A・A・ミルン(アラン・アレクサンダー・ミルン)

(1882〜1956)


プーの生みの親である、アラン・アレクサンダー・ミルンは、1882年にイギリスのロンドンで、私立の男子校の校長J・V・ミルンの末息子として、生まれた。
ミルンの幼年時代のロンドンにはまだ自然が多く残っていた。科学に対する信仰のあつかった当時の教育者であった父は、子どもたちに自然と触れる事を推奨した。
ミルンが、その文才を発揮する第一歩というべき衝動を発見したのは、1899年のクリスマスだったという。それに先立って、兄弟は共同でライト・ヴァースを書き始めていた。
ふたりはA.K.M.の名でウエストミンスター校の雑誌「グランタ」に寄稿していた。
以後、1902年まで兄ケンと共に合作を続ける。
やがて、ケンは合作を止めるといってよこしたので、Kのイニシャルを削ってA.A.Mの名で投稿するようになる。
そして、大学進学後に「グランタ」の編集長になり、「パンチ」(漫画の週刊誌)にも作品が載るようになるが、その結果数学で優等の学位をとるのは不可能になり、父をいたく失望させた。父は教育者になることを勧めたが、ミルンはロンドンに出て自由寄稿家になった。
さまざまな雑誌に作品が掲載されるようになり、24才の秋に正式に「パンチ」にシリーズものを書くように依頼される。
1910年「パンチ」に掲載された記事を集め「その日の遊び」を出版。
1913年ダフネと結婚。
この頃、彼は自分の将来を模索するようになる。
やがて、第一次世界大戦が始まりミルンは軍隊に入り、通信将校となった。軍隊にいる時、兵営の娯楽用に昔話風の劇を書き、この劇に妻のダフネが出演し評判になった。これを書き直して「ユーラリア国騒動記」という滑稽な物語に仕立て出版した。この作品はそれまで彼が書いたものの中で一番長いものだった。
戦後、ミルンは「パンチ」に帰ろうと試みたが、編集長はすでに代わりの者をみつけていたので退職し、いよいよ劇作で身を立てることにした。
1920年、息子クリストファー・ロビンが生まれ、同じ年に、人間の不寛容と偽善をユーモラスに風刺した「ピム氏が通る」という劇を書き、成功をおさめた。
その後、子供向け雑誌に「やまねとお医者」というユーモラスな詩を書いてみた。それを見た人に子どもの詩の単行本を出したらどうか、と勧められ、息子の生活を観察したことや、自分の幼年時代の忘れがたい思い出をもとにして詩を書いた。シェパードの挿絵をつけて出版されたこの詩集が「クリストファー・ロビンのうた」であり、瞬く間にベストセラーとなった。

(原作のモデルとなったぬいぐるみたち)


そのあといくつかの子ども向きの妖精物語を書いたあと、「クマのプーさん」(1926)が書かれ、ついで「プー横町にたった家」(1928)を、その間に詩集「クマのプーさんとぼく」(1927)を書いた。いずれも大成功で、ミルンの全盛期であった。
だが、その後「ヒキガエル館のヒキガエル」(1929)以外にめあたらしいヒット作もなく、1939年に書いた最後の劇も失敗で、もはや彼の創作力は衰えていた。

1956年1月31日 72歳で生涯を終える。


ミルンは自分がこども向きの本で有名になってしまったことを快くは思っていなかった。「子ども向きの本となると、子どもたちが喜んで読むという以外になんら芸術的な報いはありません」といっている。
皮肉にもミルンは、劇や小説によってではなくて、子どものための本によって長く記憶される作家となってしまったのである。


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