今回は、創価学会の平和運動について述べたい。(今回は文章だあ!!!)
よく『学会員の平和活動って、実際に何かしてたっけ?』と言われるからだ。(なんたることだっ。)何にしようかと思ったが、わかりやすい例として、1993年にあった「ボイスエイド」を挙げたい。
 このような質問に私は文献の中から題材を探し出すのではなく、自身の青春の中から題材を選べることを誇りに思う。しかもこれは、意外と大きな影響を持つ活動だったのだ。



 さて、1992年ごろに、全国で『カンボジアにラジオを送ろう』という運動が広まったが、あっという間に終わったので、知らなかった人も多いと思う。だが、あったのだ、しかも日本全国的に。しかも内外問わず。だけど、これは何も、『カンボジア人ったら、ホント貧乏でかわいそうだからラジオでも送ったげようか』とかいうことで始まったわけじゃないんだ。

<背景> 
この1992年はカンボジアに世界が注目していた。当時カンボジアでは長い長〜い戦争が終わろうとしていた。調停に入ったのは当時すっかり威信を回復した国連だ。ややこしい内戦で、国連が調停してる間もずっと火の粉がくすぶりつづけていた。各派の仲直りもままならぬまま、ようやくなんとか平和的な総選挙の実施にまでこぎつけたのはよかったんだが。

カンジアはここだよ〜。

 しかしいざ選挙を実施しようとしても、とうてい無理だった。なにしろ国民は、長い間、難民で追われたりしていたので選挙なんていったって、近代選挙なんか少なくても数十年間はしたことがなかったのだ。(近代選挙はね。)つまり当時のカンボジアの国民は選挙なんかまるで理解していなかったのだ!

しかもこのあいだまで周辺各地で難民をやってたりしていて教育どころではなかったんだから、識字率(字が読める人の割合のこと!)もすごく低かった。全国で、2/3の人が文字を読むこともできないので、本はもちろん新聞も、配られるチラシすら読めなかったんだ。それで国連側は悩んだんだな。『選挙なんかすぐにやるって言ったて、こんなんでどうやって1から教えればいいんだ!無理じゃない!』って。(もちろんテレビなんてとんでもない!無いよっ、そんなの。)


 私も当時テレビで見ていた。国連のPKOが説明に回っていて、『政治をする人を自分たちで決めるのよ。』とか、『買収や脅かしなんかたとえあっても、投票所では自分の意思で決めても大丈夫なのよ。』とか、ごく初歩的なことを1人1人にていねいに説明していた。そのすぐ後、日本のテレビが、「あなたはどこに投票しようと考えているんですか?」とインタビューしたら、驚くなかれ、その年配者は大きくうなずきながら、『私はPKOに投票する。』という返事だった。自分の国の選挙だしょ!まさに、何もわかってない状態だったのだ。

(そうだ、話がそれるが、当時はPKOというのが話題になっていた。PKOとは、「紛争の終結まぎわに、ちゃんと平和が確立するか監視する」、という純然たる平和な団体なのだが、日本は派遣するかどうか、とにかくいろんな問題があったのだ。派遣される側の人達の事情もあったりした。
 しかし、年が明けてからの自衛隊への入隊志願者が急増していた後でも、『行きたがる人なんか誰もいないよ』と、その年じゅうずっと宣伝していたK党には、やはり自分たちの考え中心で、現実をねじまげるきらいがあると痛感させられた。とにかくかってないほど大規模にPKOもボランティアも、とにかくカンボジアの人達の平和のためにとがんばっていたのだ。もっと言いたいことがあるが、話がそれるので略。)

 こういった状態で、国連にしても選挙実施を延期したかったろうが許されなかった。国連が一国に長く滞在するのに反対の声もあったのだ。どうしても選挙の実施は1993年5月までと決められていた。その期日は絶対に超せなかった。それまでに国民に選挙を正しく理解させて、カンボジアに民主時代を実現させなければ全てが水泡に帰してしまったのだ。もし、公平な選挙が実施できずに国連が引き上げた場合、再び武力衝突に突入し内戦が続けられただろうことは誰の目にも明らかだった。世界中から『カンボジアの選挙は成功しないのではないか?』と不安の声が大きくなっていった。


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