Gilbert Keith Chestertonの書いた「ブラウン神父シリーズ」をお読みになった方は多いと思います。

 これは、そのブラウン神父の言葉。

 いわずもがなブラウン神父はカソリックのお坊さん、あまり風采の上がらない見かけは地味な人なのですが、洞察力にすぐれた名探偵で、奇想天外な事件の真相をあっさりと看破するお方です。

 推理小説のネタばらしはご法度ですから書きませんが、この「三日月荘−ムーンクレサント」で起きた事件も、外見は奇跡のような不可能犯罪。登場人物に無神論者を配し、チェスタートンの準備は万端です。ここに書いた言葉は、神父が事件の真相を語り始める口切りの言葉です。

 りくつでは説明のつきそうもない奇想天外な事件に奇跡を信じたくなっている登場人物たち、「神の奇跡」を説くのが務めの神父さんの立場なら、奇跡でもなんでもない犯罪だという舞台裏をわざわざ語らないということもできるはず。にもかかわらず、ブラウン神父は、

「まさかあなたは、わたしがこの奇跡をうそと承知の上で、この奇跡によって神に仕えるのをすすめているのじゃありますまいな?
・・・(中略)・・・
うそをつくことは、宗教に仕えることにはなるかもしれぬが、神に仕えることには断じてなりませぬ。

と言い放つのです。

 ここに見られるのは、フェアプレイの精神です。正しいことを主張するからといって、その主張を虚偽で支えることは絶対にしないという、思えば当たり前の心がけです。

 しかし、「目的は手段を正当化する」という手前勝手なりくつが大手をふって歩いているのが、昨今の習いなのでしょうか。

<この項終わり>