第四章 奈良とその文化の背景


前章で奈良の仏像を中心に据えて、歴史の中での日本人の外来文化の受け入れ、吸収、同化そして独自化のプロセスを述べてきた。
一体、私達日本人の性格なり美意識とはどんなもので、何が源流なのだろうか。
私は唐文化の受容がその始まりではないかと考える。

一般に、日本人は何んでも受け入れ、そして『自然さ』というものを大事にし、
美的感覚は優美繊細を好み、はなはだ即物的な面も強く持っていると言える。
つまり、何んでも受け入れて、従来のものとミックスして新しい物を創り出すのは早いが、
その心の底流にはいつも同じものが流れているという感じである。
これは、自然にすべてを委ねた農耕民族の特質であろう。
そのため宗教も自然崇拝、美の感覚も素朴さ簡潔さを尊ぶ、というような気風が出来上ってくるのである。

翻って、唐ではどうであっただろうか。
唐の都長安は当時の世界の中心であり、あらゆる文化・文物が流れ込んできた。
しかし、唐には中核に漢文化がでんと構え、他文化との併存という形をとっていた。
従って日本へは唐化された文化ではなく、ストレートにすべての文化が唐を経由して伝わったのである。
この唐と日本の受け入れ体制の違いが、日本と中国の違いに繋っている。

このように唐固有の文化と、唐を素通りした他文化が日本に集まった時、
日本人にとって最初の『カルチュア・ショック』を経験したのである。
このショックの過程で、今日の日本人を形成する性格の基盤が築かれたのではないかと推察される。
奈良という時代は、こういう意味で今日的意味を大きく持つのである。

日本人は果たしてすべての文化を一様に受け入れたのであろうか。否である。
日本に根づかなかったものとして代表されるものは、唐の『宦官(かんがん)」と『科挙(かきょ)』の制度があげられる。
唐ではこの二つは大きな影響を与えた制度であったが、何故か日本人には体質的に合わなかったのであろうか。
大変興味深い課題である。

また宗教面に於いても、長安には仏寺のみならず、ゾロアスター教
の寺院やキリスト教(東ローマ帝国から邪教として追われたネストリ
ウス派キリスト教で景教(けいきょう)と呼ばれた)の教会が多数あった
と言われる。遣唐使の使者達もこれらを目撃したであろう。
しかし、日本にはもたらされなかった。

余談だが、一部にゾロアスター教や景教も日本に入ってきたという説もある。
例えば松本清張氏は『火の回路』の中で、飛鳥の謎の石「酒船石」は
ゾロアスター教の祭壇跡であり、斉明天皇も信者であったということ
を大きなスケールで精力的に考証しているし、京都広隆寺近くの木嶋
(このしま)神社の三角鳥居は景教の遺跡であるということを梅原猛氏は
『塔』という大著の中で聖徳太子と関連づけて述べている。
共に読物としても大変興味深い。

さて、日本人はすべてを受け入れるのではなく、そこに一定の選択基準を持っていたことが分った。
この基準こそ前述した日本人の不変の心情ではないかと思う。
今日、私達は思想、技術、芸術等殆んど消化して日本独自のものを発展させているが、
コンピューターをどんなに駆使しようと歌謡曲に共感したり、
和洋中折衷の生活様式を固持している等の事実は、恐らく変わることはあるまい。
この辺のところが、日本人が心の深い所で固有のものを持っている証しであろう。

再び美意識をテーマに最後に考えてみたい。
美術史家源豊宗氏はその著『日本美術の流れ-秋草の美学-』の中でこう述べている。
『私は日本と西洋と中国それぞれの美術を象徴するものとして、
西洋はヴィーナス、中国は龍、そして日本は秋草をあてることができると思います。』と更に、
『日本の天平美術というものは、ちょっと飛躍するようですが、ヴィーナス的です。』
と、興味深い観察を述べている。


国宝 「秋草文壷」 十二世紀初め 渥美窯製
(慶応義塾蔵 東京国立博物館寄託)
昭和17年川崎市で慶応考古学教室が偶然発見した壷で、
薄、烏瓜、蜻蛉などが絵画的にのびやかに描かれた
平安時代の名品。中世陶器の国宝は珍しい。



ヴィーナスの官能性・人問性、龍の深遠性に対し秋草は感覚的・情緒的と、捉えている。

秋は人間をして過ぎゆく時を強く意識させ、過ぎゆくもの、去りゆくものに対して
人間が一番感傷を深める時であり、この感情を最もよく象徴するものが秋草であると言う。
秋草はしかし案外明るくなよやかな美しい曲線を主調としており、
ここに日本美の原点があると指摘している。

第三章で述べたように仏像の変遷もまさしくこれで、飛鳥仏の重々しさから白鳳仏の優しさ、
天平のおおらかさから、貞観期を経て藤原の優美さに変わっていくのと全く同じことが言える。
歴史的見方も美的見方も、まさしく一致するのである。
奈良はその母体であった。

日本人の美意識が優しさであるとすれば、見逃してはならぬもう一つの面がある。
優しさを補う強さというか「一発性」という面である。
日本の四季の美が前者ならば、台風に代表される変化の大きさが後者である。
台風は不意に襲ってくる。いつでもこの突発的な変化に対応できるような姿勢が要求される。
このような風土は固有の美を生む。

武芸でも動中静とか静中動と言った身のこなしを追求するのと同じ意味で、
美術でも「余白を多くとった水墨画や和歌や俳句のように短詩で
大文学に匹敵するものをはらんだり」(河北倫明著『日本美術入門』より)と言う考えが生じる。
一発的な集中性に富んだ美であり生き方である。

仏像を見てみても、東大寺戒壇院の四天王像等はまさしく静中動の典型ではないか。
じっと秘めたまなざしが突然襲いかかるような感じすら抱かせる。(写真6・7)
また、興福寺の無着像の如く、柔和な顔が
突如仏敵と口角泡を飛ばす論争をするかのような気迫を感じさせる。(写真14)

これこそ日本人の心に深くたたみ込まれた不変の心象であろう。

奈良をめぐる思索の旅もそろそろ終りに近づいてきた。
再び、唐招提寺に戻ろう。
最初に訪れた御影堂の東、背の高い松林に囲まれた一隅に、鑑真和上の廟がある。
昼間もあまり光の射さない暗い場所で、訪れる人もあまりいない。
この廟に向かい一礼すると、松尾芭蕉の名句『若葉して御眼の雫拭はばや』の字句が去来してくる。

鑑真和上はその不屈の意志、真実への信念、衆生への優しさと共にすべてが、
今まで考察してきた奈良時代から現代まで連綿と続く日本人の生きざま
の原点をもたらしたのではないだろうか。

古寺を巡る旅は、また明日への道標である。
過去と今の自分とが歴史という時間で結ばれ、正しく理解したときに、
初めて直線的に未来という歴史的空間と結ばれるのである。

おわり

おわりに  この文は20年も前に書いたもので、考察や論考に未熟さが散見され、恥ずかしい限りですが、
奈良に取り憑かれていた時の執念と、仏像に東アジア史の観点から切り込んで行った視点は捨てがたく、
一部の史実の修正と注釈を除き、ほぼ旧文を採用しました。
但し写真は全面的にカラーに置き換えました。
近い内に、歴史では「白村江」の戦い以降の大和朝廷の外交戦略(日本が同盟軍と共に海外で戦ったのは
この戦いが後にも先にも唯一)、宗教では平安初期の修行密教がどのようにして極楽浄土念仏に変わって行ったのか、
美術では運慶を中心に鎌倉時代のルネッサンスとリアリズム(世界美術史上でも特異な存在)がどのようにして誕生したのか、
などを次のテーマに取り上げて続編を書いてみるつもりです。

昨年の秋の終わり頃、休日を利用して日帰りで室生寺を訪ねてみました。
一昨年の台風であの五重塔が倒れてきた大木により大きな破損を受けてから一年、
ようやく修復工事が終わり拝観できるようになったのがきっかけです。
修復の費用捻出のため、各地へ散らばっていた仏達もやっともとに納まっていました。
室生寺は奈良末期から平安初期に至る堂宇・諸像が当時のまま残っている貴重な遺産です。

修復なった室生寺五重塔    藤原 忠撮影  2000.11


故新保雅浩先生とは何度も通いました。
20年ぶりのこの拙文を先生に贈ります。


2001年1月    藤原 忠


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