「親友の墓参り」


「ユリをもう一本入れたらどう」私は妻に云う。
「そうね、一本ではちょっと寂しいかもしれないわね」。
妻は傍の店員に「すみませんがユリを一本追加して下さい」と、頼んでいる。
一抱えほどになった花束を私が持って、車で待っている友人K君のところへ急ぐ。
もう夕方4時を廻ると辺りは少し薄暗くなりかかっていて、
12月にしては暖かだった日中に較べると、一段と寒さが襟元を冷やしはじめてくる。
「おかしいな、こないだ来たときは、ここを左折するとすぐだったんだがな」、
友人は運転しながらきょろきょろしている。
「ここまっすぐ行けば、U駅だし、ここ左なんだがな」、「ここだここだ。やっぱりそうだ。
他の車が止っていたのでつい感違いしてしまった」。
その道は車一台がようやくすれ違えるほどの細い道。
突き当たりの駐車場では小学生の女の子たちが、ドッジボールをしている。
入るのも可哀相なので、そのまま道端に車を止めて行くことにする。

ここはM県I市の外れにある共同墓地。
山全体が自然と墓地になってしまったような、斜面という斜面に色んな形の墓がぎっしりと詰まっている。
I市生まれの友人が言うには、昔はほんとの外れだったが、今や廻りは立派な住宅街と化している。

駐車場の脇の小道を登り、墓と墓のあいだを縫うように歩く。
側の家に繋がれた犬が盛んに吠える声が、夕暮れの墓場にこだましてくる。
この犬は人の多いお盆の時なんか吠えっ放しなんだろうか、とつい余計なことを考えてしまう。

「これです。この墓がM家の墓で、M君はそこの左から2番目の墓の下に眠っています」。
少し前にわざわざ下見に来てくれていた友人が指を指す。
そこは不揃いの大谷石で四方が囲まれた一角で、正面にM家先祖代々の墓と書いた一本の木の案内墓標が立っていた。
誰が添えたのか、もう少しでばらばらになってしまうような花束が、墓標により掛かかっている。

M君の墓は、その墓標のすぐ後ろにあった。
想像していた石の墓ではなく、朽ち果てた、字も禄に判読できないような木の墓標だった。
他のM家の墓はよく見ると、大小はあるがすべて石墓。
「この辺では最初は木の墓標で立て、一周忌か遅くても三回忌くらいまでには墓石に直すんです」、
友人が怪訝そうな顔をしている私と妻を見てそう云う。
「それにしてももう七回忌も過ぎてしまったな」。
「これがM君の墓?」、くどく聞く私に友人は、「墓標の裏を見てください。M君の字がありますから」。
下が小さな崖になっている狭いところを、
こわごわと廻って墓標の裏を覗く。

苗字のMは読めたが、名前のRは最初の一文字が分かるだけで残りの一文字は、
そう思ってみるとそう見えるかな、といった程度。
墓標全体が、すっかり擦り切れていて、少し触っただけで崩れてしまうような感じだった。
小さな墓標に不釣合いなほどの大きな花束を、
倒れないように廻りを石ころで押さえ、なんとか立てた。
花束の中に入れた「友人一同」の札が、なんだか“文句”を言っているようにも思えた。
あの陽気で無類のお人好しで、それでいて人一倍の
寂しがり屋だったM君が、こんな小さな木の下に眠っているのか、と。


M君と私は大学の同級生である。
大学のクラスなんかは、顔もほとんど合わさないものだ。
特に付属高校からきた私はキャンパスの知り合いはいくらでもいた。
M君はI市出身なことは知ってはいたが、それまで殆ど口も聞いたことがなかった。
始めて口を聞いたのが一年の秋、大講堂のつまらない授業で隣同士になった時だった。
終ってなんとなく友人達の屯する食堂へM君を連れて行った。
まだ他の友人達は授業が終わらないらしく、M君と二人でどうということの
ない雑談を交わして、ラジオからのニュースをなんとなく聞いていた。
突然、ニュースが「I湾を直撃した台風は、M湾西側に大きな被害をもたらし、
夕方の満潮時と重なり更に被害が拡大される模様で、
関係各庁は厳重な警戒を各地に呼びかけています」。
それを聞いていたM君は不意に立ち上がり、「すまん、すぐI市に戻るので皆によろしく」というと、
すぐに消えてしまった。

これが死者5千人以上の未曾有の大惨事をもたらした、超大型I湾台風だった。


「エビって最初から赤いんじゃないの」、東京生まれの私や私の大学の友人達は、ぴんぴん跳
ねてるエビが次々と、煮立った大鍋に放り込まれるを見て、奇異な声をあげている。
「何にも知らないんだな、都会の連中は」、M君が得意そうに、「本当のエビの旨さは、こうやって生き
てるまま殻を剥いて頬張るのが一番」と云ってやって見せるので我々も真似して見るが、
口に入れてもまだぴんぴん動いているのが、なんだか気持ち悪く、後が続かない。
結局大釜の茹で立てが無難なところと落ち着いて、食うは食うはむしゃむしゃと20匹くらいあっという間に腹に収まる。

ここは早朝のI市の市場でM君がよく知っている店の中。
エビの専門店で、朝取れたてのエビを贅沢に食わせてもらっている。
大学二年の夏休み。
M君の家は、このI市で手広く漁業資材を扱い、特に真珠や牡蠣の養殖用漁網が得意分野らしい。
前年のI湾台風は、この辺一帯の養殖産業に壊滅的被害をもたらし、
この頃になってようやく本格的復旧が軌道に乗ってきたようだ。M君の家も相当な被害があったらしい。

しばらくして大学に戻ってきたM君とは、それ以来すっかり仲良くなり、
付属出身の連中とも一緒に遊ぶようになってきた。
東京のど真中にあった私の実家にも、しょっちゅう泊まりに来るようにもなった。
彼は、なんて言うか、年寄りにすごく可愛がられるタイプで、
私の母親なんかは、来るといそいそとご馳走を出していたのを思い出す。
こんな縁で、翌年の夏休みに、M君の家に招かれるようになった。
なにせエビだ魚だ、とこんな生きのいいものは食ったことが無い。
しかも当たり前だが、本当に旨い地元の店を案内してくれる。
その頃からK私鉄系列の高級リゾートホテルだった「S観光ホテル」にも連れて行ってもらい、
そこのレストラン特製の「鮑のステーキ」(旨いのなんのって)まで食べ、
学生の分際で生意気な、と家に帰ってうらやましがられた。

M君は、新設のI高校第一期卒業生で、自分も入れて現役で東京の大学に入学した3人を、
彼は自ら“三羽烏”と呼び、誇りに思っていたようで、我々仲間にも紹介してくれた。
Hi大のS君、W大のK君(墓参りのK君がこの人)それにK大のM君本人。
またM君のおじさんやら従兄弟ともよく一緒に飲んだりもした。
彼は男兄弟3人の長男で、2才下の弟も、大学三年の時に同じK大に入学してきた。
M君は、結構お喋りで、人懐っこく、陽気だが長男気質かちょっと
人が良すぎるくらいのところがあったが、弟は、山男でK大の山岳クラブに入って一年中山に
こもっているような、無口だが誠実でやさしく繊細な学生だった。

どうして同じ兄弟でもこう違うものかね、と二人とも好きな私の母親が、よく不思議がっていたものだった。

こんな違いが、後年のM家の“悲劇”を呼ぶことになろうとは、この頃は露ほども想像できなかった。


「チューさん、六本木のNiのピザ、旨かったな。もう一度食ってみたいな」、
「大学四年の時に、チューさんと行った下北の突端の温泉。海が見えて気持ち良かったな」。
ガリガリに痩せ、寝たきりのM君が、目だけは少年のように好奇心剥き出しに輝かせて、力なく言う。
とにかく食い物と旅の話が、見舞っている時のM君への最大のご馳走だった。
誰が持ってくるのか、「東京グルメ案内」とか「みちのくの旅」とか、そんな本がベッドの廻りに散乱している。
毎週のように見舞って行くうち、流動食しか食べられなくなり、人口肛門で歩くのも難儀なM君が、
無理に食べ物と旅の話しかしない“悲しみ”もろくすっぽ考えず、
それに合わせただけの話をしている自分が、ふっと「ああ、残酷な事をしてるな」、
と情けなくなってきたのを思いだす。

1993年2月、M君52才。しばらく便りがないな、と思っていたら彼の奥さんから電話で
「急に入院することになりました。どうも癌の疑いがあるようで、本人はまだ知りません。
友達に会いたいと言ってますので、どうか会ってやってください」。
その頃会社の新しいプロジェクトに忙殺され、M君とはしばらくご無沙汰で、
気にはなっていた私にとって、その知らせは、「が―ん」と一発後頭部を殴られたようだった。
それからは毎週友人達と交代でT田園都市のFヶ丘病院へ見舞いに通った。


大学三年の時も、M君のいるI市やS半島には休みになると、押しかけるようにして行ったものだ。
四年の就職活動も、彼はもちろん家を継ぐことになっていたが、我々と一緒に会社廻りなどもしたりした。
仲間も大体が大手の会社に就職が決まり、「これからはサラリーマンか、M君は
良いな」なんて言っていたが、彼も突然「俺も勤める。大手M物産の子会社に決まった」と。

まだ親父さんも元気で、やはり東京に居たい、という彼のわがままをきいてやったのか。
卒業して数年間M君もサラリーマンになっていたが、いつのまにか辞め、やはりI市へ戻ることになった。
M君の家もこの頃はまだ順調だったようで、下の弟も将来はレストラン事業をやりたいといって、
卒業後老舗のレストランチェーンに就職し、見習でよく日本橋の店に立って
いたのを、我々も時々冷やかしに行ったものだった。

M君の最初の結婚もこの頃で、S観光ホテルで豪華に行われ、司会を頼まれた私は、
何年ぶりかで例の「鮑のステーキ」を食べれた。
友人も一杯呼ばれ、賑やかな式だった。
しかし仲間たちは、二人を囲む関係にちょっと”危うさ”を感じもしたが、
まあいろいろ地域の事情もあることだし、と思っていたことが、1年後の離婚にもつながったようだ。
しかし本人は”一見”そんなこと気にしている様子はなかった。

仲間たちも家庭を持ち、職場ではだんだん中堅社員になってくると、じっくり会う機会も少しずつ減ってきた。
世は高度成長にひた走っている頃で、時々上京してくるM君と会い、
皆で一杯飲むときに、彼の金回りがいやに好くなっているのに気が付いたのは割合早かった。
もともと地味な商売だし、彼の親父さんも堅実一本だった。

彼は多くは語らないが、後から考えると、どうも不動産関係に手を染め始めそれに苦戦していたとも推される。
東京では精一杯虚勢を張っていたのだろうか、M君特有の”純な”感じが少し薄れたように思えたのは、杞憂ではなかったようだ。

山好きの弟が帰らぬ人となったのも、この頃だった。
大好きな八ヶ岳に突然一人で行くといってそのまま帰ってこなかった。
両親も彼も我々も八方手を尽くして探したが、数ヵ月後に遺体が発見された。
遭難とも覚悟の山行き、ともとれる”静かな死”であった。
まだ29才の早すぎる死に、家族は悲嘆に明け暮れたのは想像に難くない。
家運なんていうものがあるとすれば、M家の転機がやってきただろうか。
人のいい彼が不動産の猛者連にやられたのだろうか、反面
じっくり型だった弟が何を思いつめていたのか、今となってはまったく分からない。

しばらくしてM君は逃げるようにI市を出て、東京に出てきた。
表向きは東京営業所ということになっていたが、I市では商売がもうできなくなったようだ。
それでも根が真面目なM君は、東京という舞台が性に合っていたのか、
いろんな商売をやりだし、そのうち大学仲間の好意で
その実家の印刷屋に出入りして、営業マンとして働くようになった。

この頃二度目の結婚をした。
大柄の明るい度胸のありそうな人で、仲間は良いかみさんをもらったな、と内心喜んだ。
そのことは、時々彼の家を訪問するたびに、実感させられた。M君も昔の”素直な表情”に戻
ってきたし、「もう怖いものはない」、というのが正直なところだったんではないか。
I市にはまだ親父さんと一番下の弟が、細々と商売を続けていたようだし、二度目の結婚でできた長女が
可愛い優秀な子で、O女子大付属に入ったといって大騒ぎしていたし、
この頃はまあ贅沢を言えばきりがないが、M君としても幸せな時期だったんではないだろうか。

しかし運というものは一度転げだすと止められないもののようで、I市の仕事も苦境になり、
今度は下の弟が東京の兄貴を頼ってちょくちょく上京するようになってきた。面倒見の人一倍
良いM君は、本当はそれどころではなかったはずだが、仲間や親戚に必死になって商売を頼み
込むようになってきた。私も真珠を人に斡旋したり、仕事を紹介したりしたが、印刷屋のY君
なんかは相当面倒を見てやったようだ。
「M君兄弟にはまいるな!」なんて言う声も、人づてに伝わってきたこともあった。事実迷惑
も掛けたのだろう。しかし友人たちはなんとか助けるというか、立ち直って欲しいというか、
そんな気持ちで支援していたのも事実だった。
そのうち下の弟の方も、不幸にも足の病にとりつかれ、I市へ帰っていった。
M君兄弟はどうしてこうも不運が襲うのか不思議なくらいだ。

その直後だった。

M君の奥さんから、緊急入院の電話が会社に入ったのは。
食い物と旅の本に囲まれて、

M君は1993年8月31日朝、帰らぬ人となった。


「もう一回お線香をあげよう。友人たちの分だ」、もう何度もあげているのに、最後といってはまたあげた。
とっくに冬の陽は山に落ち、
ドッジボールをしていた女の子の声も、きゃんきゃん鳴いていた犬の声も聞こえなくなっていた。
辺りは夜の闇の気配漂い、墓石も黒々としてきた。
M君の左隣の墓は、良く見ると立派な石の墓で、29才で死んだM君の弟の名が刻んであった。

その墓の建立年月日は弟が八ヶ岳山麓で発見された日付けになっていた。




     2001年12月12日 I市にて              藤原 忠


追記

墓参りのあとしばらくたった暮れも押しつまった日に、I市に住むM君の弟から電話があった。
M家の墓を掃除に行くとM君の墓に立派な花が添えてあり、「友人一同」の札も残っていたらしく、
それを見て彼はすぐ電話をしてきたらしい。
聞くと体も元に戻り商売も奥さんと一緒に順調な様子で、
声もずっと若返った感じだった。
彼の父即ちM君の父も、少し足は悪いが元気な94歳になったと聞いて、
なんだか重たかったものが“すとん”と落ちたような気になった。


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