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 昭和村のあいうえお 遠くにありて思うこと
ある日、村のホームページに「ファクサイ」(追補:ファクサイ)という単語が載っていた。
わからない、、、村の言葉かな、何のことだろう。気象用語なのだろうか。
辞書をみてもわからない。
村の人だけが知っている言葉か、、ずるい、まぜて欲しい。
    それにしては知識が足りない。それなら勝手に作ってみるか。
    Web地図などから村に関係のある言葉(地名その他)を集めてみた。
    村のホームページ、カンケさんのページ、福島県の新聞などで気付いた言葉をメモしてみた。
    集めて、データベース化する事などは職業柄?少しは得意である(^^;
    集めてみると並べて見たくなった。あいうえお順に並べてみた。
    並べてみると、それにかこつけてよしなしごとを書きたくなった。
    さて、続くのでしょうか
目次  

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せ改07/12/01
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 09/08/20
 07/12/13
 07/12/14
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 09/11/13
 07/12/29
 08/01/07
 09/11/13
 08/01/17
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 08/01/27
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 08/02/12
 08/05/20
 08/06/26
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新 08/07/30


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【あ】
 奥会津でいちばん有名な「あ」のつく言葉には、会津学をあげる。 奥会津の宮沢賢治、菅家博昭さんが引っ張りつづけている。
 昭和村には、新屋敷(あらやしき)という地名が二ヶ所ある。大芦と 小中津川にある。何故二ヶ所あるかというと、大芦村と野尻村が合併して昭和 村となったからであろう。これだけから判断すると、小中津川は野尻村であっ たということがわかるのである。 
(追補:同一地名一覧)

 小正月の行事にはあずっけいというあずきを使った料理がある。き のこのクリタケのことをあかんぼという。こんな話もつい最近にカン ケさんのブログで勉強したこと。

 赤坂山愛宕山は大芦の山。ほかには赤岩赤沢赤張沢赤田阿久戸。「あ」のつく色には「青」 もあるのになぜか「赤」色が多い。
(追補:地名)
(07/11/18 07/12/06)

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【い】
 昭和村は五十嵐姓の宝庫である。特に多いのは大芦である。しかし 村内に地名としての五十嵐は無い。五十嵐の地名は新潟県に多い。ほかには、 北海道、青森県と愛媛県とにある。北海道は明治になってからの地名であろう から、新しい地名といえよう。
 (追補:五十嵐のルーツ)

 ポーラ文化研究所という財団がある。ここでは、伝統工芸技術、伝統芸能、民 俗芸能・行事などの各分野に携わる方々を顕彰する「伝統文化ポーラ賞」とい う賞がある。
 過去には五十嵐善蔵氏がからむし栽培で第2回特賞(昭和57年(1982)) を受賞された。
1988年には姫田忠義氏の主宰する民族文化映像研究所が「No.63 からむし と麻」という自主制作記録フィルムを制作、撮影地は福島県大沼郡昭和村大芦・ 大岐。ここに写る五十嵐初喜・スエ子夫妻、菅家清一氏、菅家美代子氏、 菊池成彦氏、菅家トシ氏、菅家慶子氏。  (追補:五十嵐スエ子さん)
 昭和村では過疎地対策と村おこしを兼ねた「からむし工芸博物館」の施設の設 立に至るが、これらの製作と関係者の活動が契機となっていることは記憶され るべきであろう。
(わたくしごとながら、五十嵐初喜氏(はつきあんにゃ)は 筆者の伯父貴である)

 山名では、石取山石ぽろ山。石ぽろ山の山頂は村外であるが、 この「石ぽろ」という名前には、何か引かれるものがある。
 「い」の付く沢は、いかり沢いと沢一の沢岩茸沢石白沢入の沢入冷湖沢とある。

 地名、石仏(小中津川)/居平(松山)/板橋(両 原)/井戸尻(大芦)/稲荷前(大芦)/入ノ沢(野 尻)/岩本(野尻)。

 井戸尻
 どこにでもありそうな地名であると思っていた。どれくらいあるか読売新聞 の「地図」で検索してみた。
 「全国で住所に井戸尻を含む」地図を探すと、39件ヒットした。 そうだろうなと思ったが、その内訳にびっくり。4県しかない。それも青森県 2件、宮城県1件、秋田県7件、福島県21件、愛知県8件、である。
東北が3県とずっと離れて愛知県、福島県が全国の半分以上を占めているこの 偏りとはなんだろうか。
 福島県内の分布を調べてみた。喜多方市には9件ある。9件あるが 井戸尻、西井戸尻、井戸尻、井戸尻、と いうように、プレフィックス付きで4件稼いでいる。南会津、耶麻郡、河沼、 大沼、西白河でまとめると8件、その他4件。このようにまとめてみると何か の道が見えてこないか。
(追補:地名)
(07/11/18)

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  【う】
 松山から出掛けて綱木渓谷に向かう途中の右側の山が、馬追山とある。
これは、昔の荷駄運搬等での通行時にあまりの急峻な道となるので、そこまで 連れてきた馬を戻した(返した)地名ではないかと想像する。宮本常一氏の本 (「塩の道」)などを読んでいると、馬返とか馬込とか追分とかいう地名で出 てきたような気がする。村内の類似地名では駒止峠なども同じ意味ではないか と思う。
 「馬追山」という山も読売新聞の「地図」で検索してみた。北海道と昭和村 にしかないのである。井戸尻(【い】の項)の検索もしかりであるが、奥会津 の地名は文化遺産ではないのかといまさらにして思う。それとも選んだ筆者の 鋭い感性のなせる技かい(笑)。
 そして、夕張郡長沼町には「馬追山」が3ヶ所もある。どういうことだと考 えてみた。これは村内でも茅場などという地名(呼び名)はどこにでもあるよ うに、共通(共同)の作業をする場所のこと指しているのではないかと思われ る。
 また、北海道の「馬追山」は急峻な地ではないのである。長沼町ではマオ イゴルフリゾートという観光地のそばであり、夕張郡由仁 町では近くにハイジ牧場などという牧場のそばなのである。こちらは明らかに 馬の放牧地ですね。長沼町の「馬追」は「マオイ」と発音していることは、マ オイゴルフリゾートという観光地名で知れる。
 実は、昭和村の「馬追山」はどう発音しているのかが筆者にはわからない。 なさけないのである。「ンマオイ」、、でしょうね。

 由緒(歴史の)あるところでは牛首城、これも文字でしか知らない で、「うしくび」と思い込んでいますが、「ぎゅうしゅ」だったらどうしよう、、 矢ノ原高原に咲くのはウメバチソウ
 上ノ原(佐倉)/後沢(小野川:うしろのさわ)/ 後ノ沢(野尻)/上田(小中津川)/上平(下中津川: うわでいら)/上台(喰丸:うわのだい)。
(追補:地名)
《おまけ》ウメバチソウ(写真:昭和 村HP/昭和村の風景/より)(09/10/06)
(07/11/18)

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【え】
 いきなりネタ切れ、わたしの収集分には、越後上布越後縮 しかないのである。越後上布越後縮も同じようなものでしょ う。
 これは、押さえておかないといけないキーワードですね。新潟(越後)は守 門村を越えていけば五十嵐川のある三条市と繋がる。ここには、苧麻の道があ り五十嵐の道もあったのではないかと勝手な妄想は広がるのである。
 06年9月、10月には、からむし工芸博物館で特別企画展「奈良晒と原料 展」が開催されている。
    昭和村のからむし(苧麻)が「越後縮」の原料と なったのに対し、山形県村山・置賜地方のからむし「羽州苧」は越後から奈良 に運ばれ、「奈良晒」となり、独自の発展を遂げた。
とある。この文章は、新聞記事だったかの引き写しです。新聞記事だとすると、 からむし工芸博物館のパンフレットあたりが原典の説明でしょうね。出典未詳 ですみません。

 地名、越中作(野尻:えっちゅうさく)。【え】の項の収集単語は、 この三つだけ。全てにの字がつくのは、なにやら縁(えにし)はあ りや無しや。
(追補:地名)
(07/11/18 07/11/19)

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【お】
 おめえ、おい、おまえ!のおめえではない。座敷の事である。「御前」 でしょうか。普通は仏壇や神様を祭る神棚のしつらえものがあった。
 おぼけ(苧桶)、苧(お)を入れる桶(おけ)。からむし糸を溜め る丸ワッパの器。苧引き苧績み(おうみ)苧殻は きちんと焚き付けように使った。
 大芦は広い。戊辰戦争の戦場にもなった。
 大芦小学校小野川分校は既に廃校、歴史になってしまった。
 大越沢大岐沢遅沢大谷地(おおやち)
 大坂という坂がある。大芦から佐倉に抜ける途中、仙石沢の 坂である。途中の坂といってもこの間はほとんどが坂である。大芦から昭和中 学校までは、ほぼ6Km。中学校に入るまでには自転車に乗れるようになる。 中学校入学祝は「野中モーター」で買ってもらう自転車である。
 春先に一度しかブルドーザーがこなかった時代、「ブルが大坂を越えたぁど」 というのは春を待つ大芦の人の安堵の挨拶であった。子供等はブルの後をつい て行きキャラピタの跡の雪のでこぼこで滑って遊んだ。

 大岐(小野川)/大向(大芦)/(下中津川)/ 御蔵裏(下中津川)/小田垣(野尻)/落合(下中津川)/ 折橋(小中津川)
(追補:地名)
(07/11/19 07/11/21)

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【か】
 村には、カタカナの地名(場所の名前)がひとつだけある。カワト沼 である。
 【い】の項で書いた軽石峠転石峠の先の「石ぽろ山」も「ポロ」とカタカ ナ表記なのかもしれないが、村外のことなので軽々しいことは書けない。気に なった事には理由がある。
 今年(07年)になって読んだ本に柳田国男氏の「柳田国男全集4」(ちく ま文庫)がある。この本には、木地師の話を含めて会津の話なども沢山ある。 馬場勇吾さんの編する「木地師の跡を尋ねて 山中の墓に手を合せ乍ら」にも 繋がっていく内容である。
 それはさておき、その「柳田国男全集4」の中には《マタギの根原》に関す るくだりがある。このように書いてある。
    津軽の人が百二三十年前に書いた『奥民図彙(おうみんずい)』には、一二彼 らが奇習を記し、菅江真澄(すがえますみ)の『遊覧記』の中にも、北秋田の 山村のマタギの言葉には、犬をセタ、水をワッカ、大きいをポロという類、ア イヌの単語のたくさんに用いられていることを説いてある。
    「柳田国男全集4」(ちくま文庫)(P.90)
 この「ポロ」が「引かれた」理由であった。
 では、他にはカタカナ表記でも良いような地名は無いのか。地図を調べる。 実は沢の名前で、とちくぼ沢、いかり沢、いと沢、小はげ沢、などがある。が しかし、これらは栃窪沢、錨(猪狩?)沢、糸沢、小剥沢というようにいとも 簡単(安易だ)に漢字表記が出来てしまうものである。
 「石ぽろ山」は「大きな石の山」というのはどうであろうか。「石がポロポ ロ落ちる山」なのかも知れない。その手前にはポロポロと落ちた 軽石転石(峠)、 あまりにも語るに落ちすぎ(安易だ)か。

 では、カワト沼は「変わっとる沼」かい!わからない、分かっとらん 沼の名前、、。

    (08/03/13訂正)
    転石峠を、軽石峠と間違って表記していました。
    かつ、わたしは「かるいしとうげ」と思い込んでおりました。
    転石峠ころぶしとうげといいます。もともと、「転ぶ石」な のですから、全くもって、語(騙)るに落ちすぎでした。
 角巻きかせどりカノ焼固雪渡り
 かみがぁら(上川原)/上赤田(大芦)/ 神置(野尻:かみおき)/上新田(下中津川:かみしんでん)/ 上向(喰丸:かみむかい)/川向(松山:かわむかい)/ 川原(大芦:かわら)/上原(松山:かんぱら)。

 からむしの機音は、1996平成8年環境庁100選「日本の音風景」に選 ばれた、とある。(昭和村HPより)
(追補:地名)
(07/11/20 08/03/13)

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【き】
 き、きくらげキノエ様菊池先生、、、

 お題が見つからない。  『木地師の跡を尋ねて』、馬場勇吾さん編著、昭和村教育委員会発 行。04年8月13日にからむし織の里を尋ねたときにこの本と『乱雲 戊辰 の晩秋』を購入した。馬場勇吾さんは平成十三年度地域文化功労者。その年の 個人66名(芸術文化関係39名、文化財保護関係27名)のうちのお一人で ある。
 からむし工芸博物館 の最新ページを参照すると、『聞き取り調査と実測図集−からむしを育む 民具たち−』という本の紹介も掲載されていた。
 では、き(気)の付いた本としましょう。
『奥会津方言風土記』舟木正義
『木地師の跡を尋ねて』馬場勇吾編著
『戦争のない世界を 太平洋戦争 決死行』佐藤庄一
『続会津士魂』早乙女貢
『中高年からの田舎暮らし』湯川豊彦
『峠を越えたヤマメはイワナになった』大穂耕一郎
『日本の昔話(上)』稲田浩二
『よみなおし戊辰戦争−幕末の東西対決』星亮一
『乱雲 戊辰の晩秋』馬場勇吾編著

 読んだときに書いてあった感想を転記する。
特に感激するのは、まさかと思う本の中に突然知っている固有名詞が出てきた りする出遭いである。

『奥会津方言風土記』舟木正義/ふるさと企画
     昔の方言のエッセイ。著者は昭和村出身の元読売新聞校閲部長。2000年ご逝 去。
    出版社は、小林政一さんのところ。昭和館にも在庫あります。
『木地師の跡を尋ねて』馬場勇吾編著/昭和村教育委員会
     「木地師の跡を尋ねて 山中の墓に手を合せ乍ら」
     一千年も昔の事、近江の国小椋谷で発祥した木地師は、君ヶ畑高松御所と蛭 谷筒井公文所の氏子として「氏子狩」または「氏子駈」という帳面に連綿と記 録に残されてきた。
     木地師は、原木の関係で、同じ処に二十年とか五十年とか住んでいて、原木 が尽きれば次の土地へ引越して行く、という宿命的な職業を約一〇〇〇年の歴 史として持っている。
     連綿とながれ続け奥会津にも移住してきたその木地師の住んだ跡は今は殆ど は墓として諸処に残っている。発祥の地の滋賀県永源寺町への調査訪問のルポ ルタージュからたどり古文書と伝説をたよりにその場所を探して、昭和村に残 っている11ヶ所の地区の全てのお墓の写真と墓碑銘の克明な記録。
『戦争のない世界を 太平洋戦争 決死行』佐藤庄一 奥会津書房
     佐藤庄一さんに直接いただいた本。自費出版本である。
     一年早く徴兵検査甲種合格、騎兵隊としての新兵生活、行く先を告げられず に船に乗せられ蚕棚のような場所での生活。フィリピンマニラ港コレヒドール 要塞、シンガポール、ジャワ島ジャカルタ、スラバヤ、チモール島ラウテン、 スンダ列島フロレス島と転戦して、ビルマ、イラワジ河河畔バーモ市での決死 の攻防、肉迫攻撃からの帰還までの体験が書かれている。
     一兵卒故に壕に避難できずに逆に助かった話、分隊が全滅したために功績と も認められずに葬り去られてしまうかも知れない歴史への佐藤庄一氏の憤り。 道行きの途上全くの偶然で出会う郷里の人々との交流、戦後に再会した戦友が 佐藤庄一氏の行動をしっかりと覚えておいてくれていたことの感謝などがの記 憶の中から語られている。
     私たちが生まれるほんの10年ほど前の時代の話なのである。
     いまも砲弾の破片が3つも背中に入ったままの八十歳の佐藤庄一叔父さんは 今日も元気で軽トラックの助手席に愛妻を乗せて、村中(むらなか)をゆった りと運転して、平和な生活をいそしんでいる。
『続会津士魂』早乙女貢/集英社文庫
     「続 会津士魂 一」
     「西軍は大芦、両原、喰丸の村々に集まり、大芦を本営にすると見受けられ ます」との記述がある。
    戊辰戦争の碑が残っているのは見たことがあった。

     「続 会津士魂 七」
     丹羽五郎の段で、 このとき、実父の族(やから)は野尻(のじり)代官所に あって兵粮(ひょうろう)調達に奔走していたから、(・・・・・・)敗色の 濃い藩の要請に対して、農民は供出を拒んだ。
     戦線の将兵の兵粮確保は、絶対的なものである。丹羽族は、一命に代えても、 調達せねばならぬという使命感のため、遺書をしたためて、割腹自殺したのだ。
    (P.103)
     とある。野尻というのは昭和村が合併する前の大芦村と野尻村の野尻のこと である。読んだ記憶があったので「乱雲 戊辰の晩秋」(馬場勇吾編著)を調 べてみるとあった。「代官−丹羽族(にわやから)」として章がさかれてあり、 ほぼ同じ内容がより詳細に記述されている。
    それは、河井継之助が只見につく日の朝早くのことである。時を移さず、村々の 代表は時の危機を説き、丹羽の自刃を伝えた。領民たちは心を打たれ、家を空に して協力した。(「乱雲 戊辰の晩秋」P.113)
    ともある。また、その遺書までが古文書として残っているという。「乱雲 戊辰 の晩秋」にはその遺書も記載してある。「会津士魂」は、主人公である鮎川兵馬 以外の登場人物は殆ど史実に則っていると思われる所以。
『中高年からの田舎暮らし』湯川豊彦/学研M文庫
    たまたま新刊本置き場で見つけた本。いきなり[中高年からの]というのもナ ンダかと思うが、
    奥会津の有名人、たもかくの紹介などもあり。昭和村の話も少しだけ。
『峠を越えたヤマメはイワナになった』大穂耕一郎/のんぶる舎
    「峠を越えたヤマメはイワナになった秋川から会津の渓(たに)へ」
    アウトドア系・渓流釣。エッセイとオピニオン。
    渓流釣りに出掛けた先(昭和村)で、「お茶でものんでけー」と言われた一言 で、昭和村が好きになった方の本。
    口絵カラー写真にも昭和館の写真あり。声を掛けた村人は昭和館のじぃちゃん。
     大穂さんのホームページは、こちら→ クマさんの 鉄道と環境の民俗学
『日本の昔話(上)』稲田浩二/ちくま学芸文庫
     とんとむかしの日本各地の昔話集。
    p.154「瓜姫むかし」は奥会津の昔話として収録 原典一覧にも載っている。
    収録者は、やっぱし小林政一さん。
『よみなおし戊辰戦争−幕末の東西対決』星亮一/ちくま新書
    ちくま新書
    p.199「会津の奥に昭和村がある。」
    戊辰戦争に巻込まれた村の話の段。
『乱雲 戊辰の晩秋』馬場勇吾編著/昭和村教育委員会
     帰省の時に『からむし工芸博物館』で購入した本。
    村のどこかで戊辰の戦場になったところがあるというのは知っていたがこれほ ど詳しい資料が残っているとは知らなかった。
 きになっているのですが、まだ遭遇できない本(^^;
『会津学』『過疎といわれておたおたするな』。
(追補:地名)
(07/11/20 08/01/25訂)

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【く】
 佐倉から仙石沢を抜けて大芦へ行く道がある。国道401号線である。
 右手に石取山を見ながら(見えるのか?)登りきったところが、奥会津昭和 の森キャンプ場である。昔は「公園」と呼んでいたと思う。
 馬頭観音や何かの顕彰碑が建っていた記憶があるが、さてどうだろう。歩い て通ったのは40年ほど前のことである。
 公園の近くから、喰丸に抜ける道と、両原に抜ける道もあったはず。 勿論車で通れるような道ではない。杣道(そまみち)とでも表現するのか。現 在であれば、マウンテンバイクの上級コースにでもなるような道(通路)であ る。登りの坂道は自転車を手で押して登る。両原からの道は藤吉あんにゃが自 転車バイクでよくきいきい(来い来い)した。
ここからは大芦集落へ一気に下り坂。
夕方になると大芦から昭和中学校に通っている生徒の公園から下り降りる自転車 がキイキイした。この「キイキイ」は自転車のブレーキ音である。
 坂を降りたところが、クヌギ(橡)下である。今でもここには石灯 篭がある。石灯篭の上に立って屋根の部分にぶら下がって遊んだ覚えもある。 今にして思えばよくも石が倒れたりして事故が起きなかったものだ。 筆者の記憶の範囲ではここに灯りがともっていた記憶は無い。
 漆黒の夜、杉の林が周りをより暗くしている道で、ほのかにともる灯篭の火 を見つけることは山界から人界にたどり着いた事を知らせる大きな安堵に繋が ったことであろう。
 集落の結界のような位置である。旅人の為のものだったのか、それとも、外 に出掛けた人が戻ってくる日(夜)に「お帰り!」の挨拶の為に火を入れたの か。

 クヌギ下は住所、地名ではないのである。地域の俗称であり、ク ヌギ下の家を指している。その家とは、、、長くなるので別項とする。ま た、そのうちに。

 沢の名前、九々竜沢九郎沢桑袋沢黒沢
 地名、久保田(野尻)/黒岩。神社では熊野神社
設備施設で喰丸峠喰丸トンネルは、1980年昭和55年開通とあ る。イチョウの写真のきれいな喰丸小学校
頼れる力持ち、グリーンファーム
(追補:地名)
(07/11/22)

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【け】
 「(食え:食べなさい)」とか「**してけろ(下さい)」。
昭和言葉だったかどうか自信がなくなってきた。
 村内の話ではないが、訛りでは後で赤面することがあった。ある大学で講師 をしていたことがある。半年ほど後に学生の一人が亡くなっていることを伝え られた。連絡のついている卒業生数人と待ち合わせて福島市の近くの学生の実 家を尋ねた。葬儀も以前に済んでいてそのお家では日常に戻ったような様子で あった。そのとき訪問した中ではわたしが一番の年長者である。なんとなく「 教え子の前ではしっかりしなくては」と緊張していたかもしれない。お線香を 手向けてご挨拶。ご両親と思い出話などを始める。そのうちビールを出された と思う。と、お母様が「刺身でもしっか」とおっしゃる。何かおつまみでも出 されるのかと勘違いして「いえいえ、お構いなく」と言ってしまった。刺身で はなく「写真見」だったのである。 (追補:「写真見」)08/02/19

 気多渕(下中津川)、気多神社(小中津川)。
 あとは思い出せない(見つからない)。地図を検索(安易だ)すると、 気多の付く地名は、会津坂下町に気多宮とあり、岐阜県飛騨市古川町 に上気多と下気多がある。
 地図上の目印で気多神社を検索すると、富山県高岡市、富山県射水 市、石川県羽咋市の3件がヒットした。小中津川の気多神社はヒットしない。
 気多神社を普通に検索してみると、3万件もヒットしてしまう。これは手に おえない(付き合う気にならない)ので引き下がることにする。
 安易な検索は無知の手の内をひけらかすようなもの。よその検索の前に、ま ずは参道入口の由緒書きでも読め!と叱られそうな気がする。反省。
(追補:気多神社・由緒書等)
(追補:地名)
(07/11/24)

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【こ】
 小学生時代に、授業だったか宿題だったかで作文を書いたことがある。その 時の作文の中で「こわくなったので寝た」と書いたことを思い出す。
その前後は、母の毛糸球作りを手伝っていて、だったか、ワラぶちを手伝って、 だったかは思い出せない。ここでいうこわいは、「はぁこゑぃがった」 の「こわい」である。疲れたという意味、元々は強飯(こわめし)などという ように、体が強ばる(つまり疲れる)という状態から来ているらしい。わたし は作文で標準語?で書けば、「お手伝いをして、疲れたのでお休みした」と書 いたつもりだった。
 この作文が、教育なんとかで両沼なんとかかんとかの小学校の作文を編集し た文集に掲載されたのだと思う。このあたりの経緯もよく思い出せないが、そ の文集になった作文を読むと、「怖くなったので」だったか「おっかなくなっ たので」だったかに書き換えられていた。小学校で「怖」という字は書けない でしょうから、「おっかなくなったので」だったような気もする。
 「おらは、ずぶんでそうだ弱虫みだごどは書いでね!」と思ったものである。
 小学校の低学年の頃である。その頃の担任の先生は、フミノ先生、S先生、 N先生だったか。S先生とN先生は村外から赴任されてきた先生である。どな ただったか、、
 確かに断定できることはフミノ先生だったらそのような書き直しをされる筈 が無かったということ。だって、昭和村の人である。

 コウシン様
 小中津川のある墓地は束原一族だけの墓地だった、というのは今 年の秋に初めて聞いたことであった。
 山峠岩川沢一覧。 転石峠(ころぶしとうげ)(08/03/13追加)小松峰乞食岩駒止峠黄金沢小はげ沢小見沢小矢の原
 駒止湿原は、1970年(昭和45年)に天然記念物に指定された。
(追補:地名)
(07/11/28 08/03/13)

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【さ】
 サイギョウサイギョウ歳の神を立てるときの掛け声。これ は昭和村のHPに06年1月にあった。歳の神の木を立てるところは子供の頃 に二、三度は見た覚えはあるが、掛け声がどうだったかわからない。梯子を使 って複数の人が力を合わせるので勿論掛け声はあったでしょうね。歳の神の木 は「セイノ!サイノ!」とだんだんと垂直になりつつある。とすると、その木 の傾きを確認して力の入れ具合の差配をする人物がいた筈である。その御仁は さるっぱかま(フンゴミ)にツル(雪踏み用の大きいカンジキ)姿、 手ぬぐいの頬かむり、天気具合によっては蓑笠で装備。
 「いまちっーとかみっての方を上げて」
 「川の方に一寸ほど曲げて」、などと差配する。
上手(かみて)下手(しもて)、そして山側と川側だけて平地の四方(方角) は指せるのである。(想像その1)
 「よがべ」
 「さすけねが?
 「さすけねさすけね、サイギョウサイギョウ」、、、(想像その2)
と言ったかどうかはわからない。「サイギョウ」を字面だけで読むと 力を入れるための掛け声には聞こえないような気がするので、想像しただけで ある。
 昭和30年代の終わり頃には、藁筒以外にタイヤをつけて燃やしたりした乱 暴な時代もあった。
 乱暴ではないが現在はしてはいけないことにあげられるものは、さっち らっかかもしれない。白樺の樹皮に20センチほどの高さで切り目を入れ てくるりと一周り剥いで乾燥させたものである。お盆の迎え火や送り火を焚く 盆竈(ぼんがま)を作り、その竈(かまど)で燃やすのである。スルメのよう によく裂ける。

 地名、佐倉坂ノ上(小野川:さかのうえ)/酒屋(下中津川)/ 酒屋台(下中津川)/沢向(松山)/山階山(大芦)/ 山神平(大芦:さんじんでぇら)/三百苅(佐倉)/ 猿館(喰丸)。
(追補:地名)
(07/11/29)

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【し/じ】
 じんこさっこ。昭和30年代に大芦で流行った囃し言葉。

 地名、下中津川 下赤田(大芦:したあかだ)/ 下川原(大芦:したがわはら)/下川原(小中津川:したがわら)/ 四百苅(下中津川:しひゃくがり)/下風下(大芦:しもかざした)/ 下日影(喰丸:しもひかげ)/宿ノ原(下中津川:しゅくのはら)/ 新田(下中津川:しんでん)/新田裏(下中津川:しんでんうら)/ 新町(野尻:しんまち)。
 山谷峠、志津倉山獅子落新鳥居峠石白沢白樺谷地白森山白沢白沢山
 施設建物(一部旧)等、獅子落洞門しらかば会館しらかば荘下中津川小学校下平運動公園昭和村運動広場昭和の森昭和ホーム昭和温泉昭和館昭和小学校昭和診療所昭和中学校昭和保育所正法寺
 各種団体、昭和花き研究会昭和村さゆり会昭和村ワークキャンプ昭和村花き振興協議会昭和村観光協会昭和村教育委員会昭和村公民館昭和村秋味まつり実行委員会昭和村商工会昭和村大芦さつき会昭和村役場昭和村旅館民宿飲食業組合JA会津みどりJA生産部会
 忘れちゃいけない、じねんとじゅうねんじゅんさい甚八羊羹
(追補:地名)
(07/11/29)

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【す】
 鈴木姓(鈴木家)の発祥は、紀州熊野権現の神官とどこかで聞いた ことがある。下中津川には熊野神社がある。今でも熊野神社の近くには 鈴木さんが多いのである。

 雪国の山裾を走る道路には、斜面からの雪で道路が塞がらないように庇(ひ さし)の形状の雪よけ施設がある。スノーシェードという。

 地名では、住吉(下中津川:すみよし)を見つけた。

 他に【す】の付く言葉は、スノークインスノークレストスノーベール、とあり、全てかすみ草の品種らしい。スノー(SNOW) から雪を連想すると、雪ん子/雪ん子360/雪景色、とが見つかった。これ も全部かすみ草の品種名である。
(追補:地名)
(07/11/29)

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【せ】
 大芦字関場。関所でもあったのだろうかと考えた。
 ついでに地名の発生という事を考えた。村の(検索できる)住所一覧を作成 してあるので、分類を考えてみた。
(保持している一覧は、住所検索分の一覧(121件)と、地図から拾った山、 川、沢、沼、池、峠などや通称地名で170件ほど、一部重複あり状態で合計 300件弱です。07/11/30現在)

 地名は、ランドマーク(山、川、沢、沼、池、石)、形状(平、台地、原)、 位置・方向(前後、上下、入向崎、内外、表裏、渕尻、東西南北)、採取物備 忘地名、気象、作業の場所(田、場)、宗教物を含めた施設、建物、時系列 (新古元)、外部への通行路(峠、沢)、伝説を含めた人物・物の怪、共同施 設、地域外第三者による管理用名称、外部移入者の持込み地名などに分類され るのではないかと考えてみた。これらの分類の順序も途中からは少し自信がな くなってきているが、大体は発生順に近い分類ではないかと思っている。

 それでは、関場はどの分類にあたるのか。と考えると途端に曖昧にな ってきてしまう。
 作業の場所と考えてみる。村内の地名で作業場と思われるような地名は、根 堀場(両原)、馬場(佐倉)、干場(大芦)、畑小屋(大芦)などが考えられ る。
 関場が関所の機能を果たしていたとすると、地域外第三者による管理用か共 同施設名かも知れない。地図でみても、関場から東南方向には畑沢川が流れて その川に沿って軽石峠転石峠に 繋がる道が延びているのである。とすると、関場は集 落の結界であり、マレビトを誰何(すいか)する場所であったのかもしれない。
 そのあたりの昭和40年頃の実際の経験を思い出してみる。その頃は、畑沢 川の途中がジャカゴ(蛇籠)で護岸工事?がされているのである。私達の両親 の時代には失対(失業対策)事業で狩り出された人も多いのではないか。
 いや失対事業の話ではない。その川の話である。ジャカゴで流れが止められ て一角が深いプール状をなしている。夏場は水遊び、それも泳げる!場所とし て大芦の子供達が沢山集まった。
 つまり、この場所は「堰」となっているのである。殆どの家の前には生活水 と水田に流す為の小川(用水路)が流れていたはず。昭和40年代よりもずっ とずっとずっと昔から、ここ、関場は中組、赤田の田んぼを水で潤してきた 「堰場」だったのではないか。だんだんとそう思えてきてしまった次第。
 よしなし事です、読み流して下さい(笑)

 その他地名、瀬戸川原仙石沢
(07/11/30 08/03/13)

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【せ】改め
 前項【せ】で、関場堰場だったのではないかと書いた。
  お恥ずかしい。堰場という地名は昭和村に既にありました。

 関場は堰場から来たのではないかという想像まではよろしい。論点もよろし い。がしかし、村内の他地区の地名に堰場が既に存在するのに、そのことに言 及しないでこのような論述の展開ではあまりにも無知、陳腐ではないか。
 わたしは、鼻高々でちょいちょいと書いた。が、地名の発生までをエラソウ に書くには収集数が少ないのではないかと思えてきました。もっと地名は無い だろうかと探してみました。

 本日(07/12/01)は休日なので一日かけて、519件の村内地名を収集しま した。大雑把な単純重複分を削除744件、読みかなを振った重複分を差引い ても600件ほどの件数としてみました。

 昔から稲作を中心とした地域で、共同施設としてのの付く地名が 無い筈が無いことを事前に熟慮すべきでした。
 前論で言えば、「何故昭和村には堰のつく地名が無いのだ。不思議である」 とでもまとめうべき論なのである。

 はい、堰の付く地名は、こんなにありました。まだまだあるかもしれません。 訂正します。
 堰ノ沢(野尻)/堰下(下中津川)/堰根(下中津川)/ 堰根(野尻)/堰場(下中津川)/堰場(小野川)/ 堰場(野尻)。

 その他新規発見地名、仙洞塚(下中津川)。なにやら妖しげな風情 があるも、文字で見つけただけなのでどこにあるのかはわからない。
(07/12/01)

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【そ】
 そうだごどあんめ、そんなことは無いだろう。 そうだごどあんめした、そんなことは無いでしょう。 そうだごどあんめしたな、そんなことは無いでしょう、ねえ。 そうだごどあんめしたなそうだべ、そんなことは無いでしょう、ねえ、そうだろう。 そうだごどあんめしたなそうだべした、そんなことは無いでしょう、ねえ、そうでしょう。 そうだごどあんめしたなそうだべしたな、そんなことは無いでしょう、ねえ、そうでしょう、ねえ。

 村内地名、反間(そりま)/曽利町(そりまち)。
 村外では、草加市とは生活交流提携、各種体験ツアーなどの交流事 業や、6月から11月までは「田舎の野菜便」として不定期イベントに参加、 即売会などが実施されている。

 染めかすみ草と、矢の原の蕎麦畑の花は、昭和(奥会津)の 風物詩としてテレビニュースなどで全国区になりつつある。
(07/12/06)

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【た/だ】
 川口から舟鼻を抜けて田島町へと、大体3時50分の時計の針状にあるのが、 国道400号線である。村内にはもうひとつの国道401号線が走っている。 いや、国道の話ではなかった。
 400号線の大体真ん中あたりを役場として、北西に向かって見える山が、 大妻山御神楽山大妻山である。なんとなくマッターホルンに見え ないか。ただ、この山をマッターホルンと呼んでいたという話は聞かない。 (追補:マッターホルン)

 南東に向かうと、大仏山という山が見える。この山はからむし織の 里の写真では殆ど被写体となる山である。この山は、「へ」の字に見える。こ の山を「への字山」と呼んでいるのは本当である。
 400号線に沿って佐倉を過ぎるあたりからは「への字」は見えなくなる。 喰丸の人はこの山をどのように呼んでいるか。山頂が見えないので、ひょっと して山とは認めていないのかもしれない。その裾野には鎮守様があるので、山 というより森としてたいせつなものと思っているかも知れない。喰丸 には館腰山があるので、他(ほか)の山はいらね。そんなことはない か、ないでしょうね。

 山名、 館垣山高井原山高館山高橋沢山高松峰高倉山滝ノ岐山滝沢山立裏山田尻山
(補足:、のつく山 09/08/14)

 水関係、 岳沢高橋沢高平沢滝の岐沢滝ノ沢(下中津川、大芦)/ 田ノ口沢田ノ沢滝谷川玉川(玉川渓谷として、1988(昭和61)年「ふくしまの水30選」に選定)/ 卵池代官清水

 地名、 館越(喰丸、野尻)/ 館裏高井原高遠目高佐倉高畠高畔大平作滝ノ上滝ノ入辰雪棚田田中(下中津川、大芦)/ 田面テ反町大仏

 駒止湿原には、タテヤマリンドウタムシバ
 村関連団体では、 只見川電源流域振興協議会誰もが主役の村づくり会議
 (補足:誰もが主役の村づくり会議→苧麻倶楽部 09/08/20)

(07/12/10)

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【ち/ぢ】
 中学校の校歌(昭和中学校校歌)
    一.
    博士山 遥(はる)かに仰ぎ
    学舎(まなびや)は 甍(いらか)聳(そび)えて
    弥(いや)高き 理想を掲(かか)げ
    若き血の 高鳴るところ
    永久(とわ)に栄(は)えあれ我等(われら)が母校 我等が母校

    ニ.
    野尻川 せせらぐほとり
    学舎は 静かに清く
    健(すこ)やけく 倦(う)まず弛(たゆ)まず
    若鮎(わかあゆ)の 伸びゆくところ
    永久に栄えあれ我等が母校 我等が母校

    三.
    瑞穂(みづほ)垂(た)る 広き挟間(はざま)に
    学舎は 誇り秘めつつ
    国里(くにさと)の 力(ちから)育(はぐく)む
    若人(わこうど)の 集えるところ
    永久に栄えあれ我等が母校 我等が母校

 昭和中学校校歌の作詞者は、永好(ながよし)先生です。
栗城永好先生のご冥福をお祈りいたします。

 地名、築島長命寺陳場
 苧麻庵は、2002(平成14)年、郷土食伝承館として落成。
(07/12/13 07/12/14)

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【つ】
 真冬には村外に出掛けるのも、村内に戻るのも大変であった。筈である。 村内の集落間移動も大変なのである。大変というのは車が通行できないからと かではなく、徒歩での話である。
 除雪用ブルドーザーが村内に配置されたのは、オリンピックの年1964 (昭和39)年のことである。冬は徒歩もしくはスキーで動くしかない。風の 日も吹雪の日も大雪に埋もれても毎日集落間を移動していた人がいた。郵便を 配達してくださった郵便局の方々である。

 冬季に村外に出るには、川口に出るか田島に出るしかない。これは移動手段 (徒歩と車)は違ってきているが、現在でもほぼ同じであろう。

 むかし、よく聞いたのが「フネハナはナデ(雪崩)でとおれない」「ツ ナギもダメだ」。このツナギの話である。耳から聞いた地名でしか無いの で、「ツナギ」は「繋ぎ」という意味だとずっと思い込んでいた。あるときに 地図だったか写真だったかに載っていた地名(説明)を読んだ。「綱木」 とある。これは「ツナキ」と読んでしまったので、「ツナギ」に繋がらなかっ た。が、後になって、ふと、「ツナギとは綱木のこと」であったと理 解した。
 なんだ、「繋ぎ」ではなかったのかとがっかりした事がある。が、綱木もよ くみるとしたたかな地名に見えてくるではないか。あの雪に埋もれた渓谷沿い に、ナデに巻き込まれないように木の枝を伝いながら通過したのであろうと想 像すると、まさに頼みの綱とする木の地ではないか。
 A地点であの木につかまれば、ナデを避けてB地点にたどり着けると知る為 には雪の無い時季に何度も歩いて学習していなければそういう事も出来ない。
 むかし、冬期に綱木を抜けて村外との通行をするには、こういう経験知の繋 ぎ(文化)があって実現できていたことだろうと思う。
 このように考えると、綱木は単なる地名ではない。「綱木とはつなぎの こと」である。
 着地成功(^^;

 地名、 束根松坪ノ目坪ノ目山附廻躑躅原
 ツルコケモモは、駒止湿原の高層湿原植物(昭和村HPより)とある。
(07/12/14)

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【て/で】
 11月に藁苞(わらづと)の納豆をいただいた。むかしは、炭火入りのコタ ツに掛けた布団の中で醗酵させていたのを見た覚えがある。その匂いと温もり さ加減で醗酵度を調整していたのだろうか。こういった実技になると途端に無 知さが露呈してしまう。
 開いてみると、豆の周りにほのかに白い納豆菌がまとわりついている。箸で せせって小どんぶりに入れてかき混ぜる。さほどの糸はひかない。箸で一粒つ まんで食べてみる。まだ少し茹で上げたばかりの時の豆の風味がある。
 さて、どうするか。
まずは、ネギを刻んで醤油を足して入れてかき混ぜてみた。ご飯の上に載せる。 粒々はさほどには絡みつかないので豆粒の厚さでご飯の上に並ぶ。少し味覚の 記憶が戻ってくる。
 「山崎の味に近いぞ、」と思った。
ただ、何かが足りない。カラシとか市販のパックで付いてくる薄口醤油などで はないことは確かだ。カラシとか薄口醤油では味覚と匂いの記憶まで遠ざかっ てしまう。
 なんだ、何が足りないのだ。山崎の六角形のちゃぶ台を思い出した。あの六 角形のちゃぶ台は片付けられるように台形状の二つのちゃぶ台に分離すること が出来た。頭の中でちゃぶ台を繋いでみたり離してみたりしてみた、、。
 思い出した!デエコンバ(大根葉)のキザミが足りないのだ!
 でれすけ!ニラも隠し味で入っていなかったか、、、。
 (山崎の味とは、大字大芦字山崎の味のことです)

 豆は田の畦(くろ)をでろ(泥)で平らにならして植え付けたので はなかったか。あれは小豆(あずき)だったか、。

 地名と目印、寺坂寺林天狗屋敷天狗様天沼出入口出入沢。 (07/12/17)

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【と/ど】
 いわゆる厠(かわや)、便所のことをとんぼと言わなかったでしょ うか。確実に記憶にあるのです。とすると、いわゆる昆虫のトンボの ことは違う呼び名があったのではないかということは容易に想像できるのです が、分からない。まさか秋津(蜻蛉:あきつ)と呼んでいたなどということは 無いとは思いますが、あかねとかシオカラとかヤンマとか呼んでいたのでトン ボを総称では呼ばなかった。まさか、まさあかねぇ。

 そこでヤンマを辞書で調べてみると、「トンボの総称」ともある。こうなる とまた妄想が湧き出す。仮説です。

 むかしは「便所のことをトンボ」といって、「トンボのことをヤンマ」と呼 んでいたので、呼称としては明確な棲み分けが出来ていた。混乱することは無 かった。
 昭和30年代になって、耕運機のヤンマーが農山村地を席巻した。
 そこで、「耕運機のことをヤンマ」と呼ぶようになり、ヤンマは押し出され て「ヤンマのことをトンボ」と呼ぶようになった。最後に、トンボが押し出さ れて、「トンボのことを便所」というようになってしまった。テレビラジオの 標準語運動がこれらに拍車を掛けていた。
 ♪ヤンボー、マーボー、トンボー。
  (補足:ヤマトンボのこと 09/08/14)

 トキソウトンボソウは駒止湿原で観察される植物。

 戸中沢時ノ声鳥居峠境の沢藤八の滝木賊平橈松橈松浦百目貫(どうめき)/ 泥沼土合堂ノ下堂ノ沢堂ノ沢向堂眼
(07/12/18)

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【な】
 地名一覧をじっと眺める。と、雪頽ツキという場所がある。大芦に ある。ナデツキだろうか。明らかに気象現象由来の地名であろう。雪 の付く場所はもう一ヶ所、大芦に「辰雪」とあるが、この「雪」は気象現象の 雪なのか単なる当て字なのかは分からない。
 気象現象由来と想像される地名を抜き出してみる。「雨ケ沢」「(下)日影 (久保|向)」「霧久保」「(上)風下」などが見つかる。
 ところが、喰丸には「風出屋」という地名がある。風神雷神でもお住まいの 処かと考えた(考えない!)。風を発生させる場所、洞穴のようなものだろう か。この「屋」は職業などの「××屋」の意味ではなく建物を指す「屋」だろ うか。
 と考えて、これはふいごのことで蹈鞴(たたら)場ではないのかとの勝手な 帰結に到る。喰丸は鉄製品の生産地でもあった、というのはどうだろうか。そ の補足根拠として「鍛治林」という喰丸の地名もあげておこう。
 なじょだべ、この説は。
 たたらを踏んでしまったかしらん。

 地名、場所一覧、 雪頽ツキ中の沢中ノ本田中ノ又中ノ又平中井中久路中久路山中見沢中向中広面中松坂中新田中川原中組中村中村山中沢中坪中田(下中津川、野尻)/ 中渡戸中島(下中津川、野尻)/ 中島向長トロ長田奈中沢奈良布鍋石 楢布下苗代地区苗代面並松山名子免梨ノ木下
  鍋石の写真追加(09/03/13)
(07/12/19)

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【に】
 苧麻庵(http://www.vill.showa.fukushima.jp/chomaan.stm) の定番メニュー「苧麻膳」にも入っている会津郷土料理のひとつに、鰊の山椒漬け があります。2007年、「郷土料理100選」として農林水産省に選定されました。

 駒止湿原には、ニッコウキスゲ

 地名一覧、西山向西本田二ノ沢二十苅二百苅(大芦、野尻)。

 地名で、「苅」が連続しました。この地名は、太閤検地に始まる、年貢納高 の規準として田んぼの広さを代官様(またはその代理人)によって勝手に命名 された歴史ある地名ではないかと気づいた次第。
 「苅」の付く地名一覧、二十苅/ 入五十苅/ 下五十苅/ 八十苅(野尻、両原)/ 百苅田(下中津川、大芦)/ 二百苅(大芦、野尻)/ 上三百苅/ 下三百苅/ 三百苅(下中津川、佐倉)/ 四百苅(下中津川、小野川)/ 五百苅。
 同じ地名がありますね。ただし、集落が離れている。おそらく同じ地名の発 生している集落は、これらの地名が命名された時代には違う管轄の村(柵?) だったと考えることは出来ませんか。
 たまたま、同じ管轄地内で同じ広さの面積となった場合には、大芦の例では 上三百苅と下三百苅という具合にして地名をユニーク化しています。五十苅の 例は両原の例です。

 また、よく見ると、百苅だけが、「百苅田」とわざわざ「田」を付けて命名 しています。なぜかというと、 「百苅」 というのは普通名詞として辞書にも載 っているのです。それでわざわざ「田」を付けたものと思われます。わたしの 辞書では「百刈」として載っていました。「苅」も「刈」も殆ど同じ意味です。 むかしの手書時代の話ですので、役所?によっては「苅」だったり「刈」だっ たりするのでしょう。

 さて、ここです。昭和村内の地名では、全て「苅」と草冠(くさかんむり) となっています。
 読売新聞の地図サイト(http://map.yomiuri.co.jp/custom/yomiuri/) から、登録してある福島県内の地名(住所)を入手して整理してみました。 34、215個所の地名となりました。福島県内の地方自治体(市町村)数は 60(2007年12月現在)あります。そのうち少なくとも21市町村内に は苅(刈)の字のつく地名があることが分かりました。

 全部が「刈」の字の自治体。
    伊達郡桑折町/ 伊達市/ 河沼郡柳津町/ 西白河郡西郷村/ 石川郡玉川村/ 南会津郡下郷町/ 福島市/ 耶麻郡北塩原村
 全部が「苅」の字の自治体。
    会津若松市/ 河沼郡湯川村/ 南会津郡只見町/ 大沼郡金山町/ 大沼郡昭和村
 「刈」と「苅」が混在している自治体。
    河沼郡会津坂下町/ 喜多方市/ 大沼郡会津美里町/ 南会津郡南会津町/ 耶麻郡西会津町/ 耶麻郡猪苗代町
 「苅」の付く地名、特に只見町、金山町、昭和村と並んでいるとなれば、こ れは南山御蔵入の地域と一致しているのではないかと仮説をたててみました。 では、三島町、檜枝岐村はどうしたと思われるでしょうが、この2町村には 「苅」または「刈」の付く地名がないのです。
 混在している自治体をじっと眺めます。これらの市町は、近年に市町村合併 をしているのではないでしょうか。「苅」文化と「刈」文化がごっちゃで合併 しているのです。要らぬお世話ですが、合併は成功したのでしょうか?
 わたしは、仮に合併しても「町」にはして欲しくない。もっと言えば、「奥 会津村」として欲しいです。合併されてしまった地区は詮方無しとして、「奥 会津村」とすれば、残っている候補は只見町、金山町、昭和村、三島町が「苅」 文化圏と判断しても良いでしょう。会津美里町、南会津町は拙速過ぎたのでは ないでしょうか。
 少しカリカリし過ぎましたが、変わらないという戦略もイノベーションと申 せましょう。失礼致しました。
(07/12/21 07/12/28)

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【ぬ】
 ヌマガヤ沼の沢沼尻沼田(喰丸、両原)。
 採取した「ぬ」の言葉は全部に「沼」がついた。
 では、福島県内34215個所収録地名で、沼のつく地名ベストテン!
 沼田(36件)/ 赤沼(14件)/ 沼尻(10件)/ 沼ノ上(9件)/ 沼頭(8件)/ 長沼(7件)/ 沼平(7件)/ 二ツ沼(5件)/ 沼ノ作(4件)/ 沼ノ平(4件)/ 天沼(4件)と並びます。
ついでに、県内で同一地名の最大多数を調べてみる。「前田」が151箇所で ダントツ1位。「沼田」は36箇所で60位です。
 以上、ぬかりはありません。
(07/12/22)

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【ね】
 猫沢根岸根岸前根際(小野川,野尻)/ 根堀場
(追補:根堀場のこと)

 採取地名では、「根」が続いた。
 では「根」、、、ではワンパターンなので、「猫」にしましょう。

     ぼくは ふゆやすみの けんきう(研究)で せふわ(昭和)むらの
    ちめいを しらべてみることにしました。
    をのがは(小野川)に ねこさは(猫沢)といふ ちめい を みつけました。
    それで どうぶつの なまへ(名前)の ついた ちめい を さがして
    みやう と おもひ(思い)ました。
     おとおさんの ぱそこんは てう(超)いうしう(優秀)だと
    いつも えばっています。
     どのくらい すごいのかは [検索:地名、動物][Ent]と
    にふりょく(入力)してみなさい と いひ(言い)ます。
     うゐゐゐん がったん にょろにょろ、、、
     すると このやうな どうぶつが でて きました。

    うし(牛)
      牛首城/牛中背
    うま(馬)
      馬追山/ 賀久馬/ 馬場/ 馬木/ 馬木場(下中津川、佐倉)
    くま(熊)
      熊ノ堂
    ねこ(猫)
      猫沢
    むじな(貉)
      貉沢
    とり(鳥)
      鳥居峠
    クイナ
      クイナ山
    しし(獅子)
      獅子伏(下中津川、小中津川)/獅子落
    ばけもの(化物)
      化物沢

     しし とか ばけもの が どうぶつ なのかどうか ぼくには
    わかりません。
     ちち(父)は 「しし といえば猪のことに違いない」。とか
    「牛中背は、牛の背中のような凸型リーマン曲面の説明だから、
    動物範疇外、」。
    「いや、牛を泣かせるほどの急峻な坂道かもしれないので、
    動物由来地名にちまいない」。
    「賀久馬は、馬がカクッときてしまうほどの峠だろう」。とか
    てきたう(テキトウ)な ことを いふ(言う)ので よくわかりません。
     でも ばけもの は まさか どうぶつ ではないと おもいます。

     おとおさんの はなしが つかれる はなしばかり なので 
    こわくなってきました なので ねることに しました。
     ばけもの が でてきたので こわくなった のでは ないです。
     ぼくの むらでは つかれた ことを こゑい(疲れる)といふのです。
     ここの さくしゃ は 【こ】のらんでも おなじ ネタ で
    ぎゃう(行)を かせいでいます。
     ちいさいころの けいけんが トラウマ(虎馬)になっているので せうか。
    あら ここにも どうぶつが でてきました わん。
    (せんせい このさくぶんは あかペン を いれないで ください)

     ねもはもない(根も葉もない) かたり(騙り)が 
    たいへん よく できました◎
     先生より

09/10/09 (追補:猫沢のこと)
09/10/09 (追補:クイナ山)
09/11/13 (追補:賀久馬(カクマ))

(07/12/26 08/05/21)

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【の】
 お隣の越の国、新潟県には大河が2本流れている。阿賀野川と信濃川である。
 どこかで聴いた(読んだ)話。信濃川の源流は信濃の国(長野県)である。 信濃の国ではこの川を千曲川という。この川が越後に入ったとたんに信濃川と なる。信濃の国からいただいたという感謝を込めた川名なのである。長野県の 元知事氏の発言だったかもしれない。
 では、阿賀野川はというと、現在では新潟県の地名となっているが、むかし は天領か会津藩のお預かりであったろう、東蒲原(阿賀)の国からのいただき 物という敬意がこめられているような気もする。

 野尻川は流れ流れてどこどこ行くか、を考えたのである。

 野尻川は旧野尻村を流れている川である。このあたりは越の国の川の命名作 法とは若干違っている。どこから野尻川と呼んでいるかを地図で調べてみた。 三引沢と滝の岐沢の合流地点、両原の先の日落沢あたりから野尻川となってい るようである。旧野尻村のだいぶ上流から野尻川と名づけている。野尻村の人 は、越の国のように、上流からのおあまりをいただくという謙虚さがないのか。
 と考えてから気づいた。野尻川の命名者は野尻の人ではないのである。 金山谷の人が命名したのであろう。
 百ほどもの沢と川を引き連れて、川口まで流れ、尾瀬沼を水源として流れて きた只見川となる。川口は間違いなく(野尻)川の終点なので命名された地名。  只見川は、山都(やまと)町(現喜多方市山都町)で猪苗代湖から流れてく る日橋川と合流して、阿賀野川となり日本海に注ぐ。阿賀野川は「江戸時代は、 会津への水運の要路」と辞書にも載っている。さすれば、山都は越の文化と会 津文化を繋ぐ、「山の都」であったのであろう。奥会津の麻、からむし(苧麻) も運ばれたかと、思いをはせるのである。
(追補:阿賀野川のこと)

 昭和村の川と沢を眺めていると、全ての源流は村内にある。「分水嶺の村」 と称しても良いのであろう。
 また、昭和村から村外に流れる川はもう一つ、博士山水系を流れる滝谷川は、 柳津町に抜けて、只見川に出会う。
 実は村外に流れる水流はもう一つある。野尻の「小はげ沢」という沢である。 この沢は、北進して金山町に入りそこから西進して「小川」という名前となる。 一旦、村外に出て玉梨付近で、村内から流れてきた野尻川と合流するのである。 よかったね、出会えて(^^;

 地名は移動することはないが、川の流れは移動するのである。下流に使って いただく気遣いと、上流から宝としていただく謙虚さが、文化を伝播してきた のではないだろうか。

 地名、 登戸野沼野尻
 駒止湿原には、ノリウツギ

 突然ですが、ゲーゲーと吐きそうになることを、のぜるって言いま せんか。昭和言葉かな。
(07/12/29)

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【は/ば】
 中学一年生の時の担任は、長谷川先生でした。長谷川先生は、大学を 卒業したばかりの新任の先生。中学校は1学年3組ありました。なぜかこの年 の同級生は一年から三年まで同じ担任の先生でした。
 その頃の中学校の応援歌(壮行の歌?)には、「♪おお、三百の○○○○○」 とある。ずっと、○○○○○の部分が思い出せないままである。高木先生が講 堂の舞台の上で応援の振付け付きで教えてくださった。
 この、「♪おお三百の♪」とは、その時代のほぼ全校生の数である。昭和4 0年頃である。1クラス30数名で1学年3組まであった。分校も1校あった。
 その頃、2歳年上の兄達はよく玉川にキャンプや夜突きに出掛けていた。そ れを真似て、中学一年のときに、3組の友達と長谷川先生を誘ってキャンプに 出掛けた。今では信じられないであろう。自転車の荷台に道具と米、味噌、醤 油、塩、香辛料、カレー粉、ジャガイモ、ガラス箱、ヤスなどを積んで行くの である。
 宿泊地は畑小屋分校。大芦小学校の分校である。その頃、分校には 鍵がついていたのだろうか、思い出せない。「はいっとう!」といっ ても、管理人も誰も居なかった筈である。
 そこを基地として、川遊びをして、突いたイワナを焼いて食べる。一緒に行 ったのは、ヨシユキ、マサイチ、カオル、ケンキチだったか。
 長谷川先生は、この時の経験(キャンプ)をモチーフにして、松本清張をも じった杉本迷張だったかのペンネームで、推理小説を書いた。どこかに発表し たという話は聞かなかったが、読ませていただいた記憶がある。

 地名、花坂橋爪原入峠袴沢博士博士山博士峠畑山(佐倉、小野川)/ 畑小屋畑沢川畠山八十苅(野尻、両原)/ 八幡原八反田八反田山根八反田川前葉木田林崎鋏館化物沢馬場

 矢の原には、ハッチョウトンボ
 雲古のことは、ばっこといった。
(08/01/07)

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【ひ/び】
 住所を調べていた。役場から下中津川を通って野尻に行く途中の集落、「中 向」といった筈。検索してみた、見つからない。おーい、中向はどこに行った。 中向は住所としては無くなっている(ようである)。集落(地区)としては、 野尻に吸収されたのでしょうか。しかし、わたしの年賀状用の住所録には中向 は存在している。年賀状も戻ってきたという記憶も無い。郵便局の方がしっか りと解釈して届けて下さっているのだろうか。民営化しても届けてくださるだ ろうか。心配したが今年(08年)も届いているようである。
 昔から「中向」は通称だったのか、それとも本当に区画整理等で野尻となっ てしまったのか、わたしの現在の知識ではこれ以上はわからない。
 「中向のお不動様の縁日」は、「野尻のお不動様の縁日」といっているのだ ろうか、と考えると地名(住所)が無くなるのは寂しいことである。

 中向の現在の住所はどうやら野尻字(ひがし)という住所らしい。 「ふるさと通信」の発行所である「ペンション美女峠」の住所が「野 尻字東」となっているのでわかる。

 地名等一覧、 一ツ坪田(下中津川・大芦)/ 広田面(下中津川・野尻)/ 東ノ入日影日影久保日影向日影向乙日影向甲日落沢日落沢山百苅田(下中津川・大芦)/ 平田山冷湖の霊泉冷湖山屏風岩(村外)/ 琵琶首美女峠

 最近になって、地名に関する書籍を読んでいたら、一つ坪という地 名は条里制の名残の地名(想像)らしいということが分かりました。このこと を書くにはあまりにも付焼刃な知識にすぎる。ついつい曲がってしまった。

 琵琶首・獅子落トンネル県道柳津昭和線、2007年11月20日開通。
 駒止湿原、ヒオウギアヤメヒメイチゲヒヨドリバナ
 矢ノ原高原、ヒツジグサ
 村の木はヒメコマツ、村の花はヒメサユリ。これは、「交流移住」の 審査試験に出ます!。うそです。

09/11/13 (追補:日落沢のこと)

(08/01/16)

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【ふ/ぶ】
 「これ、ぶっくんにぇか?」。「なんぼだ?」。「一万円」。「ず ねーのはぶっくんにぇな」。両替することをぶっくすという。
 器が割れたり壊れたりすることなどは、ぶっくれる、器を割ったり 壊したりすることは、ぶっくすである。これは自動詞と他動詞の説明 なので、「割れる」と「割る」と同じで当たり前といえば当たり前の日本語の 活用の話ではある。ところが、お椀を一つ壊してしまうことを、「One B ooks」という。ゆわねー!。

 ふるさと昭和村会という任意団体?がある。村役場の総務課企画係 の方々が取り仕切ってくださっていらっしゃる。年に一度は総会もある。年会 費をお支払い(振込)しておくと、毎月村の広報も送付されてくる。

 地名、その他。 古屋敷古川古薬師堂舟ヶ鼻峠舟鼻トンネル(1992(平成4)年開通)/ 舟鼻山冬口山冬水沢不動沢不動沢線(1974(昭和49)年林道開通)/ 舞台田分代田文伍屋敷
(08/01/17)

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【へ/べ】
 失敗した。行き当たりばったりで、見通しをつけていなかった。 ヘエ(魚類ハヤ、赤腹)とヘエカキ(灰掻き)ぐらいしか思い つかない。地名もみつからない。への字山は【だ】の項で使ってしまった。
 下は、からむし織の里から見た「への字山」です。写真付掲載でごまかす。

南東に向かうと、大仏山という山が見える。この山はからむし織の 里の写真では殆ど被写体となる山である。この山は、「へ」の字に見える。こ の山を「への字山」と呼んでいるのは本当である。
【だ】の項より転載。
画像:奥会津・昭和村 の過去掲載画像(2007/12/05)です。一部切取加工。
(08/01/18)

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【ほ/ぼ】
 雪踏みをしていない新雪の雪の原をぼほらといった。

 「ほ」のつく名前と地名は、五七五で覚えておくと忘れない。
    本名
   干場 細越
   堀ノ内        ほう・・・

 「ほしばさま」とは聞いたことのある言葉。「干場さま」だったのか「星婆 (ばぁ)さま」だったのか分からない。わからないので、同じ読みである「星」と「干し」 を繋いでみようという試みである。
 「名字と日本人 先祖からのメッセージ」(武光誠・文春新書)という本によると、 星は星宿信仰とよばれる星まつりをした家の名字。とあった。
(追補:星の祭りのこと)

 雲があれば星は見えない。晴れていなければ物が干せない。星まつりをする神聖な場所 が「星場」から集落の共有の場所としての「干場」となった。とすると、 「干場さま」は辻褄があう、、、だんだんあやしくなる。

 福島県内で「干場」の付く地名を探すと、郡山市に「稲干場」と「苧干場」が見つかる。 これは、対象物(稲と芋(いも)苧(う))が はっきりしているので、星との関係は無関係の関係。
(追補:苧(う または お)のこと) 08/06/28

「ほし」の付く名字は「保志」もある。 これは、なんとなく苗字必称令あたりの時代に転化したものかなどと考える。ほかに福島 県人で「ほし」の付く名前の有名人には「つのだ★ひろ」がいる。ほうしたり! (←このギャグはどこかで読んだか聞いたかした気がしてきました。模倣でしたらすみません。)
(08/01/27)

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【ま】
 まったくもったいない話である。
 昭和村大芦には、松茸山という山がある。
 そうだのは、日本国中に観光用で「松茸小屋」とか「松茸山」何ぞはどこに でもあっぺした、と思う無かれ。それらは単なる一般呼称である。大芦の松茸 山は厳然たる固有名詞の山の名前としてあるのです。山の名前としては唯一、 他には無いのです。つまり、不二の山です。
 わたしは、この「あいうえお」を書くにあたって、まずは素材としての山と 峠、川、沢の名前を地図で拾ってみたのです。へえ〜と思って、松茸山を検索 してみたら、1件しか見つからないのです。
  
 日本一の松茸山奥会津ブランドにしよう!
 本当に断言できるかといわれると少し自信は揺らぐのですが、世の中には似 たようなことをしている御仁がいらっしゃった。
 野々村邦夫さんという方が、朝日新聞のアスパラクラブというコラムで、2 004年11月25日に既に発表されていること(事実)を見つけてしまった。 残念!先を越されていた。
     国土地理院の「数値地図25000(地名・公共施設)」 (地図とはいうもののCD-ROMに格納されたデータ)は、2万5000分の1地形図に 記載されている地名と公共施設名を網羅していて、 これをパソコンにセットして調べることができる。 「松茸」という地名は、全国どこにもないことが分かったがそれなら、 「山」で探してみると、何とあるではないか。福島県大 沼郡昭和村、地形図名でいうと「大芦」の中に「松茸山」という山があるのだ。
 この方は「30年余の公務員生活の大半は測量と地図に関係、99年、国土地理 院長を最後に退官。現在財団法人日本地図センター理事長。」というご経歴で ある。「地図一途」 (http://www.asahi.com/column/aic/Thu/d_geo/20041125.html)
 わたしは、どこにでもあるのだろうとの予断から入って、1件しかないこと に気づいた。地図の専門家の野々村さんは、無いだろうと思いながら探したら 1件あった!ということである。また、野々村さんはその出典を明示されてい らっしゃる。わたしのような行き当たりばったりの思いつきではないのである。

(補足:条件は違いますが、松茸のつく地名は「京都府京都 市北区西賀茂松茸嶋」がありました)

 一覧、 廻戸(下中津川、野尻)/ 廻戸沢廻山間々下(佐倉、大芦)/ 間亀丸山(佐倉、小中津川)/ 松ケ下タ松坂松山松平松木淵松木平(喰丸、両原)/ 松木平上風下松木渕前山(小野川、大芦)/ 前山下前川原前田孫太郎町裏的場馬木馬木場(下中津川、佐倉)/ 爼板原爼板倉
(08/01/27 08/02/01)

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【み】
 【み】の項である。この不定期連載は、【あ】からはじめて【ま】までは何とか書いて みた。1項をひとつと数えると31まで続けた。さて次の32番目が続かなくなった。
 団子挿しのミズの木のことでも書けばよいのではないのか。と思うのだが続か ないのです。
 博士山山麓に広がる白樺の林と群生する水芭蕉の水芭蕉としらかばの杜のこと でも書けばよいのではないのか。続かない。
 水無谷地は、駒止湿原の三湿原のひとつです、でも良いのではないか。う〜む。
 【み】の項になって、書いてみたいが書けない事案にぶつかってしまった。それを書く には引き出しも足りず。わたしの身の丈(たけ)力量知識経験では到底届かない。1回パ ス!

 ほぼ定型化(テンプレート化)しつつある、埋め草で埋め合わせ。
 駒止湿原の植物では、ミカズキグサミズギクミズバショウミツガシワ

 地名一覧、 宮の下宮ノ下(下中津川、野尻)/ 宮ノ上(下中津川、大芦)/ 宮ノ前(下中津川、喰丸)/ 宮原(小中津川、小野川)/ 宮沢宮中宮田(下中津川、大芦)/ 宮脇見沢見沢下見沢口(大芦、両原)/ 見沢山見沢川見沢峠山三引山三引沢三島水上水澄沢水石水無谷地道上ミ明山
(08/02/12)

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【む】
 むさしの(武蔵野)の語源がからむし説。
 「あいうえお」が書けなくなって久しい。忘れてしまうほどである。3月に、 金達寿氏の「日本古代史と朝鮮」(講談社学術文庫)を読んでいたら、カラム シの記述が出てきた。某所に掲載したものを再掲しておきます。

 目次、「帰化人」とはなにか/渡来人の文化/渡来人の群像/飛鳥の渡来人−二つの飛鳥/ 「大化の改新」と朝鮮三国/「壬申の乱」と朝鮮三国/統一新羅と日本仏教界−鑑真はなぜ来たか/ 民衆仏教者・行基/土器・陶磁器の渡来/古代朝鮮山城について/加耶(かや)からみた古代日本/ 日本古代史と朝鮮/一「任那(みまな)日本府」について/二歴史と民族について。
 渡来人の文化と帰化人の文化と日本固有の文化とはなんであるのか。という ような事が書いてあった(ような気がする)。ルビも多くて読みやすい。幾多 の引用文とそれらについての詳細な説明と金達寿氏の論点(主張)が書かれる。
わたしは主文とはさほど関係のない部分が気になってしまう。学術的問題や学 会論争は下地(知識)が無いので殆ど理解出来ないが、言葉の語源や語呂合わ せ(もしくは流通による変化遷移とでもいえばよいのか)はいちいちうなずか される。
     武蔵野の「武蔵の語源をたどってゆくと朝鮮の言葉にぶつかる」 と鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)氏が説いている。ムサシは朝鮮語 のモシ・シからきているという。モシは朝鮮の麻の一種で、シは種 子を意味する。
     昔の朝鮮の人々は夏、糸が細くてかろやかなモシの白衣を愛用し たそうだが、日本ではそれをカラムシ(苧)と呼んだ。おそらく麻 を栽培する土地をモシシと呼び、それがいつかムサシとなってより 広い地域をさす呼び名になったのだろうというのが鳥居説である。
    (P.48)(1976年7月19日づけ朝日新聞「天声人語」より)

    ■秦氏のこと
     秦とは古代日本の殖産(しょくさん)的大豪族(ごうぞく)であった秦氏の ことで、・・『日本史辞典』には、
     「秦氏の祖先は弓月君(ゆづきのきみ)とも融通王ともいわれね伝説的人物 であり、応神朝に百済から来朝し、秦始皇帝15世の孫と伝える。」といった 引用があり、その説明として、
    「秦始皇帝」うんぬんというのは後世に付会(ふかい)されたもので、平野邦 雄氏の『秦氏の研究』ほかにも明らかなように、この秦氏とは、高句麗(こう くり)・百済(くだら)とともに古代朝鮮三国の一国だった新羅(しらぎ)系 の渡来人であった。また、上田正昭氏の『帰化人』によると、秦氏の秦とは朝 鮮語のバタ(海)からきたものではないかとのことですが、もしそうだとする と、秦氏族のもっている特技の一つであった「機織(はたおり)」などという ものも、それから出たものではなかったかと思われます。
    (P.69〜P.70)
 駒止湿原の植物では、ムシカリムラサキヤシオツツジ
 地名、向山(喰丸、佐倉、野尻、両原)/向滝ノ上向田向本田貉沢
(08/05/20)

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【め】
 両原に明王山という山がある。郵便番号は、〒968-0213である。

 大芦の見沢川沿いにある道を上流へと歩いていく。ずっとずっと歩いていけ ば、明王山は川を隔てた左側に見えるはずである。橋がある。ある大雨と雷の 夏の日にこの橋からは、牛が落ちてきたことがある。「落ちてきた」と書いた のは、その橋の下流からわたしを含めた数人の子供が魚突きをしながら川をこ いでいて橋の下で雨宿りをしていたところに落ちてきたのである。わたしは近 所でも一番鈍(のろ)かったので、「よく潰(つぶ)さんにぇがったごと」と 噂になった。と、覚えていないことまで書いてしまうので、作り話になってし まう。

 もっと歩いていく。左に堰がある。大芦の中見沢あたりの田んぼの水と家の 前の用水(堀)はここの堰から引かれている。たしか、、?。

 もっと歩いていく。少しずつ山裾が道に近くなってくる。

 明王山まではまだまだである。

(08/06/26)

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【も】
 両原に持石(もちいし)という地名がある。郵便番号は、〒968-0213 である。

 大芦の見沢川沿いにある道を上流へと歩いている。橋を越えて堰を越えて、 少しずつ山裾が道に近くなってきた。道のすぐ左側の藪の向こうは川(見沢川) である。
 道の右側に続いていた田んぼがなくなるあたり。このあたりを持石平 (もちいしでえら)という。この表記(持石)かどうかは分からない。両原で はなく、大芦である。幼い頃は、お供え餅と石を想像していたような気がする。 もっちゃげるには大きすぎるような石のお餅。たんがけねほどの石だ。
ここを過ぎると、道路が殆ど同じ高度で川にぶつかる。ここにも小さな堰があ る。持石平の田んぼの水はこの堰から流れてくる。堰は材木とツタなどで作ら れていた。堰き止められた水面のあたりは川(沢)幅が少し広くなっているの で、水深といっても30cmもあるだろうか。その堰の堤の材木の上を歩くか、 川に入って渡ると川の向こう側が開墾地であった。炭焼き小屋もあった。
(追補:堰について) 08/07/28

 明王山はもうすぐである。

 地名、元町持石
 モウセンゴケとかモリアオガエルとか。
(08/06/26)

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【や】
 両原に古屋敷という地名(住所)がある。郵便番号は、〒968-0213である。

 両原に古屋敷という地名はあるが、それに対応する「屋敷」の付く地 名は見つからない。他に屋敷の付くのに「天狗屋敷」という地名がある。 天狗が住んでいるのかというと、天狗は住んでいない。羽染さんが住んでいら っしゃる住所がちょうど天狗屋敷とある。
 ということで、屋敷話をしてみる。

 「屋敷」という文字の付く住所は、筆者の採取情報では福島県内で634ヶ 所を数える。「屋敷」付きの同一住所を数えてみた。

 1位『新屋敷』(53)/ 2位『中屋敷』(49)/ 3位『古屋敷』(45)/ 4位『荒屋敷』(28)/ 5位『屋敷』(25)/ 6位『高屋敷』(22)/ 7位『上屋敷』(21)/ 8位『下屋敷』(17)/ 9位『屋敷前』(16)/ 10位『寺屋敷』(11)となる。
 赤い住所名は昭和村にも存在する。新屋敷(下中津川、大芦)、古屋敷(両原)、 屋敷前(下中津川)である。
 他には、新屋敷下モ(下中津川)、天狗屋敷(両原)、文伍屋敷(大芦)、 屋敷原(大芦)、屋敷前道下モ(下中津川)、屋敷平 (下中津川)という地名が見つかる。

 何度か引用したかもしれない「名字と日本人 先祖からのメッセージ」(武 光誠・文春新書)という本には、「村落形成に六通りのいきさつ」という項が ある。(P.184〜)。全部の引写しは出来ないが、その表と地名でキーワードと なりそうなところを拾ってみる。それに、村内の地名を按配してみると、こん な表が出来てしまった。
名称 時代 特徴 その他 (妄想)村内地名
条里制村落 奈良時代以前 方形区画 一条、二条、一理、二里、東条、西条、
南里、北里、一の坪、二の坪、東の坪などの地名
大坪(両原)坪ノ目(下中津川)中坪 (大芦)一ツ坪田(下中津川、大芦)
荘園村落 平安半ばから
鎌倉時代
武士が開発、名田(みょうでん)の形 名田名称にもとづく人名のような地名が残る 気多渕(下中津川)御前岳(大芦)敷 田(野尻)重郎(下中津川)孫太郎(大芦)与右ヱ門田(下中津川)源太沢 (下中津川)
門前村落 室町時代 寺社の敷地内 某寺、某宮の地名 観音平(両原)権現(野尻)権現前(大芦)佐倉、酒屋(下中津川)宮ノ下 (下中津川、野尻)宮ノ上(下中津川、大芦)宮ノ前(下中津川、喰丸) 宮原(小中津川、小野川)宮沢(小中津川)宮中(下中津川)宮田(下中津川、 大芦)宮脇(佐倉)
根小屋村 室町時代 地方武士が屋敷を中心に開発 舘(たち)、山下(さんげ)、麓(ふもと)。
御館(おやかた)、某館、某根小屋、某山下、某麓など
越中作(野尻)喰丸、腰巻(両原) 猿館山(下中津川)館越(喰丸、野尻)館垣山(大芦)館裏(佐倉)高館山 (下中津川)鋏館(小野川)
草分け農村 戦国時代 混乱をさけた人が辺地に開発 御屋敷(おやしき)、御方(おかた)、御家(おいえ)、
落人伝説
天狗屋敷(両原)古屋敷(両原)文伍屋敷(大芦) 屋敷原(大芦) 屋敷前 (下中津川) 屋敷前道下モ(下中津川) 屋敷平(下中津川)
    (妄想) 太閤検地から「南山御蔵入領」で「苅」の字がついた??。 太閤検地
喰丸、大芦などで太閤検地すすめられる。野尻組は六ヶ村だった。(昭和村HPより)
入五十苅(両原) 上三百苅(大芦) 小苅安(下中津川) 五百苅(野尻) 三百苅(下中津川、佐倉) 下五十苅(両原) 下三百苅(大芦) 四百苅(下中津川、小野川) 二十苅(下中津川) 二百苅(大芦、野尻) 八十苅(野尻、両原) 百苅田(下中津川、大芦)
新田村 江戸時代 大名や豪族の指導 新田、今在家(いまざいけ)、出屋敷(でやしき)、
子村(こむら)、新屋敷(あらやしき)など
新屋敷(下中津川、大芦)入新田(下中津川)大新田(大芦) 下新田(下中津川、松山、大芦)下木屋新田(大芦)新田(下中津川、喰丸、両原) 中新田(下中津川)
左4項目は「名字と日本人 先祖からのメッセージ」(武光誠・文春新書)より。

 「屋敷話」だけにしようと思いましたが、表を作ってみるとついつい悪乗り したくなってきました(笑)。村内地名欄は、地名は実在しますが、当てはめ は全くの妄想です。正解もあるかもしれませんが、それはまぐれあたりです。

 地名等一覧。 屋敷原屋敷前屋敷前道下モ屋敷平山ノ神山崎(大芦、野尻)/ 山崎原山仲焼山焼山沢谷地谷地新田矢ノ原矢ノ原下矢ノ原沼矢ノ原山矢ノ尻柳原柳沢柳沢峠

 ヤナギランは、駒止湿原。
 ヤマガラは村の鳥です。
(08/06/28)

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【ゆ】
 If you mail to MEIOUSAN、MOCHIISHI or FURUYASHIKI,
 please put down ZIP code numbers '968-0213'

 明王山(MEIOUSAN)、持石(MOCHIISHI)、古屋敷(FURUYASHIKI)と続けて、 ZIP codeをつけてみた。全部〒968-0213である。

 ZIP codeとは、英語である。ZIPは、Zone improvement program の略である。このZIP codeを日本語で書くと郵便番号といい ます。

 「ゆ」の付く地名が見つからないのです(笑)。

 郵便番号は記号で書くと、「〒」という記号です。これは、昔の逓信省(テ イシンショウ)の「テ」から図案化したというのがもっぱらの定説です。「〒」 という記号(漢字もどき)は、国が決めた文字として認められているので、コ ンピュータでも「ゆうびん」[変換]とするだけで、「〒」の文字に変換され ます。郵便局は国営から民間企業になりました。民間企業の占有するマークが 国で決められているのですから、郵便局はたいしたものです。

 さて、明王山、持石、古屋敷の郵便番号は、全て〒968-0213でした。これは なぜかというと、両原地区内の全ての住所が〒968-0213だからです。
 昔は3桁で、968と書けば済んだのですが、都会の郵便配達人は新しいビ ルや新興住宅地などの地名や漢字能力が不自由なので、0から9までの数字で 配達できるようにしてしまったのです。郵便番号だけでいうと、記入者に倍以 上作業負担を押し付けたのです。こういうところにも国の地方に対する無理解 とたわけた無理強いの平等主義が見え隠れしてしまいます。

 昭和村であれば、3桁だけで充分です。特別に7桁も書かなくとも、
 『昭和村 馬場孝允 様』
と書けば郵便局の方はきちんと届けてくださいます。これが、顔が見える地域 生活というものです。
 おそらく、
 『〒968 孝允 君』
でも届けて下さると思います。民営化されても昭和村の郵便局は顔が見えるサ ービスを継続されています。ありがとうございます。

 ところで、この人誰や。はい、昭和村の村長さんです。(08年6月現在)

 昭和村の郵便番号一覧
  〒968-0101 松山
  〒968-0102 野尻
  〒968-0103 下中津川
  〒968-0104 小中津川

  〒968-0211 小野川
  〒968-0212 喰丸
  〒968-0213 両原
  〒968-0214 大芦
  〒968-0215 佐倉

 「ゆ」の付くかすみ草の品種一覧。
  雪ん子、暖地向け品種である。
  雪ん子360、環境変化に強く高冷地向けである。
  雪景色、高温障害で団子花になるので注意。
(08/06/28 08/06/29)

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【よ】
 昔の夏は川遊びは全く日常であった。学校にプールはなかったし、プール付 きの家もなかった。
 川のそばの畑の端には、桃の木があった。皮のつるりとしたスモモである。 巴旦杏(はたんきょう)といったかもしれない。少し上等な種類ではスイカモ モというのもあったように思う。木からもいだり下に落ちているモモを拾って 喰う。もいだモモよりも木から落ちたモモの方が熟れていて甘かった。それら の木の所有者がいたかもしれない。が、勝手に取っても叱られることはなかっ た。大人から声をかけられるとすれば、「腹痛(いだ)くなるほど喰うでねー ぞー」。モモを食べて、また川に入って、唇が紫になるほど水に浸っているの だから、腹も冷えるのである。

 川での遊びは主にカジカ突きである。赤腹を突くには少し技術と経験が必要 であったが、カジカは保護色に色を変えると、殆どゆっくり動くことは無い。 じっとしているか、ひょいと他の石に移るか石の下に潜り込むかだ。
 ジャカゴで護岸していない川の両端は、川の中にまで根を垂らした笹やネコ ヤナギの木などによって魚の隠れ場所が出来ていた。ほぼ半円形の弓状の網が あった。それを木の根などで出来た魚の隠れ場所に立てて根の回りを足で踏ん づける。魚を追い込むのである。こうして捕れるのには、泥鰌やバッチョ(蜂 魚)が多かった。
 突きの時のいでたちは、ガラス箱とヤスとハケゴである。ガラス箱は左右に 紐が付けられていて首に掛けてぶら下げる。ハケゴは、腰に巻きつける。ガラ ス箱は近所の番匠(ばんじょう)に作ってもらったものだと思う。箱の底面と なる部分に溝が彫られてそこにガラスが嵌められる細工がしてある。水面に押 し付けてしゃがんだ姿勢でたいていは下流から上流へと歩いていく。ガラスと 箱の溝の間から、水が漏れて入ってくる。それを防ぐ為に、溝を埋めるように 蝋燭を垂らして漏水防止加工をしておく。箱の外側には、ガラス箱が製作され た年月日、氏名、そして「川中安全」などの文字が墨で書かれていた。

 水メガネはよく曇った。曇り予防のスプレーなどというものもなかった。今 はあるのかどうかも判らないが、曇り止めには、ヨモギの葉っぱが一番である。 いや、自分で比較して一番とわかったのではなく、まわりの年長者のすること を見て、ヨモギを使うのだなと覚えたのである。ヨモギの葉を丸めて石で叩い て汁を出す。それを手で握って汁を滴らせて水メガネの内側を拭くのである。 外側も曇ったかも知れないが、使用するときには外側は水に浸かっているので 支障はないのである。

 夏のようま(夜間)は、夜突き。防水の懐中電灯は無かった。 灯りはカンテラを使った。ガラス箱の前方に引っ掛ける。カンテラの燃料はカ ーバイドという石のような塊。辞書で引くと炭化カルシウムの慣用名とある。 水分があるとアセチレンガスを発生する。カーバイトはどこにでも売っている ものではなかった。小中津川の大関時計店には売っていたと思う。

横向横出横出沢横路吉ノ目吉居吉尾峠与右ヱ門田葭谷地
(08/07/09 09/06/16)

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【ら】
 わたしのこどもの頃には、電燈はついていたと思う。ただ、よく停電した。
その為にどの家にでもランプがあった。下に石油を入れる器があり、そこに芯 の付いたフタをつける。フタの横には芯の露出長を調節する丸いハンドルがつ いていた。石油の入った容器のフタを包むように、微妙な丸みカーブを持った ガラスの筒をかぶせる。このガラスの筒は、炎の形にも近似している。真ん中 より少し下が膨らんで上部へとしばらくすぼみ、上のほうは殆ど同一径となる。 筒であるから上部に蓋は無い。これは煙突の役割(二酸化炭素の排出と、空気 流の発生により下部からの酸素の供給)をはたしている。この筒の事をホヤと いう。漢字で書くと「火屋(ホヤ)」となる。ホヤ自体は煙突の役割以外に、 炎が自然風で消えたり揺らいだりしてまわりに火が移ったりすることや、手を 差し伸べてもガラスの為に火を直接触ってやけどをしないことの役割もある。
 ホヤの上方は、丸い帽子型の穴に挿して固定される。この帽子型の板はドー ナツ状の平板であるが、なぜか微妙なウェーブをつけて加工されていた。この 平板が反射板となり、全球体面方向に向かってしまう明かりを反射させて水平 または下方への明かりを増幅している。

 石油が良質ではなかったのか、それともホヤの中には虫なども入ったかも知 れない。このホヤは曇るのである。曇ればそれだけ光度は減少する。ホヤ磨き といって手ぬぐいなどの布で息を吐きかけながら磨くのである。これは子供の 仕事であった、とどこかで読んだことがある。何故子供の仕事かというと、ホ ヤの胴の中に手が入らないと内側の曲面壁が磨けないのであるとの説明であっ たように思う。なるほど。
(08/07/16)

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【り】
 モモの話の続きをすこし。モモを「木からもいだり下に落ちているモモを拾 って」と【よ】の条で書いたが、木になっているモモは手が届かないのが殆ど であった。どうするか、木を揺する手もあるが、もしも実が大量に落下したら 手におえなくなるのである。たいていは、釣り竿などでねらいを定めたあたり を叩いて実を落とし、それを帽子で受ける。

 小学生の頃だったか、親友のMと川で遊んでいたのだと思う。
 川に入ったり川から上がったり、川から上がればたいていは草原(くさはら) か畑などがあった。ヨシズで囲ってあったので、麻畑とかからむし畑とかタバ コ畑だったかもしれない。こうして、大体の畑の位置とかモモの木の位置とか を学習していく。あるところで、とうもろこし畑だかに少し隠れる風にスイカ 畑がある事を知った。
 夕方になってからだと思う。示し合わせて、その畑に入り込んでスイカをも ぎ取った。とても一人でひとつは食べられないだろうに、あろうことか両手に 抱えて立ち上がった。と、そこでKさんに見つかった。Kさんは大人である。 「何してんだ?」と誰何(すいか)された。それで思うのだが、切符を買わな い改札口をスイスイ通れるSUICAというカードがある。どうして通れるか というと誰何(すいか)済みであるからなのですね。カタカナで表現している ので気にならないが、結局は改札口では誰も誰何(すいか)されているのです。 都会の鉄道交通は性悪説で成り立っているのです。
 でスイカを捨てて逃げたのか、そのまま立ち尽くしたのか、その後どうなっ たのかの記憶がない。家に帰って怒られたのだろうか、その記憶もない。Kさ んに追いかけられた記憶もないのである。Kさんが、子どもの事だから、と黙 っていてくれたのか。

 あの畑は、Kさんの畑だったのだろうか、それとも、Kさんも、、、

 モモの話とスイカの話である。つまり、

  君子防未然 不処嫌疑間
  瓜田不納履 李下不整冠

 「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず」「李下(りか)に冠 (かんむり・かぶり)を整(ととの)えず」の【り】の話。

 李下では冠(帽子)で受けて、瓜田ではスイカで逃げられぬ。

 夏休み分の肝油ドロップを2、3日で舐めてしまった頃の話である。

 駒止湿原にリュウキンカ
(08/07/16)

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【る】
 類従(るいじゅう)という言葉がある。何らかの基準となる種類や、 種類ごとに集めてまとめることや、集めたものをいう。
 集めたもので、有名な本には塙保己一という人の「群書類従」という本があ る。本は本でもこのようにいろいろな書物を集めてまとめて一冊としたり、そ れらのシリーズものとしたものを叢書(そうしょ)というのです。
 この『昭和村のあいうえお』は、本ではないので叢書とはいわないことは確 かである。では、類従とはいえるかというと、ネタ切れでこういう類の文章を ひねくりだしているわけであるから、とても「何らかの基準となる種類」で集 めたものともいえない。特に、【らりるれろ】の条(くだり)は辛い。文章自 体も表現は不明瞭、呂律(ろれつ)が回らない。
 奥会津は奥が深い。よいしょで逃げるしかないか。奥会津の類従とするには あとわずか3文字(【れろわ】)まで続けても、遥かなり、道遠しである。類 従とはいわずとも(元々誰も言ってねーってば)、これで【わ】の条までたど り着くことができらりるれろうか。
(08/07/16)

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【れ】
 『昭和村の歴史』(一九七三年)という本があります。
 昭和村教育委員会のお仕事(企画)だったのだと思いますが、35年も前に 発行されています。
 本欄の筆者は、駒止湿原の花草木の名前を知ったかぶりで掲載していますが、 これらの情報の本源は、この『昭和村の歴史』からきているのだと思います。
 昨年(2007年)には、創村80周年記念で冊子が発行されたことをいた だいた本で知りました。
 ところで、先代の天皇誕生日で旗日であった4月29日はいつのまにか「昭 和の日」という記念日になっています。わたしは、今年のしばらく前に、4月 29日は「昭和(村)の日」と村の条例で決定しましょう!と掲載していまし た。冗談のつもりはなかったのですが、なかなか反響は取れませんでした(笑)

レンゲツツジ
(08/07/30)

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【ろ】
 轆轤という字があります。ろくろと読みます。
 これは、木地師の必須アイテムです。昭和村に残る木地師の事については、 昭和村教育委員会発行、馬場勇吾さん編著の『木地師の跡を尋ねて 山中の墓 に手を合せ乍ら』という書籍があります。からむし工芸博物館で販売していま す。04年8月13日に同館を訪ねたときに購入しました。このことと感想文 は、【き】の項で書きました。
 また、某Webの日録にはこの様に記してある。
     午後になって妻と娘と姪とで近所の『からむし工芸博物館』へ散 歩。村の教育委員会が発行している馬場勇吾氏の本を2冊購入。一 冊は先日読んだ白洲正子の「近江山河抄」に出てくる木地師の話に 触発され、もう一冊は早乙女貢氏の「続会津士魂一」のある章の元 となった参考本と思われる本。ぱらぱらめくると知っている人がそ こここに載っている。歴史はこんなに近くにあったのかと自覚出来 るまでに、わたしはなんとえらい寄り道をしてきたものである。な どとスイッチがお盆モードに切り替わる。

 ここからは、陸でもない話。陸という字は、ろくと読みます。

 「ろくろ」の事が書けないので、一文字削除する。
 「くろ」という言葉があります。「畔」とも「畦」とも書きます。
辞書には、「田と田の間の土を盛り上げた所。田の境。あぜ。」。とあります。
が、「たのくろ」と言えば、どうしても田んぼの縁(へり)を泥で塗りこめた斜面のイメ ージを持ってしまいます。
 「あぜ」という言葉があります。これも「畔」とも「畦」とも書きます。
辞書には、「田と田の間に土を盛って堤をつくり、水をため、また、境界とするもの。く ろ。あ。」。とあります。が、堤(つつみ)というイメージをなんとなく持ってしまいま す。一体全体どっちなのだ!と考えると、田んぼのある各地方ではそれぞれ明確に分かれ て定義(呼称)されていたのでしょうが、国語辞書ではそこまで追求は出来なくなってし まう。
 筆者のイメージが、昭和村の文化を少しでも反映していれば、「くろは、畦」と書きた い。「あぜは、畔」と書きたいところです。
 田んぼに「土」を重ね塗りした状態が「畦」。田んぼを「半分」に分けている状態が 「畔」です。畔(あぜ)の効用は何か。それは、各々の田んぼになるべく満遍なく用水 する為の知恵でもありましょう。
(この事は、『会津学Vol.2』を読んでいて想起しました)

 「あぜまめ(畔豆)」という言葉があります。これも辞書に「田のあぜに栽培する大豆。」 と掲載されていますので、奥会津特有の風習ではなかったのでしょう。筆者のイメージで は「豆は田の畦(くろ)に植えた」ような気がしてなりません。ところが、「くろまめ (畔豆)」という言葉は、筆者のパソコンのおまけの辞書では見つからない。

 ついでに話をややこしくすると、「畦」ということばは「うね」とも読ませます。
「うね」は「畝」とも「畦」とも書きます。「うね」は田んぼというよりも畑のイメージ ですね。どうなのでしょう。
 昔々に検地という制度がありました。これは、田畑の面積を測るときに、「ここは日当 たりが悪いから」とか「地味悪し」とか「アカガネ田んぼ」とか、または検地人にその他 の裏技を使うとかして、畔際(くろぎわ)を一尺内外除いて測量してもらうという手法で す。このことは、せびき(畝引)といいます。畝引などという言葉は知っていたのか?い いえ、実は字引でたまたま見つけた言葉です。

 ほんと、ろくでもない話で申し訳ない、、、。

(08/07/30)

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【わ】
 やっと【わ】まで来たワタスゲ。地名関係も、片付けておこう。
早稲田輪ノ沢和の沢川和久和久入和久入沢和久平

 わたしの昭和村について述べる。

 所ジョージのダーツで日本各地を訪ねるテレビ番組がある。的(まと)に地 名が書かれていて、投げたダーツの矢の刺さったところにアポ(事前連絡)無 しで出掛けて行って、いろいろな地方の面白いことなどを番組で紹介放映する 趣向である。
昭和村にもいちどは来村したことがあったとかは聞いたことがある。

 とある日のテレビを見ていたら、福島県白河市近くがロケ地であった。記憶 で書いているので会話部分が正確ではないかもしれないが、こんな場面であっ た。

 福島県白河市近くのとある畑。おじさんが畑で何かをしている映像。

    TV 「何してるんですか?」
    住人 「ちょっと畑をイタズラしてた。」
    TV 「え、イタズラですか、、、」
 といった会話である。わたしは、ピンときました。これは昭和村でも使う言 葉ではないか。この住人は普段の言葉を標準語にしようとして、都会人にかえ って分かりにくくしてしまった例である。

 住人「ちょっと畑をイタズラしてた。」は、
 住人「ちっと畑でわっさぁしてた。」と表現したかったのを、標準語風に変 換してしまったのである。わっさごと、てわっさの事である。
 わっさの語源を考えてみた。考えてみなくとも「悪さ」から来ているであろ うことは明白ではある。が、わっさはイタズラではなく、遊び心と軽いいたず ら心とのある行為であろう。遊びは遊び(すさび)と読ませたい。また、その 発声には、「わるさ」というよりも「わさわさ」とか「わっさり」といった語 感から発生した感じがしないだろうか。

 閑話休題。
 今年(08年)の「からむし織の里フェア」に初めて出かけてみた。ひとつ の目的は、からむし工芸博物館で書籍を買うことである。その書籍は数年前に 工芸博物館を訪れたときには「品切れです」といわれた書籍である。その後で 増刷していることはブログなどで知っていた。アマゾン・ドット・コムなどの 通販でも買える事も知っていた。が、わたしはその書籍の内容が書かれたその 地方(現場)で入手したかった。
 その本とは、「会津学」である。第1巻から第3巻まで揃っていた。その晩 から読み出した。昭和村に滞在中に第1巻を読み終えて第2巻にはいる。現在 はそれから5日目である。自宅で寝る前に読んでいるので、まだ第2巻を読書 中である。

 「会津学」は現在第4巻を校正中であるという。(08/07/23現在)
 今年の5月頃から、菅家さんはご自分のブログで草稿中の文章もほぼ毎日掲 載されていらっしゃった。怒涛の勢いである。月田農園物語の文章では、草稿 中の文章にも関わらず、どうしても引用したくなって、「根堀場」という地名 の条(くだり)で、引用許可のお願いをしてご承諾をいただいた。

 いや、この文章は「会津学」第4巻の内容予告の話ではないのである。予告 の話ではないが、勝手に菅家さんの思索と行動を想像して、勝手な解説もどき をつけてみると、
    会津学でカンケ氏が調査対象としたのは、会津三島町間方を訪 れてヒロロを見つけてからだった。栽培植物から作られる繊維 (布)と自生植物から作られる繊維(布)との違いを発見した ときに、「これは奥会津文化の『アイデンティティ・クロップ』 だ!」。と直感したのであった。

    そこから文献にもあたりながら奥会津各地方のヒロロを材料と した制作物を見てまわる。
    そして、ヒロロは自分の我が家でも、まったく当たり前の伝承文化 として息づいていることに気がついたのだ。

    カンケ氏と同氏のご父母との会話が文字化されて掲載されている。
    ここから、奥会津の音(声)が聞こえてくるのです。

      父 : こうだの(ヒロロ)どこにでもある。

    から始まり、採取時期と採取に適した地勢の話しへ。
    その種類、そして実際にミノ(蓑)カサ(笠)も作られている こと。
    制作物は出来栄えと丹念さと編み方によって元の作者もわかっ ていたこと。
    などの事々から、素材そのもののとしてのヒロロは何十年も天 井に吊り下げてあったことなどが会話体で説明される。
    どこにでもあったために、カンケ氏自身が自分の家にも引き継 がれていたことに思い(想像)が到らなかったのである。

    そして、父上氏が、二階の天井に行き、その先代の祖父が保管 していた何か(ヒロロ)を持ってくるのである。
    父上氏も今まで我が子に聞かれなかったので、わざわざ説明す ることもなかった。そして、興味を持った我が子に初めて先代 から伝承された物(文化)を見せるのである。

    ここからが、奥会津の真骨頂の会話である。

      博昭 : 写真とっからそのまま置け。
      父 : わっさしてっこどね。
 この条(くだり)を読んで、わたしはと胸を突かれた。そして、鼻の奥から つーんとしてきた。目をつむると、ジワリと絞りだされたものがある。
 学究と表現者としての好奇心と、生活者としての子への相伝の心のせめぎあ いを感じてしまったのである。

 いつか、「会津学」第4巻を入手したときに、また、この会話の文章に遭遇 しますように。

 ・ ・ ・

 これでわたしの昭和村の「『昭和村のあいうえお』わっさ」の第1期分を仕 舞いとします。
 ご笑読ありがとうございました。パチパチパチ。

 【ん】  第1期?、、第2期もあるのか、、、

(08/07/30 08/08/03)

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