アーネスト・ハワード・シェパード(1879〜1976)



アーネスト・シェパードは建築家の息子としてロンドンに生まれました。
建築家の父には絵の才能があり、また母方の祖父は著名な水彩画家だったので、彼が幼いときから優れた画才を示したことも不思議ではないことでした。父は早くから彼が画家として身を立てることを期待していました。
彼は10歳の時に母を亡くします。彼が画家になるように絶えず励ましてくれた母の死は、アーネストにとって大きな打撃であり、それから立ち直るのに長い時間が、かかったと後に彼は回想しています。しかし、この母の死が、彼に「画家になろう」と決心させることになったのです。

アーネストは王立美術院学校で学んでいる間に、フローレンス・チャップリンという3歳年上の女子学生と知り合いました。彼女の祖父は画家であり、彫刻家でもあり、「パンチ」の創始者のひとりであったエブネイザー・ランデルズでした。彼女もまたその祖父の才能を受け継いだ優秀な画学生だったのです。ふたりはそれぞれの兄や姉ぐるみの交際をはじめ、やがて愛し合うようになりました。
1902年アーネストは父を亡くします。
父の治療費がかさんだために、兄とアーネストは、ほどんど無一文になってしまいます。
1904年アーネストはフローレンスと婚約を公表し、その2ヶ月後に急いで結婚しました。

アーネスト・シェパードは、美術学校在学中から、雑誌の仕事を始めていました。ミルンと同様に「パンチ」に作品が掲載されることが夢でした。

第一次世界大戦が勃発すると彼は陸軍砲兵隊に志願しました。
彼は軍隊においては、陸軍大尉にまで昇進しました。
1919年、帰還すると少年を主人公にした小説「ジェレミー」に挿絵をつけた。それまでの仕事のなかで、シェパードが子供を描く優れた才能を示していたので、頼まれた仕事でした。
1921年、彼はついに「パンチ」の編集会議に加わるように招かれ、これによって定期的な収入を約束されることになった。
以後シェパードは1953年まで「パンチ」の仕事に関わることになります。

1927年最愛の妻フローレンスを亡くします。
彼女が美人だったということだけではなく、優れた才能の持ち主であることを尊敬していたシェパードは、常に妻の励ましや批評、助言を得ていました。
夫婦のうち本当に才能があるのは妻の方であり、妻の無私の助けによって彼は世間で認められるようになったと自覚していただけに、妻の突然の死は大きな悲しみでした。彼は仕事に没頭することで、その悲しみを忘れようとしました。
ちょうどその頃、彼が手がけていた作品がミルンの大ヒット作である「クマのプーさん」「クマのプーさんとぼく」「プー横丁にたった家」で、ミルンとの共同作業は大成功となりました。






彼はその後、再婚し晩年まで、その才能を発揮させて次々とヒット作を生み出しました。

1976年、96歳で彼は亡くなりました。その死のニュースは日本の新聞にまで出たほどでした。
シェパードは、イギリスの美術界に寄与した功により政府から勲章をもらっていますが、そういうことよりも、遠い国々にも彼の絵を愛している人々がいるという事実の方が、彼にとってうれしいことではないでしょうか。