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*5  「勤行」についての指導 詳細画像へ




*6 日尊(にちぞん) 新版 仏教哲学大辞典 1333頁

1299年秋、日尊は、日興上人の説法中に梨の木の葉が落ちるのに目をやったため「大法を弘めんと欲する者、説法を聴聞し違念を起して落葉を見るべきいわれ無し、汝早く座を立つべし」と日興上人より勘当されました。その後12年間、弘教に東奔西走し、多くの寺院を改宗させ、ようやく許されました。


*7 富士宗学要集 第1巻 67頁(『有師化儀抄』)

「謗法の妻子眷属をば連々教化すべし、上代は三年を限りて教化して叶はざれば中を違ふべしと候けれども、末代なる故に人の機も下機なれば五年十年も教化して彼の謗法の処を折伏して同ぜざる時は正法の信に失なし、折伏せざる時は同罪たる条分明なり云々。 」

 




*8 「化儀を学会が変えていいのか…これだけはゆずれん」、某日顕宗の寺の講頭(95年当時)を破折した時に、その講頭が言っていた質問でした。(名前を出さないのは最低限の礼儀だからと思うからです。)






*9 「正宗に生まれた因縁が…」、 これも某日顕宗の寺の住職夫人(1995年当時)の発言です。(しかし、どうして住職婦人というのはこう、どの人も威張ってるんでしょうか?) この方も因縁話が好きでしたが、どうやら仏法の基本精神、生まれなんかで差別しないという平等観が全然身についていないようです。


*10 「地湧からの通信」別巻 1 資料編 162頁、昭和16年、当時の宗門は院達で、御観念文まで戦争礼賛に変えていました。





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