第三章 奈良の仏像の変遷
-飛鳥から白鳳へ-
奈良の仏像と建築について語り始めると、それこそ一冊の本でも足 りないくらいの分量になる。
ここでは前章で述べた当時の大陸文化の影響を強く受けた日本の文化がどのような美的遺産を生み出し、
発展させていったか、その歴史的考察を仏像を中心に概説してみたい。
日本に仏教が伝来したのは、日本書紀によると欽明天皇13年(552年)百済の聖明王が、
仏像と教典を献上したの最初と伝えられている。
最初の仏像を見た天皇の言葉は書紀によれぱ、
「仏の相貌端厳し(みかおきらきらし)、全(もは)ら未だ會(か)って看(み)ず」と記される。
当時の日本の大和朝廷の力も未だ強カなものでなく各地の豪族との共存政権であつた。
日本古来の信仰もアニミズム即ち自然崇拝からようやく原始神道へと進化した程度であり、
新しい論理体系と教理を持つた仏教との出会いは、ドラマチツクなものだったにちがいない。
よく言われるように排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏が争い、
後者が勝利をおさめたのも、大和政権の一つの政治闘争と捉えられる。
歴史区分では、飛鳥時代(仏教伝来から平城京遷都の710年まで)は、
美術史では、645年の大化の改新頃を境に区分されて、前期を飛鳥時代、後期を白鳳時代と呼ぶ。
日本で作られた最初の仏像は飛鳥の「安居院(あんごいん)」に残っている。
後世の補修で誠に痛々しいが、顔の一部と左耳そして右指の三本だけが当時のままである。
飛鳥の代表作は何と言っても法隆寺に多い。
特に金堂の「釈迦三尊像」は、中国の北魏様式をそのまま伝える止利(とり)仏師派の作で、
その重々しい抽象的な雰囲気は、仏教で政権を奪った蘇我氏の全盛期の威圧すら感じさせる。(写真1)
(写真1)法隆寺金堂 釈迦三尊像
同じく明治17年米人フエノロサと岡倉天心によって白布が始めて解かれた、
秘仏の夢殿の「救世(ぐぜ)観音」もその神秘性は飛鳥期特有のものである。
(夢殿観音は春と秋の一定日のみ開扉。)
さらに忘れてならないのは、当時の貴族階級に私的に崇拝されたと言われる「小金銅仏」の像である。
50pに満たない可愛いい像であるが、当時の人々がどんな気持で拝んだのか想像するだけでも楽しい。
これらは法隆寺にも多いが、東京国立博物法隆寺館に「四十八体仏」のコレクシヨンがある。
注:この法隆寺館は、1878年(明治11年)廃仏毀釈の嵐のなかで、財政難に陥った法隆寺が
宝物の維持のため皇室に献納した約300件の第一級の文化財が収蔵・展示されている。
以前は毎週木曜日の晴天時のみの開扉であったが、
1998年(平成11年)7月に新館がオープンし、常時見られるようになった。
広い国立博物館の敷地の西に建てられた新館はモダンな近代建築で、中の1300年前の宝物との対比が印象的。
池田藩江戸屋敷表門(通称黒門・重文)の前を通って行くとすぐでまだ訪れる人は少ないが
一見の価値ある美術館である。
大化改新から壬申(じんしん)の乱への古代国家の大きな変革期と共に
天武朝の安定した政治の時代が次の白鳳期の仏像へと繋がる。
この時代の仏像は何故か飛鳥期の重々しい感じから一変し
まるで童児のような容貌が特長で、いかにも人間的である。
この時期日本は一時盛んだつた唐との交流を中断している。
即ち、朝鮮半島の支配をめぐり、それを必死に守ろうとする百済・日本連合軍が、
奪い返そうとする新羅・唐連合軍と白村江(はくすきのえ)で戦い、惨敗した事件(663年)が契機である。
およそ40年間、外来との交流を断って日本は最初の独自の美を作り出した。
これが白鳳仏である。
有名な中宮寺の「思惟半跏(しいはんか)像」の弥勒仏、法隆寺の「百済観音」
等にその始まりを見出すことができる。
更に進んで法隆寺の「夢違(ゆめたがえ)観音像」や
私の好きな仏像の一つである金竜寺の「菩薩立像」(奈良博で見られる)(写真2)等は、まるで少女のようなあどけなさである。
外来からの影響が途絶えると、日本人はどんなものを造り出すかと言う一つの典型を見る思いである。
日本人の美意識の一つである優美繊細さが、歴史に初めて登場する。
白鳳も後期に近づくと興福寺の「山田寺仏頭」のような力強さを加味たふくらみのある傑作を生み出し、
これが次の天平期の黄金時代へと繋がっていく。
(写真2)
菩薩立像 山之辺金竜寺
五頭身のまるで童児のような姿が特長。
-天平時代-
710年平城遷都(これより約七十年を天平時代と呼ぶ)と共に、大寺の建立が盛んになり、当然ながら仏像の需要も増大していく。
材質をみても、これまでの木彫や金銅仏から、
複雑な造形が可能な乾漆(かんしつ)(木組のまわりを漆をたっぷり含んだ麻の布を幾重にも巻き、大体の形を作り、
最後は漆で盛り上げ仕上げる)へと、多彩な変化を見せる。
初期の代表作は有名な薬師寺の「本尊薬師三尊像」である。
完成された技法で見事に鋳造されたこの金銅仏は堂々とした中にも明るささえ感じさせ、日本の仏像の一つの頂点を築いているが、
この芸術性と共に見逃せないのが、その国際性である。
再開された遣唐使達によりもたらされたのであろうか、当時の唐を中心とした
世界文化の流れが、日本のこの薬師像に、まるで凝縮されたような見事さである。
この像の台座がそれである。
即ち台座の下框(したがまち)の東西南北に、中国の四神(朱雀.白虎.蒼龍.玄武で、
近年発見された飛鳥の高松塚古墳の壁画にもこれと全く同じものが描かれている)、
そして台座の腰には十四人の裸形の異人像(インドネシアからニューギニアの土人であろうか)のレリーフ、
そして上框にはペルシヤ伝来の連珠文が刻まれ、
最上段の文様は何とギリシヤ、ローマから端を発した葡萄唐草文様へと展開している。
幾多の苦難を乗り越え、はるぱるシルクロードを伝わってきたこれらの像や文様を真近に見ると、
その悠久性に感動すら覚える。(写真3)
(写真3) 薬師寺薬師三尊像の台座レリーフ
752年天平勝宝四年東大寺大仏開眼。まさに天平期のピークであつた。
正倉院の御物に見られるように遠い西域の楽士や踊子達もこの開眼式に舞ったと記されている。
天平彫刻は外来文化のエツセノスを充分吸収し、それを自分の物とし、
更にもう一歩前進させた日本人の美の最初の見事な結晶と言える。
代表作として私は、初期では輿福寺八部衆のうち「阿修羅」(あしゅら)
と法隆寺五重塔の「塔本塑像」(とうほんそぞう)のうちの北面釈迦涅槃(ねはん)群像を挙げたい。
前者は、阿修羅という仏典では最も戦闘的な守護神を、まるで少年のようにしかも三面六臂という
異形で表わしながらも人間的な憂愁さを感じさせ、(写真4)
(写真4)
興福寺 阿修羅像 八部衆の一つ、帝釈天との壮絶な争いは有名。
後者は釈迦の臨終の場面を丁度芝居絵でも見るかの如く、弟子達の号泣の
有様をリアルに表現している。(写真5)
この人間臭さが天平期の特長である。
(写真5) 法隆寺五重塔北面塔本 釈迦涅槃と弟子群像
更に時代が進むと、この人間性に精神的な深味を増した素晴らしい作品を生んでくるのである。
この一番手はやはり東大寺戒壇院の四天王像であろう。
私はこの中でも特に「広目天像」に魅せられる。
内に秘めた怒りを静けさの中に封じ込んで、じっと彼方を見つめる様は
まるでギリシャ彫刻のゼウス神のようである。(写真6と7)
ほぼ等身の大きさその悠久のまなざしは見事。
(写真6・7) 東大寺戒壇院 四天王の内の広目天像
国の総力を挙げた大仏開眼を境に、天平期は光より影の部分が強くなって行く。
律令体制の破綻、藤原氏と橘氏の醜い勢力争い、そして
仲麻呂の乱から道鏡による政治への介入等、血なまぐさい事件が相つぐ。
仏教の腐敗も目を被うばかりである。
このような時に鑑真の来朝を迎えるが、時代の勢いはすでに次の新しい時代へと急ピッチに進んでいく。
鑑真一行はまさにその引き金役となったのである。
天平期のこのような影は、例えば東大寺二月堂の本尊「不空羂索(ふくうけんさく)観音像」に見出される。
天平彫刻の代表作として名高いこの像も逞しい強さの中にも、ある不気味な暗さを感じさせる。(写真8)
(写真8) 東大寺三月堂 不空羂索観音像
鑑真一行の中の仏師が仏像様式を更に一段と変化させた。
即ち、従来の乾漆系から木彫の一木彫へと制作方法を変えて行く。
線的な美しさから、面的な重量惑のある像へと移っていくのは、
神秘牲を強調する密教の影響が大である。
同時に、金のかかる乾漆像を多量に作ることが困難になった、当時の経済的背景があるのだろう。
唐招提寺の一群の木彫の中で、頭を欠いた謂わゆる「菩薩立像」(トルソー像)は
まさしくその変化の要にある作品で、はっきりとした衣文(えもん)、
デフォルメされた大腿部、全てに重量感を感じさせる。
(新宝蔵庫で春と秋の一定日に公開される。)(写真9)
(写真9)唐招提寺 菩薩立像
-平安から鎌倉へ-
770年壬申の乱以来続いた天武系の天皇から約百年ぶりに天智系の光仁天皇が即位し、
次の桓武天皇の時、さしも盛えた奈良の都も、長岡京へ遷都し、ついで794年平安京が誕生する。
藤原京から平城京へ遷都した時は大半の官寺がそのまま移転したが、
平城京から平安京へは寺院の移転は一切認められなかった。
旧奈良仏教派(南都六宗)に対して、勃輿してきたのが、
空海・最澄によってもたらされた真言宗と天台宗である。
前述したように、すでに鑑真によってその教典の一部は招来されていたが、先の二憎によって教義は確立された。
仏教もその生地インド.に於いては後期になると、インド土着の宗教ヒンズー教をも教理の中に包含して、多くの神々を生むことになる。
文字や言語では言い伝え,られない秘密の呪文(陀羅尼)(だらに)を念誦することで成仏できると言う、
謂わゆる密教の思想は平安期より以後、大きな影響を宗教、文化、美術面に於いて残して行く。
天平芸術が、その人間性という理想主義を追ったのに対し、
密教美術は、神秘性という実践主義を加えた訳である。
不動明王、梵天、帝 釈天、如意輸観音等は、一部天平期から知られていたが、全て密教系の像である。
平安時代も美術史上では二期に分けられる。
前期は遣唐使廃止が決まった九世紀後半までの謂わゆる弘仁貞観期と、
それ以降の和風文化の進展期である藤原時代である。
前期の仏像は貞観仏と一般に言われる密教の影響の強い、反古典的作品である。
奈良では、そのはしりとして先に述べた唐招提寺の木彫群の他に、
大安寺の「楊柳(ようりゅう)観音像」があげられる。
服装に種々の飾りを付けた中国風の像で、直接の影響がしのばれる。
更に、貞観仏らしい重量感のある木肌をそのまま生かした一木彫りの像としては、
新薬師寺の本尊「薬師如来像」が、従来の天平仏とは全く異った森厳で力強い仏として登場してくる。
新しい時代の開幕を告げるにふさわしい仏である。(写真10)
(写真10) 新薬師寺 薬師如来像
白檀で作られた一木彫像。その大きな目が印象的。
奈良の都市仏教から比叡山、高野山に代表される山岳修行仏教へという変遷に最も顕著な特長を見出せる仏としては、
室生寺の諸像が興味深い。弥勒堂の釈迦如来坐像は典型的な貞観仏であるが、
金堂の「十一面観音立像」は力強い中にも優しさすら感じさせる和風化への兆を持った仏像である。(写真11)
(写真11) 室生寺金堂 十一面観音菩薩像
遣唐使廃止以後、藤原氏の摂関政治による貴族階級の安定と共に、文化面でも
カナの発明、女流文学の出現、大和絵の登場等、急速に日本化が進み、
謂わゆる藤原文化全盛の時代を迎える。
優美な貴族文化の出現である。
文化の中心はすでに京都に移り、奈良は過去の都になりつつあったが、この頃の代表作としては、
浄瑠璃寺の阿弥陀如来像の「九体仏」が挙げられる。
安定とは言いながらも裏では陰湿な政権争いが日夜繰りひろげられた貴族にとって、
極楽浄土を願い、ひたすら仏にすがり拝んでいる時は、
こんな風だったかを連想させる黄金の九体の仏は、圧巻である。(写真12)
(写真12) 南山城浄瑠璃寺 九体仏
京都の頽廃的な貴族文化が燭熟期を迎えた十二世紀末、奈良で一人の青年仏師が
天平の仏たちをモデルに、一体の像の制作に打ち込んでいた。
藤原仏には見られない張りのある力のこもった像は、当時大きな力を占めるようになった
武家階級の一方の雄、源氏の武士に賞讃の声をもって迎えられた。
この仏師は運慶と呼ばれた。
彼の最初の作品は柳生円成寺に「大日如来坐像」として残され、
瑞々しい溌刺とした趣は、まさに新しい時代の到来を象徴している。(写真13)
(写真13) 柳生円成寺 大日如来坐像
運慶の二十代の作品。写実的作風が見られる。
平重衡による南都焼打ち(1180年)は奈良のみならず当時の社会にとって大事件であった。
東大寺、興福寺の大伽藍が一宇も残さず、焼き尽くされたと伝えられている。
1192年源頼朝の鎌倉幕府誕生と共に、すぐ南都の大寺の復興事業が開始され、
運慶、快慶の慶派の仏師が動員された。
京都の院派に対し武士階級好みの力強い造像が受けたのであろう。
平安京に遷都して以来400年近く経て天平のあのおおらかさ、人間性が、鎌倉写実主義として力強く奈良に復活したのである。
東大寺南大門の「仁王像」のダイナミックな均衡美、
そして興福寺に残された運慶の一大傑作と一言われる「無着・世親像」の深い精神的な味わい。
全てにあの天平期の精神をルネッサンスとして復活し、完成された姿として、
美術史上の一大頂点として燦然と輝いている。(写真14)
(春と秋の特別開扉日に拝観できる)
(写真14) 興福寺北円堂 無着像
弟の世親像と一対をなす。運慶晩年の傑作。
この後仏像は禅宗の普及と共に歴史からは潮が引くように姿を消して行く。
鎌倉初期の武士達の意気が新しい階級の息吹きと共に、日本史
でも稀れなリアリズム芸術の花を咲かせた時期であった。
普段は静かな仏達もこのように歴史の流れの中に置いてみると、
それぞれその時代の空気を充分吸っていた『生きた仏像』として甦ってくるのである。
第二章で述べた様に、文化的遺産に対する三つの見方も、
全てはやはり歴史というプリズムを通してこそ、多面的な魅力を引き出せるのであり、
奈良とそこが中心になった時代は、日本の古代から中世にかけ
日本人の性格の大きな要素である美的価値観の形成に、
誠に偉大な足跡を残して、近世へ引き継がれていったのである。