◆山内・扇谷両上杉家臣



太田資長永享四(1432)―文明十八(1486)
鶴千代、源六郎、左衛門大夫、正五位下備中守。号道灌。父は太田道真資清。扇谷上杉氏家臣。康正元年(1455)、家督を継承。父資清とともに、江戸城・松山城などを築城、敵対していた古河公方に備えた。文明八年(1476)、駿河今川氏の内訌を調停。また、白井城主長尾景春が謀反を起こすや、上杉定正を助けて関東各地で戦った。文明十八年、主君定正によって相模糟屋館で謀殺された。歌学に秀で、歌人万里集九や鎌倉五山の僧たちとも交流があった。また、足軽戦法を創出し、築城術などにも長けた文武両道の名将であった。有名な山吹の里については、現在の新宿区、豊島区、埼玉県入間郡などに伝承が残る。

大石芳綱?(?)―?(?)
惣介、右衛門。大石綱資の嫡男。山内上杉氏家臣。大石氏は武蔵守護代もつとめた家柄で滝山城に拠った大石氏とは別系と思われる。上杉憲政が長尾景虎を頼って越後へ逃げた際、父・弟とともにこれに従う。上杉・北条の講和(越相一和)交渉が始まるや、謙信の名代として使者として小田原へ赴いた。元亀二年(1571)、浅貝寄居城を築城。謙信没後は景勝に仕える。弟はのちに会津三奉行のひとりに数えられる播磨守綱元。
長野業正明応八(1499)―永禄四(1561)
長野信業の子。山内上杉氏家臣。上野箕輪城主。在原業平の末裔という伝えられる。大永六年(1526)、箕輪城を築城。永禄三年(1560)、上杉謙信が越山するや、これに応じ、「関東幕注文」に箕輪衆として名を連ねる。
上泉信綱永正五(1508)―天正元(1573)
季長、秀綱、伊勢守、武蔵守、従四位下。上泉秀継の子。山内上杉氏家臣長野氏の被官として大胡城に拠る。上野一本槍とも上野十六頭の一とも称される。永禄六年(1563)、長野氏が滅亡すると、武田信玄に仕官を請われたが、許しを得て、武者修業の旅に出、諸国を巡る。同年、大和において、ともに江戸期刀槍術の一大流派をうちたてる柳生宗厳・宝蔵院胤栄を門弟としている。愛洲陰流刀槍術に工夫を加え、新陰流を創始。元亀元年(1570)、正親町天皇に剣技を披露。将軍足利義輝、山科言継らと交わる。柳生の芳徳寺に供養塔が存する。