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還暦を迎えた旧友あい集う

1997.06.03. 掲載
2000.10.10. 訂正
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美しき五月の夕べに、旧友7名があい集い、梅田のヒルトンホテルで中華料理を食べながら、久方ぶりの会話を心おきなく楽しんだ。これより前、最後に全員が会ったのは1990年の大阪花博の年であったので7年目の再会になる。

私たちは昭和37年1962年に阪大第一外科に入局し、亡くなった富川君と合わせて8名で医師としての第一歩を踏み出した。入局の1年目の医師はCクラスと呼ばれ、最も過酷な外科のトレーニングを課せられる。毎朝8時から医局会、手術、抄読会、症例検討会のいずれかが行われる。

これだけでも、他の科と比べればハードなのだが、Cクラスの医師たちは受持の患者の手術の際には、手術後徹夜が続く状況であっても、2日間は誰にも助けてもらえない。徹夜が2日を過ぎて、はじめて仮眠をとるために私たちCクラスの誰かが交替するのである。多くの者が大学に寝泊りし、家に帰るのは1週間に1度、それも下着を取り替えるためという生活が1年間続いた。

ちょうどこの頃から心臓外科、脳外科が本格的に始まった。これらの手術は午前8時から始まり、手術場を出るのはほとんどが午前0時を過ぎるのであった。受持医はもちろん8時から手術につくが、午後8時を過ぎると30分だけ食事をとるために手術から離れることを許される。それは病室に帰ってからも徹夜で術後管理をしなければならないからであった。

このような極めてハードな修業期間であったが、私たちのクラスはお互いが協力し助け合ってこの試練を乗り越えてきた。まれに見るまとまりのよいクラスだという評価を何度も耳にしたことがある。

昭和41年1966年に今は亡き曲直部寿夫先生が第一外科の教授に就任されると、私たちのうちの5名が心臓外科グループに、残りは肺外科、内分泌外科に1名づつ配属され、それぞれが別の専門に進むことになった。しかし、Cクラスの時に苦労を共にした同期の桜は、それから後も強い仲間意識で結ばれてきた。

7年ぶりの再会は、私たちの一人である森透君が、鳥取大学第二外科教授を退職し、本年4月から大阪府立母子保健総合医療センター総長に就任されたので、そのお祝いを兼ねて久し振りに集まろうということになったからである。

会うや否やの毒舌の応酬などCクラスの当時と全く変わらず、午後6時に会が始まるや誰もが熱弁を奮い続け、気がついたら9時を過ぎていたという過熱状態の夕べであった。

最も雄弁だった浜中君が、未だしゃべり足りなかったとばかり、後日どっさり資料を郵送してきた翌日には、堀口君からも当日のスナップ写真が送られてきた。そこで、この写真と同期入局の説明文をホームページに載せ、旧友の集いの日の記録とすることにした。

以下の写真に合わせて私たち同期の桜のプロフィルを紹介する。誰もが還暦を迎えたばかりである。


これは散会する前の集合写真で、ただひとりの女性は森 透君の奥方である。

津森嘉樹
島根県松江市で津森医院を開業
山陰の名士になっていると、鳥取にいた頃の森透君から聞いたことがある。スリムだった、かっての面影を見つけるのはかなり難しい。彼の所へは私たち同期の桜全員で2度お邪魔して歓待された。次の集まりは夫婦同伴、松江でと決まったのでよろしく。森透君が大阪に帰ったので寂しく思っていることと拝察する。

内藤泰顕
和歌山県立医科大学第一外科教授
循環器病センターの創設から関わり大活躍、和歌山医大に移ってからは何度も新聞紙上に彼の心臓手術成功の話が載り、世界的に名を広めている。黒髪は染めたものではないというところが憎らしい。ハワイでの学会から帰って関空に午後1時に到着、その足で駆けつけてきたという。

野村 望
大阪府交野市で野村医院を開業
昔からメカ好きだったので、パソコンやインターネットに年甲斐もなく首を突っ込み、呆れられている。今は亡き同期の富川君に頭髪がそっくりとなり、危うく間違えかけたと言われてガックリ。

浜中雄二
大阪府岸和田市で浜中医院を開業
准看護婦問題で朝日新聞に抗議し、これとの対決を大阪府医師会や日本医師会に迫った話を熱っぽく語り、浜中節なお健在であることを強烈に印象づけた。「浜ちゃん」と呼ばれる。私を富川君と間違えたのは彼であるが、その彼も頭髪の量で苦労をしているようだ。

堀口泰範
大阪府池田市で堀口循環器科を開業
いつもカメラマンを買って出てくれ、後でたくさんのスナップ写真を送ってくれる。気の毒にも単独写真がなく、二人写真の一人をカットしたので、このようにサイズが小さくなった。「やっさん」と呼ぶことが多い。

森 隆
国立近畿中央病院副院長
森が二人いるので、「タカッさん」と呼んできた。副院長という管理職ともなるとインターネットにも関心を持たざるを得なくなるようで、先日Eメールを送ってきたのには驚いた。昔は有名な毒舌家であったが、温厚になってきたのは年のせい?

森 透
大阪府立母子保健総合医療センター総長
鳥取大学第二外科教授を退職し、本年4月より現職に就任。こちらも森が二人いるので、「トオルさん」と呼んできた。早くからパソコンを活用し、教室の手術記録をデータベースで管理していたが、DOSで充分であるとWindowsに冷たい。いつまで頑張れるものか楽しみである。彼の頭髪も毛染めなしで黒ぐろとしている、内藤君もそうだが教授になる人は何故白髪にならないのだろう、苦労が少ないということなのか?


<1997.6.3.>


訂正 森 隆君は、98年4月より国立近畿中央病院院長に昇任

<2000.10.10.>

訂正 
森透君の経歴の鳥取大学第一外科教授は誤りで、鳥取大学第二外科教授でした。
森 隆君は、2003年5月に逝去されました。

<2014.6.24.>

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