山内上杉氏

藤原氏
関東管領、武蔵・相模・上野・越後守護
家紋は竹に飛雀。

◆武門の名家上杉氏は公家出身


上杉氏は藤原氏の一流勧修寺高藤より出る。上杉重房の時に丹波上杉荘を領し、姓とする。室町幕府初代将軍足利尊氏の母清子の実家であったことから、南北朝期に勢力を伸張、将軍の外戚として幕府にも重用された。

 
上杉重房 ?(?)―?(?)
式乾門院蔵人、修理大夫、左衛門督。もと勧修寺氏を称す。出羽守清房の次男。建長四年、宗尊親王が鎌倉幕府将軍として迎えられた時、これに随行し、将軍側近として武家となった。丹波国何鹿郡上杉荘を領し、上杉を名字とした。
 
重房 ─頼重─ ┬重顕(扇谷上杉)
├憲房
└清子(足利貞氏室)
 
上杉憲房 ?(?)―建武三年(1336)
兵庫頭、永嘉門院蔵人、号杉谷、瑞光院。頼重三男。妹は足利尊氏・直義兄弟の母。今川了俊の筆になる『難太平記』では尊氏に鎌倉幕府への謀反を勧めるという。建武中興が成ると、足利一門を代表して雑訴決断所奉行となり、山陰・山陽道、東海道などの担当を歴任。尊氏の建武政権からの離脱に従い、上野国守護代として新田義貞を牽制す。しかし、尊氏・直義が四条河原で北畠顕家に敗れた際、殿軍となり、戦死した。
 
憲房 重能(宅間上杉)
重兼
憲藤(犬懸上杉)
憲顕(山内上杉)─ 憲将
能憲
憲方
憲春
憲英(庁鼻上杉)
憲栄(越後上杉)



◆室町幕府創設に尽力、管領上杉家の誕生

後醍醐天皇の建武政権に反旗を翻した足利尊氏は、陸奥より西上した北畠顕家の軍に敗れた。九州へ落ちていく尊氏は、従兄弟上杉憲顕を石見へ派遣、再上洛の基盤を確保させた。 間もなく、光厳上皇らの院宣を受けた足利尊氏が南朝方を破り、室町幕府が誕生。上杉憲顕は鎌倉守備のため、関東へ下る。戦国時代末期まで続く、畿内と関東両政権の抗争のはじまりであった。
 
 
上杉重能 ?(?)―貞和五年(1349)
宅間上杉氏祖。父は観修寺別当宮津入道道兎、母は上杉憲房の妹加賀局。のちに上杉憲房の養子となる。元弘三年、足利尊氏に従い、六波羅探題を攻める。建武政権成立後、伊豆守、武蔵守護職などを勤めた。その後、足利直義への接近を深め、執事高師直らと対立。貞和五年、師直の尊氏への強請により、その身柄を越前に移され、同国江守荘にて殺害された。法名報恩寺秀峯道宏。
 
上杉憲顕 徳治元年(1306)―応安元年(1368)
山内上杉家祖。民部大輔、関東執事、関東管領、上野・越後守護。上杉憲房の子。足利尊氏・直義兄弟とは従兄弟の間柄となる。建武三年正月、父憲房の跡を継いで上野国の経略を進める。高師冬と並んで「両管領」と称され、足利基氏を補佐。尊氏・直義の対立(観応の擾乱)が起ると、直義派に与し、基氏を擁して関東の覇権を確立する。これが鎌倉公方と京都の将軍家との対立の端緒ともなった。応安元年、新田義宗らの反乱を鎮圧、同年九月十九日、足利の陣中で没。法名国清寺殿桂山道昌。
 
憲房─ 重能(宅間上杉)
重兼
憲藤(犬懸上杉)
憲顕(山内上杉)─ 憲将
能憲
憲方
憲春
憲英(庁鼻上杉)
憲栄(越後上杉)



◆幕府と関東府間の融和に奔走


旧足利直義党として幕府に反抗した公方基氏以来、京都の将軍との間には緊張関係が続いていた。将軍義満の下、幕府の全盛期を迎える中、上杉憲定は大内義弘の乱に呼応しようとした公方足利満兼を諌め、将軍・公方間の融和に努めた。しかし、若くして憲定が没した後、関東管領となった上杉氏憲の乱が勃発。事件後の混乱の中で、上杉憲実はわずか十歳で関東管領に就任した。将軍・公方の対立はついに憲実の上野出奔を契機に永享の乱、さらには結城合戦へと発展する。

 
上杉憲定 天授元(1375)―応永十九(1412)
右京亮、安房守、伊豆・上野国守護、関東管領。道号佐々入道。山内上杉憲方の次男。足利義満の下文により家督を継承。応永六年、大内義弘の乱に呼応し、上洛しようとした足利満兼を諌め、また、義弘と通牒した今川了俊を帰順させる。応永十二年、関東管領となり、満兼・持氏を補佐す。応永十八年、職を辞し、翌十九年十二月十八日没(38)。法名光照寺大全長基。
 
憲顕─ ─憲方─ 憲定 ─憲基= 憲実
├憲孝
└房方─ ─憲実
 
上杉憲実 応永十七(1410)―文正元年(1466)
孔雀丸、四郎、安房守、伊豆・上野国守護、関東管領。雲洞庵長棟高岩と号す。越後守護上杉房方の三男。山内上杉憲基の養子となる。足利持氏を補佐し、持氏の幕府への挑発行為、謀略などをいさめた。また、下野足利学校を再興し、諸条目などを定めた。のち、持氏と不和になり、上野国白井へ籠る。将軍足利義教の持氏討伐に応じ、これを捕える。持氏の自刃後、剃髪して、国清寺へ隠退したが、幕府の慰留を受け、再び政務に就く。宝徳元年、持氏の遺児成氏の鎌倉下向に際して隠退、諸国を巡歴し、大内氏を頼って長門国大寧寺に住す。文正元年閏二月、同所にて没(57)。