目黄不動尊2 目黄不動尊の旧地は本所にありました。 一つ一つを巡ると、実に面白い背景が浮かんできそうです。 最勝寺は墨田区の本久寺(ほんきゅうじ
東駒形2−21−12)と並んでありました。 その牛島神社は北の長命寺の近くにありました。 江戸時代初期、この地域の歴史の刻みの中に 最勝寺は墨田区本所にあった 最勝寺の旧地は、現在の東駒形にありました。江戸切絵図から追うと、隅田川を「吾妻橋」か「竹町の渡し」で当時の本所地区へ渡ると、朝日神明 神宮寺、本久寺、最勝寺の順に並んでいて、江戸名所図会にはその景観が描かれています。 幸いに、本久寺はずっと動かずその場に現在もあります。そこで、都営地下鉄浅草線 本所吾妻橋で降りて本久寺まで歩きました。白い塔がある日蓮宗のお寺です。
創建年代に諸説ありますが、天正の頃であることは一致しています。寺伝では、天正13年(1585)、「寺書上」では元亀2年(1571)、江戸名所図会では天正3年(1575)とするものです。日朗上人が御首、日法上人が胴体を彫刻したという祖師像があります。
最勝寺は本来ならこの方向に並んでいたはず と、写真を撮っていると、丁度、出かける住職さんに、ぱったり出会って、話を聞くことができました。 『最勝寺さんの旧地を探しているのですが・・・。』 『江戸名所図会に描かれている、あの、お稲荷さんですか?』 気さくに、すぐ前の細い路地を入ります。いやー、まさに感激でした。ありました。
ビルの谷間に挟まれて、門柱に「最勝稲荷」と彫られています。 江戸名所図会には、中郷(なかのごう)として、最勝寺、神明宮、太子堂の見出しで、この辺一帯がとりあげられ、そこに、「いなり」が描かれています。太子堂は如意輪寺に並んでいたようなので、これらを合わせると、現存する如意輪寺、本久寺の位置関係からしても、最勝寺の旧地であることは間違いなさそうです。
次は別当を勤めた牛島神社ですが、現在の位置とは違ってさらに北、長命寺と接してあったことが知られます。一路、歩くことにしました。
最勝寺の縁起では 『当寺は貞観二年庚辰(八六〇)慈覚大師(七九四〜八六四)が東国巡錫のみぎり、隅田河畔に一寺を建立したのが、そもそもの創りといわれ、良本阿闇梨(伝不詳)の開山である。もとは本所表町(現・墨田区東駒形)にあり、牛島神社(牛の御前)の別当を明治維新に至るまでつとめた。』 とありました。別当寺は、神社の祭祀や管理などの支配権をもった寺ですから、最勝寺は牛島神社と特に密接な関係を持っていたことになります。従って、ペアで考える必要があります。
珍しい「三つ鳥居」を前に、戦災を免れた本殿があります。
江戸時代から庶民に親しまれた「撫で牛」(なでうし)が祀られています。 牛島神社と将軍家 牛島神社は本所の総鎮守で、墨田区内では最も古い創建と言われ、縁起にも多くのことが語られます。神社の縁起では、貞観2年(860)慈覚大師の勧進とします。その後は 天文7年(1538)6月28日、後奈良院より『牛御前社』との勅号を賜った。 永禄11年(1568)11月、北条氏直が関東管領であった時、大道寺駿河守景秀に命じて神領を寄進した。 とするものです。なお、公的機関の出版物では徳川将軍家の崇敬、旅所については具体的な記述はなく、社伝によるとしています。それを証する古文書や棟札などが残されていないのかも知れません。 様々な解釈があるでしょうが、最勝寺はこの別当寺であったのですから、社伝どおりとすれば将軍家とは交流があったことが考えられます。すると、黄目不動尊の家光設置説が現実味を以て浮かんできます。 さらに、この地には、将軍家と密接な関係を語る長命寺の伝承が残っています。そして、江戸時代には、牛島神社は長命寺の近くにありました。 長命寺と将軍家 牛島神社の北に800メートルのところに長命寺があります。江戸時代から位置は変わらず、現在もその場にあります。かって牛島神社がこの寺に接してあったことを証する「牛島神社旧跡」の碑が隅田川沿いに建てられています。(弘福寺の裏手) この寺は句碑、石碑の寺で、一日居ても退屈しない内容の深い文化が秘められています。また隅田川七福神の弁財天が祀られ、親しまれています。今回は、そのことではなくて、将軍家との関係です。長命寺で下さる「長命寺のしおり」に、次のように伝えます。
『長命寺の建立 しかし開山については定かでないが、「長命水石文」には「当寺いにしへは、宝樹山常泉寺と唱し道場なり」とあり、三代将軍徳川家光公が当地に鷹狩りに来た際、腹痛を起し、住職の加持した庭中の般若水(井戸水)で薬をのんだら痛みが止まったので、以後長命寺と呼ぶように改号されたのである。・・・ これも大正十二年の関東大震災には再び焼失し、本堂の阿弥陀如来は、からくも難をのがれ現在に至っている。 また境内には芭蕉堂が存在していた。現在は関東大震災にて焼失してしまったが本堂よりもむしろ有名であった。芭蕉堂はいうまでもなく芭蕉像を安置したお堂であり、東京のほかにも全国にある。当寺の芭蕉堂は、宝暦年間に自在庵砥徳の建立によるもので、・・・』 と家光との関係を寺の命名にし、宝暦年間(1751−1764)の芭蕉堂の存在を記載します。 こうしてみると、伝承も含め、長命寺、牛島神社、最勝寺には、家康、家光の影が色濃く染みついています。また、鷹狩りを出して恐縮ですが、家康や家光など徳川初代は、千葉、房総地方を含め、葛西(かさい)の守りを留意したらしく、この地方で、度々鷹狩りをしたことが伝えられます。時代が下がって吉宗の時には、葛西筋(かさいすじ)として、正式に将軍家の鷹場が復活しています。 この地域がいつ頃市街化されたか明確な像を描けませんが、本所が武家地として一面に割り当てられているのに対し、牛島神社や長命寺のあった向島方面は、安政3年(1856)切絵図では、寺社地を除いて「村」や新田で、水路の間に田地が一面に広がっています。 江戸も末期の頃の様相がそうであり、江戸初期の家康や家光の頃はさらに茫漠とした地域であったことが考えられます。そして、まさに武家地との接点であり、ここでも野菜類の供給が重視されていました。 また、牛嶋神社から三囲神社に向かう通りは「水戸街道」とされ、五色不動が街道守護としての役目を持っていたとすれば、その点の打ってつけの場でもあります。 家光と限定するといろいろ問題が出てきますが、目黄不動の関連するところは精神上も戦略上も江戸の守りとして重要な地点であったのではないでしょうか。こう考えると、目黄不動は、後で付け加えられた、とするのは考えもののような気がします。 旅所は本所の武家地の中に置かれた 家光が寄進したという、若宮と呼ばれる牛島神社の旅所は、現在の本所2丁目にあります。牛島神社から遠く離れて、当時の本所の武家地の中に位置します。 神域が広範囲と云うことだそうですが、ここにも寄進の意図がありそうです。 牛島神社は、水戸屋敷を境に、全くの農村部に「牛の御前」としてありました。旅所はそこから約2キロ離れて、虫眼鏡で見ないと区分けがつかないほど細分化された武家地にあります。 寄進の意図は、この地点と牛島神社の関係を持たせたかったのではないでしょうか。そしいて、最勝寺が丁度その中間点にあたる地点に位置していました。これも気になります。 注意を要することは、江戸名所図会の朝倉治彦氏の校注(角川書店版)では、寄進の時期を「元禄9年(1696)」としています。この時期になると綱吉の時代です。次の吉宗の時代、隅田河畔には桜が植えられ(1718)、飛鳥山に遊楽の場が設置(1720)され、江戸のリクリエーションの場がどっと増えます。 あるいはこの時代に、目黄不動が意味を持つのかも知れません。 牛島神社の旅所では現在の子どもが、いかにも下町らしく群れて遊んでいました。珍しくて、声を掛けると、ニコニコして集まってきて、『御神輿が待ち遠しい!!』と両手にV字をつくってはしゃぎました。 新しい江戸を創る子供達に、『お祭りの時にまた来るよ』
|