコメントを取り、できるなら、そのバカヅラを満天下に晒して欲しいものだ。

 平田富彦よ、お前のツラに泥がべったり塗られる日を楽しみに待つがいい、呵々。(10/10/2012)

 エネファームの据え付け工事。本体据え付け、水道・ガス配管、電気配線の他、ガスメーターの交換、洗面脱衣所の温風ファンコイルの取り付け、配管、配線。10人ほどが作業。出入りがあるので落ち着かない。9時スタートで3時過ぎに終了。東電の系統連携確認はまだなので、きょうのところはたんなる大型給湯器。7年使った給湯器はお役御免。まだしばらくは使えたと思うが仕方がない。

 作業の進展ごとに、ガス、水道、電気が止まる。PCも随時止めなくてはならない。この機会にケースを開けてみることにした。CPU部分を見て愕然。冷却ファンの下のフィンの部分に綿埃がびっしり。これでは熱暴走も当然。綿埃を掃除機で吸い取り、ファンの羽根をティッシュで拭いた。スケルトンの状態で通電し、ファンが動作することを確認。CPUファンの近くまでケースの右サイドファンからのダクトを伸ばし、再度、組み上げた。

 65度から90度近くに達していたCPU温度は一気に40℃を切った。これでひとまず安心か。(10/9/2012)

 毎日が日曜族としては格別のことはないが、どうも「ハッピー・マンデー」には引っかかる。もともとは10月10日。東京オリンピックの開会式の日を記念した「体育の日」。由来のはっきりしたこの日が毎年毎年日の定まらぬいい加減祝日になり、そもそも根拠のあやふやな建国記念の日などが固定というのだから嗤わせる。建国記念の日こそドリフトする「ハッピー・マンデー」で十分だろう。

 八王子のオリンパスホールで**(家内)と**さんの参加する「モーツァルト『レクイエム』を歌う会」によるコンサートを聴く。曇り空のレクイエム。なぜか急にフォーレの「レクイエム」が聴きたくなったが、リスニングルームは未だに納戸状態のまま。

 ノーベル賞ウィーク、スタート。医学生理学賞に山中伸弥京大教授。ジョン・がードンケンブリッジ大教授との共同受賞。ここ一、二年、山中の受賞が取りざたされていただけに、驚きはないというのが一般的「空気」。彼は若いので生きているうちにという焦慮感はなかったが、逆に「棚晒し」による「風化」が懸念された。順当に受賞できたことを喜びたい。

 研究への寄付金を募るためにマラソン大会にも出ていた彼のこと、これが「呼び水」になって資金が集まることを期待したい。寄付を行うルートにはどのようなものがあるのか調べてみよう。(10/8/2012)

 朝からずっと雨。日曜の朝刊、関東ローカルに「寅さんの伝言」が連載されている。共演、あるいは寅さんシリーズの制作に関わった俳優、映画人による寅さん、渥美清の思い出。きょうはイッセー尾形。だがきょうのイントロは三國連太郎が見た渥美清。

 彼は、一時、フランキー堺の仲立ちで渥美と遊んだころがあったという。「ですが、思考の次元がいくらか違っていました。私なんか、いつも見下されてヒャッとした感じがして、途中から付き合いが遠のきました」。ドキッとする言葉遣いだ。しかし額面通りにとるわけにはゆかない。渥美に面貌からは想像のつかない屈折があったのと同様、三國も徴兵逃れ・母親による密告という体験など、曲折の経歴から来る精神の複雑さを持つ役者だから。

 むしろ渥美には対象を見る際、「凝視している自分という存在」を韜晦するような世渡りの智恵はなかった、または、そういう知恵を棄ててかかっていたのではないか。それが「ヒンヤリ」した感じを抱かせたのではないか。

 イッセー尾形(60)も、同じような視線を感じた。新宿・紀伊國屋ホールで一人芝居を演じたとき。
 「大きな劇場に出たのは初めてだったので緊張しました。お客さんは笑ってくださったのですが、笑わない人がひとりだけ、右前方にいるのが分かりました」
 「どんな人なのか確認するのが怖かった。でも、意を決してそちらに視線を向けてみました」
 ハンチング帽をかぶった四角い顔の人。あとで渥美だと知った。「余計なものをすべて捨てて、静かにじっと遠くを見ているようでした」
・・・(略)・・・
 それにしても、舞台上の何を渥美は見ていたのか。
 イッセーは語る。
 「おこがましいですが、僕の芸に対する姿勢を見ていたのでは。または僕が観客をどう見ているのかを見ていたのではないのでしょうか」
 渥美はこんな俳句も残していた。
 〈赤とんぼじっとしたまま明日どうする〉風天

 渥美は肺を病んで何年かの療養生活を送った。そのとき否応なく「末期の眼」を身につけたのだろう。それは「見下している」わけでもなければ、同業者の覚悟や姿勢を見ていたわけでもなかった。むしろ生き生きと遊び、生き生きと演ずる「人」のありようを「発見」し続けていた・・・そんな風に想像する。ちょうどそれは体が丈夫でないために、体育の時間にはいつも離れた木の下から「見学」せざるを得ない小学生が身につける感覚に似ている。(10/7/2012)

 大滝秀治が亡くなった。2日、午後のことだった由。

 その昔、日曜日夜9時のTBSは「東芝日曜劇場」だった。番組はたしか日劇の上の東芝のネオンサインをバックに「光る光る東芝、回る回る東芝・・・輝く光、光、強い力、力・・・」の歌が流れてはじまるのだった。この番組は「晩年」には連続ドラマになったが、それまでは一回完結のドラマだった。

 その中にシリーズ物として伊志井寛の「カミさんとわたし」、池内淳子の「女と味噌汁」などがあった。大滝の「うちのホンカン」もそういうシリーズ物としてあった。

 北海道の各地を転勤して歩く交番のお巡りさんが主人公。「ホンカン」というのは警察官の第一人称「本官」のこと。ホンカンを大滝、その妻を八千草薫、娘を仁科明子が演じていた。ドラマチックなことはなにひとつないのに、というか、だからというか、見終わったあとの感じがすごくよくて「あしたからはまたお勤め」という少しブルーな日曜の夜をほんのりさせてくれるドラマだった。

 八千草さんはまだ若かったし、仁科明子も魅力的で、それが楽しみな番組ではあったけれど、あのドラマの味は間違いなく「ホンカン」のもつ「優しさ」から出ていて、大滝はそれを演技と思わせぬほどにうまく演じていた。「ホンカン」シリーズをまとめて再放送してくれないものか。(10/6/2012)

 有楽町の「夕陽会」は盛況だった。といっても、ウィークデーの設定にしたにも関わらず、OBは**夫妻のみ、国慶節の一時帰国メンバーと現役組ばかり。早くに辞めて岐阜の田舎に帰った**君が出席。

 芙蓉荘は元の純日本家屋を残し、その北側に新しく建てたようだった。まだきれいで雰囲気もいい。駐車スペースもあるし、ロケーションも悪くない。健保を脱会したOBでもOKとのこと。一度、**(家内)と泊まってもいいかなと思った。

 ゆっくり朝食をとって、コーヒーを飲み、9時過ぎに出発。ゴルフに行った**さん、横浜に泊まった奥さんをピックアップして静岡の親戚に向かう**君、仕事があるという**君を除く残りメンバーで、鎌倉散策をしようということになった。「岐れ路」でバスを降り、覚園寺まで歩く。いい天気だが、日差しが結構きつい。運良く、10時の回の説明に間に合った。

 覚園寺からゆるゆる歩いて、お目当ての左可井に到着。営業開始まで10分程度あったが、**さんが交渉してくれて中に入れてもらった。11時半の営業開始で10分もしないうちに満杯。あっという間に行列になったようだ。それでも、ゆっくりと、穴子飯を食べる。

 **君は天園ハイキングコース、残りのメンバーは駅前へ戻るという。独りになった。そのまま直帰するのもと思い、華頂宮邸に向かった。連休前日とは言え、人はあまりいない。庭園側から邸とその上の雲を写真に撮る。ほんとうにいい天気だった。それから報国寺へ。本堂脇のベンチにゆったりと座り、ボーッとする。「同行二人」、でも、もう一人はお大師さんではない。

 芙蓉荘→鎌倉駅/岐れ路→覚園寺→左可井→華頂宮邸→報国寺、リスタブルGPSの計測では5.75キロ。ちょっとした旅行のときも歩きがあるていどあれば、楽しい記録になるかも知れない。(10/5/2012)

 きょうはいつも通り黒目川ウォーキングコース。きのうを除けば毎日同じコースなのだが、距離は微妙に違う。日曜から順に、11キロ910、11キロ840、12キロちょうど、きょうは12キロ30。最長と最短で約200メートル、プラスマイナス0.85%、すれ違いにあわせてコースを右・左に変更することを考えるとこんなものかも知れない。平均速度は6.5キロ/時、6.4キロ/時、6.7キロ/時、6.7キロ/時。平均ストライドは95㎝、93㎝、104㎝、95㎝。pebNoteの89㎝の設定はいい線だったということになる。

 これから鎌倉。心配した台風19号は陸から離れたコースになったので、心配なさそう。4時半くらいまでに芙蓉荘に着けばよい。そろそろ準備しなくては。(10/4/2012)

 リスタブルGPS、別のコースも試してみたくなり、久しぶりに薬科大コースを歩いてみた。黒目川のいつものコースよりは長いはずというのは思い込み、東京病院から押出し橋へ出て、本邑橋から落馬橋まで黒目川沿いを歩いてから戻るルートでほぼいつもと同じ12キロ弱。東京病院からそのまま帰宅のルートではノルマギリギリにしかならないようだ。

 薬科大から秋津駅北の断層部の上り・下りも思ったほどにはカロリー消費が少ない。11.82キロ、1時間52分48秒、平均速度6.32キロ/時、消費カロリーは659kcal。平均ストライドは93センチ。信号や西武線の踏切などウェイティングになる頻度が高いので、ごくたまに気が向いたときの選択ということにしよう。

 朝刊オピニオン欄に「尖閣列島戦時遭難者遺族会会長」の慶田城用武へのインタビュー記事が載っている。「尖閣列島戦時遭難者」というのは8月12日の日記に書いた疎開船遭難事件の被害者のこと。遺族会は95年に結成され、慶田城は2代目の会長とのこと。

 この夏、尖閣諸島の領有権がクローズアップされ、「慰霊」という言葉が飛び交うのを、なんだか不思議な気持ちで聞いていました。いったい誰の、何を慰めるんだろうかと。
 自民党の山谷えり子先生から電話がかかってきたのは7月23日です。日本の領土を守るため行動する議員連盟の会長さん、ですか。魚釣島で慰霊祭をしたい、政府に上陸許可申請をするので遺族会も同意してくれないかと。私は「遺族会は、御霊を慰めて二度と戦争をしないことを目的にしています。『領土を守る』というのとは目的が全然違うので同意できません」とはっきりお断りしました。連絡は、後にも先にもそれ一度きりです。
 8月18日に石垣島の慰霊碑前で慰霊祭を開いておられますが、遺族会に案内はなかった。沖縄本島から神職3人を伴ってきて神道形式で行い、最後は「君が代」を斉唱した、と。報道で知り、驚きました。
 私たちの慰霊はずっと仏式です。しかもなぜ「君が代」なんでしょうね。翌朝には約150人が21隻の船に乗って洋上慰霊祭を行い、その後、10人が泳いで魚釣島に上陸したと。それではっきりしたんですね。ああ、彼らの政治的なアピールに慰霊は利用されたんだなと。
 昨年6月、石垣市長が政府に魚釣島への上陸許可を要請しました。島には69年に市が建てた慰霊碑がありますのでね。遺族会に相談はなかったので、私たちは「魚釣島での慰霊祭挙行は遺族会が望んだものではない」という声明を出しました。「中国・台湾が領土を主張し、偏狭なナショナリズムの思想をもつ活動家たちが、過激な行動で挑発しあっている不穏なこの時期に、慰霊祭をするというのは紛争の火種になりかねないと懸念さえしております。ひとたび紛争がおきれば、八重山諸島の住民生活はたちどころに崩壊していくでしょう。御霊もそのようなことは望んでいないはずです」
 この思いは今も変わっていません。それなのに日中の緊張をあおるようなことに使われて・・・。
 山谷先生は8月24日の国会で、野田佳彦首相から「遺族会は領土議連からの上陸に対する同意要請を断った」と言われ、「それは間違っている」と反論されています。どういうことかと議事録を取り寄せて読んでみたところ、「私は遺族会の方に、今回一緒に申請なさいますかと聞いたら、『石垣市長が私たちの気持ちをくんで申請してくださっている』『もちろん上陸して慰霊をしたい、しかし政府が認めないのなら私たちはどうすることもできない』と、そういうことだったんですよ」と。どうしてそんなことを言うのでしょう。少なくとも遺族会の会長である私はそんな話はしていません。非常に憤りを感じます。
 尖閣諸島は間違いなく日本の領土です。かつて魚釣島にあったかつお節工場で働いていた人も八重山には多くいて、なじみ深いというか、近しい感覚があります。中国の反日デモで、日系企業やスーパーが破壊されているのを見ると、日本人として胸が痛みますね。私は、国を愛する気持ちは人に負けないつもりです。
 魚釣島への上陸に反対だというと、「国や領土を守ることになぜ反対するのか、おかしいんじゃないか」と、一部の人から非国民のように見られることもあります。そう言われますとね、答えようがないんですよ。国を守るか守らないか、さあどっちだという二者択一ではそもそもないはずなのに、領土が絡むと必ずそうなってしまう。
・・・(中略)・・・
 自民党の総裁選を見ていると、みなさん「国を守る」と強調されていましたね。なにかこう、島と中央が響き合っているというのかな。南西諸島の防衛強化が進むのではないか、そういう土壌が育まれつつあるのではないかと心配しています。
 石垣は国境の島だからこそ、守るのではなく、開いていった方がいい。交流が進めば信頼関係が生まれ、それが結果的に守ることになるはずです。実際、これまでも台湾や中国・福建省などとの交流を強めてきました。島には台湾出身の方も数多く住んでいる。私たちの慰霊碑の石だって、中国・アモイから取り寄せたものです。
 今年7月の慰霊祭のあいさつでも私は、石垣市は国に頼らず、ましてや東京都の下請けなんかやらずに、アジアの各都市と「外交」して独自の経済圏をつくればいい、魚釣島でけんかしている場合じゃない、という話をしました。しかし、こうなってしまうと・・・。来年3月に開港する新しい石垣空港には、上海や台湾、ソウルなどからの直行便就航が期待されていたのですが、どうなりますかね。
 石原慎太郎都知事の尖閣諸島購入を支持する人たちは、日本の主権を守るためだと言っていました。だけど米軍に治外法権的な特権を与えている日米地位協定によって、米軍人や軍属による事件や事故の被害者は泣き寝入りさせられてきました。主権が侵されている、改定してほしいと私たちはずっとお願いしてきましたが、主権を声高に言う人たちは本気で動いてくれたでしょうか。地元の反対を押して強行されるオスプレイの配備に反対の声をあげてくれたでしょうか。万が一、中国と事を構えることになった時、国境を接する私たちの生活がどうなるのかを本当に考えてくれたことがあるのか。
 遠くにいる人ほど、大きな声で勇ましいことを言える。その結果生じた「ツケ」はまた、私たちに回ってくるのでしょう。(聞き手・高橋純子)

 「石垣は国境の島だからこそ、守るのではなく、開いていった方がいい」。これは国境に住む者だから言える言葉であり、知恵だと思う。頭の中だけで考えたり、邪な政治感覚で大言壮語するうつけ者には絶対に語り得ない言葉だ。

 相手がアメリカとなると主権を蹂躙されても恬として恥じない山谷や石原の妄動と妄言に右往左往しているバカな「愛国者」たちが「夢」から醒める日はいつになるのだろうか。この国は、いまや、単細胞の愛国者ばかりがはびこる国になった。バカにしている中国の「愛国者」たちとさして変わるところはない。自分が少し上等だと思っている分だけ始末におえないと言えぬこともない。(10/3/2012)

 めったに目に留まらないはずの記事を夕刊に見つけた。「趙治勲が1400勝を達成」。最多勝記録は既に去年の暮れに林海峰の記録を抜いており、記録を更新中とのこと。

 沢木耕太郎の「帰郷」(「馬車は走る」所収)は1985年の棋聖戦をメインに、韓国出身の趙治勲という棋士の半生(といっても、そのとき彼はまだ29歳でしかないのだが)を描いたものだ。だがそこには彼の兄、祖父、そして半島に住む人々の屈折した心理をも伝える話が書かれていた。

 趙治勲の祖父は朝鮮殖産銀行に勤める銀行員だった。学識があり、趣味も広く、支店長になってもおかしくないほどの人物だったが、朝鮮人であるため常に日本人に出世の機会を摘まれていた。「その口惜しさを紛らわすために碁を覚えた。碁の上では、どんな日本人も遠慮なくやっつけることができたから」。彼には三人の息子がいたが、一番の期待を寄せた長男は反日学生運動で捕まり拷問により廃人同様になった。父は自分も息子も学問が仇をなしたと思い次男・三男は学校には行かせなかった。父の手ほどきで実力を顕したのは三男、南哲だった。彼はたまたま訪朝中の日本の棋士(木谷實)に見出され、日本に渡り腕を上げ、戦後、韓国の囲碁界を育て上げた。次男には四人の息子が生まれ、一番上の祥衍は南哲と同じ木谷道場に入る。しかし「田舎の秀才は都会ではただの人」、なによりスタート年齢が遅いことを痛感した祥衍は、当時まだ6歳だった末弟を日本に呼び、プロ棋士にしようとした。この末弟が趙治勲。沢木のインタビューに超南哲は「祖父の恨みを、孫が晴らしたんだろうな、三代目にして、やっと」と語っている。

 ここまでは面白くはあっても、ありがちなファミリー・ストーリー。20年以上も前に読んだものが、今も記憶に残っているのは、こんなくだりがあったから。

 それによって、私は韓国人にとっての趙治勲の位置が少し見えかかってきた。・・・(略)・・・つまり、こういうことらしいのだ。趙治勲は日本人の中で闘っている間は韓国人だが、韓国人と闘うとなると日本人と見なされてしまう。韓国一の曹薫鉉とやる時には負けてほしい。もし日本一の趙治勲に勝てば、韓国一は世界一と等しいことになる。その時点で、趙治勲は日本の代表になってしまうのだ。しかし、それだけのことならある意味で簡単だ。韓国民の日本人に対する微妙な感情は、その二人の間にさらに徐方珠という棋士を投げ入れてみるといっそうよくわかる。
 曹薫鉉は小林光一と同じ三十二歳の若さだが、十代の半ばに日本で碁の修行をしている。その意味では南哲以来の日本留学組である。韓国のタイトルをほぼ独占し、第一人者の地位を守りつづけているこの曹が、しかし人気の上ではナンバー・ツーの徐に遠く及ばないのだという。理由はただひとつ、徐が日本へ渡ったことがなく、独学でここまできたからなのだ。日本へ行かなくても徐のように強くなれる。それが彼の最大唯一の売り物なのだ。

 趙治勲は「在日」ではない。しかし在日と同じようなポジションにいる。ノン・フィクションの名手沢木は、舞台となったソウルでの棋聖戦における対局の感想を「中に入って生きることが難しかった」と語った趙治勲の言葉をキーにして、半島の人々、そして在日のようになってしまった趙治勲の屈折した心理をうまく書いていた。

 そのときから四半世紀を過ぎ、彼は56歳になった。彼を素直に迎え入れられなかった韓国社会、彼の両親(たぶん亡くなっているのだろうが)の息子に対する思い、・・・、沢木にはそろそろ「帰郷」の続編を書いて欲しい気がしてきた。(10/2/2012)

 風雨は強かったものの、予報ほどではなかった。鉢植えに気をとられ忘れていたつっかけが、**さん寄りの縁まで飛んでいた。頭隠して尻隠さずのようなオソマツ。

 ウォーキングコースからは、まだ雪の目立たない黒い富士がくっきりはっきり見えた。きょうから10月。稲荷橋のあたりで金木犀の香り。いよいよ第四四半期に入る。もうとうに秋のはずが、台風のコースが最悪で、またまた夏の湿った空気を呼び込んだらしい。蒸し暑い。

 気温と湿度が高いと、てきめんに速度は落ちる。きのう時速6.58キロだったものが、きょうはきのう以上に汗だくになったにもかかわらず6.41キロ。

一杯の珈琲から夢の花咲くこともある
街のテラスの夕暮れに二人の胸のともしびが
ちらりほらりとつきました

 朝刊の広告に「きょう10月1日はコーヒーの日」。焦げ茶のバックに白抜きの湯気の立つコーヒーカップを見たとき、頭の中にこのメロディーが鳴った。検索してみると、作詞は藤浦洸、作曲は服部良一。意外なことに昭和14年の曲。戦後の曲だとばかり思っていたが、そうではなかった。そうか、山本夏彦が書いていた。

 「戦前戦中真っ暗史観」は社会主義者が言いふらしたんです。社会主義者は戦争中は牢屋にいた。転向して牢屋にいない者も常に「特高」に監視されていた。彼らにしてみれば、さぞ真っ暗だったでしょう。・・・(略)・・・大衆はお尋ね者ではないから、その日その日を泣いたり笑ったりすること今日の如く暮らしてました。向田邦子は「襞」という短編のなかで、わたしたち女学生はもんぺはいて明日の命も知れないというのに箸がころんでも笑っていたと書いています。

「誰か『戦前』を知らないか」

 たしかにこんなに明るい曲が作られヒットしていたのだから「世の中真っ暗」だったわけではない。それはそうだ。だが、ひょっとすると、いまもそうなのかも知れない。

 陋巷の民が日々の暮らしに追われつつ、泣いたり笑ったりしている「今」、このたった「今」、同時進行している「なにか」により、後々、「世の中真っ暗」と思い知るところに落ちてゆく、そういう事態が起きつつあるのかもしれない。ちょうど「お尋ね者ではない」人々が夏彦さんともどもおもしろおかしく暮らしていたその同じ時、大陸では「事変」という名の「戦争」が泥沼化し「真っ暗」とまでは言わぬものの、とても「明るい毎日」とは言い難い「務め」を強いられていた兵士がおり、その「暮らしぶり」が数年を経て「お尋ね者ではない」人々にも伝播したように。

 山本夏彦は向田邦子をなにやら「免罪符」のように使っているが、向田が「明日の命も知れないというのに笑っていた」と書いた「襞」(このタイトルだけでも分かりそうなものだが)の文脈を読めば、向田がけっして「真っ暗史観」に対して山本のような「敵意」を持っていたわけではないことは分る。少なくとも向田は山本のような姑息な「韜晦史観」には与しなかった。(10/1/2012)

注)向田邦子の「襞」は、「夜中の薔薇」に収められています。

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