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深い悲しみが癒されるまで
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愛する人が死んだときに、私もそのときに一度死んだのです。
いや、何千回、何万回も。
その後、何千回、何万回も、その人の最期の気持ちを知りたいという気持ちから、今際の瞬間を想像していました。
体の痛みや、死に赴く気持ちは如何ばかりだったろうと、同じ痛みに身悶えし、ボロボロと涙を流しながら。
代わりに私が死ねばよかったのにと思いながら。
また、死の瞬間ばかりではなく、その人が生まれてからの気持ちや感情も思い描こうとしているのです。
その人が、どんな幼少期を過ごし、どんな青春を過ごし、どんな恋愛を体験し、どんな想いで結婚したか。
そして、どんな気持ちで私を産み、育ててくれたのか。
病を患いどんな気持ちだったのか。
どんな哀しい気持ちで死を選んだのか。
その人の人生全体を、覚えている限りのありったけの思い出で再構成しているのです。知らない部分でさえ、推測で補って、思い描いているのです。
それは、あたかもひとつの彫像をコツコツと彫り上げる作業のようなものだったかもしれない、と今にして思います。
当時は、ただ悲しみと苦しみ、慟哭と絶望しか感じられないわけなのですが。
長い歳月を経て、その人の生と死は、私の中で、ひとつの像としてできています。
その人の在った姿、あるべき姿は、私の胸の中にあるのです。
それは、記憶ではなく、心の形として。
あれだけ流した涙も、いまは、滅多に流れ落ちることはありません。忘れたという訳ではなく、自分の中に溶け込んだのです。その人の死だけではなく、その人の人生も。
いまは、悲しみや苦しみに襲われることはありません。
−−−普通に生きています。毎日遺影に、一言二言語りかけるばかりです。
もはや、罪悪感も、希死願望もありません。
これだけ悲しみ、苦しんだから、贖罪(しょくざい)も済んだと、自分の何処かが納得しているのです。
その人のために尽くしたいという気持ちはありますが、いまはその気持ちを他の人に向けています。
すべてを呑みこんで、時は流れました。
枯れた花が、地面に落ち、新たな新芽として息吹いたように、それはごく当たり前のこととして私の身に起こりました。
ただし、ゆっくりと、ゆっくりと。
長い間、流した涙も、溢れる想いもすべて新しい息吹の材料となっているのです。命は、廻っているのです。
* * *
あなたも、いまはつらいばかりだと察しいたします。
しかし、心を開いて、いまを感じていてください。
悲しければ、泣いてください。
それしかできない日々が続くと思いますが、それでよいのです。
愛する人を亡くして、泣くのは当たり前です。
やがて、自然に涙が出なくなる日が来ます。
あなたが、心の中で大切にしていく珠を見つけて、その希望を心の支えにして、いまを耐えてください。
ありのままに、無理をせずに、自分を大切に。
とてもゆっくりとですが、必要なことは、起こってきます。
やがて、この深い悲しみも癒えます。
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