江戸五色不動と武蔵野 「お不動様が守り本尊よ・・・。」 いつか通しでお参りしてみたいと、願っていたのが どこから廻ればいいのかと地図を見ている内に、またまた、虫が動き出します。 無心にお参りすればこそ、御利益も功徳も頂けるのだろうに、困ったものです。 目白不動 金乗院門前の不動像 目黒か目白かそれとも・・・? ●目黒不動(現、目黒区下目黒3−20
瀧泉寺) 目黒と目白は地名になっているし、山手線の駅もあります。他はどのようにお参りするのか? 先ずは、江戸の雰囲気を知りたくて、現在の地図と江戸切絵図との照らし合わせを始めました。ところが、目黒不動を除いて、他は切絵図ではなかなか見つかりません。 随分と移動している 結果は、江戸切絵図に描かれている位置と現在の位置とは随分と違いました。江戸の神社仏閣は移動が激しいので、最初に祀られたところと違うのは、いわば当然のことですが 明治末〜大正には ●目黒不動 荏原郡目黒村 瀧泉寺
慈覚大師作 でした。これからすると、目白不動(新長谷寺しんちょうこくじ)と目黄不動(最勝寺)は大正以降に移動していることになります。比較的新しい移動で、理由に興味を惹かれました。 ●目白不動(新長谷寺)は文京区の関口水道町にありましたが、第二次世界大戦の空襲で焼け、廃寺となったことから、現在の高田の金乗院に移されています。 もう少し遡ってみました。江戸時代の移動です。●目赤不動は千駄木の不動坂から、現在の南谷寺(なんこくじ)へ。●最勝寺の目黄不動は「東栄寺」から本所区表町の最勝寺へ。●目青不動は現在世田谷にある教学院が麻布にある頃、廃寺になった「観行寺」から移されたとされます。そこでは、「青山のお閻魔様」と呼ばれていたとも云われます。 資料不足の私に遡れるのはこの辺まででした。最初は素朴な堂で、次第に整備されて来たことも考えられ、その位置も、目黄不動 最勝寺のように、『隅田河畔に一寺が建立された』 との伝承を伝えるように様々であったことが想定されます。それでも、この位置を地図に落とすと、とても面白いことに気が付きます。 江戸市中と武蔵野の結節点に位置する 立ち読みした、はやりの風水、陰陽師、安部清明などに影響されて、調べた位置がどうなるのか、「江戸朱引図」(1818年)に、江戸切絵図上(1800年代)の五色不動を置いて見ました。目黄不動は左側が永久寺、右側が最勝寺です。 (外側の線が「朱引」で、ここから以内を「御府内」とし、黒い線は「黒引」と云われて、江戸の町場の範囲を示したものです。江戸の範囲をどのようのするかは、結構、大変なことだったようで、文政元年(1818)まで、目付の支配下、町奉行支配下など曖昧であったものを、統治上切羽詰まって、幕府がようよう統一見解を出したのだとされます。)
こうしてみると、配置といい、方角といい、素人目にも何やら意味があるように思えます。四神、陰陽五行説など、さすがに、この配列を巡っては様々な考え方があるようで、興味津々です。 ○五色不動は、三代将軍家光の時代(1632〜1651)に、天海大僧正が関係して、天下太平を願い、江戸城の守りの場所に成立した。 ○その場合、陰陽学による四神と色の組み合わせで、 ○この世は、地(黄)、水(黒)、火(赤)、風(白)、空(青)の5大要素で成り立つとする密教の考え方によるものだ。 ○江戸五街道の守護――東海道 目黒不動(龍泉寺)、中山道 目赤不動(南谷寺)、川越街道 目白不動(新長谷寺)、甲州街道 目青不動(教学院)、日光街道(奥州街道)目黄不動(永久寺)、水戸街道 目黄不動(最勝寺)――という意味がある。 ・・・などなど、100年の時間差の中で、様々な説が入り乱れます。 それらを含めて、この図を作りながら、私は直感しました。これは、江戸市中と武蔵野の結節点に置かれたものではないか。同時にそれは、一つの結界でもあったのだろう。不動はその守護を任じたのではないか? では、誰が、いつ頃? 色の組み合わせは? こうなると、もう頭の半分は江戸時代に一足飛びです。 そういえば、お不動さんには彩色された像が多く目に浮かびます。京都青蓮院(しょうれんいん)にある国宝の不動明王は「青不動」ですし、園城寺(おんじょうじ)には全身を黄色に彩色した重要文化財の「黄不動」の立像があります。三井寺にも黄不動、高野山明王院には赤不動があります。 でも、「目」に焦点を絞った「○目不動」ではありません。むしろ身体を表現しています。やはり、江戸の五色不動にはその特有の意味がありそうです。そこでご紹介したいのが「鶴岡春三郎氏」です。大正8年に、地名と色と五色不動の関連を次のように書いています。 目黒不動 独鈷の滝(とっこのたき)の不動像
『・・・東京には・・・色彩に關(=関)する名を有つた不動がある。・・・所謂五色不動である、この内地名としては目黒、目白のみであつて他の目赤、目黄、目青は単に不動としての名であつて決して地名ではないのである、 ・・・これに就て、改選江戸志、夏山雑談等の書には、江戸の地名に目黒、目白、目赤、目青といふ所あり、御草創の時(=家康が江戸へ入府して幕府をつくった時=1590〜1603年)、慈眼大師を奉じて鎮護のため四方に不動の像を造立し彼の不動の目を赤、黒、青、白の五色(?原文のまま)になし給ひたるより其の地名となりたり、(されど目青不動といふは未だ聞も及ばす)左・青龍、右・白虎、前・朱雀、後・玄武の四神の心なるベしといふやうな説を載せて居る、・・・ ・・・さて考へて見ると、目黒の地名は既に東鑑(あずまかがみ)等にある通り古い地名である、それにも拘はらず御草創の時出來たといふのは甚だ可笑(おか)しなことではないか、 或は若し之れを好意的に解して見たらどうであらう、先づ目黒の地名のところへ玄武を當て、其の他は適宜按配したとも考へられないことはないが、既にこの説にある目青の地名が昔しから判明しない事と、目白不動尊の瞳孔が白色でない(他の不動の目も亦色彩に関せず)点などを思ひ合せて見て、この説は極めて面白い説には相違ないが、証拠としては柳か不徹底の嫌あるを免れない。 又異説としては、徳川氏が江戸城鎮護の為に蜜教の四種の祈祷法に準じて四不動を勧請したのであつて、目白を息災とし、目黒を増益とし、目赤を敬愛とし、目黄を調伏とし、息災の祈祷は凡て白色と相応じ増益は黒色と相応じ、敬愛は赤色と相応じ、調伏は黄色と相応すといふ風に説いて居る、而して目は隠語であつてなづくと訓するのであると云つて居る。』(画像は 目赤不動堂) として、鶴岡氏は、四神と色の関係を述べ、さらに、次のように、この地方の馬との関係、「将軍」の意向を強調します。 『・・・然らばこの目黒、目白等の地名は何に基いてかかる名が起つたのであるかといふに、往古武藏國で諸所に牧場を設けて牛馬を飼養した事がある、その名残りとして今でも東京附近には馬を飼育して居つたと思はれる地名が可成りに多い、例令ば、駒込、馬込、馬引澤、練馬の如き尤も著名な土地である、 即ち目黒、目白、目赤は其の土地土地に産する馬の毛並、目色の各異つた特色を云ひ現はした名称であらうと私は想像するのである。・・・』 『・・・目黒、目白、目赤の一つ一つに就いて云つて見ると、目黒は昔し馬込領の一部であって東鑑、北條家小田原分限帳にも上つて居る古い地名である、目白はどうかと云ふに、これは目黒に比べると幾分新らしい、而してその名義が少し曖昧である、寺の縁起によると将軍大猷公(=家光)目白の号を賜ふとある、けれどもこれは随分疑はしいところがある。私の考へでは、この附近に駒井町(井は居ならん同所を一に駒店という)駒塚橋等馬に緑ある地名のあるに徴して、目白は矢張り牧場の跡でみると見たいのである。 要するにこういふ説は江戸の神社佛寺の緑起に有り勝ちなことで、徳川氏の威勢に阿諛(あゆ=おべっか)する人士の手に成つたものであるからして殆んと取るに足らない説である。現に同所は駒込の一部であるところから推して見ても馬に關した名と云ふ方がどうも正當らしく思はれる。』 『・・・一体この五色不動なるものは江戸人が酒落半分に名付けた名称であつて、偶然にも目黒、目白、目赤等の不動が色形に關した名有るを奇貨とし、世人が物好きにも五色に見立てて評判を築き上げたものである。斯様な次第であるからその動機は誠に他愛ないものであると云つて宜いのである。故にその縁起なども傳はつて居ないし何時とはなしに世間からも忘れられてしまった。 ☆☆☆☆☆☆
目青不動 教学院全景 いかにも歴史、民俗学者らしいスパッと切り捨てたような言い分ですが、江戸庶民の寺社参りが定着したと云われる文化頃に、『目黄、目青の両不動は、文化頃には未だ明かに存して居らなかつたのであらう。』との指摘はショックです。 しかし、江戸庶民の多くから信仰され、目青不動以外は、1800年代の江戸切絵図にも載り、当時の江戸市中と武蔵野の結節点に祀られたと思うと、座ってはいられず、何よりも、そんな詮索ばかりしていては、お不動様に対して不謹慎、ともかくお参り優先と、出かけた次第です。(2001.10.18.記) 目青不動から 順序は、南から、目青不動―→目黒不動―→目白不動―→目赤不動―→目黄不動とすることにして、2回に分けて出かけました。次からのページに一寺ずつ紹介します。 なお、目黄不動尊は「最勝寺」(天台宗 江戸川区平井1-25-32)、「永久寺」(天台宗 台東区三ノ輪2-14-5)、「龍岩寺」の三ヵ寺があると云われますが、「永久寺」は工事中で、「龍岩寺」は非公開とのことですので、今回は「最勝寺」に出かけることにしました。
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