ホーム > サイトマップ > 旅行 > ヨーロッパ > エーゲ海クルーズ > クサダシ(トルコ)


エーゲ海クルーズ

クサダシ(トルコ)


2001.09.01. 掲載
このページの最後へ

朝5時に目を覚まして窓の外を見ると、もうトルコのクサダシ港に接岸している。今日は7時にヘラ・デッキの「ディスコ」に集合して上陸の順番を待つことになっている。その上、デジカメが戻ってきた報告を添乗員にして、届けてくれた少年たちを探してもらうため、朝食を早く済ませることにした。ビュッフェもダイニング・ルームも5時45分から開いている。

ビュッフェは開いていない!

早く食事を済ませるにはもちろんビュッフェがよい。そこで5時45分にビュッフェのあるデッキに出てみると、まだ乗組員は準備をしているのだ。急いでいるので待たずにダイニング・ルームへ直行した。ここではボーイがメニューを持ってきて、ゆっくりオーダーを聞く。私よりも何倍もセッカチな妻は「I'm busy, hurry hurry 」と口走り、イライラのしつづけ。とうとう待ちきれず、しびれを切らして出て行こうとしたら料理が運ばれてきた。まわりの人たちはただ呆気にとられている。

ここでツアーの誰にも出会わなかったのはおかしいと思いながら大急ぎでダイニング・ルームを出ると、人の流れは反対側に向かっていた。それを見た瞬間、シマッタ!デッキを間違えた!と気がついた。昨日は昼も夜もダイニング・ルームで食事をしてデジカメ騒動などもあり、ビュッフェの場所を確かめていなかった。ヘラ・デッキの「ディスコ」の奥に外デッキがあり、ビュッフェはそこだと思いこんでいたのである。なさけない!(ドジ#5)

外国少年のことは何も分からなかった

添乗員に昨夜の報告をすると喜んでくれた。その少年たちにお礼をしたくて、キャビン・ナンバーを調べてもらったが、事務所でも分からないと言う。しかたなく、自分で見つけることにした。少しニキビのある少年は小学6年生から中学1年くらいだった。会えば分かる。

私は乗客800人の中からでも彼らを見つけ出せるような気がしていた。そこで、少年たちに出会った時すぐ手渡せるように手紙を書き、その中に紙幣を入れておくことにした。この船にはホテルのような便箋はなく、下船までの時間も間近に迫っている。一瞬困ったが、すぐに「ギリシャ・エーゲ海 光と風の旅」という本の表紙の次のページを使うことを思いつき、カッター・ナイフで切り取った。即製の便箋は厚手の上質な白い紙で、ホテルに備え付けてある便箋より良い。その紙に以下の文を書いた。

   Dear Boy
   I'm very happy and thank for you to find my lost digital camera.
   Thank you, sincealy.
                 Aug 14,2001
                 Cabin No:D65  Nozomu Nomura

紙幣をこの手紙の上に置き、折り曲げて簡易封筒のようにして、持参した両面テープで閉じると見栄えの良いものができた。これを以後必ず携行することにした。

朝のクサダシ港

クサダシはアテネの東約300kmの位置にあるトルコの港町で、現地ガイドの話では、エーゲ海地方最大のリゾート地ということだ。ここからバスで北東へ30分ほど走ったところに、目ざす「エフェソス遺跡」がある。

7時からグループごとに順次下船して行く。この時、乗船パスと下船タグは必ず携行しなければならない。トルコの景色がギリシャとかなり違うことはすぐに分かった。山に緑が多く、家の壁が白いのは同じでも、形が違い、こちらは四角い中層のビルが多くて、低層建物のギリシャとは明らかに違う。


48)埠頭で写真を撮る外国の女性 by KENZO

エフェソス

「KUSADASI Where?」「EPHESUS Where?」と言うのが普通の人の感覚だろう。私たちも旅行前はどちらも耳にしたことのない地名だった。ところが、実際に見たエフェソスは広大で、神殿、図書館、劇場、公衆浴場、公衆トイレ、市民の家、完備した上下水道などがあり、当時の人々の豊かな生活を感じることができた。

今回の旅行で見たアテネのアクロポリスとか、クレタ島のクノッソス宮殿跡、昔行ったローマ市内の遺跡、ポンペイの遺跡と比べても、ここが一番保存状態が良いように感じられる。

エフェソスはBC6世紀に輝かしい時代を迎え、その後、ギリシャ人、マケドニア人、エジプト人、シリア人、そしてローマ人と街の主人は移り変り、ローマの時代に最盛期を迎えたが、AD262年にゴート族に襲撃されてからは二度と昔の栄華を取り戻すことはなかったという。


49)エフェソス遺跡前で添乗員さんと一緒に by KENZO

添乗員のことは何回か書いたが、ギリシャの現地ガイドのことに触れていないのに気がついた。この方もまた非常に素晴らしいガイドだったし、私たちとうまが合って、ダイニング・ルームでの夕食は何時も同じ席をとり、ボケとツッコミの応酬で笑い転げることが多かった。

彼女は三重県は尾鷲の出身、ギリシャ人と結婚して18年になり、二人の子どもがいる。顔に似合わず、説明はアカデミック、知識がおどろくほど豊富で、説明を聞くのが楽しかった。その中でも、このエフェソス遺跡にある豪勢な住居跡のところで聞いた話にはうなってしまった。

その住居はAD2世紀ころのもので、モザイクタイルを敷きつめたエントランスにも、その住人の権勢が想像できるのだが、その頃ローマは衰退期でワイロが横行し、人々の心は荒み、苦しんでいた。そういう状況にあったから、弾圧に耐えて清純に生きるキリスト教徒たちの姿は当時の人々の心を掴んだのだ。時代と文明の地ギリシャとキリスト教の三つが重なるという偶然が、欧米にこれほどキリスト教を広めた。そのいずれが欠けてもキリスト教の隆盛はなかっただろうという説明は私には非常に説得力があった。


50)ギリシャトルコの現地ガイド by KENZO


51)勝利の女神ニケのレリーフの横で by KENZO

水洗式公衆トイレ


52)トラヤヌスの泉、AD2世紀


53)ハドリアヌスの神殿、AD2世紀 by KENZO


54)水洗式公衆トイレ、紙をあげようか?の声あり

セルスス図書館


55)セルスス図書館前の広場 by KENZO


56)BC135年に建てられたセルスス図書館

大理石通り

セルスス図書館と大劇場をつなぐ道を「大理石通り」という。AD5世紀に大理石で舗装されたこの通りは、中央が魚の背のように少し高くなっていて、いい保存状態を保つ要因になっているとのことだ。


57)大理石通り


58)大理石通りに転がっていた円柱

大劇場

エフェソスの中で最も保存状態の良い遺跡で、BC3世紀に建設された。24000人を収容できる巨大な劇場で、観客席は高さ38m、直径158mの半円になっている。


59)大劇場、BC3世紀に建設された

港通り(ハーバー・ストリート)

幅11メートル、大理石で舗装されたこの道の500m先には、かつて海が開けていた。両脇には列柱と彫像が並び、夜にはロウソクがともされた。船でエフェソスを訪れた者は、まずこの道を通って街へ向かう。するとその先に巨大な劇場が姿を現し、異国の人たちはエフェソスの力を思い知らされたのだと言う。私たちの見学は逆の道をたどったので、ここエフェソスの玄関口が一番最後の場所となってしまった。


60)昔の港から大劇場まで続く広い港通り

トルコの陶器店

遺跡見学を終えて船に戻る途中で、バスはトルコの陶器を製造販売している店に立ち寄った。リンゴ茶をいただいてから陳列している陶器を眺めるのだが、どうも私の趣味に合わない。それでも一つくらいは気に入る物があるかもしれないと滞留時間の30分一杯をかけて見て回ったが、結局見つからなかった。もちろん、これは好みの問題であって、トルコの陶器がどうだというものではないのだが、、、

それと比べるとギリシャの土産店では気に入ったものがたくさんあった。トルコでもう一つ合わなかったのは大勢の物売りが私たちにつきまとうことだった。海外を旅行してこれほどひどい経験は初めてである。


61)トルコ陶器の製造直売店にて by KENZO

昼のクサダシ港

桟橋まで帰ってきた乗船客を見ると、日本人も外人も何らかの買い物をして来たようで、買い物袋を下げている人が多い。


62)青いシャツ着て粋な姿はDr賢三 by KENZO


63)船上から見た昼間のクサダシ港の風景

昨夜の少年たちに出会った!

昼食を終えて外デッキに出る途中で、今朝のクサダシで撮影された写真が張り出されているのを見つけた。私たちの写っているのを購入していると、妻が「この子たちと違う」と叫ぶので振り向くと昨夜の少年たちだった。800名の乗客の中から半日足らずで見つかるとは本当についている!

なんという幸せ、何という妻の勘の良さ! 妻は彼らに会っていなくて、私の話でしか知らないのだ。デジカメを見せ、お礼を言って、お礼の手紙を手渡した。そこをすかさず名カメラマンDr賢三がスナップしてくれた。(ハプニングング#4)


64)デジカメを届けてくれた少年たち by KENZO


65)ここに置き忘れていた(再現図) by KENZO

パトモス島へ向かうデッキの上


66)お礼ができて幸せ一杯の私たち by KENZO

オリンピック・カウンテス号は11時過ぎに出航し、49海里(42km)先のパトモス島へ向け航海中である。

← 戻る  目次へ  このページのトップへ  進む →