新保 雅浩さんと歩いた奈良とその時代を、一つの「卒論」として、労組の機関紙に投稿(1979)したものに
加筆・修正しました。写真は新しく挿入したものです。 2000.10
藤原 忠
第一章 唐招提寺へ
難波発十時。いつもの近鉄奈良行快速急行。きょうは六月六日。
まだ頭の芯にばんやり残っている昨日の酔いも、車窓から入り込んでくる初夏の爽やかな風とともに、流されていくのがわかる。
西大寺で乗り換え、一つ目の尼ケ辻で降りる。
田植の真最中の畔道を、もの珍しげにぶらぶら歩いて、垂仁天皇陵の大きな濠を抜けると、もう唐招提寺の門前はすぐだ。
普段より大勢の人が詰めかけ、静かな境内も活気づいている。
いつもは、若い人達が多いが、きょうは逆に年配の顔が目立つ。
時折り、他の寺の憎の姿や、大学の美術や歴史専攻のグループ連れなどが目に入る。
南大門から敷きつめた玉砂利の白さの向こうに、金堂がどっしりと、しかし軽快な感じすら抱かせるように構えている。
吹き放された、エンタシス(胴張り)の列柱。近づくに従って、まるで映画のクローズ・アップ・シーンを観るように、対象がぐんぐん迫ってくる。
そんな大きさを感じさせるドラマチックな出会いで、いつも何故、こんな気持になるのだろうと自問する。
ふと見上けると青空に「天平の甍(いらか)」がぐ−んと伸びきっている。
この寺を訪れるのもすでに十数回になるが、新鮮な、しかも一つの清冽ささえ感じる心は、変らない。
金堂の本尊、盧舎遮那仏(るしゃなぶつ)に一礼して、境内の北側にある御影堂に向かう。
右に東室(ひがしむろ)、礼堂をみて、正面の私の大好きな建築物の一つである軽快な鼓楼(ころう)の側をくぐり抜ける。
いつもは、この辺りは見学者で賑わうところだが、きょうは、人の列は北へ向かって行く。
左に天平の講堂と、松林の中に食堂(じきどう)の礎石が点在する中を、
ちょっと坂を上ると築地塀の向こうが、目ざす御影堂である。
きょう六月六日は、唐招提寺の開基鑑真和上(がんじんわじょう)の命日−開山忌−の日である。
年にl回この日だけ扉が開かれ、一般の人も、天平彫刻の傑作鑑真和上像(写真1)と、
御堂の襖一杯に描かれた東山魁夷画伯の障壁画(写真2)を観ることがてきる。
寝殿造りの典雅な建物に、明るい広々とした庭。東山画伯の画は、二つに分かれて描かれている。
一つは、海をテーマとした宸殿の間の「涛声」。もう一つは、山を題材とした上段の間の「山雲」である。
どちらも見る人を圧倒させるような堂々とした画風で、青を基調に濃淡のみで描き込んだ「動く画」障壁画は、
先年のパリ唐招提寺展で、美にうるさいパリっ子を感動させた理由もうなづける。
海と山。
これは今から千二百年以上も前、日本の憎普照(ふしょう)栄叡(えいよう)の情熱に応えて渡日を決意して以来、
五度の渡海計画も失敗し、ついに盲目になりつつも、十二年目にして、
ようやく念願の日本の土を踏んだ中国僧鑑真の強い信念と雄大な気迫を象徴するのには、またとないテーマと言える。
そして、この鑑真和上の像は、海を描いた宸殿の間の奥の厨子(ずし)に静かに坐っている。
合掌し、そっと見上げると、薄暗い厨子の中の乾漆で作られた和上は、
盲目の両眼を閉じ、結跏趺座(けっかふざ)している。
奈良朝も盛期を過ぎると、仏教と政治の癒着が横行し、時の聖武天皇の要請で、
正しい仏の道を建て直すため、唐の高僧を招くことになった。
多くの苦難の未、日本に招かれた和上は東大寺に初の戒壇院を設け、厳しい戒律を憎に課した。
聖武天皇が真っ先きに受戒したと伝えられている。
和上は晩年、日本憎との争いもあり、必らずしも平穏な日々ではなかったが、唐招提寺を創建し、仏教興隆の礎を築いた功績は大きい。
歴史的にみても、平安初期の空海、最澄等による真言、天台二宗にさきがけ、
密教の教典をわが国に初めてもたらし、また漢方薬や味噌等も鑑真一行により招来されたと言われる。
更に仏教美術面でも、謂わゆる唐招提寺様式と言う唐の木彫の仏像制作方式をわが国に植えつけ、
平安期にかけての日本人の美意識の変革にも先鞭をつけた。
「涛声」の襖絵の一部が開かれた厨子の中の和上は、何を瞑想しているのか。
唐に残された弟子達のことか。日本に来てからの目まぐるしい日々のことか。
寺伝によるとこの像は、和上の死の直前、講堂の梁が折れるのを夢に見た弟子の忍基(にんき)が
死の前兆をさとり、他の弟子達とともに作った、と伝えられている。
天平宝字七年(七六三年)六月六日和上はそのドラマチックな生涯を閉じた。
今こうして真近に見る和上の姿は静かな中にも時の流れを超越した烈々たる気迫を、現代に生きる私達に語りかけている。
私が奈良に魅せられ、奈良通いをしているのも、
きっかけは学生時代読んで感動した和上東征伝を描いた井上靖の小説「天平の甍」ではなかったかと思う。
奈良・大和路の寺々は殆んど訪ね歩いたが、最後には、この和上の像に戻ってくる。
奈良、そしてその背景となった時代は、まさしくこの像に見られるような
静けさの中にも混沌と矛盾の入り混じった動的な美が、その魅力なのではなかろうか。
日本が一つの独立した国家へと走っていく、まさに奈良はそのゲートだったのだ。
を順次掲載していきます。
写真1 唐招提寺 鑑真和上坐像
写真2 唐招提寺 御影堂 障壁画 東山魁夷作
右が「濤声」左が[山雲」 右の襖を開けると和上像が鎮座