年 | 事件・事項 | 注釈(本当は茶々入れ) |
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永禄六年(1563) | 八月四日、毛利隆元急死(41)。 |
(矢古女) 毛利一族の尼子攻めの時、隆元は、豊後の大友氏との講和を結んで元就たちと合流する筈でしたが、途中、和智氏の饗応を受け、帰路から苦しみだし、翌朝を待たずに急逝。 成り行きが成り行きだけに、元就は毒殺と判断したようで、後に、和智兄弟は殺害され、また、隆元側近の赤川氏も討たれます。(後者については、行き過ぎでは、と言われることもあるようです) (三楽堂) そう。事件関係者の和智誠春と赤川元保。和智の奥さんは福原広俊の娘、つまり元就の生母の姉妹なんですね。そして、赤川元保は毛利五奉行の一人で、隆元の信任が厚かった人。その子又三郎は隆元の少年時代からの側近で、隆元が大内義隆のもとへ人質として赴く時、一緒に山口へ行ったのです。 (矢古女) 隆元を失った元就のショックは、大きく、すべてに絶望したと言われ、元春・隆景もかなり心配していたらしいです。夫を失った尾崎の局さんと舅の元就とは仲睦まじかったようです。後、元就が世を去ったとき、尾崎さんは、出陣中の義弟の元春に手紙を書くんですね。元就の死に触れた後、 「・・輝元のことは、あなたさまと隆景さまにお頼みするしかありません。親になったおつもりで力になって下さいませ」 この尾崎さんの気配りが嬉しいです(*^^*)(もちろん、隆景もあれこれ元春に書き送ってはいるのだが) (三楽堂) ところで、赤川父子については、その後の調べで隆元が和智誠春の誘いを受けようとするのを「止めようとした」ことがわかり、のちに赤川氏は再興されます。井上一族の時のように四十年も辛抱したかと思えば、けっこう簡単に殺しちゃったりするんですよね。 毛利隆元のお墓は、吉田町の郡山城中腹にあります。 |
九月、隆元の死のショックで元就、陣中で寝込む。 |
(三楽堂) 元就倒れる、の風聞に籠城中の尼子方は万々歳。調伏強化月間の特別催しを行ったかどうかは不明。 |
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十月、毛利軍、尼子十旗の随一、白鹿城を攻略。 |
(三楽堂) ちなみに「尼子十旗」とは・・・ 白鹿、三沢、三刀屋、赤穴、牛尾、高瀬、神西、熊野、真木、大西。 別に「尼子十砦」というものもあって・・・ 安来十神山、神庭横山、三笠山(鹿介が「七難八苦をわれに・・・」と祈念したところ)、赤崎城山、母里亀遊山、赤屋下十年畑高尾山、飯生高守山、下石原勝山、下田原蓮華峯寺山、安田要害山。 十旗も十砦も尼子の本城月山富田城の支城網です。 尼子十旗の随一、白鹿城を攻囲中には、鹿と狼の一騎討ちや元春の太平記コピーなど、イベントがもりだくさんだが、もうひとつ残ってた。 それが、元就軍記『温故私記』に出てくる「白鹿の城穴仕寄十番槍の事」。 白鹿城を攻囲した毛利方は、「もぐら作戦」を展開。要するに城外から穴を掘って、本丸目当てに進んで行く。武田信玄の武州松山城攻めや徳川家康の大坂城攻めなどの例もありますね。 するとこれに気づいた尼子方も負けじと城内から穴を掘る。行く手をおさえて、地中にて敵を粉砕してしまおうというわけです。で、双方の穴は途中で見事につながっちゃった。(ウソっぽい) そこで、地中十番勝負。 名前の末尾の○が勝者。△負傷、×討死、ほかは不明。 城方(尼子) 寄せ手(毛利) 一番 身白大蔵久盛× VS 福間彦右衛門元明○ 二番 小野木三郎○ VS 赤川木工允安近△ 三番 松田大炊助 VS 粟屋彦右衛門 四番 森川平六 VS 児玉四郎右衛門就近 五番 山尾刑部丞 VS 粟屋弥四郎元綱 六番 湯原小二郎定綱 VS 井上雅楽允光俊 七番 湯原源左衛門氏綱 VS 波多野源兵衛元信 八番 山口平次○ VS 粟屋新三郎△ 九番 村井兵庫允助盛 VS 三戸小三郎元顕 十番 原佐助信綱△ VS 井上豊後守有景△ 「リングにかけろ」やってんじゃねーよ。(笑) (ぺら) 嘘だろう。(笑)中で戦えるほどの広い穴なんて掘れないだろうに。 (長楽老) 「リングにかけろ」って事は×の人も、すぐに復活? 失礼、失礼(^_^; (三楽堂) この後、穴は城方によって大石で塞がれてしまいました。ちなみに『陰徳記』には記述がありません。いかにも「軍記物」って感じですね。白鹿城の我攻めぶりは、非業の死を遂げた隆元の弔い合戦、という印象があります。 | |
元春、富田城攻囲の陣中において『太平記』書写開始。 |
(三楽堂) 閏十二月に最初の一冊が完成しました。ひょっとして、元春が『太平記』筆写をはじめたのは、兄隆元への供養かな。 (元春)閏月があって、助かった。ラッキ〜!。 | |
永禄七年(1564) | 足利義輝、名医曲直瀬正盛を下向させる。正盛、元就の不摂生を意見する。元就ちゃっかり全快。 |
(三楽堂) 正盛は曲直瀬道三という名のほうが知られていますね。彼が述べたのは政治上の意見書『九十箇条陳上書』。 |
元春、『太平記』二十八冊を筆写。 |
(三楽堂) 作業は、四、五月をのぞいて毎月続けられました。 | |
永禄八年(1565) | 正月、隆元嫡男輝元(13)元服。 |
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三月二十日、山中鹿介の義父亀井秀綱、毛利方杉原盛重と戦い、敗死。
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四月十七日、輝元初陣。戦のほうは富田城総攻撃失敗。 |
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七月、山中鹿之助と品川大膳(たらのき狼之助)、一騎討ち。 |
(三楽堂) 鹿ちゃんと狼の一騎討ち。品川大膳は石見国人益田越中守の家来。鹿ちゃんとの戦いの前に狼之助と名を変えた。『雲陽軍実記』では、鹿ちゃんの豪傑ぶりを描写しているが、『陰徳記』および『陰徳太平記』では、危うくなった鹿ちゃんが同じ尼子十勇士の秋上庵之助と二人がかりでやっつけたことになっている。ちなみに『陰徳』では「たらのき」とは名乗らず、ただ品川狼之助としている。鹿は「たらのき(樹木です。木或)」を食べて角を落とすといわれているので、それに因んだようです。 真相はともかく、富田川の一騎討ちの場には石碑がたち、島根県広瀬町には品川大膳の墓が遺っています。 | |
八月、元春、『太平記』十一冊を筆写。全四十巻完成。 |
(さかい) オヤジどのを見習い、「軍旅政務の内、暇(いとま)あれば和歌、連歌の興に乗じて」おりますということでしょうか。笑 (矢古女) それならいいんですけど(笑)。他の人が、和歌、連歌、蹴鞠なんかをやっている時に、一人、『太平記』コピーに励んでいたのかもしれないな、と(笑) (さかい) ははは。写本か。歌や詩もやったほうがいいいよと、鳥取城の経家さん、言うかもしれませんね。 (三楽堂) この年の書写作業は、四月から八月にかけての五カ月である。元春は非情に几帳面で、各冊の末尾に謄写を終えた年月日を朱書しているので、進行状況もわかる。月に2〜3冊のペースだ。 実物は岩国の吉川資料館で見られます。 (元春)わーい、できたできた!(表紙に頬ずり) (ぺら) 太平記は見てみたいよねえ。なんたって元春どの直筆よお、直筆。 (にゃぐ) うおぉぉぉ。噂の(笑)元春さまの太平記の現物かぁ!! (矢古女) 何故、『太平記』でそんな盛り上がる?(笑) (にゃぐ) 矢古先生!(^^)『太平記』で盛り上がってるんじゃなくて、『元春様の』太平記で、盛り上がってんねん(爆) (三楽堂) うまかったぞ、元春の筆蹟。おまけにまめな性格がにじみ出ていて、書写した日付がちゃーんと、各巻の最後に「朱書」されていた。漢文の授業で習った返り点(レ)が細かく打ってある。 表紙は桔梗色をやや濃いめにした感じ。けっこう几帳面だったんですね。昔は、元春が荒っぽくて、隆景が几帳面と思っていたけど、どうやら逆みたい。隆景は、壺の値段に夢中になる茶の湯などは批判的で、替え歌を作 ったりするのが得意だったようです。 (矢古女) 家を、養子(秀包)もいるってのに金吾ちゃん(小早川秀秋)にさっさとくれてやるなんて、相当荒っぽいワザだ、と思った。いつかも書いたような気がするけど、隆景の手紙は短かったような。 | |
十一月十九日、尼子義久、毛利元就に降服。月山富田城開城。 |
(三楽堂) 元春がせっせこ太平記をコピーしている間に、おやじ元就は乃美の大方と乳繰りあっていた・・・。月山富田城の攻囲が数年に及んだのは、あんたらのせいじゃないのか? | |
永禄十年(1567) | 一月、元就九男小早川秀包(幼名才菊丸)誕生。生母乃美の大方 |
(三楽堂) 元就71歳の時の子です・・・。ただただ呆然・・・。ホントに元就の種だったんかねえ・・・。 (にゃぐ) そう勘ぐろうと思えば勘ぐれるような、感じなの?(^^) (矢古女) そうだっ。秀包は、1月生まれですね、確か。 元就は、前年、病気してるんですよね!。(だから何?(^^;)) (にゃぐ) ほっほう。とすると、本当の父親は誰あたりと、想像できるんだ? (矢古女) ただ、元就って、「こいつに限って、70過ぎて子供つくるかもしれない」と思わせるものはあるような・・。 (三楽堂) 乃美の方が看病のため枕頭に侍っているうちに、ミョーなことになったのかもしれんな。額か胸の汗を拭ううちに、元就の病人とは思えぬ力で寝床の中へ引きずりこまれたとか。で、三吉氏との子づくり合戦に終止符をうつべく、「もう一人ぜひとも欲しかった」乃美の大方と目的が一致してしまった・・・。 そーか、わかった!。そのコトが都から差し遣わされた曲瀬正盛の忠告(永禄七年の項を参照)を聞かず、女性に手を出したばかりに、病気が再発したのかあ。(ほんとか?) (にゃぐ) オヤジ・・・ |
元春、戦後処理を終え、新庄へ凱旋。 |
(三楽堂) 元春は祝い事があると子づくりに励む傾向がありますから、もう新庄の方も心の準備をして待っていたかもしれませんな。 新庄局「あなた、火の山のお城の修築がそのままですわよ」 元春 「うむ、明日じゃ、明日じゃ」 新庄局「あのままじゃ、見てくれがよろしくありません。さっそく取りかかって下さらないと」 元春 「太平記コピーしまくって、まだ手が痺れておるのじゃ」 新庄局「元長も一人前になったことですし、はやく火の山城をきれいにしてこの城を渡してやらないと。元長もわたしたちがいてはいろいろやりづらいでしょうし・・・お父上だって、ホラ。今だにあの頑張りよう・・・」 元春、ギョッとして妻の顔を見る。 元春 「まだ産むつもりか、おまえ・・・」 | |
十月、隆元の側近であった赤川元保、誅殺される。 | ||
永禄十一年(1568) |
三月、元春・隆景、河野通直救援のため、伊予へ出陣。
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(三楽堂) 吉川・小早川軍は道後へ上陸。湯築城へ入るのですが、このお城、名前のとおり道後温泉の近くにあるんですよね。戦国武将と温泉、というのも切っても切れない関係です。 | ||
六月、元春、九州へ出陣。 | ||
山中鹿介ら、東福寺の尼娘勝久を還俗させ、これを擁立。 |
(ぺら) さあさあさあさあ、問題の東福寺よっ!坊主よっ!! では、東福寺における食物連鎖。 彭叔守仙×竺雲恵心×安国寺惠瓊×尼子勝久、ってか?(笑) (矢古女) あああ、のっけから!(爆) 彭叔守仙さんて、よくはわかんないけど、長いこと住持のやってたし、いろんな本の編纂みたいなこと、してたみたいだよ。 (ぺら) この人、そんなにすごい人だったんですか〜。いや、それを言ったら、恵心も惠瓊もすごい人なんだろうけれど。(笑) (矢古女) 彭叔守仙さんはすごい人です。東福寺の彭叔和尚伝というのに、「元就」の名を付けたことが、書いてあります。また、尼子の遺児のことも、あるんですが・・。 尼子「春久」の子を沙彌とした、というんですね(^^;)で、後に、山中の鹿ちゃんが来た、と・・。(いろいろ、ごっちゃになってるのかな?) 元就は、天皇の即位の費用を出したりしてますよね。その時、恵心さんが、働いています。その功績で、恵心さんは、評価が高い(?というの?)みたいです。 (ぺら) う〜ん、勝久くんのことだと思うんだけれど、ちょっと違っているねえ。 「沙彌」ってどういう意味かわからなかったので、辞書を引いてみたら「仏門に入ったばかりの、修行未熟な小僧」と書いてあった。なかなかにそそる説明文だ。この説明にそそられる私ってのも、どうかしているけれど。(笑) (矢古女) 私も調べた。大体、仏教用語など、よく知らん・・(^^;) でも、勝久くんのつもりだろうねえ・・。よく知らないけど。 (三楽堂) 尼子孫四郎勝久は、尼子経久の次男国久の後裔ですね。この一族が新宮谷に住していたので「新宮党」と呼ばれましたが、元就の奸計によって、天文二十三年、尼子晴久が根こそぎ誅戮してしまったのです。(反間の計というんだっけ?) で、この時、乳母に抱かれて逃れた孫四郎が尼子国久の孫にあたる。他にも兄弟はいるはずなんだけど、消息がわからない。孫四郎だけ助かったのは、やっぱり「美しい子」だったからだろうか?。 (ぺら) たとえ妄想女でなくたって、東福寺で安国寺が勝久くんにどのようなことを教え込んだのか、想像するのは容易ですね。(笑) おそらく愛する勝久くんをようやく探しだした鹿介、ところがすでに勝久くんの身体は・・。怒りに燃える鹿介の安国寺憎しという思いが、ならば安国寺の仕えている毛利を倒すんだ!と発展していくのは簡単なことだったのでしょう。おいおい、尼子再興の決意はどうなっているんだ・・。(笑) | |
永禄十二年(1569) |
一月二十四日、元就、和智誠春を厳島にて殺害。 |
(三楽堂) この和智というのは、元就の嫡男隆元を自分の城に招いて供応した人ですな。で、直後に隆元が急死した事件(永禄六年八月)。和智を討ったのは、井上右衛門尉、児玉元村。 |
四月二十六日、元就(73)、九州へ出陣。 | ||
五月一日、九州立花城総攻撃。 | ||
六月二十三日、山中鹿介、立原久綱ら、尼子勝久を擁し、出雲へ上陸。 |
(ぺら) で、この年には、惠瓊は安芸の安国寺の住持になっていますねえ。(なんと、勝久くん還俗の翌年!!!) これはもう、逃げ出した勝久くんがいずれ毛利攻めに来ることを予想した安国寺が、待ち伏せするために安芸に移ったということでしょう。「逃がさないぞ〜! おまえはわしのもんじゃ〜!」と手ぐすね引いている安国寺、恐いですねえ・・。しかし、ここで安国寺は運命の出会いをするんですな。 (三楽堂) き、吉川元春と、か!?(笑) | |
八月、尼子勝久軍、出雲侵入。米原綱寛ら山陰国人衆これに応じる。 | ||
十月十五日、九州立花城より毛利軍撤退。 |
(三楽堂) この頃、毛利家は九州へ出兵し、大友氏と北九州の覇権を争っていました。加えて、大友宗麟の画策により、大内輝弘の乱がおこり、毛利軍は撤退を余儀なくされます。 | |
十月十八日、吉川元春、長府に本営を置く。 |
(ぺら) さて、安芸に移った安国寺、なぜか吉川元春の魅力にめざめてしまった。あっさり勝久くんのことは忘れて、これが本当の愛なのね〜、とばかりに元春を追っかけ始めたのです。(笑) (矢古女) おお〜〜いいいいい〜〜〜〜(笑) (ぺら) おお〜〜、そんなにいいいいい〜〜〜〜ですか〜。(笑) 矢古女せんせえのお墨付きをもらったぞっ! (矢古女) いや、いまさら何も・・(^^;) この一族で、元春のそばには、坊主らしい人いないかな、って思えるのに。極めつけが来たのか(爆) (ぺら) 鹿ちゃんという恋人がありながら、身体は坊主のテクが忘れられない勝久くんはちょっと複雑な心境だったのでしょう。安国寺を思い出し溜め息をついている勝久くんの姿に、ますます鹿介の怒りは燃え上がったのですね〜。これはなんとしても安国寺の前で元春の命を奪って、安国寺を悲しませてやるんだ!と、決意を新たにした鹿介。 | |
元亀元年(1570) |
一月六日、輝元、元春・隆景とともに出雲へ出陣。 | |
二月、布部山合戦。輝元、尼子軍を破る。 二月十五日、輝元ら富田城入城。 二月二十四日、尼子勝久・山中鹿介、新山城へ敗走。 | ||
五月十四日、尼子十勇士の一人秋上庵介久家、父綱平とともに毛利氏に降る。
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九月五日、出雲陣の輝元のもとへ元就病むの報に接し、吉田へ帰還。 | ||
元亀二年(1571) |
六月十四日、元就、吉田郡山城内にて没す(75)。 | |
六月二十日、元就の遺骸荼毘に付される。 六月二十四日、遺骸を埋葬す。 | ||
第8章へつづく |