新保 雅浩さんが亡くなりました。享年53才。


あまりの悲しさに、言葉も出ず、しかし何か言いたい一心で、通夜の日に、徹夜で次の「まーちゃんの思い出」を書き上げました。


2000年1月15日(土)



まーちゃんとの思い出

まーちゃんが今年(平成12年)1月12日午前0時58分、日大板橋病院で亡くなった。
まーちゃんこと新保雅浩さんは、昨年12月に53才になったばかりだった。
まーちゃんは私の妹の夫である。
義弟というのが正しいのだろうが、もう30年近くも親しく付き合っていると、勝手ながら、“実の弟”という感じのほうがぴったりだ。
1月3日に、妻と長男とで見舞いに行ったのが、最後になってしまった。
昨年11月に再入院した時、もってもあと半年くらいと医者から本人も家族も言われたらしい。
今年の4月に次女の結婚式も決まり、本人もまわりもそこまでは大丈夫と言い聞かせていたが、
実は12月に入ると、もってあと1〜2ヶ月と本人には知らせずに家族には告げられていたようだ。

今年の正月はまるで小春日和のような陽気が続き、3日も穏やかに晴れていた。

病室に入ると、初めて見舞いに来た長男を見て、はにかんだような笑みを浮かべ、顔が黄疸で少し黄ばんでた以外は、元気そうに喜んでくれた。
部屋の中には、前回見舞いに来た時に持ってきたデジカメで撮った私の花の写真の葉書がいっぱい飾ってあった。
妹が言うには、それがきっかけで、まーちゃんも自分も何か写真を撮ろうという意欲を持ったらしく、
見舞いに貰った花や人形そして病室から見える朝焼けの風景などが、自慢のカメラで撮ってあった。
妹は私にこれを葉書にしてもらって、くれた人にお礼の気持ちを伝えたいというので、快く引き受けた。
まーちゃんが自ら撮った写真を私が葉書にし、それを花束の贈り主に、“おかげさまで元気にしております”という言葉を添える---
なんだかとってもいい事をする感じで早速やるよと喜び勇んだ。

長男はそのカメラを羨ましそうに見ながら、カメラの操作のことやまーちゃんの好きなジャズのCDのことなどいろいろ質問をしているし、
妻は妻で、まーちゃんが目白の居酒屋で知り合ったという人がやっている人形の制作に興味を持つと、
ぜひやりなさいよ、端切れくらいもってくるからと薦めているし、
私はまーちゃんの次女が病室に来るたびに書いていくという(お父さんを喜ばせるための)マンガの日誌を見て
(まーちゃんの家族―特に母である妹とその長女の特長が見事に描かれていて)失礼にも大笑いしている。
身内に囲まれてまーちゃんは、なんだか家の居間で話しているように寛いだ感じだった。
(本当は痛みと寂しさと悔しさを必死に隠していたのだろうが)

「じゃあーまた来るからね」と病室のドアのところで、別れたのが最後になってしまうとは・・・。

私とまーちゃんとが初めて会ったのは、御茶ノ水の喫茶店「穂高」で、昭和43年秋頃だったと思う。
妹から、是非兄さんに会ってもらいたい人がいるというので、3人で会った。
その頃妹は、兄3人がすでに結婚していて、いろいろと見合い話がきていた頃で、なかには“客観的”に見て悪い話ではないものもあり、
私もそういう席に同席したこともあったが、妹は何故か首を縦に振らなかった。
そういう妹の様子がひどく気になっていたときに、一度会ってもらいたい人がいるという連絡があった。
その時のまーちゃんは妹より2才年下の、まだ早稲田の大学院生で、
将来学者を目指すという、色白で端正な美青年だった。
学問といっても専攻は「言語学」という地味な分野で、それを聞いた私は“そんなもんで将来とも、飯が食えるのか”と思ったが、
そのことは私なんか以上に本人も妹も感じていたに違いない。
しかしまーちゃんの柔和ななかにも芯の強いものを感じ、「応援するよ」と言って駅で別れた。
幸い、私の長兄も丁度その頃、貧乏学者の道を歩んでいたこともあって、なんとか二人の意思が通り昭和45年5月に結婚式を挙げることとなった。
(あのときのまーちゃんと、1月3日のまーちゃんとは今思うとちっとも変わっていないのが不思議なくらいだ。)

昭和51年2月はじめての転勤で、私の一家は大阪へ赴任することとなった。
まーちゃん一家はその一年くらい前に、京都の龍谷大学にドイツ語の専任講師の職を得て、大和の西大寺に小さな家を借りて住んでいた。
この西大寺の家は私は行った事はないが、その前年、妻が次男・義母・義姉たちと“無謀にも”訪ねた事があり、
田んぼの中のマッチ箱のような家に、まーちゃん一家4人(このとき長女・次女はまだ幼子だった)と、
そこにあと6人が加わってまるで折り重なるようにして寝た話を聞いたことがある。

そのあとまーちゃん一家は奈良市・学園前の知人宅の以前よりはずっと大きな一軒家を借り移り住んでいた。
丁度このときに私の一家が転勤を命ぜられた。
私は新しい仕事、横浜生まれの妻は始めての関西、子供たちも慣れ親しんだ友人と別れ新しい学校、と不安がいっぱいだった。
枚方市のマンションに落ち着くと、早速地図をじっと眺めてみた。
すると枚方と学園前とが意外と近いのを知った。
生駒山系を横断する古道、磐船街道が一本でつながっている。
それからが大変。毎週のように両家が交互に通い合うようになった。
まーちゃんの子供はまだ小さく私のほうは二人とも小学生で丁度いい“お兄ちゃん”だったのだろう。
まーちゃんもまだ不安定な身分で、内心は将来の展望もまだ見えず不安だったのだろうし、
私のほうも新しい仕事にいまいちとけ込めず悶々としていたこともあり、この“交遊”は急加速すると同時に、
なんだか言葉には出さないが、“慰め合う”ような関係だったに違いない。
半年経った夏、私の一家はさらに遠い宝塚市へ引っ越すことになっても、この交遊は続いた。
急に思い立つと、夜でもパジャマのまんま、中国自動車道、近畿自動車道、阪奈道路と車をぶっとばして学園前に着く。
まるで何かに憑かれたような感じだった。

秋から冬になり、そろそろ転勤にも少し慣れて京都あたりに足を伸ばしはじめ、
名所旧跡巡りをする余裕も出てきた昭和52年1月奈良斑鳩の法隆寺を訪ねた。
前にも何回か行っているはずだが、このときは一種の“天啓”が告げられた感じで、
この古代美術の宝庫―特に仏像の魅力にすっかりとりこになってしまった。
このことをまーちゃんに話すと、自分もこのごろ同じ思いを強くもっていると言う。
私の生来の歴史好きに、まーちゃんの凝り性と優れた感性が加わって、それからの1年半は、
文字どうり“気が狂った”ように奈良の仏像詣でが始まった。
寺を訪ねると必ず朱印帖を貰うようになったのもこの頃からである。
いま手元に残っている朱印帖は全部で9冊。合計145寺の朱印が書かれている。

京都の洛南・南山城、奈良の西の京・柳生・斑鳩・飛鳥・橿原・室生、大阪の南河内、兵庫の播磨など広範囲に亘っている。
まーちゃんとはこの大半を行っているはずだ。
特に奈良周辺は92寺におよび行けるところはほとんど行ったんではないか。
最初のうちはまじめに仏像の本や図鑑をお互いにいっぱい買い込み(この量はすごかった)、予習と復習に余念がなかったが、
そのうち朱印帖の“数を稼ぐ”のも面白くなり、しまいには一日に5件も6件も回って、
最後の寺なんかは、門前で坊さんに朱印だけ貰って帰るなんてこともあった。
同行する妹や妻は、本末転倒と言ってあきれ果てていた。(こういうとき子供はなにをしてたんだろう。)

そうはいっても、何事も“数打つ”ことが名人への道に変わりなし。
二人ともすっかり奈良とその近郊の仏像の“名ガイド”となった。
柳生の里・円成寺の運慶20才の秀作・大日如来像のすばらしさをまーちゃんがまだ幼子の二人に「仏の中の仏なんだよ」と熱っぽく語っていたこと
(子供たちはこのあとしばらく、誰かを3枚座布団に上げ皆で拝む“大日如来ごっこ”に夢中)、
まーちゃんと二人きりでまわった南河内の藤井寺、野中寺、道明寺(ここは尼寺で
二人できれいな尼さんの横顔ばかり見ていて怪訝そうにされたが)の秘仏開扉、
両方の家族でまわった播磨の名刹、鶴林寺・一乗寺・浄土寺の国宝建築物と仏像の圧倒される見事さ
(子供たちは急な石段の滑り台の方に熱中)などなど、いま朱印帖を見るとひとつひとつ鮮やかに蘇ってくる。

昭和60年5月の連休。まーちゃん一家と私の一家が、筑波科学万博の華やかなパビリオンの前に立っている。
日本の高度成長期の真っ只中で、5月5日には一日の入場者が25万人に達し記録的な人出となった日である。
まーちゃん一家は昭和53年秋には、東京の大学への勤めが決まって、奈良から離れていき、
私のほうも昭和55年3月には東京へ戻っていた。それぞれの職場ではもうすでに中堅の立場になっていて、
その間時々会うたびに、”学園前時代のまるでぺーぺーの 戦時下のような生活”を懐かしむ余裕すら出てきた頃である。
子供たちも私のほうは浪人生と高校生、まーちゃんのところは中学生と小学生になっていた。

このとき、まーちゃんは筑波大の講師に任ぜられ、研究学園都市の充実した施設の中で、自分の専攻に真っ向から取り組んでいるようで、
私から見ても、光り輝く若き俊英学者に見え、ひそかに誇りに思っていたのを覚えている。
さてこの万博。どこへ行っても行列ばかりで両家ともうんざり。
有名な大パビリオンは何時間待ちがざらである。
そう言えばまーちゃんも私も、あまり行列とか人込みやらは苦手なところが共通で、
奈良の寺でも、有名な大寺よりも山之辺や宇陀なんかの小さな寺が好みだった。

そうはいってもせっかく来たんだし、腹も減ってくるし(当然レストランも大行列)、ふと見るとスリランカ館には行列が少ない。
初めて入ったパビリオンだが、見学はあっという間に終わってしまって、子供たちは“腹減った”というだけ。
このとき、この館の出口近くから何やらいい匂いがしてくる。
どうもスリランカの名物らしいが、あまり食べている人がいない。
とにかく何でもいいからと食ってみた。これがうまいのなんのって。“ゴタンバロテイ”という一種のピロシキみたいなものとわかった。
次の日もまた次も昼食はこれに決めた。
なんだか、凝り性ではあるが面倒嫌いの両家にふさわしい万博だったねと、桜村の新保宅へ帰って大笑いした。

ここでまーちゃんに捧げる一句。

秋篠の 仏になった 君うらやむ      
   尼寺の 匂いはちがうね という君は
若き日の 君と重なる 運慶仏

学園前の近くに秋篠寺がある。ここの有名な技芸天像を見たさにまーちゃんとは何回も足を運んだ。
まーちゃんは一時奈良の師匠について謡を習っていた。結局一度も聞いた事はなかったが、熱心だったようだ。
弟子になるより先に仏になってしまって。
尼寺に入ってすぐ、まーちゃんは匂いがいいねという(この感性がすばらしい)。
同じ尼寺でも法華寺とはちがって、道明寺は町中の庶民の寺。尼さんも“若い”男二人の闖入に戸惑い気味。
そんな様子を見て、帰ってからよく思い出し笑いをした。
まーちゃんって学者に似合わず、本当によく馬鹿笑いをしていたっけ。
円成寺の鎌倉初期の運慶作大日如来像。
奈良の仏像でひとつだけ挙げろと言われたら、やはりこれだねという意見は二人とも一致していた。
溌剌としていて、きりっとしたなかにも、何か幼くて純なものを感じさせる、
私にはそんな像がまーちゃんの像とどうしてもだぶって見えてしまう。


振り返って見ると、まーちゃんは私には会社のことやら人事のことやらを、折に触れよく質問していたのに、
私はまーちゃんの学問のことなどついぞ質問したことはなかった。
聞けばそれなりに素人にもきっと面白い観点から、自分の専門について語ってくれたに違いない。
自分からはあまり言わないが、聞かれれば、“聞いた人の気持ちになって”誠実に答えてくれる。
まーちゃんはそんな人だったんだ。
なんだか兄貴面していた自分に赤面の至りを感じる。
しかし、もう遅いかもしれないが今からでも、まーちゃんがのめり込み、一生をそれに当てようとした、
中世ドイツとその言語の世界を、ちょっとだけでも、覗いてみたい衝動にいま駆られている。

1月3日に約束した、まーちゃんが撮った写真を私が葉書にするというのは、1月6日に実現できた。
それをまーちゃんの次女からのメールはこう伝えてくれた。
「早々と素敵なはがきにして送って下さり、どうもありがとうございました。早速、父に届けました。あまりの速さと綺麗さに父も驚いていました。」と。
その翌々日、まーちゃんの容体は急変した。

まーちゃんと親しく付き合ったことのある人なら、誰もが思っているように、まーちゃんは結構“あわてんぼう”なところがある。
感性が人一倍豊かなせいか、人より早く感じてしまうのだろう。
そんなところが、いろんな人から愛されていたに違いない。
それにしても、それにしてもだよ、まーちゃん、そんなにあわてて急に逝ってしまうなんて、
なんて、あわてんぼうだったんだろう。
そんなにあわてることはなかったのに。
                                            平成12年1月15日通夜の日に
                                                        藤原 忠

追記
まーちゃんと昔、一度薬師寺で写経をやってみようか、と言いあったことがある。
二人とも、いざやろうとなると、結局気恥ずかしさが先に立ちできなかった。
この文は、そのときのことを思い出して、まーちゃんとの思い出を、写経を書くように、できるだけ正確になぞって書いてみました。


円成寺 大日如来坐像


秋篠寺 伎芸天立像


朝日の当たる池袋サンシャインビル    新保 雅浩撮影



新保 雅浩さんは、筑波大助教授を経て、学習院大学文学部ドイツ文学科の教授に推薦され、
これから学問や指導に本当の力を発揮するところだったのに、まことに痛恨の極みとしか言いようがない。
どうぞ安らかに。

予告  奈良の仏像・古建築の歴史・文化ガイド「奈良入門」を連載で掲載します。
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