●「ナフタ」

cafeで渋いコーヒーを飲む。チュニジアのカフェで飲むコーヒーは、エスプレッソだ。砂糖が入れられてでてくることもあるし、別になってついてくることもある。後味が口に残る。なんというか、例えるならば、腋臭の人の臭いをマイルドにしたような臭いが口に残る。あまりおいしいとは思えない、というか、まずく感じる。

そして、カフェには、額に入ったセサミストリートのカウント伯爵似のおじさまの写真が必ずかけられている。タイのプミポン国王、トルコのケマル・アタチュルクのように。カフェだけに限らず、お店全般や駅にもかけてある。バックが赤黄のグラデで軍服のような服を着ているバージョンが多いが、その他にも、昔ヒデキやひろみが着ていたような白い服を着ているバージョンも数は少ないが見ることができる。この人は、誰だろう?と考えたときに、わたしたちは勝手に建国の父で各町の中央通りの名前にもなっているハビブ・ブルギバさんだと解釈して、ギバちゃんという渾名までつけて親しんでいた。ところがそのギバちゃんは、これも後で分かったことだが、ギバちゃんではなく、ベン・アリという現大統領であった。

ギバちゃんはベン・アリが大統領になる前の31年間大統領を続け、後年は独裁体制を築いていて、それを時の首相であったベン・アリが引き摺りおろして終身大統領制を廃止するまで続いたそうだ。今年(か来年だったかな?)、近いうちにまた選挙があるようだが、ベン・アリ政権はたぶん続くだろうと思われている。

そのベン・アリは、各店に肖像写真を飾られるくらいだから、タイの国王が国民に愛されているように、愛されているんだろうか?という印象をわたしたちに与えたが、事実はどうかは知る術はなかった。その肖像画は自主的に購入されて飾られているわけではなく、店の営業許可証とともに国から渡されるものなんだそうだ。

その後、カレーシュに乗る。カレーシュというのは四輪馬車のことだ。ここの町にあるのは観光馬車として機能しているものが殆どみたいだ。サハラとショット・エル・ジェリドへ行くという。値段は1人60DT(だいたい5400円くらい)ずつ二人でしめて120TD(だいたい10800円くらい)といわれ、最終的に二人で23TD、2070円くらいになる。


乗り心地悪し。


砂丘・・・


ナフタの(私的)オアシスこと、
ホテルのプール

ここでまた腹立たしいのは、砂漠の入口のようなところがあり、そこでラクダ代をまた別にとられる、ということをそこまで連れてこられてから言われたことだ。
そんなところまで馬車で行って他にすることもないし、乗るほかないではないか。完璧に足下を見ていやがる。空港に着いたときのタクシーのおやじと一緒だ。20TDといわれ、最終的に15TD(1350円)とられる。約10分(なかったな、あれは)乗り心地の悪いらくだに乗って(そのらくだが悪いわけでなく、らくだ一般が乗り心地の良いものではないと思う)、ちょっとした砂丘のようなところに行き、そこで写真をとって、また戻る、というつまらないアトラクションだ。らくだの立ち上がりと、座りがスリルある。行くときはまだよかったが、戻るときはもう用が済んだから、らくだもらくだ引きの子供も足が早くなって、砂丘の下り坂がこわい。やれやれだ。らくだ引きの子供が「土産に1DTおいてけ」としきりにぼそぼそつぶやく。こっちは機嫌が悪いんだ、誰がやるか!という、いやああな気分になっていた。

そこから戻る途中で、ショットへ立ち寄る。ショット・エル・ジェリド(Chott el Jerid)のショットとは、塩湖と訳されている。地図で見ると水色で描かれている。普通の湖と塩湖の違いは一体何か。 わたしたちがそこで見たショット・エル・ジェリドは、ただの塩分の多い荒れ地だった。はるか遠く、馬車ではたどり着けそうもないところに、水が見える。確かに、ここはショット・エル・ジェリドで間違いはないけれど、水を目の前に見ることもできず、期待外れもいいところ。全てにおいて、中途半端すぎて腹立たしくなる。

ホテルに戻って、ゲイリ−・オ−ルドマン(つい最近知ったんですが、この人シドだったんですね)似のコンシェルジェにこの先の経路とか色々きいて、プールで一泳ぎ。暑い砂漠にいることを忘れられたひとときだった。夕方だから水が少し冷たくて心地よい。いままでの調子でいくと、いやなこと:心地よいこと(それもささやかな)が、4:1くらいではないか。

夕食は、再びクスクスに挑戦。メインストリートをずーーーっと歩いて、ゲイリー・オールドマンからきいた店に行く。もう、夕方で薄暗くなってきている。道路には昼よりもたくさんの人たちがいて、昼、顔を見ることがなかった観光客の姿もちらほらと目につくようになっていた。

レストランはこのメインストリートには、見かけただけで言うと、2-3軒しかない。チュニジアはイスラム国のわりに戒律もソフトらしく、酒を飲む人もたくさん見かけるし、女の人が半そでを着ている姿も普通にみかけた。しかし、一般的には女の人は家にいる、というのはあたりまえのことなんだろう、そうすると必然的に女の人たちは食事をきちんと作る、という図式がなりたつ。ゆえに、レストランが少ないのも納得がいく。
田舎なここナフタがその風潮がつよいのもうなずける、というものだ。わたしたちが入った食堂においても、旅行者か男しかいないし。

ここのクスクスも汁気がやっぱり少ない。味は昨日よりはおいしい。肉に緑色がついていたのが何だったのか気にかかる。肉は羊肉。いも、ヒヨコマメ、タマネギをトマトで煮込んだものが、山盛りのクスクスの上にどっちゃりのっている。二人分で5.250DT。一人前に換算すると2.625TD(240円くらい)というとてつもなく半端な数字だ、これってどういうことだろう。

そこの店の男がナフタの感想を聞いてきた。はっきり言えば「もう二度と来たくないんだよね」くらいだったが、そう言うのもなんだったから「まあまあ」とこたえたら、なぜまあまあなんだ、と食い下がってきた。相方はやさしいのでフォローを入れてくれていたが、はっきりいって、この町で唯一いいところを発見することができたのは、ホテルのプールくらいだった。
その男が、地元の人が行くバーへ行くと言うので、付いていってみることとする。

この町のメインの観光名所は、「ナフタの花カゴ」と呼ばれるオアシスであるらしい。とにかくナフタは、その花カゴの他にも町の南側には大きなオアシスが控えている町で、チュニジアの建国の父であるギバちゃんはこの町で毎年2ヶ月!!の休暇を過ごしていたそうだ。この事実を歩き方で読んだために『この町に来てもいいか』と思ってやって来たわけだが、どうもギバちゃんとは趣味があわなかったらしい。

話は戻って、その花カゴの中を通り、バーへ行く。花カゴと言っても花畑ではなく、ナツメヤシの林というか畑である。暗い道に電灯がぽつぽつあり、本当にこんな何もないところを歩いていってバーなんてあるんだろうか、とちょっと不安になった。が、暗いナツメヤシの木の向こうがわにぽつぽつモスクが見えてきたりして、ちょっと奥まったところにきちんとバーは現れた。

男たちがその建物の中や外にテーブルを出して酒をのんでいる。私達は一緒に来た男に屋上に連れていかれ、ちょっと不安になってしまう。わたしたちの他にだれもいない明かりのない屋上に、男はテーブルとイスを持ってきてろうそくに火をつけた。折角だからと、チュニジアワインをいただく。口の中で揮発性のアルコールが蒸発するような感じがして、味は酸っぱかった。折角なんだが、あまり美味しくはなかった。

ここで飲んだのは赤ワインだったが、チュニジアで有名なのは、ケリビア産のマスカットワインだそうだ。ぶどうを育てる農家の映像を見てちょっと驚いたのは、ぶどうの蔦が地をはっていたことだ。本場フランスって、どうなんだろう?そんなもん?

わたしがこの町で一番印象に残っているのは、町の景色や自然の偉大さやおいしい料理などのポジティブな事象ではなく、ここで聞いたその男とヤマダナナコという日本人女性の話だ。
その女の人は日本での結婚生活に満足できず、子供も旦那もいるのにその男のところに不倫するために継続的にやってきている、そうだ。それに話の流れからいうと、彼女からお金の援助も受けているらしい。ここのバーで話した話は三分の二以上はその話であった。よりによってなんで日本からこんなところまで、こんな男(正直いうとかっこ良くないし、精神年令低そうで、いろんな人にいろんなことを言いふらすような下衆な男)に会いにやってくるんだろう、よほど寂しいのだろうか、日本では不倫ができない人なのだろうか、などなど疑問は山のようにでてきた。タイで二重結婚をしている日本人男性の話とか、お金で東南アジアに女の人を囲っている男の人の話をきいてはいたが、そんなのは男だけがする話ではなかったんだ。



●「ルアージュの旅」

今日は、朝はやくから出発して移動の日とする。
ホテルをチェックアウトして、ぼけぼけ歩いてバスステーションを探したりする。昨日も歩いたメインストリートは一直線で、昨日入ったカフェ(そこ以外に見当たらなかった)でコーヒー飲んだりしてだらだらしたり、道をだらだら歩いているとかなり時間が経過する。

そして、ルアージュを乗り継ぎながら、今日はタタウィンという町まで移動してしまうことにする。
どういうルートで行ったかというと、
ナフタNAFTA→トズールTOZEUR→(→ドゥーズDOUZ→ケビリKEBILI)→ガベスGABES→タタウィンTATAOUINE。
→のところで乗り換えだ。一見面倒くさそうだけど、全然面倒ではない。ルアージュはバンの様な車で、運転手の他に6人乗客がそろえば出発する乗り合いタクシーだ。バスよりもスピードが速くて、ノンストップだから早い。ルア−ジュに乗って、次の町のルア−ジュステーションに着いたら次の町行きのルアージュを探してそれに乗ればいい。あと、これは帰ってきてから聞いたはなしなのだが、ルアージュの一番座り心地がよいのは助手席で、一番狭くて乗り心地が良くないのは一番後ろの席だそうだ。最後尾の席はタイヤの部分があって、ちょっと狭くなっている。主にわたしたちはそこに座らせられていた(だってしらなかったし、うちら小さいし)。


わっかるかな〜、
わっかんねーだろーな〜


もうもうとしているドゥーズ

ナフタ→トズールは、ショット・エル・ジェリドのど真ん中に道が通っていて、そこを横断して行く。塩分がたくさん含まれていて、独特のバクテリアの作用でピンクや水色の湖水が見れるという。地図を見ていただければ理解してもらえると思うが、わたしたちはてっきり水がふんだんに見れると思っていた。が、事実はあの広い土地は、塩がういた枯れた土地で、枯れ川のような水たまりが八ヶ所位見ることができただけだった。すごいスピードでぶっとばすルアージュの中からそれを見る。
水たまりの色はピンクだ。一ッ箇所だけピンクの水たまりの横に水色の水たまりを発見した。隣に座っていた男に、おお、水!!ピンク!みずいろ!(貧しいフランス語)と大喜びしているさまを見せつける。これもまた後できいた話だが、そんなとき乗り合いでも、「ちょっと停めて」と一言言えば停めてもらえるものだったらしい。

トズールもケビリも土砂っぽい暑い町だった。ルア−ジュ乗り場でしか降車していないからそれ以上のことはわからない。車で町中を通った感じでは、トズ−ルはナフタよりも栄えていて、観光場所があるような町だった。

その後の"ケビリ(→ドゥーズ→ケビリ)"は、ドゥーズに間違えて行ってしまったために発生した行程である。ドゥーズは砂漠ツアーで有名な町で、ほんとに土砂っぽいあつーーーーい町。ああ、ナフタなんかで見た中途半端な砂漠ではない本格的な砂漠に訪れることができそうだな、という印象をうけた(実際にはどうだろう)。

移動の車中ずっと思っていたことは、このままでは負けそうだ、、、ということ。 好きとも嫌いとも、どうとも思えない。

タタウィンに到着したのは夕方だった。
ホテルはタクシーステーションのすぐ目の前にある、HOTEL MEDINA
ホテルの対面にある名前のわからない食堂で夕食をとる。ブリックという円い春巻きの皮にマッシュポテトと卵とパセリをおいて半分に折って揚げた料理と、ロービアという豆と鳥系の肉のトマト煮込みと、チュニジアンサラダ。ここの店の人はメニューを一つずつかみくだいて説明してくれて、ブリックの作り方まで目の前で実演してくれた。なかなか世話好きだった。




●「タタウィン」

今日は朝からよい場所を発見した。それはCafe de Parisというカフェ。カフェオレとうずまきパンがおいしい。カフェオレはアラブコーヒーっぽくなくて、おいしい。おまけに、お店の兄さんがジローラモさん似だ。「心のオアシス」と、そこを呼ぶことになる。

そこを出て、シェニニ行きのルアージュを探す。Cafe de Parisの並びのCreamrieのおっさんにきいてみると、すぐ二軒くらいとなりの店の前にとまっている乗り合いトラックのところまで連れて行かれる。片道0.750TDの完璧乗り合いだ。
Creamrieの向かいには、この町に着いたときのルアージュステーションがある。そこで訊ねたときには、「シェニニ行きの乗り合いルアージュは、ない」と言い張られ、貸し切りで20DTとふっかけられていた。

0.750TDの完璧乗り合いに乗って、シェニニCHENINIへ。シェニニは何があるところかというと、今でもベルベル人が住む穴居住居がある町だ。

シェニニへ向かうルアージュの窓から見える山々の風景は、ここは火星か?と思える程だ。
同乗したのはローカルの人たちで、その中に、シェニニで働いているというおっさんがいた。そこで事前情報を少々仕入れる。ホテルはなし、レストランとカフェが一緒になったところが一箇所あるのみ、あとは土産屋が2-3軒だけであとは人が住むのみということで、期待がふくらむ。


写真じゃ伝わらないな
到着。山、といっても土っぽい岩山にぼこぼこ穴があいている。これぞ求めていた景色という感じだ。すると一人の男が「ガイドはどうだ」と言ってくる。山の上のモスク迄行って、ベルベルの住居を御訪問して、そこいらのガイドをして5DTとのこと。お願いする。

急な道や階段を登り、山の上のモスクへ。残念ながら入ることはできない。モスクの横にいい年をした男たちがたむろっている。ガイドとか部屋をみせることで得られるお金だけで暮らせているのか?絨毯もいいお金になるのか。
そのたむろっている男のうちの一人の住居に案内される。家の中はひんやりとしていて、外の暑さは全く感じられない。入ってすぐに居間があり、奥にまた穴があってその入口に布がかかっている。布の向こう側がベッドルームになっている。ベッドルームと居間には荷物らしい荷物もなく、物置き部屋が二つあり荷物は全部そこにおいてあるようだ。全部といっても限り無く少ない。大きなものといえば、ちょっと何に使うのかわからない大きいめのツボとかそんなんもんだ。
東京の狭いくせに物だけは多い自分の部屋を思い浮かべる。あんまり物はいらないよなあ、なくても不自由ってめったにしないよなあ、なんて考える。実際今回の旅行の荷物はデイパックくらいのリュック一ケで来ていて、不自由は何一つないし、かえって自由に身動きできる。持ち物のありかた。






シェニニの天辺からの風景。
つたわらない写真だなあ

ここの町には160家族500人の人が住んでいて子供が80人いる、、、というようなガイドは全てフランス語だ。こちらもすごく分かるわけではないから、途中でわからなかったり聞き取れなかったりして何回か聞き直したりした。どうしてもわからないときは、絵を描いてもらう。その絵がこれである。
まず図1の絵で、買い物をしている!店か?ときいてみると、違う、と困った顔をされる。そして次に書いた図2で、やっぱり店にみえる。何回も一つの単語を言ってもらってようやく聞き取れたのが学校だった。がっくり。スーパーにしか見えない。

そして頂上へ。
旅行において、高いところに苦労して疲れて上って、それに見合った、またはそれ以上の眺めを得られた所ってあまりない。ここは見合って余るような壮観さだ。来てよかった。
ちょっとぼーっとしたかったけど、日ざしも強いし、ほんのちょっとそこにいて下におりることにした。午前中の涼しいうちに行動しておいてよかった。下りてきた頃はかなり暑くなっていて、みやげ物やの隣にあるカフェ(といってもジュースを売っているきりでコーヒーはない)でだらーっと涼み、土産物屋を見物。ベルベルの絨毯であるタピが売りだ。わたしはあまり絨毯には興味がないが相方は旅行に出る前から意気込んでいるので、厳しい目で吟味していた。結局ここでは買わず。

帰りのルアージュは来たときに着いたところにまた来る予定だ。観光客が来る場合4WDを借り切って何箇所かのクサールを回るツアーで来るので、ルアージュを利用するのはローカルな人たちのみだから、小さな町行きのルアージュは回転がいいわけではない。だから帰りのルアージュを30分以上待つ。その間、村のじいさんたちが茶のんだり、談話したりしている場所でご一緒する。白い民族衣装を着て6人くらいのじいさんが茶を回し飲みしている風景がどうにもよくって、写真を撮っていいかきいてみると、誇り高く丁重に断わられた。
この人たちは昼日中からこうして集って茶のんで話こんで、こんなことを毎日続けているのだろう。昨日のテレビドラマの話なんかで盛り上がったりはしないだろう。話や関係がどんどん濃密になって、ものすごい話をしてやしないか。言葉が分かれば、是非知りたいものだ。

タタウィンに戻って、みやげもん散策。じいさんたちが着ているダブっとした服の下に着るベストを買ってしまう。わき部分の空きが広いのがちょっといかがなものか、というところだが、今年はフォークロアが流行りだしイケるに違いない、と確信して購入。何度となく旅行中のこの手の買い物で失敗していることも省みず、購入にふみきる。
これは3.5DTで購入。表示価格そのままだ。

店では服の他に靴も売っていて、女の子がお父さんに「靴買って〜」とせがんで泣いている。店の少年がかわいい靴下をあげて泣きやまそうとしてもダメで、相方がアメをあげても泣き止まない。男親は娘に甘いもので、泣き止まない彼女にとうとうそれを買ってあげて一件落着。一番ほしいものを何が何でも手に入れるまであきらめない彼女に、忘れていたことを思い起こさせられた気持ちだった。
それにその店の少年はとても好少年で、女の子を泣き止ませるのにがんばるし、ぼることも全然毛頭にないし、外国人女性であるわたしたちにも紳士的にふるまってくれるし、帰るときにはBon Voyargeとさわやかに言ってくれる。小学校4,5年生くらいだろう。その笑顔に心を洗われて店を出た。

このエピソードを読んで、なかなかほのぼのとした町じゃない?、、、と郷愁にさそわれ、人々との心のふれあいの旅を夢見た人もいるかもしれない。コシを折るようだが、町の人々が概ねそういう人である町なのかというとそうではない。

これはどこに行ってもありがちなことだが、とりあえず顔をみると、ジャポネ?とかシノワ(中国)?とか声をかけてくる、その数はハンパではない。田舎に行けばシノワ率が高まる。そこで「うむ、そうだ」と応えて会話が続く雰囲気でもない。
それに人の交渉ごとに、全然無関係な人間も首をつっこみたがる傾向がある。物の値段をきいたりしていると、どこからかわらわらと人々が集まってきて、でしゃばりな人間が交渉に割って入り、こっちは交渉相手と直に話したいのに、話せなくなってしまったり。まあどこにいってもいろんな人がいるだろうが、ここはそういう傾向が強い。

相方御希望の絨毯屋へ行く。CAVERNE D'ALI BABAという、この町ではあらゆる意味で目立つ店だ。メディナがあるあたりからは少し離れているが、どこの町でも中心通りの名前になっているアビブ・ブルギバ通りに面した店である。
メディナ近辺にある店が庶民の店という感じならば、ここは、土産物屋の匂いをぷんぷんと漂わせている店だ。店に入ったとたん、カギを閉められた。店のオヤジは吉本の「ごめんくさ〜い」のおじさんに似ている、インチキくさい人を絵に描いたようなおっさんだ。

そうはいっても、今まで見た店のなかでは数や種類は一番の店だった。本物かどうかとか、質の善し悪しはわたしには全くわからないからぼわーっと見ていた。
相方は小さめのサイズのタピを言い値50TDのところを、小さめのサイズのタピ+つの笛二本+絵はがき二枚つけさせて50TDで購入。それでも彼はホクホクな表情だった。つの笛一本と絵はがき一枚はわたしの分。絵はがきはそれぞれ好きなものを選んだ。
二人揃って選んだのは、ウレド・スルタンという場所のクサールの絵はがきだった。シェニニの土産物屋でおまけにつけさせた絵はがきも二枚ともそこのものだったから、そこのクサールに行ってみたいね、ということになり、店のおっさんにそこへの行き方を聞いてみた。すると乗り合いフォルクスワーゲンがレストランメディナの前から出ているという。
行くにしても明日だから、今日は下調べということで行ってみる。

言われた場所に行って、そこらの人にきいてみると、またしても20TDとふっかけられる。ここでもまた人の交渉ごとに首をつっこまないと気が済まない人々がどんどん集まってきて、でしゃばりさんが「これは安いんだからおまえは払うべきなんだ」ということをつばをとばしながら大声でまくしたてる。だんだん早口になっていくと理解できなくなっていくし、こっちもだんだんイライラして「だからあなたの言ってることわかんないんだって!」と負けないくらいの大声になってしまって、はっと我にかえる。交渉決裂。

ウレド・スルタン行きのルアージュがあるのかないのかはナゾのままホテルに戻り、涼しくなるまで寝転がりながらだらだらおしゃべりをして、その後夕食。レストランを探すのが面倒で、ホテルのレストランにする。

オジャと、羊の煮込みをいただく。おいしい!とくにオジャは、辛口トマトソースにポーチドエッグが入った軽い一品で、ソースまでペロリのウマウマな一品だった。チュニジア料理でウマ物に初めて遭遇。食後は「心のオアシス」Cafe de Parisへ。ミルクを入れる機械が壊れていて、朝のようなおいしいカフェオレではなかった。
外のテーブルでコーヒーをすすり、辺りもすっかり暗くなり人通りもまばらになって、夜も更けて〜、という気分になって時計を見ると八時だった。ここの町では全くのミッドナイト。



●「クサ−ル巡り」

翌朝、心のオアシスCafe de Parisで、昨日と同じうずまきパンとカフェオレで朝メシ。昨日のカフェオレはまぐれだったのか、と思わせるような味だった。カフェがまずくても、和める場所だ。

TAXIPHONEという公衆電話屋からチュニスのアエロフロートの事務所にリコンファームを入れるがまったく繋がらない。昨日からずっとそうだ。どうにもならなそうなので航空券を購入したH.I.Sにファックスを入れて、リコンファームをたのむ。国際ファックスは7TDだった。高い。

TAXIPHONEというのは、公衆電話ボックスを少ないところで4個くらい、多いところで20個くらい配している店だ。店員は、客のお金を細かいお金に両替をしている。日本人が携帯で我を忘れて喋るように、チュニジア人はそこでおしゃべりしまくっている。

クサール・ウレド・スルタンにむかうルアージュを探す。HOTEL MEDINAの向い筋のレストランの前で聞くと、気難しそうだが実は世話好きなおじいが、発車するところまで連れていってくれて、交渉までしてくれる。往復で一人2TD。探せばあるものだ。
待ってて!と頼み、急いでホテルに戻り、チェックアウトして荷物を預けて、出発する。

タタウィンから周辺クサールの町に行くルアージュを探すためのポイントは、訊ねる相手を選ぶことだと思う。訊いた相手が、クサール行き乗り合いルアージュの運転手ドンピシャならば話は早いが、それ以外の一般のルアージュの運転手にきいてしまったら「乗り合いはないから20TDで貸し切れ」という話になって、関係のない人々がアリのように集まり、不毛な交渉になってしまう。
あと、そこら辺にたむろってるヒマそうな若い男なんかにきいたりしても一般ルアージュのところに連れていかれて20TDからの交渉が始まってしまう。ヒマだから他人の交渉で時間をつぶしたいのか、と聞きたくなるくらいだ。
ここで言う一般ルアージュと言うのは比較的大きな町に連結しているルアージュステーションから出るルアージュのことだ。タタウィンから周辺のクサールの町へ行く庶民の足のルアージュは、ルアージュステーションからはでていないから、ルアージュステーションで訊いても、全く無駄である。
聞いたらよさそうなタイプはどんな人かというと、ちょっと見た目では正解のタイプはわからない。わたしたちの正解の人たちは、"物知りじいさん"と"ぼるタイプではない店のおやじ"だった。


クサール・ウレド・スルタン
クサール・ウレド・スルタンは、そんなに遠くない。シェニニに行くのにくらべると半分くらいか。乗っけてくれたルアージュの運転手が、30分後にここを出発する、と、待ってくれることになりその間、見物。

ここは昨日行ったシェニニのように町として機能している場所ではなく、クサール(倉庫)が広場に面してぐるーーっと建っているところだ。かつては、この倉庫にはオリーブだとかダットが保管され、広場では祭りが行われていたそうだ。今は観光だけで、倉庫としての役目ははたしていない。広場の入口にカフェがあり、そこの御主人だけがここを守っているという感じだ。

ここのクサールには人が住んでいないからあらゆる穴をのぞける。
スターウォーズっぽい。実際ここでは撮影されてはいないが、タタウィンから近いここいらのクサールのいくつかで撮影されている。

いくつかの穴をのぞいていると、カフェの御主人が説明をしにきてくれた。彼に招かれた穴に入って、言われるままに上を見ると、ススで黒くなっている。1914に軍隊が来て、焼き払っていったあとだそうだ。

その頃チュニジアは戦渦ににあったのだろうか?ガイドブックをみるとその頃は、フランスの植民地支配下にあった時期のようだ。
反フランス・反植民地運動が高まり、自由立憲党が結成されたのが1920年だから、1878年から続いていたフランスの支配にいよいよもって耐えられなくなってきた時代だったんではないのか、と考えた。
しかし、フランスはチュニジアの中でも"よい土地"を自分たちの所有にしていったらしい。ここらへんは気候もきびしいし、海もないしオアシスもないリゾート的要素はなにもないところだ。あえてここに攻め入ってきたのは、やっぱりなんかあったのだろうか。もうすこし詳しく御主人にききたかったなあ。

ひとしきり見学が終わって、カフェに寄って甘いいちごジュースを飲む。チュニジアに入ったばかりのときは市販されているドリンク類の甘さに、さすがの甘党女のわたしでさえゲンナリしていたものだが、だんだんなれてきてこの甘味がまたウマイ、というような馴染み方を発揮しだす。


ごみだらけのKsar El Guedim
帰り道、ルアージュの運転手が別のクサールをみてみないか、ともちかけてきたので行ってみる。Ksar El Guedimというところだった。せっかくつれてきてもらったが、ゴミだらけの廃墟だった。ウレド・スルタンにくらべるとかなり広場は大きかった。


●「ガベス」

短い時間ながらかなり濃いクサ−ル見学を終えてタタウィンに戻ったのはまだ午前中だった。ルアージュステーションからガベス行きに乗り込んだ。

ガベスは港町で、砂っぽくない。
おなかがへってしまって、ガベスのルアージュステーションに着いてすぐ目の前にあるレストランで、Macaroniと魚のグリルを注文。マカロニは結局のところ辛いトマト味ののびたスパゲッティだった(見た目はナポリタン)。

ここで初めて、Bogaの黒をのむ。ボガとは、チュニジアでメジャーな炭酸飲料で、グリーンの瓶と、透明瓶に黒い色の液体が入ったものの二種類がある。巷で見かける率が高いのは、グリーンの普通ボガの方だ。
何の味だろう?黒だけれどコーラではないし、と頭をひねる。チョコレート風味の炭酸だ!おいしい!すっかりお気に入り。チュニジア人は普通ボガと黒ボガどちらの方が好きなのかというと、南へ行くほど黒ボガを好む傾向が強くなるらしい。

ここからのルートは、
駅で夜行列車のチケット購入→海→夜行列車に乗りチュニスだ。


漁師のいる光景


セルティアという名前

ガベスの海は砂が細かい。波打ち際を歩いても、足指の間から砂が出てこない。細かすぎる砂が水にぬれて、ぎゅーーっとかたい地面になっているみたいだ。海の色が非常に濃くて、広ーーく見える。波打ち際では漁師が4-5人で網を引いている。4-5人で大きな網を引いているにも関わらず、成果は乏しいものだったみたいだ。
今回の海でのテーマ曲は秘密の花園にして、二曲分歌いながらずーーっと歩いてみる。波打ち際におちていたのは、二枚貝の貝殻と、甲いかの甲だけで、巻貝はいない。カニ穴なんかもない。東南アジアでみる海岸の風景とはやっぱりちがう。

漁師がいるところに戻って、なぎさを見下ろせるバルコニーにあるカフェへ。さわやかな渚のバルコニーでながれるBGMは、もちろんアラブミュージックだ。
頼んだエスプレッソは、一生のなかでいままで飲んだどのエスプレッソよりも濃く苦かった。
砂糖を入れて飲んだら、底の砂糖汁部分にうまみをおぼえた。舌がチュニジア化しているのをどんどん自覚させられる。ただ、チュニジア化している味覚は、甘味部分だけだ。甘味というのは習慣性のものだから、帰ったあとがこわい。

海を見ながら夕焼けを待って駅へ戻る。途中のバーでチュニジアのビールを飲む。クセがなくて飲みやすい。夜行列車の出発が23:25だから、煮たり焼いたり炒めたりしてもあまるくらい時間はたっぷりある。

ガベスは今まで通ってきた町にくらべてかなりリッチに見える。その原因は、ここの湾内でとれる石油だ。リッチなようだが、活気があるところがあまり見受けられない。ここの町のミッドナイトも早くにやってきた。





CAVERNE D'ALI BABA  68, AVENUE HABIB BOURGUIBA - TATAOUINE  TEL:05.860.040

HOTEL MEDINA タクシーステーションのすぐ目の前。

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