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近現代美術
[現代美術は時間をどう表現したか.2002]


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 20世紀は、社会のあらゆる分野で劇的な変化を遂げた世紀であった。芸術においても例外ではなく、伝統的な芸術の常識や概念を打ち破る作品が次々と生み出された。その中でも、特に絵画や彫刻では対象外とされてきた「時間」をどう表現するか、という問題は大きなテーマのひとつであったといえる。例えばデュシャンは「階段を降りる裸体No.2」を描き、キュビズム的表現の中に連続して位置が変化する4つの像を1枚の絵画に収めた。また、未来派の作家たちは産業機械や自動車のスピード感を賞賛し、それを表現することを目指して実験的な作品制作を展開した。

 平面による表現手段でありながら空間や時間といった概念をどのように扱うか、という問題に対してひとつの解答を出した作家として、イタリアのルチオ・フォンタナを挙げることができる。従来の絵画や彫刻といった枠を越え、運動、色彩、時間、空間からなる新しい芸術を創造しようとして空間主義を提唱した人物である。多岐にわたる業績の中でも、「空間概念」と呼ばれる一連の作品群は最も有名なものとなっている。それは、一面単色で塗りこめられた長方形のキャンバスや金属の薄板にさまざまな切り込みを入れた作品であり、色やサイズ、あるいは切り込みの長さや本数の違うものが数多く制作された。そして、そのいずれにも同じ「空間概念」という作品名が付けられた。

 つけられた切り込みは、いずれも鮮やかである。作品が制作された、まさにその瞬間が閉じ込められているようである。その時間はフリーズドライされたまま作品の中で保存され、見る人の意識の中で再び流れ始める。これらの切り込みは作品上を自在に動き、あるいは浮き上がったり遠ざかったりして、作品と鑑賞者との間をも移動するかのような躍動的なリズム感を持っている。この点において「空間概念」は、空間芸術であると同時に時間芸術でもあるといえるだろう。そこに、フォンタナの絵画や彫刻などの既成の領域を超えた行為の軌跡を見ることができる。

 フォンタナは芸術の新しいあり方を求めた結果、時間と空間を表現する手段として、キャンバスをナイフで切るという従来では考えられない行為を選んだ。さらに、その痕跡自体が作品であるというまったく新しい境地に至ったのであった。この時代、伝統的な絵画の概念は印象派から始まる一連の流れに見られるように、何をどのように描くかというソフト面では大きな変化を遂げていた。しかしながら、キャンバスの上に絵具を用いて色彩や形状を描くというハード面は依然として踏襲されていたのである。モンドリアンが抽象絵画「コンポジション」において、初めて絵画から額縁を取り去る試みをするといった例はあるが、キャンバスに物理的な操作を加えることで作品を成立させるというところまで達したものはなかった。その点においてフォンタナが実践した創作活動は、近現代美術の系譜の中でも特筆すべきものであるといえるであろう。

 フォンタナが活躍した第2次世界大戦終了後は、芸術の分野におけるメインステージはヨーロッパからアメリカへと移り、多様な芸術活動が展開されることとなった。例えばキネティック・アートは、可動部分をもつ立体作品を制作し動く彫刻を生み出した。中でもコールダーは「モビール」で、風に揺らぐことで形状が常に変化し続けるという新しい造形作品を提案した。このように、時間に対する取り組みは形を変えて続けられていったのである。

 1960年代後半に入ると芸術にひとつの異変が起きる。それはコンセプチュアル・アートの出現である。これは従来の流派や主義とは大きく異なり、何をつくるのかということよりも、どんな考えでつくるのかを問題とするものであった。それゆえに、時間に対するアプローチもそれ以前とは違うものとなった。コンセプチュアル・アートを代表する作家の一人である河原温は、「時間」を創作活動の大きな主題においてデイトプリンティングを展開した。それは「TODAY」シリーズと呼ばれる作品群で、黒色などの暗色で一面に塗られた平面上に、作品を制作した年月日が数字とアルファベットの白抜きの文字で記されるというものである。ただそれだけの要素で成り立っているこの作品は、1966年に始められた後、現在も制作が続けられており、極めてユニークな存在となっている。

 しかしながら、一瞥しただけでは芸術作品とは思えないそのスタイルは、むしろ時間の概念を的確に表現しているといえる。それは、この作品に表記された日付が無限の意味を持っているからである。同じ日付は1日しかないが、その日を生きた人々は無数にいる。「日付」は作家自身の手によって作品の中に封印されたかもしれないが、この作品を我々が見るとき、それぞれの人々にとっての「日付」が脳裏に蘇ることになる。自分自身が生きてきた時間の流れを再認識するとともに、作品を制作した河原の「時間」にも思いをはせることになるだろう。作品を見る人の数だけ存在するそれぞれの時間の流れが、作品を軸として合流して再びそれぞれの方向へ流れていくような、そんな感覚をも呼び起こすのである。

 このような感覚はなぜ生じるのであろうか。それは、この作品があくまでも作家の手によるものであるからである。印刷されたかのような日付の文字は、実は河原自身がアクリル絵具を用いて時間をかけて丁寧に重ね塗りをすることで表現されている。デュシャンの「泉」のようなレディメイドの作品とは大きく異なり、作家自身が手がけたオリジナル作品として鑑賞者に迫ってくるのである。既製品を用いたり機械加工によってつくられた作品にはない、人間的なあたたかさが漂っているようにも感じられる。それが、この作品の魅力を醸し出しているとも言えるだろう。

 先述したように、フォンタナは新しい芸術のあり方を目指し斬新な技法を取り入れた。しかし伝統的な芸術の形式に依存したために、「時間」を表現するには不十分であった。作家自身が主張した時間や空間の総合という文脈の中では、その意図は理解されうるであろう。しかし予備知識を持たない人がこの作品を見たならば、どこまでそれを感じることができるかは疑問である。作品自体は造形的に十分に魅力的であり、芸術的な価値が問われることはないにしてもである。このことは、クラシック音楽が指揮者によってさまざまに解釈され、多様な演奏がなされるのと似ているといえる。作品はあくまでも楽譜という形でしか残らないため、行間に埋もれた作曲者の思惑は必ずしも再現される保証はない。むしろ時代が変わるにつれて、その曲の解釈は変化し続けるのである。フォンタナの「空間概念」は、そういった宿命を背負っているといえる。

 その点、河原は突飛ではあるものの的確に時間の概念を表現し得たといえる。日付そのものを作品に転化してしまう方法のみならず、それが現時点においても続行されているという制作形態も有効に作用している。確かにフォンタナも長期間にわたって「空間概念」を制作したが、個々の作品ごとに完結しており、その間に時間的な関係性はない。河原の場合も、制作場所の言語を用いたり当日の新聞を作品と一緒に箱に収めたりするなど、作品の独立性を考慮して制作されている。しかしフォンタナと河原が異なる点は、過去から現在にわたって制作され続け今後もつくられるだろう、という制作スタイルであり、そこに時間の流れを見出すことができるのである。それは、異なった日付を持つ複数の「TODAY」シリーズの作品を一度に鑑賞するとき、より明確に感じ取ることができる。それぞれの作品に表された日付は離散的なものであるが、その間に存在する連続した共通の何かが、鑑賞者の心との共鳴をよびおこすのである。

 上記にみたように20世紀の芸術は、さまざまな要素を取り込んで多様なスタイルを展開してきた。その成果として、「時間」をも表現する作品が生み出されることになったといえる。最近はビデオやCGの発達によって、時間をダイレクトに取り扱うようになってきている。また、インスタレーションによって鑑賞者自身が体感する作品も増えている。これらが今後、どのように「時間」を表現していくのか興味深いところである。
(3366字)


作品の鑑賞場所
ルチオ・フォンタナ「空間概念」
(縦100cm横80cm、水彩・キャンバス、1960年)ほか
国立国際美術館 大阪府吹田市 イタリア抽象絵画の巨匠展(2002.6.6〜7.21)
愛知県立美術館 愛知県名古屋市 常設展示
河原温「TODAY」シリーズ「FEB.23.1966」
(縦20.5cm横25.5cm、リキテックス・キャンバス、1966年)ほか
名古屋市立美術館 愛知県名古屋市 常設展示

参考文献
末永照和監修『20世紀の美術』2000年、美術出版社
ロバート・アトキンス著、杉山悦子ほか訳『現代美術のキーワード』1993年、美術出版社
小林康夫、建畠哲編『現代アート入門』1998年、平凡社
斉藤俊徳著『現代美術論』1993年、大学教育出版
井関正昭著『イタリアの近代美術』1989年、小沢書店

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