目赤不動尊

天台宗  大聖山 東朝院 南谷寺(なんこくじ)(文京区本駒込1−20−20)

目赤不動尊(万行律師が虚空から賜うと伝えられる)
御前立(智證大師作 不動明王)
関東三十六不動霊場第十三番

JR駒込駅下車 徒歩20分 バス「吉祥寺前」下車 徒歩3分
地下鉄南北線「本駒込駅」下車 徒歩3分

本郷通り(岩槻道、日光御成道)に面して、たくさんのお寺の中に南谷寺があります。
南谷寺と目赤不動尊両方の門柱があるのですぐわかります。

 正面に南谷寺本堂

 本堂の右手に不動堂が独立していて、喧噪の本郷通りから一段下がった日だまりにあります。2間四方でしょうか、かっての武蔵野の村々にあった素朴な堂の様式で、いかにも庶民的で、ほっとします。

 扉は開かれていて、ろうそくが灯り、ほのかな光線の中に、厳しい御前立ちの不動尊を拝せます。この気配りに先ず心を打たれます。手前に、「縁起」と「「江戸五色不動尊」(住所や道順を記す)が置かれていて、自由に頂けます。

 参拝をすませて、写真を撮り始めました。後のビルが画面に入らないように、カメラ位置に苦労していると

 『お節介ごとですが、ここにしゃがむとビルがかくれますよ・・・・。江戸切絵図ですか・・・。いやー懐かしいですね。』

 『はい、折角ですので雰囲気だけでもと思って・・・。お好きですか? ときに、これでは、お不動さんの故地は、道坂(どうさか)にあって、鷹匠屋敷と鷹部屋に囲まれて・・・。ここですが、百姓町屋、杉山、「石不動」と書き込みがあります。ここがそうなんでしょうか?』

 『そうなんですね・・・。正確ではないかも知れませんが、昭和60年ぐらいまで、あそこに、日限地蔵尊(ひぎりじぞう)が祀られていまして、それは石仏でした。そのせいかもしれません。
 目赤不動尊は石仏ではないでしょうし、すでに、家光の時代に「道坂」からこちらに移られたと伝えられますから・・・。そこのところはよくわかりません。』
 
 偶然に出会った方との話です。地元の方で、散歩の道すがらとのことでした。

 『あそこは、今は「道坂」と呼んでいますが、もとは「堂坂」と書いたらしいです。坂の頂きに近いところに作られた小さな堂だったんだろうと思います。当寺の伝えでも、不動尊は三代将軍の時代にこちらに移ったとされます。』

 と、ご住職さんのお話です。かっては、どこにあろうと、現在のお不動様はここにいらっしゃるのだから、と、無礼の許しを乞いながら、もう一度、手を合わせました。


縁起

 寺の縁起を要約すれば

 目赤不動尊は、 もとは赤目不動尊と言われていた。 元和年間(1615〜24) 比叡山の南谷(みなみだに)に万行律師がいて、 明王を尊信していた。ある夜、伊勢国(三重県)の赤目山に来たれとの夢見があり、赤目山に登り、 精進を重ねていた時、虚空から御声があって、一寸二部の黄金造りの不動明王像を授けられた。 

 赤目山を下り、比叡山南谷の庵室に安置した。しばらくして「黄土衆生の志願を起こし」関東に向かい、下駒込(いまの動坂)に庵を結んで、万民化益を祈念した。参詣の諸人は奇瑞を得て群参した。

 寛永5年(1628)、 三代将軍家光が鷹狩りの途中、 立ち寄り、「御徳御尋になり由来を言上したところ、府内五不動の因縁を以て赤目を目赤と唱へる様にとの上意が」あり、 現在の地を賜った。

 後に、寺院を建立して、智證大師作 不動明王を御前立に安置した。以後、目赤不動尊として、 「年を超え月を重ねて利益日々に著しく参拝の諸人絶えること」がない。 としています。

 江戸名所図会では

 目赤不動 駒込浅香町にあり。伊州〔伊賀国〕赤目山の住職万行(まんぎょう)和尚(満行、?〜一六四一)、回国のとき供奉せし不動の尊像しばしば霊験あるによつて、その威霊を恐れ、別にいまの像を彫刻してかの像を腹籠(はらごも)りとす。

 すなはち赤目不動と号し、このところに一宇を建立せり、始め千駄木に草庵をむすびて安置ありしを、寛永(1624−44)の頃大樹(将軍家光)御放鷹(ごほうよう)のみぎり、いまのところに地を賜ふ。千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。後年、つひに目黒、目白に対して目赤と改むるとぞ。

 とあります。

 いずれも将軍家光と関連し、最初は「赤目不動」であったのが、「目赤不動」になったとします。そのきっかけは、「府内五不動の因縁を以て」(縁起)、「目黒、目白に対して」(江戸名所図会)として、五色不動設定との関連を示します。堂には、上のような平成7年の大きな奉納額があり、いまもって不動信仰のなみなみならぬものを告げています。

△▽△▽△

 これ以上は欲張りだと云われる程、いろいろと願い事をしていると、近くの寺で仏事でもあったのでしょうか、喪服の一団が来られたので、後ろ髪を引かれる思いで、本郷通りへと戻りました。

 車の激しい本郷通りに出ると、地元の方と親切な住職の話に刺激されて、赤目不動堂の旧地に誘われて、そっちへと歩き始めていました。


御鷹匠屋敷と御鷹部屋に囲まれていた

 赤目不動堂が最初にあったという道坂の旧地は、不忍通りと本郷通りを結ぶ間にあります。田端駅前から真っ直ぐにも来られ、文学散歩で馴染みのあるところです。

 本郷通りを少し南へ下った「駒込一丁目歩道橋」の上から、駒込駅方面を写したものです。左側が本郷通りで右に入る道が道坂への道です。交差する角あたりは、ヤッチャバ(次のページに書きます)のあったところで、話題が豊富の場所です。目赤不動尊は左側道路の左中程に位置します。

「道坂」の坂上で、左側が都立駒込病院、信号を境に下るところです。

 江戸末期の切絵図(嘉永7年=1854東都駒込図)、(安政3年=1856日暮里豊島辺図)では、この辺りは畑地と百姓地で、御鷹匠屋敷と御鷹部屋が大きな面積を占め、赤目不動の旧地はそれらに囲まれています。

石不動のところに不動堂があったとされます。
上の画像は鷹匠屋敷を左に見た道坂上です。
道坂下(不忍通)方面から見ると左手に杉林、右手に鷹部屋があることになります。

 道坂下から見たところです。「道坂」(どうさか)の頂上の手前の平場で、画像右・柳の木と柳の木の間の建物の前が赤目不動の旧地なります。画像では、ドラム缶でも並んでいるように見えますが、現況は駐車場になっています。

 後の大きなビルは都立駒込病院、その前の2階建ての建物は交番です。都立駒込病院が御鷹匠屋敷で、赤目不動堂の一帯が御鷹部屋、画像左側は杉林でした。これらの施設は吉宗の時代にここに置かれたとされます。家光の時代には、施設ではなくて、一日帰りの鷹狩りの場であったようです。赤目不動の置かれたところはこのような雰囲気の場所でした。

道坂と石不動

 「江戸名所図会」は、「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。」
 「御府内備考」 は、「動坂は田畑村へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動の像在り、是目赤不動の旧地なり、よりて不動坂と称すべきを上略せるなりといふ、」

 となっていて、「御府内備考」では「石の不動の像在り、」として、目赤不動の旧地に石の不動像があったことになっています。道坂に置かれた目赤不動は家光の時代に、現在の南谷寺に遷されたとされます。その後、寛政五年(1793)に、「日限地蔵尊」として村人に崇敬された石の地蔵像が置かれたようです。

 家光が南谷寺に遷したあと、ここには、石のお不動様が祀られていたのでしょうか?

これまで、何回も通り過ごしてきた「道坂」ですが
ここに目赤不動尊の堂があったのかと思うと、シュンとします。

地元の人に聞くと、ここにはお地蔵さんがいた。
そのお地蔵さんは近くの「徳源院」さんに移されている、 と強く云われます。

「徳源院」には「日限地蔵」(ひぎりじぞうそん)が祀られていました。その案内板には

 『当院にまつられている「日限地蔵尊」は、寺伝によると寛政五年(1793)に近くの「道坂」に建立されたものである。以来、「道坂の日限り地蔵」として崇敬されてきた。

 願いごとを日を限って祈願すれば、不思議と満願の日に先立ち霊験あらたかなることにより「日限地蔵」といわれてきた。
 昭和六十年(1985)に道坂より当院に移された。

                   文京区教育委員会 平成元年十一月』

 と説明されています。微笑ましくて、切絵図の書き込みはどうでもよくなりました。

次へ