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2011.10.18. 掲載
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目次
1.はじめに
2.鹿児島
3.熊本
4.福岡
5.まとめ
九州旅行をしたいと思った一番の理由は、今年の3月に鹿児島まで新幹線が開通したことだが、44年前に九州へ新婚旅行で行ったことへの郷愁もあった。また、高校の修学旅行で感激した熊本城をもう一度見たいとか、一度も訪れたことがない福岡を知りたい、帰る途中で宮島の厳島神社を見ることができれば儲けものだという気持ちもあった。(図1)
いつも利用するJTBへ行き、条件を言ったところ、1時間ばかりで、新幹線からホテル、ローカル線まで、希望に叶うものを見つけてくれた。海外、国内旅行を問わず、これほど早く旅行日程が決まったことはこれまでにない。そのことで、すっかり気分が良くなり、俄然この旅が楽しみとなった。
海外旅行 では場所の選択、その場所の資料の収集などに努めるが、今回の国内旅行でも、それに近い作業を行い、旅行の具体的な行程を決めた。この作業は、私にとって、旅の楽しみの一つである。
新大阪駅から鹿児島中央駅までを、九州新幹線「さくら」で、乗り換え無しで行けるのだから、44年前とは隔世の感がある。昭和42年(1967年)に私たちは結婚し、神戸から別府航路で1泊して別府に着き、そこから国鉄で宮崎と指宿に行き、それぞれで1泊をして、鹿児島から伊丹まで飛行機で戻ったのだった。
初めて乗る飛行機に、心配性の妻は非常に怖がったが、義母は「飛行機が墜落しても、二人で一緒に死ねるのだから、良いじゃない」と、まったく問題にしなかったのを覚えている。その義母は、新婚旅行から帰ってきた私たちに、「二人がいて、黙っていても良いのは夫婦だけ」と教えてくれた。
鹿児島市では城山に上り、桜島を望見したが、かすんで見える。煙霧だそうで、今春は桜島が見えなくなるほどだったらしい。煙霧とは、大気中のごみや火山灰といった微粒子の影響で、遠くの景色がかすんで見える現象を言う。(図2、図3、図5)
鹿児島市内に桜島からの火山灰が積もる。宅地内に積もった降灰を袋詰めにして出すと、市が巡回して収集する。その布袋の塊をあちこちで目にした。鹿児島のシンボルである桜島は、市民の生活にかなりの不便を強いているようだ。
西郷隆盛の銅像、西郷隆盛の洞窟、西南戦争の銃弾痕が無数に残る鶴丸城跡なども見た。勝海舟の詠んだ歌「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし 君かな」に涙がにじんだ。
日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、鹿児島に上陸し、10ヶ月を鹿児島で過ごした後、平戸へ移ったことも初めて知った。東千石町にあるザビエル公園にその滞在記念堂がある。(図2、図4)
九州新幹線の全線開業とともに、指宿枕崎線に導入された観光特急列車「指宿のたまて箱」(通称いぶたま)号は人気があり、満席になることが多いらしい。
指宿市の長崎鼻に浦島太郎伝説の竜宮神社がある。「指宿のたまて箱」号は、玉手箱を開けると煙が出て、浦島太郎の頭が黒髪から白髪に変わったことをイメージしているようだ。車両の海側半分が白色、山側半分が黒色で、乗車すると、ドアの上から白い煙のようなものが盛んに出てくる。この特急列車は鹿児島中央駅と指宿駅の間を走る。(図5、図6、図7)
指宿へは44年前に新婚旅行で来た。ここには世界で例のない天然砂むし温泉がある。宿泊した「指宿いわさきホテル」には、敷地内に砂むし温泉があり、ホテルから出て行かずに済んだ。そのほか、鹿児島湾を見通せる眺望の良い大浴場や露天風呂などもあり、温泉嫌いの妻もこのホテルの温泉を気に入っていた。(図5、図8、図9、図10)
このホテルの庭園は途方もなく広く、敷地内に美術館や工芸館がある。そこには、優れた美術品や工芸品が展示されていて、正直驚いた。美術館では鹿児島出身の黒田清輝、和田英作、海老原喜之助、藤島武二、東郷青児などの作品の他、内外の画家の作品が多数展示されている。(図11、図12)
工芸館ではパプア・ニューギニアの民族美術に圧倒された。ピカソやマチスが、アフリカやオセアニアの民族美術に大きな影響を受けたと言うことが良く分かる。同時に、民族は固有の美的センスを持っているという仮説を思いついた。日本民族の美的センスは「シンプル」ではないかと思うが、単に私の好みに過ぎないのかもしれない。
薩摩半島の最南端に長崎鼻がある。ここから眺める開聞岳は素晴らしく、薩摩富士と称されるのにふさわしい。日本各地に○○富士と呼ばれる山はたくさんあるが、これほど富士山に似ている山は少ないのではなかろうか?(図13、図15、図17、図18)
長崎鼻には龍宮神社がある。このあたりは、浦島太郎伝説地の一つとされ、付近の海岸には海ガメが産卵に上陸する砂浜もある。指宿たまて箱号はこの伝説にあやかったのだろう。晴れていればここから屋久島が見えるそうだが、曇のためそれは叶わなかった。(図13、図14、図16、図17)
高校3年の修学旅行で、別府、雲仙、熊本、阿蘇などに行ったが、その中で熊本城の美しさが最も印象に残っていて、もう一度見てみたい、自分の納得のいく映像で記録したいと強く思った。今回の旅行の一番の目的が熊本城を見ることだったような気がする。(図19、図20)
1954年に見た熊本城は、西南戦争で焼けずに残った「宇土櫓(うとやぐら)」で、現在の天守閣は1960年に再建されたものであることを知った。そのため、加藤清正が1610年ごろに建てた宇土櫓と新しい天守閣の両方に登り、外観とともに内部も比較することができた。(図19、図20、図22、図23、図24、図25、図26、図27、図28、図29、図30)
その感想を言えば、私の好きな城は宇土櫓である。天守閣には新しいという美しさがあり、外観の形も良い。しかし、反り返った屋根よりも宇土櫓の直線の屋根の方を私は好む。このような屋根の城を私は知らない。念のため日本の城一覧 - Wikipediaで調べてみたが、直線の屋根の城は見つからなかった。修学旅行で美しいと感じた直線の屋根を、57年が過ぎた今も美しいと感じる。
内部の差は歴然としている。天守閣のコンクリートの廊下や階段は土足で歩け、展示には便利だが、それだけのもの。昔を偲ぶことができるのは展示物だけである。それに対して宇土櫓は、靴をビニール袋に入れて持ち歩かなければならないが、廊下も急勾配の階段も木製で、400年の歴史を実感できる。熊本城に来てほんとうに良かったと思った。
城を出て、加藤清正の銅像がある行幸坂のたもとから、坪井川沿いに熊本市役所正面まで続く長塀通りを歩き、ホテルに戻った。対岸にある熊本城の240mの長塀はライトアップされている。あちこちにベンチが置かれ、アベックが睦まじい。長塀の黒と白のコントラストを美しいと思った。(図31)
熊本もホテルに恵まれた。お城に近いホテルを希望してJTBに選んでもらったのが、熊本キャッスルホテルだった。ここは天守閣の東面に向き合っている。しかも、715号室はその中で一番お城に近いのだから嬉しくなってしまった。(図32、図33、図34)
熊本では水前寺公園も訪れたが、兼六園や栗林公園などとは違ってこじんまりした庭園で格別の印象はない。ただ、池の水の透明度が非常に高いのに驚き、魅せられた。それは阿蘇山の伏流水が絶えずわき出ているからで、熊本市の上水道はすべて地下水であると聞いた。(図35、図36)
福岡の街を見たいのにはいろいろ理由がある。医師になった年に、私が鼻歌でホワイトクリスマスを唱っていると、その歌詞をスラスラと紙に書いた福岡出身のナースがいた。
また、私の好きだった歌手、たとえば、梓みちよ、小柳ルミ子、中尾ミエ、山本リンダ、藤井フミヤなどが福岡出身である。
最後の理由は、父が九州帝国大学法文学部心理学科を卒業しているからだ。最近、孫に関連してホモ・ファーベルという小文を載せたが、小学4年のこどもに、このようなわけの分からない術語を使って工作を止めさせようとする親だったことを今は面白く思う。
ホテルはJR博多駅に近く、また。地下鉄博多駅にも近い。市内観光は地下鉄の「1日乗車券」を専ら利用したが、便利で費用も最低で済ませることができた。
私は小学6年のころから父に逆らって生きてきた。父が九大の心理学科を出ていることは知っていたが、心理学を学んだくせに、人の心理が分からないと半ば軽蔑していたような気がする。父が亡くなった年齢より4年も長く生きていることになる最近になって、父のことを知りたく思うようになってきた。
今回の旅行で福岡を訪れる目的の一つが、80年ばかり昔に父が心理学を学んだ大学を見ることだった。Web検索で調べると、明治44年に建てられたレンガ造りの正門がそのまま残っている。正門の後ろには、旧法文学部の本館もあることが分かった。(図39、図40)
ここを訪れ、帝国大学の中で4番目に作られた九州帝国大学には、それなりの風格があると感じた。若き日に、くそまじめな顔をして、ここに通っていた父を想像するのは面白かった。
知らない土地で高い塔があると、登りたくなるのは私たち夫婦の習性。九大を見たあと、まずここ福岡タワーを訪れた。福岡市早良区にある電波塔で、高さは234mあり、日本で1番高い海浜タワーである。(図41、図42)
ここの展望台から東側に福岡市内が眺望できる。ヤフードームがすぐ近くにあり、遠くには大濠公園が目につく。北側には博多湾があり、元寇はここに攻め込んで来たことを思った。(図43、図44)
地下鉄「天神駅」で下車すると豪華な地下街「天神地下街(愛称テンチカ)」に連なる。ここは地上の「渡辺通」の直下にあり、地下鉄「天神南駅」まで続いている。この地下街は「三宮地下街(サンチカ)のように直線だが、傾斜はなく、東西に平行する2本の地下街から成り立っている。オシャレで、水曜日の夕方であるのに人通りは多い。梅田の地下街ような迷路ではなく、単純明快、初めて歩くものも迷うことはない。まず、ここで福岡が巨大な繁華街であることを知った。(図45、図46)
「国体道路」の下(地下鉄「天神南駅」付近)で地上に出て、「渡辺通」を北に向かって歩いた。「渡辺通」両側には西に「三越」、東に「大丸」が向き合って並び立っている。どちらのデパートも底面積が巨大で、これほど大きい百貨店を他には知らない。ディスプレイは大丸の方が高級感があり、三越の方が大衆的であると思った。これで福岡が巨大型繁華街であることを駄目押しされた思いだった。(図45、図47)
この地区ではないが、JR博多駅には九州新幹線開業とともに生まれ変わった国内最大級駅ビル「JR博多シティー」があり、ここに阪急百貨店と「アミュプラザ博多」が入っている。福岡は巨大型繁華街だ。
福岡で一番人通りが多いと言われる「きらめき通り」も歩いてみた。名前に見覚えのある岩田屋が道の両側にある歩行者中心の通りで、このような通りなら大阪にも神戸にもたくさんある。(図48)
福岡と博多の違いがもう一つ飲み込めないでいたが、今回の旅行でそれは氷解した。この「福博であい橋」が福岡と博多の区別を明快に説明している。
もともとは博多と呼ばれていた土地だったが、1600年に黒田長政が先祖の地であった備前(岡山)福岡にあやかって、城下町の名前を福岡とした。それ以来、中洲を流れる那珂川(なかがわ)を境に東を博多、西を福岡と呼ぶようになった。
1890年に新市名を福岡市か博多市にするかを決める際、1票差で「福岡市」に決定したが、その代わりに開通したばかりの鉄道の駅名を「博多駅」としたと聞く。
「福博であい橋」は那珂川をまたいで博多区中洲と、中央区西中洲とを結ぶ、全長78.2メートルの橋である。武士のまち「福岡」と商人のまち「博多」が出会う場所として「福博であい橋」と命名された。(図45、図49)
橋の途中にあるパラソルは、福岡の民謡「黒田節」の世界をイメージした逆さの酒杯と槍をデザイン化したものである。(図50)
福岡の食文化の代表と旅行案内で喧伝されている天神屋台で夕食を摂ろうかと思って訪れて見たが、とうてい食べる気にはなれなかった。天神地区の巨大繁華街とは正反対のイメージである。これをふところの深い文化と考えるべきなのだろうか?(図52)
キャナルシティー博多は福岡市博多区にあり、運河(キャナル)を取り囲むように、ホテル、劇場、映画館、ショップ、レストラン、専門店、ショールームなどが寄り集まった複合商業施設で、1996年にオープンした。日々行われるショーやイベントの他、ショッピング、レジャー、グルメなど、ここに来れば退屈することがないと書かれている。(図53)
天神屋台で夕食を摂ることができなかったので、ここでピッツアとスパゲッティを食べたが、結構美味しかった。それまではホテルのフルコースや中華料理だったので、余計に美味しく感じたのかも分からない。これでもって九州の旅はすべて終了した。
1.新幹線3種座席
往路は九州新幹線「さくら」に乗車、新大阪駅から鹿児島中央駅まで直通だった。この指定席は2X2の4列で、グリーン車に劣らぬゆったりさが快適だった。
帰路は九州新幹線「つばめ」に乗車、熊本駅で途中下車、博多駅で下車した。この指定席も2X2の4列だったが、その他にも座席に木材が使われ、ブラインドにも木の簾が使われ、テーブルは航空機のようにアームレストに内蔵されている。シンプルで新鮮な車両に満足し快適であった。(図37)
帰路の博多駅から広島駅、広島駅から新大阪駅までの新幹線の座席は、これまで通りの3X2の5列で、やはり窮屈に感じた。
2.今回の旅行について
思いつきでJTBを訪れ、1時間ばかりの間に列車とホテルを決定するという、これまでにない早技だった。
しかし、そのあとの旅行計画は、海外旅行の場合のようにじっくりと調べ検討することができた。
現地では、予定以外の観光が加わり、天候にも恵まれ、予定していた以上の成果が得られた。
国内旅行は団体ツアーよりも個人旅行の方が思うような旅ができて楽しいのではないかと思う。
3.今回の九州旅行のオマケ
広島で途中下車し、宮島の厳島神社を訪れたのだが、これも予想していた以上に満足した。オマケを厳島神社のタイトルで掲載している。
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