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先生と交わした手紙

2006.07.22. 掲載
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はじめに

 
 
 

1921年3月29日 生
2006年7月18日 没 享年85歳

山本正二先生 1998年10月25日 77歳の写真


2006年7月19日午後、兵庫県南あわじ市賀集八幡にある「まるわ会館」で、故山本正二先生の葬儀が行なわれました。この方は父の従弟で、県立高校の校長や私立高校の校長を務め、退職後も、平家物語講座などの古典の講座を開き、85歳で亡くなる3ヶ月前まで、源氏物語講座を開講されていたとのことでした。

若い頃から大病を患い、私が知っているだけでも、1983年に肝臓の大手術を受け、肺気腫、肺結核などで入退院をくり返し、数年前から悪性リンパ腫という血液ガンとの闘病生活を送りながら、これらの文化講座を続けて来られたのでした。今回も、いつものように、また退院して源氏物語講座を続けてもらえるものと思っていたと、弔辞で述べられました。

郷里が生んだ優れた教育者、槌賀安平先生の功績を、世に広く知って頂く書籍の刊行を、4年前に先生が希求された時、周りの人は反対をしたと弔辞で述べられました。それは、頑健とは程遠い身体の上に、血液ガンに侵され、80歳を越える先生の健康を心配してのことなので、反対は当然だったと思います。

しかし、先生は自分の願いを貫き、文集「槌賀安平先生を偲んで」発刊実行委員会を組織し、14名の委員の協力を得て、昨年420ページの大冊として刊行されました。先生が私に贈って下さった書籍が、刊行間もないこの文集であったことを知り、深く感動しました。

山本先生は、私よりも15歳年長で、教育者として真摯に、そして誠実に生きて居られる姿をいつも拝見し、尊敬して参りました。これまでにも、病気に関することで手紙を交わしたことはありましたが、この文集を頂いて、その感想をお送りしてから、もっと大切なことについて、親しく手紙を交わすことができました。

84歳の先生と69歳の私の間で交わした手紙を紹介し、山本正二という、人生を真剣に生きた教育者の記録の一部を、Webに残します。


交わした手紙

手紙1.野村→山本 2005年2月11日


山本正二先生

2005年2月11日  野村 望


この度はお手紙と記念文集「槌賀安平先生を偲んで」をご恵贈下さりありがとうございました。

中略

次に、お送りいただいた「槌賀安平先生を偲んで」を拝読いたしました。感想を一言で表せば、「なんとすごい先生が日本にいらっしゃったのだなあ」です。研究と教育を一体化し、頑固なまでに、プラグマティズムを貫き通されたのは、誰にもとうてい真似のできない偉人だと感嘆致しました。

先生のご指示のページを中心に拝読いたしました。その中で、一番感動し、心に残ったのはP66の、「半年足らず教えていただいた先生が忘れられず」と書かれた、斎木亀治郎様の文でした。また、私が大学で教わった第二外科の久留勝教授のことがP62、P123に書かれてあり、医学概論の澤瀉久敬教授の文がP73、P87、P142にありました。澤瀉先生の講義を受けていた頃、私は生きる意味が気になり、澤瀉先生の影響も受けたように思います。もし、そうだとしたら、非常にわずかでも、槌賀先生の影響も受けていたことになるのかも分かりません。

槌賀先生が書かれた文では、第4部私の生命哲学の中の、「プラグマチズム(実用主義)と私」が、私には教えていただくことが多く、特にTHA MAN, HIS SON, AND HIS ASSの、A:教育思想の変遷、B:さまざまな教育学説(教育思想のスローガン)、C:教授法の多岐、戦後のわが国の教育には圧倒されました。

私もこどもの頃から実用を大切にしてきました。89年に医療関係者を対象に、パソコン通信の講習を行ったことがありますが、タイトルを「実用画像通信」としました。また、01年に画像の解像度を「実用解像度」の名前でまとめました。どちらもホームページに掲載しています。そのほかにも何度か「実用」の形容詞をつけてまとめたことがあり、実際に役立つこと、役立つ可能性があることに価値を置いてきました。

槌賀先生の業績が、このような立派な記念文集にまとめられ、槌賀先生はさぞお喜びのことと存じます。また、先生をはじめ、このご本の編集に関わられた皆様の大変なご努力に対して、深く尊敬申上げます。良いご本を頂戴し、ありがとうございました。

また、息子圭のことをお気にかけていて下さりありがとうございます。お陰さまで、圭は2003年5月に、同じ兵庫医大の後輩で眼科医の松浦千佳と結婚しました。父親は徳島で耳鼻咽喉科を開業しています。

圭が医師になった時に、10年後に医院を引継ぐことに決め、今年の4月から圭と院長を交代する予定でおりました。年末に病院を辞めてくるはずだったので、今年の年賀状に4月で交代すると書いたのですが、病院がなかなか辞めさせてくれず、6月15日くらいまで居て欲しいと言われているようなので、9月に交代することに変更いたしました。

私が開業したのが9月なので、ちょうど33年目から圭に交代ということになります。また、当院は医療法人で、会計年度が9月から始まるため、その点からも、9月はきりが良いと理屈をつけて、4月から9月に延期致しました。そのことを掲示板に掲載し、説明文を印刷して患者さんに自由にお持ち帰り頂いております。その説明文を同封いたします。

最後にお願いがあります。私は9年前から野村医院のホームページを開設していますが、そこに2002年に書いた「心に生きることば」というエッセイを載せています。その内の第3章:教育第4章:行動第9章:価値の部分を印刷しました。ご迷惑は重々承知ですが、先生にお読みいただければありがたく存じます。

寒さ厳しい折から、ご自愛のほど、お祈り申上げます。

<注釈>
「槌賀安平先生を偲んで」は、山本先生と同じ「賀集」出身の偉大な教育者槌賀安平先生の功績を、世に広く知って欲しいという先生の人生最後の願いから生まれた文集で、槌賀先生の論文、先輩諸氏からの先生を慕う文などを合わせて420頁の大冊でした。

山本先生は、刊行とほぼ同時に、この書籍を私に贈って下さり、目を通して欲しいページまで手紙に書かれていました。これまでは、いつも笑顔を浮かべ、気配りをされながら、冷静に話される方でしたが、この度の手紙には、この書物を読んで欲しいという強い思いが満ち溢れていました。

私は先生が指摘されたページはもちろん、その全部に目を通し、自分なりの読み方をして、その感想をお送りしたのがこの手紙です。

私にも、先生に読んでいただきたい文章がありましたが、高齢で病身、奥様を亡くされて独り身でいらっしゃる先生にお願いすることはできないことでした。しかし、この時の先生のお手紙を拝読し、ご迷惑は承知でお願いしようと決心し、「教育」「行動」「価値」についての私の考えをまとめたホームページ掲載文を印刷して同封しました。その内容は、「教育」「行動」「価値」として、リンクしておきます。

先生にはご迷惑をお掛けしましたが、この手紙がきっかけとなり、これまでよりも親しく深いお付き合いができるようになったことをありがたく思い、自分の幸運を感謝しています。


手紙2.山本→野村 2005年3月7日

拝復 待望してきた春の足音 漸く近づいて参りました
ご一家皆々様 お健やかにお過ごし 何よりとお慶び申上げます

先日来 たびたび お心のこもったご状拝受 ありがとうございました その中で「心に生きることば」ご恵送たまわってはや三週間余 すぐにもお礼状差し上げなければと思いつつ 一方二つの先約の小文にかかずらっている間に日がどんどん過ぎ去ってしまいました 加えて 私はこの三月二十九日がくれば満84歳 さらにいつお迎えがくるかも知れぬ病気を持ち 若い時のように睡眠を削って何かするということができなくなり つい おくれおくれしてすまぬことでありました ご寛恕くださいますよう

さて御文拝読させていただきました 細部まだまだ読み切れておりません そこのところは今後のことにさせていただきます

パソコンなど 今の私には手に負えません 甥から あれが使えると どんなにか仕事がはかどるのに と何度も言われ 私自身もそれはよくわかっているのですが 結局 己れの無能を恥じつつ 日を過ごしております

それはそれとして 今日はお礼の心をこめ 多少思ったところを 次に書かせていただきます

大勢の患者さんを前に 随分とお忙しい中 よくもこれだけ 多面的に 先覚者のことばも交えつつ 平素心にお思いのあれこれを 見事にまとめられたと 心から敬意を表します

そして そのどのおことばにも 望様のお人柄 お心がよく滲み出ており また私にとりましても うんうんそうだなと思い申上げるところ多く そんなでありますから 私も書き出せば 重なってきそうに思います

そんな中で 私も深く思ったところを二つにしぼって書かせていただきます

(1)「見て見て」第3章 08<褒める>
子供はだれでも 特に母親に真っ先に「見て見て」と言います 私も言いました そして その時母親から褒めてもらえれば 鬼の首を取ったようにうれしく またがんばろうという勇気が湧いてきます

ところでこの時かしこいお母さんは 多少子供に気になることがあっても それは他日のこととし 今日はにっこり笑って よかったねと褒め やる気を起させるものです

ですが 望様の場合はこれと違いました 「やっぱり兄ちゃんね」というお母様のおことばの中には 露もそんな飾りはありませんでした お小さい時から格別賢かったことは 野村の叔母様やいとこの皆様 また私の母からもよく聞かされておりました だからお母様は本心からそうおっしゃったのだし 望様も確信を持たれ 今も大事にされているのだと思います

それはそれでいいとして 一方奥様については「妻からはけなされることはあっても ほめられたことは滅多にない」とおっしゃっています

が「けなす」といったことは絶対になく「褒められたことは滅多にない」は当然のこと それが当たり前とさえ言えるかと思います 夫婦の仲のこと そこが母と幼い子の場合と違いましょう

賢い奥様はご夫君をそう安々とほめはしますまい 直接ほめたりしなくても内心拍手を送っているに違いなく また 実家に帰った時 お母様などにご自身のことのようにほめておっしゃっておられる つまり 夫婦は一体なのであります もし妻が内心でまで夫君を信じられなくなれば そこには夫婦の危機さえ生じかねません

以上のことは 十分ご承知なされていること 私などこんなこと申上げるのは 失礼この上ないこと お許しください

昨年末 心許される人々七人で食事を共にしました 男六人 女一人 その中には 妻を失った人が私を含めて三人もいたのが 驚きでした

ところでこの六人 妻が健在な時 台所に出入りした人は一人もいませんでした 「今のうちに 台所へ立っていなければ あとつらいぞ」と今妻なき三人は言いました

ひとしきり その話がはずみましたが その後「でもね 食事も大変だが 妻がいないことは もっと大変だということがあるんだよ」と言い出し 「今いちばんの問題は もの言う人 裸でものの言える人がいないこと 妻がおれば どんな愚痴でも聞いてもらえるし さらに 得意になりすぎている時は けなすのではなく それとなくたしなめてくれるし 落ち込んでいる時は 前に出て 支え励ましてくれる」としんみり言い出され 同感同感ということになり「奥さんを大事に」と言うのがその夜の結論となりました 第9章「価値」の中の「夕食」を拝読して ついこんなことを思いました

私は妻の生前 毎日妻が選んでくれた ワイシャツ ネクタイ 背広 靴を身に付けて家を出ていました 仮に 夫がネクタイを自分で選ぶととしても その選ぶもとにある五つ六つのネクタイは 世の奥様が 平素の夫の好みを頭に置き 選んでくれている中から手に取るのであって「所詮 男は奥様の掌の中で動いているようなもの」と常々愚考しておりました

今私は それをすべて自分独りでしなければならない 苦笑狼狽する毎日です
そして 望様ご一家に幸福な夕食がいつまでも続くよう 心からお祈りするばかりです

(2)「正攻法で行く」
このおことば 私も好きです 私もそうありたいと願ってきました このおことばから 望様は 手紙類 診療データの保存といった諸資料を大切にすることをはじめ 「失敗」「過ち」「反省」などを誠実に処理し それが第9章「価値」の中で曲直部壽夫先生のお心を動かし 「一筋の道....」のおことばとなり ご家庭にあっては「幸福」に辿りつかれたのだと思います

まだ書きたいこと 残っている思いがしますが 心やすくこれだけ書かせていただいただけでもおこがましく 失礼に存じております すべてに 田舎の年寄りの言うこととお笑いくださって お読み捨てくださいますよう

中略

圭様 りっぱなお医者様になられ どんなにうれしい御事とおよろこび申上げています
ご一家揃っておしあわせにと 重ね重ねてお祈り申上げています
ご挨拶おくれ 失礼な文 お許しください
くれぐれもお大切に

 三月七日

山本正二

野村 望様
 ご一同様

<注釈>
この手紙は、私が読んでいただきたいと同封した文章に対する先生のご感想です。この時先生は、念願の文集を刊行されたばかりで、猛烈にお忙しい時期だったはずです。また、84歳という高齢、最愛の妻を亡くされたばかり、悪性リンパ腫という血液ガンに侵され、治療中という条件の中で、お返事をいただいたのでした。端正な肉筆で書かれたこのお手紙を拝見し、申し訳ない気持で一杯になりました。

先生にはご迷惑をお掛けしましたが、それでも、私はこれで良かったと思っています。先生も人生の終りを意識しておられただろうし、私は71歳までに死ぬと思って生きてきましたので、もし、このことがなければ、読んで欲しい人に読んでもらえず、この世を去ることになるところでした。

私はこの時知りました、読んで欲しい人に読んでもらうことが何よりも大事な場合があるということを。返事をもらうことは問題ではなく、まして、それを理解してもらうことなど、どちらでもよいことだということを覚りました。


手紙3.野村→山本 2005年3月10日

山本正二先生

2005年3月10日 野村 望


漸く春らしくなり、昨日から花粉症の患者さんが急増していますが、インフルエンザもまだ頑固に居座っていて、少々持て余し気味です。これほど遅い時期に始まり、長期戦となったインフルエンザを医師になってこれまで経験したことがありません。

この度は、ご病気でありながら忙しくお過ごしの先生に、私の自己満足的な雑文をお送りして、それをお読みいただき、まことに申し訳ございません。それにも関わらず、ありがたいご感想を頂戴し、心から感謝申上げます。「心に生きることば」は、親戚の中では誰よりも先生にお読みいただきたく思って参りました。それが叶えられ幸せに思っております。

私の生きる目標は悔い少なく死にたいということで、それは少なくとも30歳のころから思ってきたことでした。死ぬ時にしたいことの8割くらいをやり終えていたら大満足、最低限6割が合格点、それができなければ悔いると思ってきたのです。還暦を越えたころから、したいことの中で、これだけは何が何でもしておきたいと思うことが3つ出てきました。

その一つが、1000曲の歌のデータベースを作り、メロディーから歌の検索ができるようにすること、二つ目は、私が生まれてから還暦までの60年間の自分史を、その時々に聞いてきた思い出のある500曲あまりの歌と関連付けて書くことでした。それぞれを書き上げ、野村医院のホームページに掲載し、CDにも焼き付けて電子出版もしました。そして、最後が「心に生きることば」でした。これを書いておかなければ、死ぬに死ねないと必死になって書きました。これを書き終えた時、これで何とか最低合格点はとることができたと、ほっとしたことを覚えています。

私は少なくとも30歳ころから、死を強く意識して生きてきました。11歳の時の妹の突然の死、29歳での母の死、どちらも私の心に強烈な影響を残しました。35歳で無二の親友の自死に遭い、それからは、次々と医学部の友人や同級生が亡くなり、解剖実習を一緒にした6名中3名が、また、ともに臨床実習をした5人中3人が亡くなり、一昨年で卒業生80名中16名が鬼籍に入っています。

その一昨年には、友人の一人が心筋梗塞で3日後に死亡、お互いの結婚披露宴の司会をした親友が大動脈破裂のため数時間で死亡しました。そう言うわけで、私も古希を済ませたころが寿命ではないかと思って生きて参りました。それまでに、したいことをできるだけ多く、できれば80%くらいまでしておきたいと思っております。

古希を過ぎて、まだ生きることを許されるなら、それはおまけの人生、できなかったしたいことをしてもよし、しなくてもよし、その時になって新しく出てきたしたいことをしてもよし、しなくてもよしと思っております。

最後に妻のことを優しく弁護して下さりありがとうございました。「心に生きることば」の第1章 人間のところに<結婚><夫婦><子供>という項目があり、ここに、私たち夫婦と親子のことを書いています。お目を通していただきたい文章が増えて恐縮ですが、その部分のみ抜粋して同封いたしますことをお許し下さい。ご感想など、どうかお書き下さらないように切にお願い申上げます。

季節の変わり目ゆえ、どうかご自愛下さい

とりいそぎ、お礼まで

<注釈>
山本先生は私にだけでなく、妻や母のことを、いつも好意的に解釈して下さる方でした。だから、私が母と比較して、妻を悪く書いていると思われたのでしょう。強く妻を弁護し、私を諌められました。そのお気持に感謝しながら、どうかご心配下さいませぬようにと、<結婚><夫婦><子供>についての、私の気持を知っていただく文章をお送りしたのでした。


手紙4.山本→野村 2005年10月吉日

野村 望様
  経子様

獅子は子を の思いを持ちて 病院のすべてを譲り
君出でて行く

長い間 ご苦労様でした でも地域の方々に頼られ
圭様というりっぱな後継者に恵まれ 人生の成功者として
後顧の憂いなく 居までも移された深いお心をつくづくと思います

あとは同封の圭様ご夫妻に差し上げたお手紙の中に
書かせていただいたとおりですので ご一読ください

どうか 望様 圭様ご夫妻 いよいよおしあわせに とお祈り
申上げるばかりであります

なお 同封のもの ほんのわずかですが 私の心ばかりのもの
花など求めて しばしの間でもお飾りいただけますならば
うれしく存じます
 (勿論 申上げるまでもなく
 望様ご夫妻には 今は亡き家内も 私もたくさんの
 ご好意 ご指導をいただき 深く感謝申上げ
 微意を捧げました次第でありますので 失礼な申上げながら
 一切のご懸念のなきよう 失礼の極みながら申し添えさせて
 いただきます)

またいつかお会いできる日をお待ち申上げつつ

くれぐれもお大切に

 平成17年10月吉日

                     山本 正二 拝


野村 圭様
  御奥様

  父母が 作り上げたる病院の すべてを若き君が
  引継ぐ

 めでたくご両親様の後を引継がれ 医院を継続される

 心からお祝い申上げます

 ご両親様が その一切をお二人に譲り大阪市へ あとは
 お二人に任すとのお心は 今の世の いつまでも子離れせぬ
 親たちによって かえって自立できないでいる若者たちを
 思い 心から敬意を捧げます

 が 一方から言いますならば ご両親様が 圭様お二人の
 資質 力量 気力の一切を観 それが十分に備わり りっぱに
 やっていってくださると思われたからの御事であり 私も
 お二人がそれに十分こたえられる方と信じ 私は右の歌の中で
 「若き君」という語でそれをあらわしてみたつもりであります

 さりながら 人命をあずかるお医者様の道は嶮しく 今後
 たくさんのご苦労も出てくることと存じます
 が その苦労は ご両親様をはじめ 真剣に生きた方々の
 歩んだ道でもあります

 ここで私は 釈迢空(折口信夫)の有名な歌を挙げさせて
 いただきます(お二人ともすでによくご承知の歌と思います)

  葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を
  行きし人あり

 努力する者にこそ この歌は生きてくる 私も常に口ずさんで
 いる歌 お二人もきっと同感くださることと存じます

 どうぞお二人も苦難を共にし その苦難に耐え りっぱに
 乗り越えていってくださいますよう 切に将来のご活躍と
 ご多幸をお祈り申上げつつ お大切に

  平成十七年十月吉日
                         山本正二

<注釈>
昨年10月に入って、医院を息子夫婦に引継ぎ、私たち夫婦は大阪市内に転居した旨の通知を、年賀状を差し上げている方々にお送りしました。これは、その転居通知に対する山本先生からのお手紙で、一通は私たち夫婦に、もう一通は息子夫婦宛のものでした。

これが山本先生の最後の手紙となりました。私たちに対する変わりないご厚情に、深く感謝するばかりでした。


手紙5.野村→山本 2005年10月27日

山本正二先生

漸く秋らしくなって参りました。先生にはご健勝のご様子、何よりとおよろこび申上げます。

さて、この度は私ども医院の院長交代に対しまして、過分なお祝いを頂戴した上、ありがたいおことばを賜り、心からお礼申上げます。息子夫婦には釈迢空の「葛の花」をもとにして、開業医師の生き方をお教え下さりありがとうございました。

息子夫婦には私たちと違う運命があり、同じ道を歩むことはないと思いますが、医療に全力投球できる資質は持っているように思います。二人は、私たちと違ったやり方で、私たち以上に患者さん思いの医師になると確信しています。

私はなりたくて医師になったのではなく、病身の両親に懇願されて医学部を受験したのでした。もちろん、入学してからは医師という職業に魅力を感じるようになりましたが、私にとって「医師」はしなければならないこと、義務であり、自分が恥ずかしくないようにそれを果たそうと生きてきました。そして、何とか80%は果たせたのではないかと今は思っております。

それに対して息子は、親が勧めたのではなく、自分から望んで医師になりました。息子の診療を見ていると、こいつは医師という仕事が本当に好きなんだなと思います。しなければならないと思っている者と、したいと思っている者とでは医師としての違いは出てきて当然でしょう。そのどちらにも良いところと悪いところがあると思いますが、これはどうしようもないこと、それぞれが、自分の与えられた人生を精一杯に生き、医療に努めたら良いのではないかと思っております。

いつも私たちのことにお気遣いいただき、ただ感謝あるのみです。

季節の変わり目ゆえ、どうかくれぐれもご自愛下さい。

取り急ぎお礼まで
                      2005年10月27日 

野村 望、経子 

<注釈>
これが山本先生に差し上げた最後の手紙となりました。しかし、申上げるべきほどのことは申上げた気持でおります。


悼詞

山本先生

先生の優しい笑顔、背筋を正し、いたわり深く話されるお姿、自然と醸し出される凛とした雰囲気にもう接することができず寂しいです。しかし、それが生きとし生きるもののさだめ、致し方ないと思っております。そして、その寂しさよりも、教育者として、また一人の人間として、与えられた命を真剣に精一杯生きてこられたお姿を垣間見ることができた幸せを思います。

もし、この世に神があるとすれば、先生は神の祝福を受けるに値する方だと思います。生を与えられた者にとって、その生を最大限に生かすことこそ、あらゆる価値の根本になると考えられるからです。

先生はまじめ過ぎるほどまじめな方でした。私たちが求める類の享楽には、無縁の方のように思えました。しかし、それだから先生を尊敬するのではありません。さまざまな苦難に打ち克ち、他人の生き方を尊重しながら、自分が進むべきと考えられた道を全力で進まれ、人間の素晴らしさ、人間の可能性の大きさを教えて下さったことを尊敬し感謝申上げます。

文集「槌賀安平先生を偲んで」がきっかけとなり、人生の最後において、先生と親しく手紙を交わすことができた幸運に感謝しています。

私も、近い将来この世を去ります。その時、先生と同じように自分の人生を肯定し、満ち足りた気持で幕が降りるのを見届けたいと思っております。

ありがとうございました。さようなら。

2006年7月22日 野村 望


<2006.7.22.>

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