第二章 奈良の見方

 一般に、私達が奈良を見る時は、仏像と建築が中心になる。
実際、その時代のものが一つの完成体として残されているところは、奈良しかない、と言っても良い。
例えば、京都には平安時代の建築は殆んど残されていない。
数少ない遺例も、醍醐寺の五重塔(951年、京都最古の建造物)か、宇治平等院の鳳凰堂(1053年)、
同じく宇治の宇治上神社本殿(平安初期、三蛙股の一つ)ぐらいしかなく、みな洛外にある。
(仏像と建築以外にも古墳があるが、一般の人には簡単に立ち入りできないし、やはり考古学や歴史学の専門家の領域である。)

 仏像や建築物という文化遺産には、いろいろな見方がある。
私はこれを三つに分けて考えている。
一つは、当時の人々の信仰としての対象物−即ち宗教的見方。
二つは、芸術作品あるいは当時の美的感覚としての標準ー即ち美術的見方。
最後に、その時代の背景として政治・経済思想という大きな流れの中での影響度−即ち歴史的見方。
この三っが複雑に絡み合っているからこそ、
現在、私達が実際に目の前にすることができる仏像なり建築なりが、魅力的な鑑賞や思索の対象になり得るのだ、と思っている。
宗教的見方と言っても当時の仏教は社会の基盤であり、思想の根流をなし、
更に貴族階級による政治手段であったことを考えると、歴史的見方とほぼ同一になる。
ただ仏教そのものの日本化とともに、その対象たる仏像も大きく変遷していったのは事実であり、その跡をたどってみるのも興味深い。

 美的標準も奈良時代を中心に大きく変移していく。
即ち日本人古来の美的意識は、大陸からの文化の果てしない流入により、
美に対する日本人の感覚を鋭く、また独特なものに変貌させて行った。
これも、当時の世界と言う歴史地理を抜きには考えられない。
このように歴史的環境や事実を十分浸み込ませた日本文化、そしてその遺産は、
まず歴史的視野と言うポイントから大きく捉えていくことが、特に奈良時代の美的遺産を捉える場合不可欠であると思う。

 この歴史的に大きく捉えるとは、一体どのようなことを指すのであろうか。
一つは、歴史の横の動き、即ち世界の中の日本であり、
もう一つは、当時とその後の歴史との繋がり、即ち縦の動きと言う二つの側面である。
前者は、アジア大睦の果ての島国日本が、当時の世界文化の終着点であったと言う事実を
実際の遺産より考証する事であり、後者は、奈良時代が果たしたその後の歴史への役割、
更には今日の日本及び日本人への影響については、次章で考えるとして、
その後の歴史と奈良朝との繋がりは、どんな風に捉えるべきなのであろうか。

 私見だが、奈良時代は明治維新とそれに始った明治時代に比較されても良いと思う。
(歴史的区分では、七ー〇年の平城京遷都から七九四年の平安遷都までを指すが、
私はこれをもう少し拡げて、六〇七年の遣隋使派遣から八九四年の遣唐使廃止までの約三百年間位を奈良中心文化の時代と考える。)
外来文化の激しい流入と吸収、そして日本古来の文化との融合発展の過程は、両時代とも非常に似た点が多い。

 日本史を遡ってみると、文化史的に次のようなシーソー的現象が起きているのが分る。
最初は、大陸特に唐の文化の大きな影響下にあって大いにその吸収同化を計った奈良時代から、
日本文化の独自の発展を内部に持った平安時代へ。
次に、武家政権の誕生とともに禅宗に代表される大陸の特に宋の文化を積極的に移入した鎌倉時代から、
「わぴ」「さぴ」と言われる日本文化の今日の源流を築いた室町時代へ。
更に、ポルトガル・スペインなどへ大きく目を開き豪壮な美を展開させた桃山時代から、
閉鎖的なしかし独特の文化を内部に熟成させた江戸時代へ。
最後に、西欧の模倣に始まり富国強兵の旗印の下に国力発展した明治から、
国粋主義へと傾いた大正・昭和初期へ。
と言うように四つの大きな反復現象を発見できる。
いすれも新しい文化の受容吸収の時代から、その日本化という独自のプロセスを持った時代へとの受け渡し現象である。
(短い期間だが、戦後アメリカの制度・技術を大巾に移入した日本は、
高度成長による産業社会を築き上げたが、オイルショック以後、
目標を喪失して独自化の道を歩んでいるのも同じ現象ではないか。)

 奈良は、このような日本の歴史の流れの中で、最初のしかも最も大きな変革という試練を内に遂げた地域であった。
その変革の痕跡が、未だ数多く残存している貴重な存在なのである。
即ち当時の息吹きを今に伝える仏像と建築、これこそが、
奈良時代に今日的意義を与える「物的証拠」である。
私達はこれらの貴重な文化財を通して、日本人の歴史の第一歩を捉えることができるのである。


唐招提寺 金堂
759年(天平宝字3年建立)
奈良時代の典型的な建物。寄棟造・本瓦葺の屋根が流動感と重厚感との
見事な調和をもたらし、前一間の吹き放しの柱間が、遠くギリシャの神殿を
思わせる胴張りエンタシスの円柱で支えられ開放感にあふれている。


宇治平等院 鳳凰堂
1053年(天喜元年建立)
平安盛期に藤原道長の子頼道によって建てられ、定朝作の阿弥陀如来が
安置されている。堂の両翼は鳳凰が羽根を広げたように表現され、お堂の
中には51体の雲中供養菩薩像が優雅に舞い、まるで極楽浄土のようである。


第三章へ続く


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