事件・事項   注釈(本当は茶々入れ)
元亀二年(1571) 山中鹿介、毛利軍に敗れ、織田信長を頼って再び上洛。
(三楽堂) この時、いったん、鹿介の身は吉川元春によって拘束されたともいわれています。で、何度もトイレに行くふりをして、隙を見て逃亡したという。手の指をかみやぶり、血までなすりつけて赤痢にかかったと思わせて、厠へ百回以上も通う鹿介。ついにクソ溜から逃亡に成功。三方ヵ原の家康脱糞事件どころではない。こっちはもうまみれちゃってるんだから。厠へ出たり入ったりする鹿介に、毛利の監視もいやになってしまったとか。
(ぺら)  こんなことしていたら、かえって本当の赤痢になっちゃうような気がする。鹿ちゃんってワイルドね〜。(笑)
(矢古女) 元春は、すぐ、殺せと言ったけど、宍戸隆家や口羽通良が助命嘆願したのだ、と軍記物には書いてありますね。杉原盛重は、殺せと言ったのだったかな。
しかしまあ、見て来たように書いてあるけど(笑)どの程度、ホントのことだったのでしょうね(笑)
(三楽堂) 後に吉川元春が鹿介を捕らえて、護送中に殺してしまったのもこの事件のせいだったかもしれません。「また何度もトイレに行かれたらたまらん」と。脱出した鹿介は再び上洛、織田信長に援助を乞います。なに、食事中? ネットサーフィンしながらメシなんか食うなっ。
(にゃぐ) え、鹿ちゃんって、元春さまに殺されたのっ!?
トイレに行く振りをして逃げたという話も聞いたことあったけど、へぇ、それって元春さまの拘束下でのことだったんかぁ・・・。
(三楽堂) 囚われていた間、鹿介は元春に、「今後は毛利家のために働くが、旧主と戦うのはしのびない。手勢を与えてくれたならば、四国へ攻め入り、長曾我部を討つ」とかぬかしています。苦労しているわりには、けっこう、あまちゃんですね。
天正元年(1573) 湯新十郎、亀井氏を嗣ぎ、茲矩と称す。
(三楽堂) 鹿ちゃんが連れて歩いていた義弟ですね。のちの津和野藩祖です。
天正二年(1574) 尼子再興軍、山名豊国の鳥取城へ入城。

(三楽堂) 山名豊国、というのも「つかえない」武将らしい。あの宗全の後裔とはいえ・・・。豊国は結局、腰くだけになって毛利方へ降服してしまうんですよね。まあ、山名にしてみれば、「厄介者が来た」ということなんでしょうけど。
しかし、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」の中に山名氏に関する文章があるんですが、「このあたりは、山名というろくでもない守護大名の領地だった」といったような言われ方をしています。(笑)
天正五年(1577) 羽柴秀吉の麾下として尼子軍、播磨国佐用郡上月城を攻略、上月十郎討伐後、尼子勝久が同城城主となる。
天正六年(1578) 七月三日、上月城開城。尼子勝久自刃。
(三楽堂) 上月城救援を主張する秀吉に対し、信長の厳命が届くわけですな。「上月城は見捨てよ」と。毛利の大軍を前に、羽柴軍は兵を引き、孤立した上月城の尼子軍は、開城するわけです。
(ぺら)  安国寺への復讐のために、ともに手をたずさえて死ぬことは選ばなかったのですね、鹿ちゃんは。すでにこのときの鹿介の頭の中には、尼子再興などよりも「元春を殺すんだ!安国寺を泣かせてやるんだ!」ということしかなかったのかもしれません。
(三楽堂) ほんまかいな(笑)。いや、しかし、軍記物では吉川元春と刺しちがえる覚悟だったという描かれ方をしていますね。
七月十七日、鹿介、安芸に護送される途中、備後阿井の渡しで殺害される。享年三十四歳(ただし、諸説あり)。
(三楽堂) 吉川元春の命により、輝元本陣へ護送途中、天野元明の家来河村新左衛門によって背後から斬られ、鹿介と河村が河中で格闘中に福間彦右衛門がとどめをさした、といわれています。殺害命令を下したのは、毛利輝元であるとも言われています。これは、やはり祖父元就の死につけこんだ鹿介を、輝元が憎んでいたからであろう、と。逆に、吉川元春は鹿介を召し抱えるつもりだったとか。
たしかに、元春が殺害を命じるのなら、わざわざ護送せずにさっさと捕らえた時点で斬ってしまえばよさそうに思えますね。

・元春が殺害命令を下した場合。
鹿介は輝元に引き合わせるために護送されていった。が、元春は輝元には黙って、鹿介を始末してしまった(これが通説かな)。吉川元春は、決しておとなしく降服はしないだろう、と思い、後顧の憂いを断ち切ったのかもしれません。現に鹿介につぐナンバー2・立原久綱は安芸へ護送されましたが、まもなく逃走、蜂須賀家に仕え、慶長八年八十四歳の長命を保ちました。

・輝元が殺害命令を下した場合。
鹿介は元春の陣へ護送されていった。が、輝元が鹿介の助命に反対したため、元春は仕方なく鹿介を斬った。いずれにせよ、一方が相談もなしに鹿介を始末しては、輝元・元春の間に齟齬が生じると思うし、何事も相談して決める毛利の家風らしくない。やはり、どちらかが助命に反対したのだな。
(ぺら)  輝くん(by『みどりのマキバオー』)がおじたま(by『SENGOKU』)に逆らうなんてこともあったんですか〜。どうも私、輝くんには軟弱なイメージが強くって・・。(笑)
(矢古女) まあ、鹿ちゃんが有名ですけど、事実上は、久綱が中心だった、という説もあるようですね。
(ぺら)  おそらく元春も、戦国武将同士の争いといったものを越えた、鹿介の自分への異常な殺意を感じたのでしょう。
(三楽堂) 山中鹿介死後、その意志を嗣いだ亀井茲矩が鹿介の部下たちを率いて毛利と戦います。この尼子遺臣団のガッツには頭がさがりますね。他家も見習って欲しいぞ。
天正九年(1581) 亀井茲矩、鳥取城攻略の功により、因幡鹿野城主となる。

(三楽堂) 亀井茲矩は、ただ一人、「琉球守」の官名を私称しています。実際、シャムへ何度も使者を送るなど、海外貿易が好きだったようです。先に毛利家に降服していた尼子義久兄弟は、鹿介たちの死後、もう「これを担ぐ者もおらぬだろう」ということで、幽閉状態を軟禁状態にかわり、子孫は佐々木氏として毛利家臣となりました。
天正十年(1582)三月、羽柴秀吉、姫路城に入る。中国経略本格化。
五月七日、羽柴軍、高松城水攻め開始。
五月二十一日、吉川元春・同元長・小早川隆景、高松城救援のため、備中に着陣。
(三楽堂) 羽柴側が築いた堤防を崩すこともできず、毛利側は安国寺惠瓊を用いて、外交交渉にのぞみをつなぎます。
(矢古女) 趣味に走って、高松城の和睦から中国大返しくらいまで、『播磨灘物語』立ち読みしてきました(^^;)
すご〜く楽しめました>元春どの
清水宗治の切腹条件をめぐって、吉川元春が(半ば意識的に)反対し、惠瓊に文句を言って、小早川隆景は、切腹はやむをえないと思いながら、元春が反対したことが広まれば、毛利家の面目も立つだろう、と考えているくだりなんですが。(以下、私の言葉で書きますので、誇張・曲解等、お許しあれ)

元春は、弟の隆景にはあまり思ったことを強く主張できず、兄弟で口論することは滅多にないのですが、惠瓊には、思い切りがんがん言うことができまして(笑)
すると惠瓊は、まあまあ、となだめるように、元春の膝に、手を置くんですね。
元春は、一瞬ぞっとします。気持ち悪い(ちょっとデフォルメ(^^;)  でも、気味が悪い、というようなことは書いてあった(笑)
ところが、元春、邪険に払いのけるような真似はできない(笑)
司馬さんいわく、「それなりに礼儀正しい」(^^)
でもって、元春、両手で惠瓊の手を包むように撫でてから、膝元に押しやるのですけど(爆)。
(ぺら)  ひえ〜〜〜〜〜。(笑)そんな大変な時に、公然とナンパ(じゃないか)するなよ〜〜〜。
さ、最高だあ。>安国寺
(にゃぐ) しかし安国寺、何を考えているんだ(笑)
いや、何を考えているのか、うっすらわかるような気はするが・・・。触りたかったんだろうねぇ、きっと・・・。膝に手を置かれたくらいで「気味が悪い」と思われるような安国寺だもの。
で、元春殿。膝を触られているより、一旦は撫で撫でしてでも、その手を膝から離したかったのね。8= 可愛い(^^) 肉を切らせて骨を断つ・・・って、違うだろ
(矢古女) 究極の選択・・。
安国寺に膝を触られるのがいいか、安国寺の手を撫でるのがいいか・・。
司馬せんせいも、何を考えたものやら(笑)
生温かいのが気味が悪い、と言ったのも、手を撫でてから押しやった、と言ったのも、司馬さんなんですよね。 こればかりは、偶然かなあ。
でも、この時代の礼儀作法は知りませんけど、まあまあ、とか、そうじゃなくて、と言う時に、何もわざわざ手を膝に置く必要は、ないですよね。
(ぺら)  きっと安国寺、しばらくの間、手を洗わずにいたんだ。包帯巻いていたかもしれない。ひーっひっひっひっ。(ああ、笑わせてもらった。)
(矢古女) ・・・・・・(コメント不能)。でも、にゃぐさんといい、ぺらさんといい、一緒に笑ってくれる人がいて良かったです(笑)
こんなところでウケている私は、ヘンタイか、とも思っていた訳で・・。
(三楽堂) ま、ヘンタイではないにしても、ヘンジンではあるかもね。
(ぺら)  でも、よかったね、元春殿。すけべ大内の心を捕えることはできなかったみたいだけど、惠瓊には気に入られたようで。(ぜんぜんよくない!)
(矢古女) 元春どの、50を越えておろうが(^^;;
じゃあ、惠瓊はいくつなんだ・・と思ったら、生年は不詳なのね、この人。でも、この意見は初めてだ(笑) とてもじゃないが、思い付きませんでしたねえ(感心)。
これもまた究極の選択。
大内か、惠瓊か・・。(それじゃ、小早川隆景は、両方に好かれたとか?)
(三楽堂) 大内か、惠瓊か。肖像画で比べたら、大内かねえ。お金もいっぱい持っていそうだし。しかし、『播磨灘物語』にこういうシーンがあったなんて、忘れてた。
(矢古女) このシーンは、惠瓊、吉川元春、元長、小早川隆景が、狭い小屋で膝を突き合わせんばかりにして座っているんですが(笑)ただでさえ、あまり好きでない安国寺に膝を触られて、うっ!と思っても嫌な顔できずに、手を撫で撫でしてしまった元春どの(^^;;)。 立ち読みしてなかったら、大爆笑でしたね。いかなる条件にせよ、元春どのが安国寺のおててをすりすりしている図は、これまでとても思い浮かばなかったです。
私の読んだ限り、『播磨灘物語』には、惠瓊が人前で他人の小姓にふざけかかった、とか、その手のエピソードは書いてないんですけどね(笑)
やっぱり司馬さんはすごい。うん。
ようやく落ち着いて参りました(笑)
これを書いておかないと、司馬ファンの怒りまで買いそうで(^^;;
このくだりのまともな感想です。
その、元春が惠瓊の手を撫でるシーン(笑) 普通の人なら、ビシッと払いのけ(させ)てしまったと思うんですね。割に、吉川元春どの、そんなイメージを持たれている(と思う)。そうしなかった司馬さんの、観察ってすごいなーっと感じた訳です。案外、あれこれ気を使っているみたいなんですよ>元春
吉川元春 → 根暗、をたっきー ・・と思っている方、当たっていると思います(おいおい)
で、をたっきーな側面は、すぐれた戦略家と言う点に繋がると思うんですね。こういう方面のことは、よくわからないのですが(^^; 元春どのの考え方に、理屈の上でこうできる、だからこうする、みたいな所があるような気がするんです。冷静にじっとあらゆる可能性を考えて、それも理論的に淡々と、考えると言うよりは、当然そうなるな、みたいなところがわかるんじゃないかと。(良い意味で、理系的、と言えばいいのでしょうか)
例えば、父(毛利元就)が、弟(小早川隆景)の方を大事にしたとして、そのことを不満に思ったとしても、元春どの、文句は言っていない。(記録には残っていない筈・・あったら面白かったのに、と思わぬでもない)それは、元春どのの忍耐強さ、というだけでなく、こういうところでうっかりしたら、(極端な話)命が危ない、ということも考えていたのではないか、と私は勝手に思っているわけでして(笑)
不満を漏らした形跡がない、と言うのも、したたかさの表われのような(^^;)  毛利本家に尽す、と言うのも、自分(と家族)の保身のため、という面もあったと思っております。(う・・。私は、ホントに元春ファンなのか(^^;;)
で、『播磨灘物語』。
司馬さんの書く元春、理屈と感情をしっかりわけているんですよね。あくまで私が読んだ感じですけど、相当に物事がわかっている。その上で、でも嫌だ、と自分の感情を出しているような気がしました。 あと、輝元くん。
輝元くん、異例とも言える、清水宗治切腹は承服できない、という声明を発表するのですが、「元春か隆景が入れ知恵したのかも知れない」と書いてまして(笑)
輝元は凡庸だ、と司馬さんは言います(歴史小説家は、頭の悪い人にはキビシイ。金吾ちゃんのことと言い)。 でも、自分で凡庸だ、と言うことがわかっていると、言いたい放題なんだけど、笑っちゃった。
本当は全部読んでから言うべきなんでしょうけど、秀吉が天下を取ってからの官兵衛も、見たかったなあ、とも思いました。
きっと元春は、(弟の隆景のような)頭の切れる人が、実は好きだったのでしょうね。また、官兵衛は足が悪かったとも伝えられますので、いたわってあげなければ、と素直に思ったのかもしれません。
官兵衛の方にしてみれば、小早川隆景はむしろ、軍師・参謀同志、自分のライバルという側面がありましょうから、元春の方を慕ったのかもしれません。あるいは、元春の傍らにいる長男と末子と、和気あいあいとした雰囲気に触れ、我が家の子供たちももっと成長したら、なんて考えることもあったことでしょう。(冗談でなく、黒田父子の親子関係は、興味がありますな)
九州征伐では、元春は病みがちで、官兵衛が見舞った直後、容態が悪化して、ついに世を去ります(涙)
元春にすれば、どうせ死ぬなら戦場で、と思っていたかもしれませんが、惠瓊はいかが思ったことでしょう?(あっ、私は別に、官兵衛に含むところはないです(^^;) )
惠瓊が、毛利家の利益代表という立場を次第に離れはじめ、独自の活動をするようになったのは、元春没後のことだったのですね。(違うだろっ(^^;) )
六月二日、織田信長、明智光秀の謀反に遭い、自刃(本能寺の変)。
六月四日、毛利・羽柴講和成立。清水宗治自刃。
六月六日、羽柴軍、高松を発ち、翌日姫路へ入る。
(三楽堂) わずか一日ちがいで、紀州雑賀党から本能寺の変の報告が、吉川元春・小早川隆景らのもとへもたらされました。元春は追撃を主張しますが、山陽の責任者である小早川隆景は反対した、と言われます。
(ぺら)  黒田官兵衛って、中国大返しの時に、秀吉に「天下取りのチャンスだ」とか言ったがために、逆に秀吉に警戒されて遠ざけられたっていう話は、よくあるのですが、実はそれには安国寺惠瓊がからんでいたっていうのは?
高松城和睦についての毛利内部での話合いの中で、安国寺の自分に向けた恋心を知った吉川元春なんだけども、どうしてもそれに応えてあげることができなかった。で、安国寺はいたたまれなくなって(もしくは、あてつけで)毛利から距離を置くようになって、お猿に近づいていく。
秀吉も知恵者の安国寺を気に入って優遇し、相対的にそれまでの軍師だった黒田官兵衛の地位が下がっていく。 そうして、だんだん官兵衛にとって惠瓊は目の上のタンコブというふうになっていくんですね。
で、そんな惠瓊を面白くない目で見ていた官兵衛、ある日ふと気づく。さすがに、官兵衛は賢い。
「どうも惠瓊は、毛利全体というよりも、吉川元春との折り合いがよくないようだ。それも、ある種の妖しさがあるぞ。」
そうして、元春に興味を持った官兵衛、元春と接してみると、元春は自分と同様、女にはもてないようで(いや、一人の奥方を愛すタイプで(笑))、親近感がわいてきた。そんなわけで、吉川家と黒田家の家族ぐるみのおつきあいが始まった。
だから当然、息子の広家にとっても黒田官兵衛は優しいおじちゃんってことになるんですね。したがって、父の亡き後、広家が官兵衛を頼りにしたのは自然のなりゆきかも知れない。
(矢古女) 小早川隆景、黒田如水、安国寺惠瓊の友達の輪。この連中が元春どのを慕ったとする仮説(笑)
あ〜、グロだ、とおっしゃいますか(;_;) いや、仲良しさん、という意味で(笑)
彼らには共通点があるようです。
○知恵者、すなわち軍師・参謀タイプ。
○女の噂がない。
(お猿は気に入るかもな、こいつら)
並べてみると、惠瓊を仲間はずれにする必然性はないかも(笑)
惠瓊は関ヶ原の責任を背負って死んでしまったので(あーっ、忠臣説じゃ)、後世から悪く言われているが、その色眼鏡をはずすと、ますますそうなるかも知れません(^^;)
しかし。この3人は、大親友にはなりにくそうである(笑)
みんな頭が良いから、喧嘩するようなことはなさそう。だが、心の底から打ち解けられはすまい(^^;)  よって、控え目武人肌、タイプの違う元春の方が付き合いやすいかも知れないぞ(笑)
(ぺら)  ああっ、元春どのも(お猿とは別の意味で)「男たらし」だったのね。(笑)
(矢古女) さて、元春どのよ。キミは一体、人望があるのか、ないのか・・(涙)
(ぺら)  いいじゃないの、愛されているんだからあ、ひっひっひっ。ま、愛されて嬉しい相手かどうかは、また別の問題だけど。(笑)
十一月三日、毛利元総(小早川秀包)、吉川経言(広家)、大坂城にて秀吉に謁見。
(三楽堂) 高松城講和条約に基づき、秀吉のもとへ人質として赴いたのが、毛利元総、吉川経言の二人。元総は、七十の元就が渾身の力をふりしぼって生んだ、あの末っ子ですね。永井路子さんは、毛利元総を「役に立つ子」であった、と書いている(笑)。「役に立つ」って、人質要員かあ!
(矢古女) 吉川元春の三男・広家(経言)と小早川隆景の養子・秀包が、秀吉のところに人質にいったときのこと。
広家は、翌月帰されるのですが、秀包はそのまま大阪に留まりました。
「男色美麗なるに依って、秀吉公耽る心在しける故」(『陰徳太平記』より)。
どのように読めばいいのかは、わかりませんが(笑)
(しかし、吉川一族ってこういう時、全然もてないんだなあ・・)
(三楽堂) 小早川系だけ、なぜモテる!?。やっぱ、吉川は母親が・・・
(ぺら)  さて、広家はお猿のところに人質に行っていた頃、お猿の養子・金吾ちゃんと仲よくなる。(金吾ちゃんの年齢はまだ幼いので、幼児の金吾ちゃんが広家になついたということにしておこう。)
ところがお猿に実子が生まれて、金吾ちゃんの立場が微妙になってきた。そこで金吾ちゃんのことが心配になった広家が、官兵衛にお願いするんですね。
「なんとかして、秀秋の将来を僕が守ってあげたいんだけど・・・。」
そこで官兵衛は広家の願いをかなえるために尽力することになるんですね。で、黒田親子、広家×金吾ちゃんは、手に手を取って、関ヶ原になだれこんで行く。(笑)
これで、どうだ! これぞまさに、こじつけパワーである。(笑)
十二月二十日、吉川元春、嫡男元長に家督を譲り隠居す。
(矢古女) 隆景は、もともと兄貴の隠居に不審なものを感じていたのでしょう。(ほんとかよ(^^;) ) 元春は、なんだかんだともっともらしい理屈をつけて引退したのですが、隆景は割り切れないものがあったかもしれません。後で考えて、(元春は何も言わなかったが)健康を害していたせいかな、なんて想像していたのですが、ふと、惠瓊の存在に気が付きました。で、隆景は怒りを覚えたんですな。(どうしてだろ(^^;) )いや、説明すると長くなりそうで・・(笑)
小早川隆景が、安国寺惠瓊を警戒しはじめたのは、この時からだったかも知れません(笑)
(三楽堂) 元春ラブラブの矢古女せんせえは、オーバーヒート気味ですね。
元春の隠居は、秀吉に膝を屈することを恥じてのこと、ともいわれています。
『江譜拾遺』という本に、「秀吉、明智光秀を誅し、織田氏を逐い、大坂に居す。元春、幕下に出るを恥じ、常に怏々にして楽しまず、老いて家を元長に譲ると告ぐ」云々、とあります。
(矢古女) 元春と親友(?)であった如水ですが、元春の死後、掌を返すように、いきなり「金吾を毛利へ」と言い出して、隆景をムカっとさせる、とか(笑) 嫌がらせ、とまでは言いませんが(^^;)
ただ、元春が隠居したことについて、「毛利家では秀吉に全面的に好意を持っているのではないのだ」という、お猿に対してある種のプレッシャーをかけたのだ、なんていう説もなきにしもあらず。そこまで考えていたのかなあ、とは思いますが(笑)
だから、元春没後、無理難題を吹っ掛けてきた、としても、まあまあ説明がつくんですね、これが(笑)
元春の跡を継いだ元長が死ぬと、嗣子がなかったので、末弟の広家が宗家を継承するのですが、その時に秀吉にOKをもらったり働きかけたのが、どうも、黒田如水のようなんですね。
よくは読んでないのですが、『陰徳太平記』では、隆景は冷たい、というようなことも言ってまして・・(^^;)
『陰徳太平記』というのは吉川家に仕えた人だか、その子孫だかが書いているので、何というか、小早川隆景には、多少、含むところがあるようです。だから、割引して読まなければならない点もあるんですよね。ま、そういうことがわかるだけでも面白いかも(笑)
時代、ちょっと飛ぶぞ〜。
慶長五年(1600)関ケ原の戦い。小早川秀秋、東軍に寝返り西軍敗退の因をなす。
(ぺら)  やはりこれは吉川広家と小早川秀秋の愛がなせるワザなのよ。(ああ、徳川家康の立場はどうなっているんだ・・?)
(矢古女) え〜、でも、吉川広家って人気あるんだあ・・。
(ぺら)  正確に言えば、小早川秀秋のダンナとしての吉川広家が好きなん。(笑)(だからそれは史実ではないっちうのに・・。)
金吾ちゃんはねえ、肖像画が可愛いからいいの。
(にゃぐ) 思い切りたれ目のやつだっけ? あれなら確かに可愛い(笑)
(ぺら) でしょ! あの頼りなさそうな金吾ちゃんの風情に、思わずクラッとしてしまう吉川広家っていうのは、とっても想像つきやすいんだわ〜。(笑)
でもね、吉川広家の肖像画はぜんぜんよくないと思う。
(三楽堂) わたしもあの広家の肖像は好きじゃない。いわゆる毛利顔じゃないんだよな。わたしが好きな秀元はけっこうごっついし、輝元はまあ、頭の中身はともかくけっこう押し出しがいいですよね(この間、秀吉展でみた。下絵も)。元春もそうだし。
(ぺら)  たしかに「この人は名君だったのよ〜。」と言われて、輝元の絵を見せられたならば、それで納得してしまうような雰囲気は漂わせている。
まさに、みこしとして担ぐにはピッタリな風格というのか・・。
(矢古女) 確かに、輝元は良い
ところで、肖像画って、誰がど−やって描くのだろう?(絵師、と言われりゃそれっきり(^^;) )
毛利元就なんて、自画像があるみたいですが。小早川隆景が、輝元に対し、臣下の礼を尽くしていた、と言うことは結構知られてます。しかし、それは表向き。教育する時は、時に手をあげた、と言われます。丁重に立てながら、ぶん殴る世界・・。(いや〜、私はまだ、何も考えてませんよ〜)
(三楽堂) ぶん殴る・・・。(輝元が、隆景にぶたれて鼻血を出している図を想像している)
書かれた年代か絵師の違いか、とも思ったのですが、広家はいかにも「江戸時代の軟弱な殿サン」という感じですね。ふりかけ橋=広家って感じするけど・・・
(註:ふりかけ橋。中村橋之助。97年NHK大河ドラマで毛利元就を演じる。わたしには、どうも某食品メーカーのふりかけのCMがこびりついている。で、橋之助元就と三田夫人の間で、大人って、大人って・・・とぼやきながら、おにぎりをこねているサンフレッチェたち。)
(にゃぐ) しかし、本当に元春さんに似てないわねぇ・・・・・・。(今、文庫の人物事典を見ている。これ、結構ミソな人が載っていて、しかも肖像画も(顔だけだけど)全員載っていて、便利)お父さんとは何から何まで正反対よ・・・。
(ぺら)  少なくとも親父の元春どのとは、まったく似ていないんでしょうなあ。
ってことはお母ちゃんの新庄さん似なんでしょうねえ。なんとなく噂の新庄さんの容貌、想像ついてしまうような・・。
(にゃぐ) 男の子はお母さんに似るって言うからねぇ。と、すると新庄さん。本当に、すさまじかったんだろう・・・・・・な。
(矢古女) う〜ん、やっぱ・・。
小早川隆景くん主役の小説で、「あの兄は変わり者だったが、女を見る目も人と変わっているのだ。」などと言われているし・・。(そこまで言う?)
それで、その元春どのは、元就パパに似てなくて、そうすると妙玖さん似と言う訳でしょうかね。 あー、女たちの肖像画もあれば良かったのに。妙玖さんや新庄さんが、息子の絵から想像がつく(?)ならば、元就の娘の五竜さんや、元春長女の益田元祥夫人が、それぞれパパ似だったとしたら・・。(あまり、想像しない方がいいかな(^^;) )
十月一日、安国寺惠瓊、石田三成・小西行長とともに六条河原で斬首。

(矢古女) 普通、毛利家ファンにとっては、安国寺ってのは、おおげさに言うと、タブーに近い存在ではないか、という気もします(笑)
地元では、今でも嫌われている、というウワサですからねえ。豊臣家の味方をしたからいい人なのだ、という意見は聞きます(笑)。いや、安国寺が責任を引き受けたおかげで毛利は助かったのだ、という意見もありますが、(私が思うに)それは相当にうがった見方の好きな人の考え(^^;)  素直な人(?)は、そこまでは考えない(笑)
でも、「安国寺忠臣説」も面白いかもしれないと思っている(^^;) (おいおい(^^;) )
(ぺら)  毛利にしてみれば、「余計なことしやがって」みたいな気持ちってあったのかな?
(矢古女) 余計なことといいますか、大毛利が没落したのは、こいつのせいだ、みたいに思われているんでしょうねえ。もちろん、スケープゴートになった、という考え方もあるでしょう。(しかし、擁護する気はあまりない・・(^^;) (^^;) )
関ヶ原後に減封されたって(36万石)いっても、実高は、54万石くらいあったそうですから、あまり同情はいらないかも・・(^^;)  (おいおい、何てことを(^^;) )
しかし、移封後、家臣といいますか、かつての国人たちの一族あたりに動揺が見られ、吉見家とか、熊谷家とか、処罰されたりしたそうです。
十月十日、毛利氏に防長二カ国減封処分。
(矢古女) 関ヶ原の事後処理で、よく、「輝元は何も知らなかった」と言われますが、これはあくまでも公式発言で、実際は、吉川広家が家康に通じていたことなんかも知っていたんじゃないか、と思っております。
(ぺら)  実は私もそうだったんじゃないかと思っています。(では、やはり安国寺忠臣説をとらねばならないのだろーか。そりゃイヤだ。)
ただ、小早川秀秋がこの時どこまでかかわっていたのかが、私には疑問なんですよねえ。金吾ちゃんは蚊帳の外だったのかな? でも、実際にとった行動から判断すると、けっこう金吾ちゃんっていい働きをしたと思うんですけど。でも、金吾ちゃんに毛利のために働くという意志があったのかも疑問だなあ。
(三楽堂) 小早川秀秋は何しろ一万五千という大兵を率いているのだから、周囲としても無視はできないですね。たとえ当主がボンクラでも。で、吉川広家もきっと小早川には「業務連絡」をしていたと思う。
とにかく、兵を動かすな、と。
でも、戦場に近かったのと、秀秋自身がこらえ性がなかったこと、家康の威嚇にあって、とうとう広家のいいつけに背いてしまった・・・
慶長七年(1602)小早川秀秋、没。同家断絶。
(矢古女) 私は結構、金吾ちゃん暗殺説というのが気に入ってます(^^;)
ええと、歴史読本セレクト『豊臣家崩壊』というのに出ていたんですけど、金吾ちゃんは毒殺されたのだ、という説もあるようです。その日、金吾ちゃんは狩に行ったりしたんだけど、その夜明けに苦しみ出し、息を引き取った、という話。金吾ちゃんの妻は、毛利輝元の養女(宍戸の血筋で、輝元夫人の姪にあたる)なのですけど、金吾ちゃんの急死を驚き怪しんだ、と。金吾ちゃんの叔母で養母の北の政所も、悲しんだそうです。(この辺、司馬さんの小説のイメージと違った)
(にゃぐ) 金吾、妻がいたのか、お前・・・・・・。ぺらさんが、「可愛い」と言っている金吾。確かに可愛い(笑)。あの頃の人物の肖像画の中でも、一際特異な顔(変な意味じゃなく)だよね。だいたいあの辺の肖像画って、猿系統とか狸系統とか、なんとなく系統があるんだけど、金吾ちゃんだけ、どれにも当てはまらない「可愛い」 顔。その金吾ちゃんに、奥さんがいたのかぁ。ぷくく。
(矢古女) で、この稿で、金吾ちゃんの毒殺に関与したのではないか、と名前が挙がっているところは、宇喜多や毛利。
(にゃぐ) ほほ−。あたしゃ、用済みになった家康サイドが手を回したのかと・・(^^;)
でも、毛利がやった、という説も、面白いかも。(おいおい(^^;) )毛利だとしたら、どういう理由で毒殺したんだろう?
(矢古女) 毛利や小早川関係の資料では、金吾ちゃんに関する資料はほとんどないそうです。金吾ちゃんの妻は、実家、というか毛利家で取り返し、その後、興正寺の住職と再婚し、何人も子供を儲けた、と。(うち一人は、水戸頼房の妻になった、というのにちょっとびっくり)
でも、この妻に関する資料も、主に親類(義姉の実家、と書いてあったと思う)の村上家に伝わっているそうです。村上家、というのは、厳島合戦で毛利の味方をした、水軍の村上武吉のところですね。金吾ちゃんの妻(古満姫)の再婚も、村上景親、つまり武吉の息子が仲介したそうです。
この記事を書いてらしたのは、村上公一さんという人で、ひょっとするとひょっとして、村上水軍の末裔なのかな?と期待させる肩書きの付いた人でした。
(ぺら)  で、私、買ってきたんだわ。>『豊臣家崩壊』
毛利や宇喜多が復讐のために金吾ちゃんを毒殺したって説、載っていましたね。うーむ、考えられなくもない。ただ、小早川家にしてみれば金吾ちゃんが死んじゃえば、家は断絶になるわけだから、このあたり、小早川家に古くから仕えていた人々と、毛利家の人々の関係ってどうだったんだろう?
(矢古女) ふっふっふ、やっと借りられましたのさ>『安芸毛利一族』
隆景が家督を金吾ちゃんに譲って三原に引退したとき、小早<川氏の譜代と、毛利氏から隆景に付いてきた家臣は、三原に移ってきているそうです。(いわゆる三原衆)
で、隆景が急死してから(直前まで、安国寺にお手紙書いていたんだわ)、秀吉は、隆景の遺臣はみな金吾ちゃんに面倒見させるって言ったのだけど、三原衆としては気が進まず、それに、金吾ちゃんも越前に左遷されそうになったりごたごたして、そんな余裕がなかった。
結局、三原衆は、毛利氏内部に組み込まれたのですが、折り合いがあわずに出奔したりするものもいた。(井上春忠・景貞兄弟など)
(ぺら)  そうかあ、じゃあ金吾ちゃんの代になったら、もう小早川家の原形はとどめていない状態になっちゃっていたのかもねえ。
(矢古女) 注目すべきこと(と、ここに書いてある)は、隆景の近臣中の近臣、思い切り目をかけられていた鵜飼元辰を、輝元は処刑したんですね。元辰は、もともと近江から下ってきた猿楽師だったけど、筆も立ち、知恵もあったので、元就が彼をそばに置き、幼い輝元の伽(意味は知らん)もさせたそうです。でも、元辰は自ら進んで(と、ここ、というか、輝元の言い分。隆景が乞うた、という話も聞いたような)隆景に奉公した、という訳。
(ぺら)  ち、ちょっと待てよ。
(三楽堂) あ、何かヘンなこと考えてる・・・。
(ぺら)  これは元辰をめぐっての隆景と輝元は三角関係だったと、矢古女先生はおっしゃりたいのだな・・。
自分を袖にした元辰を輝元は許せなかったと。
(矢古女) おっと、そこまで言う気はなかったが(^^;)
あそこに書いた説明は、輝元が養子の秀元に言っていることらしい。元辰は、輝元と隆景の仲を隔てるようなことをしたし、裏事情まで知り尽くしている元辰が、他の大名に仕えたら困る、と。(あれ?かえって煽ってるな(^^;))
(ぺら)  父・隆元は大内義隆を隆景に奪われ、息子・輝元は鵜飼元辰をやはり隆景に奪われた、と解釈していいのだな。
ってえことは整理してみると、

 吉川元春←小早川隆景←鵜飼元辰←毛利輝元
   ↑     ↑    
   │     └──大内義隆←毛利隆元
   └──安国寺惠瓊

というようになるわけだな・・。
ふふーん、なんとなくみえてきたぞ。
隆景と惠瓊は敵対し、隆景と輝元も敵対する。敵の敵は味方、ということで、輝元と惠瓊は仲よしになっちゃうのだね。
(矢古女) しかし、つじつまは合う・・。
理由はともかく(笑)そういうこともあったんじゃないかな?隆景が輝元を折檻した、という話は、『吉川家文書』にあるそうなんですね。(何で?(^^;)輝元が、広家か誰かにそう言ったのか?)
(三楽堂) 折檻・・・。(隆景が膝の上に輝元を乗せ、おしりを叩いている図を想像している)
(矢古女) 若い頃は、輝元も、隆景おじさんを頼りにしていても、煙たく感じるようになったことでしょうね。なお、輝元くんが折檻された、という話、やはり吉川広家宛のお手紙でした。年度はわかりませんが、前後の手紙類では、隆景の死、また、穂井田元清(元就の4男)の病が篤いこと、などが話題になっているので、とすると、1597年(慶長2)でしょうか。
元清も、1597年没。(最近、元清もなかなかだ、と思うようになった)う〜む、マニアックな調査だった・・(^^;)
(ぺら)  で、毛利輝元にしてみれば、隆景は憎んでも憎みきれない存在だったのかも。それで小早川家そのものもぶっつぶしてしまえ、とばかりに金吾ちゃんを暗殺してしまった・・。ふーむ、こういう可能性もあるな。(ホントかよ〜。)
(矢古女) 輝元くんも、天涯孤独(?)というのか、11才のとき、隆元お父さんが急死して、元就おじいさまが死んだのは、19才のとき。(ここまでは有名)
吉見家に嫁いでいた妹(津和野の局)がいたのだけど、祖父の死の翌年世を去り、直後に生母の尾崎の局も亡くなってしまう。ホント、頼りになったのは、叔父さまたちだけみたい。
で、「寵臣」(と『信長の野望データ』には書いてあった)と言われているのは、三浦元忠(神田惣四郎)という人。なお、元忠は、繁沢元氏の娘、すなわち、吉川元春の孫娘と結婚してます。
とりあえず、神田惣四郎のこと、補足しておこう。
三浦、というのは、舅の繁沢元氏から譲られたんですね。元氏の妻が仁保三浦氏で、元氏が跡を継いでいたのだけど、女婿の神田惣四郎に譲ったというわけ。元氏・元景父子は、毛利姓を名乗ることを許されます(阿川毛利氏)
  先日、久々に調べたのである。忘れないうち、他のこともメモしておこう。(おいおい、私物化するのか(^^;))
(ぺら)  調べていないんだけれども、金吾ちゃんが死んじゃって、残った領地はけっきょく徳川が没収しちゃったのかな? だとすると、いちばん得をしたのは徳川だってことにもなるしなあ。(よく推理小説であるでしょ、いちばん得をする人物が犯人だって。)
(三楽堂) 岡山は、あのあと池田輝政の所領となりました。
(矢古女) もともと私は、用済みになった金吾ちゃんを、家康サイドが暗殺した、と妄想していたのですが(笑)
(ぺら)  私は、どちらかといえば、繊細な金吾ちゃんが裏切り者と呼ばれることに精神的にまいってしまった、という説のほうが好きなんだよなあ。(でも、もっといいのは関ヶ原後、自分は岡山51万石に加増されたのに比べ、吉川広家が冷遇されたことを気に病んで、とか・・。)
(矢古女) いわばその一世代前の、隆景と輝元の間柄(笑)というのも、あれこれ面白いかもしれません(笑)ヘンな意味じゃなくって(笑)
(三楽堂) 小早川秀秋は、毛利のこととか考えてないよね。毛利・吉川とのつながりも希薄だし、書簡のやりとりとか連携も見られないし、関ヶ原での陣場も遠く離れている。秀秋の死後、毛利も秀秋の菩提を弔っている様子はないし。一番気になるのは、秀秋の毛利、吉川、安国寺との書簡による交流が見られないこと。もはやサンフレッチェの家にあらず、と思う。察するに、徳川からも豊臣からも毛利からも相手にされず、家臣には逃げられる寂しさを酒で紛らしていたのではないかなあ。
(ぺら)  でも、この本(豊臣家崩壊)に書いてあった
「しかし秀秋が酒に溺れ、狂えば狂うほど、心はちぢにみだれ、心痛しながらも魅かれてゆく古満姫。夫婦として、弱々しく華奢な秀秋の気侭な性格にもかかわらず心のささえになって差し上げねばとの同情から、ひそかに夫を思慕する女に変貌していた。」っていう文章、読んでいて大喜びしてしまった。
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(敬称略)                       妄想輪読会・年代記編纂分科会