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不思議な縁

2001.07.31. 掲載
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人は誰も、一つや二つの不思議な巡り合せを経験していることだろう。私にも、偶然と考えるには余りにも運命的で、何かの縁と思わざるを得ないような、人との出会いがある。その一つをご紹介したい。

昨年(2000年)10月30日の夕方だった。息子から電話があり、興奮した声で「おっさんが40年くらい前に受け持った心臓の患者さんで、KYという人を知ってるか?」と尋ねてきた。息子は小学生の頃から、私のことをおっさんと呼ぶ。変わった奴だ。

そこで「よく知ってる、わたしが入局して直ぐに受け持ったMS(僧帽弁狭窄症)の患者で、その頃20歳くらいやった。曲直部先生が執刀しはったが、10年くらい前に再発して、循セン(循環器病センター)で弁置換をした時に、わたしが紹介したんや。毎年欠かさず、静岡の新茶を送ってくれてる。」と答えた。

息子はその月の初めから、S病院の循環器内科に勤務しているが、その日診察した患者から、「もしかして、交野で開業の野村先生の息子さんではないですか?」と尋ねられ、そうだと答えると驚き、不思議な縁に身体が震えてきたと言われたと言う。電話だけでは言い足りなかったのか、めったに帰って来ない息子が、その夜は突然帰ってきて、話の続きをして行った。あいつも嬉しかったのだろう。

そのKYさんは、1962年の夏、阪大第一外科へ僧帽弁狭窄症という心臓弁膜症で入院し、連合切開術という手術を受けたが、その時の受持医が、入局したばかりの私だった。日本で心臓の手術が始まってまだ10年に満たない頃で、手術成績も余り良くなかった時代である。

彼女はその時20歳、私は26歳になったばかりだった。ご両親が、一人娘の彼女を非常に慈しんでおられるのが折に触れ、よく分かった。第一外科は、伝統的にハードトレーニングを行う医局だが、新入局の医師には、特に厳しく、3日間の徹夜が続いた場合だけ交替が許されるような、今では想像もできない1年間だった。その頃の状況は、旧友の集いで少し触れている。

手術は成功し、間もなく退院されたが、何時の頃からか、初夏になると静岡のお茶を送ってくれるようになった。そのお礼を述べたのに対して、「私が生きている証だと思ってくれたら良い」ということばを聞いた記憶がある。10年ばかり前に、心不全症状が強くなり、私の医院に来られたので、循環器病センターへ紹介し、そこで弁置換術を受け、また元気になられたのだった。

今回の、この奇遇にすっかり驚き、運命とか邂逅について思いをめぐらせている時、岩波新書から木田 元氏の「偶然性と運命」が出版されたことを新聞の書評で知った。興味をそそられて読んでみると、古今東西の哲学者たちの多くも、この「運」とか「運命」について取り組んできたようだ。しかし、結局は誰もがこの問題をもてあまし、決定的な解決をもたらすことができなかったらしい。と言うより、はじめから解決などできないことが分かっていながら、彼らはこの問題を考えたのだと知ると、人間は何と面白い存在なんだと愉快になり、私の思考はそこで停止してしまった。

この話に後日談がある。

今年(2001年)の5月の連休が終って間もない頃、息子から電話があった。そのKYさんが入院したが、精神的に参っているので見舞ってくれないかというのだ。心臓の状態はそれほど悪くはないが、数日前にお母様が亡くなり、そのショックが大きいようだと聞かされ、5月13日日曜日の午後、彼女を見舞った。突然の見舞いを受けて彼女は非常に驚いたようだが、喜んでくれた。精神的にはかなり立ち直っている様に感じられる。大きな手術を二度も経験した者は、思い切りがよく、メンタルな回復力も強いのかもしれない。

それから二月が過ぎ、猛暑の最中の7月20日午後、彼女は自分で車を運転して、拙宅を訪ねて来られた。何でも、将来ご両親の介護に必要になると思って、45歳の時に運転免許を取ったとのことである。彼女が持ってきた阪大病院入院当時のスナップ写真を10枚ばかり見せてもらうと、同じ時期に、一緒に入院した患者さんの写真や、その患者さんのガーゼ交換をしている同期の浜中青年医師も写っていて懐かしく、当時に戻って、話がとめどもなく弾む。彼女は、意外に雄弁で、いろいろのことを話してくれた。驚いたことに、今でも、40年前の患者同士が連絡を取り合っているらしい。

それを見せ終わると、彼女は嬉しそうに、そして少し得意そうに、たくさんの印刷物を手渡してくれた。それは野村医院のホームページの中身をカラープリンターで印刷したものである。わが息子がこのホームページをノートパソコンで見せたらしい。それがきっかけで、友人の息子さんに頼んで自分の読みたいところを印刷してもらったと聞く。

その印刷物のタイトルは、院長の自己紹介 開業20年目の院長の息子の感想 最初の遺書 愛のうた 歌、酒、女 歌と思い出 5(1961 - 1965) 旧友の集い 老人となった旧友の集いだったと覚えている。昔の主治医と現在の主治医のこと、当時の状況などに彼女の関心が行くのは当然のことだろう。

この中の最初の遺書に触れて、「圭先生は、この遺書に書かれている通りになっておられます」と聞くと、まさかそんなことはあるまいとは思いながらも、やはり親ばか、嬉しいのである。彼女は、私たちの見舞いをよほど喜んでくれたようで、それをアレンジした息子に感謝しているのがよく分かった。

このホームページの内容の印刷を、友人の息子さんに頼んだことをさきに書いたが、その友人というのが中学の同級生で、彼女が循環器病センターで2度目の手術を受けた時に、その方も同じ病院で、同じ時に、心臓の手術を受けたという、これまた不思議な縁で結ばれているのだった。

その息子さんの手ほどきを受けて、パソコンを始める予定だと聞いたので、諸手を挙げて賛成しておいた。これで読者を一人獲得できるかもしれない(笑)。

この春にお母様を亡くされ、また、その数年前にはお父様を見送り、今は天涯孤独の身となったが、その悲しみを乗り越え、残りの人生を有意義に生きたいと願っている、と話すのを聞きながら、私はしきりに頷いていた。最近、新聞などで当時の心臓手術の成功率が低かったことを知り、今日まで生きて来れた自分の幸運を、心から喜ぶようになったと言う。自分は長命の家系に生まれたが、病気を持っているので70歳くらいまでしか生きられないだろう。もし、70歳を越えて生きることができた場合は、それはおまけと考えようと思うと、話してくれた。

不思議だった。私は短命の家系のため、やはり70歳くらいでこの世を去ることになると思っている。そして、それまでの人生を、できるだけ悔いの少ないように生きたいと願っている。もしも、間違ってそれ以上に生きるようなことがあれば、それはおまけだと思うことにしている。

ここにきて、40年前の患者とその受持医が、同じ気持ちで、人生の最後の期間を過ごそうとしているのを知り、改めて、不思議な運命を感じてしまった。近いうちに、この文が彼女の目に留まるかも知れない。楽しみだ。


<2001.7.31.>

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