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研修旅行
[瀬戸内美術館紀行(香川).2001]


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 現在、全国各地に多数の美術館が建設され、私たちが美術やアートに接する機会は大いに増えた。その中には、個性的な美術館も数多くある。たとえば、特定の作家の作品を専門に収蔵する美術館、著名な建築家の設計によるそれ自体が芸術作品と呼べるような建築を持つ美術館、地域の特性を活かした運営をする美術館など、枚挙には暇がない。しかしながら、一度のみならず何度も訪ねてみたいと思える、よい美術館は必ずしも多くはない。美術館は美術品、アート作品を展示する場所であり、それらを観覧するために存在するのは当然であるが、美術館へ行くという行為は、そのためだけであるわけではない。美術館とは普段の生活を送っている空間とは違う非日常空間なのであり、その雰囲気を楽しむことも目的の一つに数えることができる。このような、美術館という空間の魅力に満ちているか、あるいは乏しいかの差が、美術館にとって意外と大きな要件になっているように思われる。では、よい美術館すなわち、また足を運びたくなるような魅力に満ちた美術館とはどのようなものなのであろうか。

 よい美術館とは、なにも来館者の多い美術館を指すのではない。交通の便のよい都市部に立地して、有名な作家、たとえば印象派の画家の展覧会を開催したりすれば、かなりの入場者数を見込むことができるだろう。しかし、その展覧会が終了した後は閑古鳥がないていることもあり、その場合美術館そのものに魅力があるとは言えない。よい美術館とは、その建築、あるいは敷地内に足を踏み入れた途端に、なにがしかの感動を人々に与えるような雰囲気を持つ、そんな美術館のことである。そのためは、すぐれた建築を有して個性的な空間演出がなされていることにとどまらず、意欲的な企画を実施したり、外部と良好な関係を保つといった継続的な要素も兼ね備えていることも重要である。

 以下に香川県に建つ、直島コンテンポラリーアートミュージアム、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、そしてイサムノグチ庭園美術館の3つの個性的な美術館を巡って感じた、それぞれの魅力について記してみたい。

 最初に、直島コンテンポラリーアートミュージアムについて取り上げる。ここは、瀬戸内海に浮かぶ直島の南の岬の上に建つ、ホテルが併設された美術館である。ここの特徴は、その風景である。一帯が国立公園であり、多くの制約をクリアするために景観に埋もれるように地下に建てられたこの美術館は、外部からはその全容を知ることはできない。そのために、はじめの大きな展示室である円筒状の空間に入るとその意外性に幾分戸惑うことになる。内壁に沿って緩やかにカーブを描くスロープを伝って床へ降りるにつれ、どんどん地中深くへ下がっていくような気になるのである。薄暗く、唯一天井にあけられた窓から垂直に差し込む日光が、その思いをさらに助長させる。矩形に曲がるように設けられた、行き先のない階段とともに、この円筒状の空間は、広大な瀬戸内海とは対極的な閉鎖性をもって、非日常的な感覚を来館者に与える。

 閉鎖的な円筒空間から次の展示室へと移ると、一転して大きな解放感を感じることができる。この空間は直方体の形状を持ち、2階分の吹き抜けを持つとともに奥行きが深いことと、中ほどに設けられた開口部とにより、広がりが演出されている。この展示室中央に開けられた大きな窓から、来館者は初めて外の風景を見ることになる。そこからは、山の緑とその先へ続く白い砂浜、そして遠景に青い海と空を望むことができ、まるで瀬戸内の風景を切り取った一枚の絵のようであり、展示室の中の大きなアクセントになっている。ここでは、来館者は並べられた作品と作品との間に外の風景を見ることになる。作品と風景を連続して見ることは、この美術館では重要なことになっているように思われる。展示作品の中には、作家が来館して実際にこの場所で制作したものが含まれている。つまり、直島という場所で瀬戸内の風を感じながら、この美術館のために制作されたということであり、制作にあたって何を感じ、どう考えたのかという作家の心情を察するといった、いわば擬似体験が可能であるということなのである。

 ところで、この美術館は、「直島文化村」という枠組みの中の中心施設でもある。この場所では、作品展示は美術館の中だけにとどまらず、館内の展示作品、館外の敷地に置かれたさまざまな野外展示作品、さらに直島の町の中に点在する「南寺」などの「家プロジェクト」の作品と施設、という具合に、美術館という物理的なバリアを越えて、島全体にシームレスに広がっている。すなわち、訪問者は島へ上陸した時点で、すでに直島という大きな展示エリアに足を踏み入れているのであり、ある意味非日常が始まっているといえるであろう。そして、町全体を利用しての「スタンダード展」のようなユニークな企画も行なわれ、島の美術館化はますます加速度を増しているのである。

 次に、2つ目の美術館である丸亀市猪熊弦一郎現代美術館は、JR丸亀駅の駅前広場と一体で整備された施設であり、街の玄関口の景観として大きな役割を果たしている。駅の南側へ出ると、そこは線路に沿って東西に細長い広場になっている。敷地はモノトーンのストライプで統一され、穏やかな雰囲気を漂わせている。東側はアーケードのある商店街へと続いており、美術館は反対の西側に建てられている。高層建築の見当たらない駅前にあって、美術館も3階建ての比較的低層の建築であり、周囲の景観から突出せずに溶け込んでいる。しかし、街並みに馴染んで見えるのはスケールだけでなく、その形状によるところが大きいように思われる。美術館正面のファサードは、壁と天井スラブが前方へせりだした、大きな門型の形状をしており、その奥に大きな壁画と、さらに奥へと進む階段がある。この構成は、東側の商店街のアーケードが持つ雰囲気にどことなく似ている。つまり、駅前広場の両端は、門型で奥行きのある同じような空間で挟まれているのである。このことは、人々を美術館へ誘導するのに有効に機能しているように思われる。外部である駅前広場と展示空間を持つ美術館内部との間に、この東側が開放された、いわば「半内部空間」が存在することで、両者を有機的に連続させているのである。実際この空間には、壁画やいくつかの立体作品が配置され、静かな存在感を持ちながらも、やさしく人々を招きいれる働きを持っている。この作用によって人々は、駅前広場から商店街へと足を踏み入れるかのごとくに、自然に美術館へも入ることができる。

 この美術館のさらなる特徴は、東側から西側へ向かって緩やかに上昇していく大階段である。この階段は建築内部に位置するにもかかわらず、先の東側の正面フサァードと同様の「半内部空間」となっており、人々が自由に上り下りすることができる。階段を上りきった先は、小さな屋上広場になっている。外壁と同じパネルで覆われたミニマルな空間であり、壁を伝って流れ落ちる小さな滝と、バランスよく置かれたいくつかの立体作品、そして青空から成り立っている。ここまで、美術館内部に入ることなくたどり着くことができるようになっているのであるが、これは、一階東側から大階段を介して最上階西側へと、東西に細長い建築の中を「半内部空間」が貫いていて配置されており、美術館という非日常空間に、駅前広場から連続した日常空間が挿入された格好になっているのである。そのため、日頃美術館とは縁遠い人々に対して、入館するための敷居が低くなっているといえるだろう。なお、屋上広場に隣接してカフェがあり、滝など広場の風景を眺めながらお茶が飲める仕掛けになっている。室内には猪熊作品が掲げられていたり、展覧会にちなんだオリジナルメニューが出されるなど、カフェと美術館とリンクしているのが面白い点である。このカフェと二階にあるスタジオへは、大階段を利用して直接アクセスすることができる。

 美術館内部の展示室は大きく3つに分けられる。しかし、二階の2つの展示室は一階のロビーも含めて、吹き抜けなどでつながっており、互いに独立した部屋というよりも、大きな一室といった感じを受ける。二階と三階の展示室を結ぶ階段もその中に設けられ、踊り場から展示室を眺めることができ、展示空間の一体感を強く意識することができる。とはいうものの、二階の展示室は、天井の高さを変えたり、一方は壁面上部から自然光を取り入れたりするなど、空間に変化を持たせるなどの工夫も凝らされていることにも注目しなければならない。

 ところで、この美術館はその名前の通り、猪熊弦一郎が残した作品を展示することを目的に建設されたのだが、その設計には、至る所でこの作家の意向が反映されている。たとえば、駅前のような人が多く集まる場所であれば、多くの場合、デパートや大型スーパーなど収益率の大きな施設が造られる。それにもかかわらずこの美術館の建設地として駅前が選ばれたのは「そのような場所にこそ美術館を」という猪熊の考えによる。つまり、市民に開放され、普段着で利用できる美術館を目指したのである。大階段もこの方針に基づいている。ここでは、「カフェだけの利用でもとにかく美術館へ足を運んでほしい」という願いが具体化されているのである。また、展示室が非常に大きなものになっていることも、大きな壁面に小さく作品を展示したいとして、「とにかく大きな空間を」と猪熊が希望したことによる。このように、展示作品の作家の意向が十分に反映されることにより、美術館全体が猪熊弦一郎という作家を感じるのにふさわしい空間としてつくり上げられたといえるだろう。

 最後に、3つ目の美術館であるイサムノグチ庭園美術館は、美術館としては異色の存在である。その最大の理由は、イサムノグチが実際に生活をし、制作を行なった場所をそのまま美術館として使用しており、所蔵品あるいは展示品を収めるための美術館建築を持たないことである。美術館が位置する牟礼町は、良質な石材である庵治石が産出することで有名であり、石材加工の工場が密集している。ノグチがこの土地を選んだのもこのことが理由になっているのであるが、こうした工場が点在する何気ない風景の中に、アトリエ、展示蔵、イサム家、そして彫刻庭園が特に塀で囲われることもなく、ごく自然に存在しているのである。そのため、この美術館を訪れて最初に驚くのは、美術館までの道のりの延長上に、ノグチが暮らした家が突如として現われるという、その意外性である。外からではあるが、この家の内部を見学することができる。室内を見ると、家具などのさまざまな調度品も良好な状態で残され、落ち着いた雰囲気を醸し出しているのがわかる。部屋の隅には、自作の和紙で作られた灯かりが置かれ、やさしく光を放っている。そして部屋の奥に見える、庭に生えた苔の緑色の美しさに目を奪われる。ここで見られるものは、すべて非常にリアルな光景であり、ノグチ自身が今にも姿をあらわしそうな気がするほどである。続いて、住宅の裏手の山へ上ると、そこは彫刻庭園になっており、遠く山脈の尾根が見える景観の中に、数々の作品がバランスよく配置されている。スペースの中央付近には彼が制作した石の台が置かれ、そこにノグチを偲んで毎日欠かさず献花されるのである。芝と石の作品のみからなるこの空間では、捧げられた花の色の鮮やかさが逆に物悲しさを演出しているようで、感傷的な気分をおこさせる。

 「イサム家」と道路を隔てた反対側は、アトリエと展示蔵である。こちらの敷地は、自然石を加工せずに元の形のままで積み上げた、やや低めの石壁で囲われている。その内側には数十点におよぶ大小さまざまな造形を持った作品が、まだ制作途中だったものも含めて整然と置かれている。ここは、周囲にある工場などは石壁のために遮られて視界に入らないため、この石壁と数々の石の彫刻だけが眼に映るという、一種異様な空間になっている。自然の石が持つモノトーンの色合いでまとめられ、街の雑踏からはかけ離れた静かさが漂っている。石の彫刻の間を静かに流れる風を体に受けながら、この風景の中に身を置いていると次第に神妙な心持ちになってくるのは、不思議なことである。古い蔵を利用したアトリエが、立ち並ぶ石の彫刻の隣にある。この中には、ノグチ自身が制作で使用した数々の道具が並べられている。それらは、博物館の展示品のようにケースに入れられ、説明書きのラベルが付けられているという訳ではなく、無造作に壁に掛けられたり、台の上にばらばらと広げられたりしているのである。まるで、作家がすぐに戻ってきて制作の続きを始めるかのような雰囲気であって、ノグチ自身の面影をいたるところで感じることができる。もちろん本人とは会ったことなどないが、その素朴で実直な人柄をイメージさせるのに十分すぎるシチュエーションであるといえる。

 このように、作家が実際に生活をし、制作を行なったそのままの現場が非常に良好な状態で保存され、しかもこの場所で創造された、まさにその作品が目の前に並んでいる、という演出がなされた美術館は、他には例がないのではないだろうか。しばしば、歴史上のある時代の生活を再現した様子などが博物館で展示されていたりするが、この美術館はその類いとはまったく異なる。この美術館は予約をしなければ観覧することはできないが、それは多くの来観者によって、特に雨天時に、土の地面に足跡をつけられないようにという配慮からであるという。作品のみならず、美術館の環境全体を最良の状態で維持しようという努力がなされ、そのことが結果として来観者に感動を与えているといえる。それほど、この美術館が持つオリジナルの雰囲気を大切にしているのである。つまり、作品の造形が持つ美しさのみならず、その作品が持つ内面的な精神性、さらにいうならば制作された時の作家の心情や、その時の空の青さ、風の匂いといった空気感のようなものまで含めて一度に感じ取ることができる、他の場所では絶対に実現できない、この場所でなければできない美術館なのである。そして来館者は、個々の作品に対する感想ではなくて、この美術館全体からにじみ出てくる独特の印象を持つことになる。ここは、そういう美術館であるといえるだろう。

 以上、3つの美術館の特色について触れたが、いずれも独自のコンセプトをもつ、ユニークな美術館であるといえる。直島コンテンポラリーアートミュージアムは、瀬戸内の景観の中に溶け込みつつも独自の空間を構築し、さらに島全体と連携して展開される画期的な美術館であった。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館は、駅前広場の景観と一体となって強い自己主張はないものの確かな存在感を持ち、おおらかに人々を迎える美術館であった。イサムノグチ庭園美術館は、先の2つの美術館のように専用の建築を持たないかわりに、既存の建物を十分に生かし、環境そのもの取り込んだ美術館であった。これら3つの美術館に共通していえることは、美術館という物理的な枠組みの中に閉じこもっていないということである。建築などのハード面あるいは運営方法などのソフト面において、外部と内部との連続性を保ち、外部と内部との差を感じさせない演出がなされることで、まるで外部と内部の境界がないような錯覚を覚えるかのような工夫が凝らされているのである。先に、美術館は非日常的な空間であると指摘したが、外部には関心を持たず、内面ばかりに指向して閉鎖的な空間、運営がなされているような美術館は、独自性を生み出すことは難しいのではないだろうか。そうではなくて、その場所、地域に建っていることの利点を認識し、その環境が持つ魅力を十分に引き出すことによって、来館者の心に残るような、よりよい美術館がつくられていくような気がする。

(文中敬称略)

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