◆山内・扇谷両上杉の抗争


上杉顕定は長年の宿敵古河公方と和睦。しかし、これに反発した扇谷上杉定正は駿河今川氏の支援のもと、勢力をのばしはじめた。顕定が手を焼いた長尾景春の乱を鎮圧したのは、扇谷上杉家の家宰太田道灌であった。しかし、同十八年、その真意を疑った定正は、道灌を相模糟屋館に誘殺してしまった。その後も顕定・定正の両上杉は相模・武蔵の覇権を争ったが、ついに明応三年十月五日、扇谷上杉定正が陣没、顕定が勝利を得た。しかし、その間、今川氏の客将となっていた北条早雲(伊勢宗瑞)が力を蓄えつつあった・・・。

 
上杉顕定 享徳三(1454)―永正七(1510)
四郎、民部大輔、右馬頭、関東管領。号可淳。越後守護上杉房定の次男。のち山内上杉房顕の養子となる。幕府・越後上杉氏と結び、古河公方足利成氏と対立した。文明十年、足利成氏と和睦後は、越後守護代長尾能景の援助により、扇谷上杉氏との抗争を続けた。永正四年、実弟で越後守護の上杉房能が長尾為景に殺されるや、報復のため越後に侵攻。いったんは勝利したが、永正七年、勢力を盛り返した為景に長森原の合戦で敗れ討死にした。法名海竜寺可淳皓峯。
 
憲実─ ┬房顕 顕定 =憲房 ─憲政 =輝虎(謙信)
├憲忠
└周晟 ─憲房
越後上杉氏
房方─── ┬朝方──────── ─房朝 =房定─ 顕定 (山内上杉へ養子)
├憲実(山内上杉へ養子) └房能 =定実
└清方(上条上杉)─── ┬房定
└房能 ─定実



◆落日の管領上杉家


上杉顕定、および、その弟で越後守護職上杉房能の戦死は山内上杉氏の勢力を大きく減退させた。ここへ台頭してきたのが、小田原の北条氏である。早雲以来、伊豆・相模に勢力を張ってきた新興勢力は、三代氏康の時代を迎えて日の出の勢いである。上杉家はこれに対抗するため、宿敵古河公方・扇谷上杉氏と共同戦線を張り、北条氏に奪われた河越城を八万余の大軍をもって包囲した。しかし、北条氏康の果敢な夜襲によって、扇谷上杉朝定は戦死、憲政も命からがら上野平井の居城へ逃れたのであった。

 
上杉憲政 ?(?)―天正七(1579)
関東管領。上杉憲房の子。憲房の没後、幼少のため一時古河公方足利高基次男憲広が後を継いだが、享禄四年に関東管領職に就任。今川義元・扇谷上杉朝定らと結び、新興勢力の北条氏と対抗したが、天文十五年、河越城包囲中に後詰めの北条軍に敗れる。天文二十一年、長尾景虎(上杉謙信)を頼り、越後へ亡命す。のち、景虎に上杉の名跡と重宝・系譜などを譲り養子とした。上越市大字八幡小字御館はその居館跡という。晩年は謙信死後におこった景勝・景虎の抗争に巻き込まれ、景勝の兵に殺害された。法名臨川寺立山光建。
 
憲実─ ┬房顕 =顕定 =憲房 憲政 =輝虎(謙信)
├憲忠
└周晟 ─憲房