Milford JAPANESE ONLY 

雲 流 れ 、星 降 る 地 に



NZミルフォード見聞記       JAN ’94 M.T


急・・・命運、尽きたか?

序・・・白雲、蒼天にたなびき

            破・・・雷鳴、怒神の如く


12 ルート閉ざされる
1歩進んでは二歩さがり、二歩進んでは三歩退く。そんな事を10分も繰り返していただろうか。ようやく吹き曝しの尾根筋を離れ道は悪くなったが、峠の北斜面に出た。風が幾分緩やかな尾根の裏側である。これから悪路が続くが、風は幾分ましだ。体に少し生気が戻ってきた。しかし、森林限界の上なので風は強い。20分程歩くと「アバランチ・デンジャー(雪崩か、土砂崩れ)」の看板、昨夜来の豪雨でこの先岩壁下の道は雪崩や土砂崩れの恐れがあり、大小無数の滝が出来通行できないと言う。先行したガイドがこれ以上の通行は不能と告げている。通常のルートだと東斜面を歩くことになる。このルートは山肌を縫うように進むので樹木も少なく、距離はロスするが下降が緩やかである。他方、エマージェンシートラックに指定された道路は沢を直接下り、樹木も多く、足元は不安定である。しかし、ブナの森の中故、突然出来た滝の急襲を受けることもなく、樹林帯だけに岩崩れの恐れも少ない。やむを得ず、安全で近道ではあるが、悪路の「エマージェンシー・トラック」をたどる事になった。暫く進むと、ぶなの森に入った。ぶなの森では風は緩やかとなり、雨も木の葉が吸収してくれるので幾分楽である。しかし、足元は石とぶなの根っこできわめて悪い。その後、家族4人は追われるように殆ど休息を取らず、ぶなの森での2時間近い苦闘を続けた。途中、多くの人に追い越され、今夜の宿泊小屋クィンティン小屋に生還したのはパーティの中でも最後尾であった。すぐ、熱いシャワーを浴び本当に生き返った思いがした。ここから、30分ほどの所に、世界有数の高度を持つ滝、サザン・フォールが在るのだが、疲労困憊の一家に取って、この30分の歩行は更なる死の彷徨となる恐れがあるので、滝の見物は断念した。今日一日で、4、500mクラスの滝を何十本見た事か。


13 クィンティン小屋
 この小屋には、滑走路が併設されている。滑走路と云っても100m程の砂利道に過ぎない。砂利道以外、一切航空機用の設備はない。ただ飛んで来て、お客を拾い、遊覧飛行させるだけである。明日は、この小屋からサンド・フライ・ポイント(虻の地点)までの長い長い最後の22kmの散歩である。ガイドのトニー曰く「ツダイ イズ ハード・ダイ。 ツモロウ イズ ロング・ダイ」。まさに、D・ダイではないが「the longest day」になるのは間違いない。


14 岩と水と緑の世界
 ミルフォードを端的に表すならそこは「岩と水と緑のせめぎあう世界」だろう。「岩量」、そんな言葉があるかどうかは知らぬが、圧倒的な存在を主張する岩壁。同行した日本人アルピニストはこの岩塊を前にすれば、日本アルプスなど、児戯の砂山だとさえ言い放った。冷たくそびえ立ち、ほとばしる水をけ散らす彼は雄々しく荘厳である。その岩に戦いを挑む水。年間雨量6000mmを越す母を後ろだてに、水は岩を叩く。ぶなと羊歯の緑は、地を覆う。水を抱く。河に静かに河の命の水を放つ。この三位は互いに競い、譲り、自己の存在を主張する。ここ、ミルフォードはそんな世界でる。


15 最後の行進
 朝、相変わらずの雨である。前日に比べれば幾分量は少ない。小屋を出ようとすると見知らぬ男が声を掛けてきた。この小屋には我々トレッカーとスタッフ以外誰もいないはずなのにどうしてここまで来れたのだろう。「にぃちゃん、1個10NZ$で、ミルフォード・サウンド・ホテルまで。  安いで、安いで。」 要するに、残り22kmを彼に荷物を託せば手ぶらで歩けるという事である。彼は飛行機のパイロットでトレッカーの荷物を一個10NZ$で今夜宿泊するホテルの部屋まで運んでくれる。私は早速、家族4人のザックのうち、2個を彼に託し、妻と倅をてぶらにする事が出来た。最低限必要なものは私のザックにいれ、二人は各々の弁当だけを持つことにした。トレッキングの終点のサンド・フライ・ポイントにはpm4時迄に着かねばならぬ。その時間がミルフォード・サウンド行きの船の最終時刻である。乗り遅れれば、サンド・フライ・ポイントで野宿せねばならい。道は前日の急斜面と異なり、ゆるい下りで30分も歩くと前日の痛みもとれてきた。荷物も軽くなり、長い22kmの出発は順調であった。3時間ほどでモウニング・ティの用意された漁師小屋である。この行程も絶えず河沿いに進み、いつも河の轟音を耳にする。小屋で暖かい飲物を戴き小休止をとる。ここで50NZ$払えば、船で魚釣りをしながら10km下ってくれる。50$で22kmのうち10km歩かなくてよいという寸法だ。しかし、誰も手を上げない。全員22kmを走破する覚悟だ。小屋を出て少し行くと雨が激しくなってきた。漁師小屋では小屋守のご子息か、大きな鱒をり上げていた。途中、マッケイ滝を見物す。


16 嗚呼、ついに完歩
 降りしきる雨の中12時50分、昼食の予定地点アダ湖畔のシェルターに着いた。ここでは、暖かい物は用意されておらず、雨を拭い、靴下を乾いた物と交換した後、冷たいサンドイッチとバナナを水で腹に押し込んだ。さて、出発しようとした途端、雷鳴が轟き、雨が一層激しさを増した。暫く様子を見て雨と雷鳴の収まるのを待ったが、一向収まりそうにない。サンド・フライ・ポイントの最終 船便を考えれば、もうこれ以上ここでぐずぐず出来ない。意を決して、しのつき、雷鳴とどろく中、歩きだした。足は綿のソックスがギシギシ、皮膚をはみ、赤く、腫れ上がっている。あと、4マイル、あと3マイル。マイル表示の木柱が見つからぬ。もうあと2マイルの筈だが、、、、。見えた、、サンド・フライ・ポイントの小屋が見えた。ガラス越しに中を覗くと、先行していた愚娘が座っている。「遅いな、、お父さん。。もう船は出たわよ。安心し、、まだ4時の便があるわ。」  4時だと云うのに薄暗くなった海面をランチは静かにミルフォード・サウンドの埠頭を目指し進んだ。ようやく、長かった33.6マイルの小旅行は終わった。しかし、この後の我が一家に降り懸かる次の地獄は誰が予想し得たであろう。


17 キィウィ・ディナー
 キィウィ・ディナーと云っても鳥料理でもなければ果物のサラダでもない。NZ人の食事の事である。山小屋の時間表を見て驚いた。pm3時ーティ・タイム、6時ーディナー、9時ーサパー、朝6時半ーコーヒーとジュース、朝7時ブレック・ファースト、9時ーティ・タイム。こんな具合いで、四、六時中食べている。その量と種類の多さに圧倒される。ある山小屋の朝の献立を書いてみる。コーヒー、ジュース、オート・ミール、スクランブル・エッグ、丸のトマト、ベーコン、果物7種類、コーン・フレーク、穀類5種類、トースト、ミルク、紅茶、クラッカー他、、、、魚類が全く見られないのが特徴である。


 
18 ミルフォード・サウンド(入江)
 ミルフォード・サウンドに人家はない。ホテルが1軒、ロッジが1軒、それに滑走路、港が在るだけである。恐らく、半径70kmに通常の民家と呼べる物は何もないだろう。観光だけの施設が存在するのみだ。我々の最後の宿が、ミルフォードの豪華ホテルミルフォード・リゾートである。pm6時からトレッカーの完歩記念の表彰式が行われた。一人づつ名前を読み上げられ、ガイドのトニーから完歩証明書を戴く。その後、レストランに場所を代え、ディナー・パーティが行われた。  夕刻からの雨はさらに激しくなり雷鳴が轟だした。ラウンジのガラスの向こうは嵐が吹き荒び北欧の神オーディンの来襲だ。ノルウェーのバイキングと共に生きた神オーディンが捕鯨禁止を怒り、南半球の峡湾地帯のここミルフォードにおのれの存在を主張しているのである。  夜、11時近く、バーでみんなで飲んでいると100人を越す人々が避難してきた。もう一つの宿泊施設トラベロッジにいた人達である。嵐のためトラベロッジが危険になり安全なこのホテルに避難してきたのだ。


19 孤立
 翌朝、嵐は相変わらず続いてる。三日連続である。今日は明後日の帰国のためクィーンズ・タウンまで行かねばならぬ。様子がどうもおかしい。朝のフィヨルド観光のクルージングが中止だと言う。そればかりか、港も、空港も閉鎖、唯一の陸路テアナウへの道も閉鎖されている。嵐と豪雨のため橋が4本流されたとのこと。進退極まった。ホテルばかりか、ここミルフォードサウンドにいる数百人は何処にも行けないのである。  ヘリが一機飛来した。みんなは救出のヘリかと喜んだが、ヘリにはTV局のチームが乗っていて、今回の嵐で被害甚大なここミルフォード・サウンドを取材に訪れたのだ。特にホテルに閉じこめられている我々を取材に来たらしい。TVクルーは、客たちに昨晩の嵐の模様をビデオに撮影した人はいないか聞いてまわっている。もしあれば、借りて、TVで放送しようと言うのだ。誰もいない。帰り際、TVのヘリのパイロットは客達にいった。 「一人310$で此処から出して上げるぜ。クィーンズ・タウンまで乗せていってあげるぜ。5人まで、ただし現金でな」。私は心動いたが、私たちのパスポートはテアナウのトレッキングオフイスの金庫の中だ。どうしてもまずテ・アナウに行かねばならない。このプランは断念した。誰も手を上げなかった。


20 ミルフォード・トラックの自然保護
 ミルフォード・トラックに入れる人は事前に申し込んだ人に限られる。ガイド付きのコースが40名、個人の山歩きが20名ほどで、ガイド付きの場合、半年前に申し込んで置かないと、地元NZ人でも予約が取れないという人気コースだ。山小屋、その他の利用施設も極めてきびしく管理され、個人のトレッカーは我々の利用した施設を一切利用できない。反対に、ガイド付きのトレッカーは個人のトレッカー用の施設を利用できない。個人トレッカー用の小屋を覗いたが、その中は、整然とかたずけられ、まるで借り主を待つアパートのようであった。彼らのマナーのよさには恐れ入る。  このコースには度々渡渉する地点が設定されている。そのため、大小百を越す木橋が設けられている。これらの木橋には、自然を守るためか、一切コンクリートの類は使用されていない。全て、岩石や岩肌に直接、ボルトを打ち込みワイヤーで木橋を固定してある。このようにすれば、耐用年数は少ないが、まめにメンテナンスを行えば、美観上も、環境保全上も、安全性も最良である。また、木橋 を作るための木材は此処の木を切らず全て外から運んだようだ。通行の安全性以外の目的で伐採された木を一本も見なかった。補給は全て(グレード・ハウス小屋を除く)空路に頼っているようだ。NHKの取材チームも、三日間同じ山小屋に閉じこめられ、結局、空路脱出したそうである。  キィウィ人の対日感情は極めてよいといえる。もはや、今時大戦から五十年、多くの人にとって、日本は最高の貿易国である。中学から始まる外国語ではフランス語やドイツ語より日本語を選択する人が多いそうである。日本の観光業者が、この国の秩序を壊さない限り、自然という面からみれば、最良の国だといえる。


21 救出を待つ
 キィウィの辺境の地の豪華ホテルに閉じ込められた40数人は、どの様にして救出を待っていたか。「食っちゃ寝ぇ、食っちゃ寝ぇ」の生活をしていた。日本人を含む全ての人が動揺せず、ドミノに、トランプに、お茶の時間に、優雅に時を過ごしていた。そんな中でたった一人バタバタ外の世界と連絡を取ろうとジタバタしている人がいた。誰あろう「私」である。


 私はテ・アナウのエイジェントに電話を入れた。  「一体、どないなってんねん。ミルフォードは全部閉鎖されて情報がはいらんのやけど何か聞いてるか。なに、テ・アナウもクィーンズ・タウンも空港閉鎖やて。道路もか。一体どないすんねん。わいは、あさっての飛行機であっさての内に大阪にかえらんとあかんのや。なんでてか、今日は九日、戎っさんや。あさっての11日は「残り福」。これを逃したら、また、一年貧乏せなあかんがな。何とかしてぇな。海はどうや。フィヨルドは細くって艦船は今入られへんてか。海は荒れてても、潜水艦やったら通れるやろ。なに、水路が狭いて。時間が掛かりすぎるて。原潜はどうや?ロンギ首相の時アメリカと揉めたってか。そんな事わしゃ知らん。今日中にテ・アナウに入らんと、「戎っさん」に間に合わんのや。そこをなんとして欲しいと君にゆうてるのや。陸路はどや、橋が流されたところは上陸用舟艇で強行突破と云う手はどうや。そんなもん、この国にないてか。ベトナム戦争の時のが残ってるやろ。あの時、確かニュージーランドも参戦したはずや。その時のが残ってるやろ。無かったら、ノルマンディー上陸作戦の時のでもええから寄こして!そや日本大使にコンタクトとって自衛隊のPKOを派遣してもろうてくれ。邦人が危機に遭遇してるんや。石原慎太郎は裕次郎の病気の時、自衛隊のジェット機を私物化して使うたやん。今回は稀に見る天災やで。自衛隊派遣するには日本から遠すぎるて。そしたら、モザンビークにいる自衛隊をこっちへ回してくれ。同じ南半球やないか。空は、どうや。なに、航空機は警察の管理下には入りもっと困っているところが優先やと。僕も「残り福」でこまってんねや。金は出す。何とかしてぇな。」


20 敵前逃亡
 PM 2:10   ホテルのボーイが私のところにやってきた。
ボ「某さんですか。今からヘリが御一家を救出にきます。荷造りをし、2:30 にホテルの玄関でお待ちください。空港に私がお連れします。」
私「私達一家だけですか。テ・アナウのエイジェントに聞いてみないと。」
  私はテ・アナウに電話を掛けた。 エイジェント「実は、こちらで{某さん一家救出委員会}が組織され、ナバロンの嵐でチトー将軍を救出したキース・マロリー大尉が責任者になって某さん一家の救出方法を色々検討しました。ミルフォード・トラックを戻って貰う方法も考えられたのですが、まだクローズされてますし、2日間歩き続けてもらわねばなりません。時間がありません。陸路は仮橋は」何時出来るか判りませんし、結局、ヘリで脱出して貰う事になりました。ただ、少しお金が少々掛かるのですが、900、、、。」 謎「なに、900万$、今そんな金もっとらん。カードでかまへんかったら、何ぼでも切 ったる。早よう、此処から出してくれ。」 エイジェント「カードで結構です。もう、ヘリはここを出ていますので、早く、準備して空港でお待ちください。救出はあなた方一家だけです。」


ミルフォードにいる数百人の中で、私達一家、四人だけがヘリをチャーターし て脱出する事になった。一緒にミルフォード・トラックを苦しみながら歩いた仲 間には何か申し訳ないものが残る。ジクジたるものがある。敵前逃亡のような気 がする。急いで荷造りをし、居合わせたトレッカー仲間に簡単な挨拶をして、空港に向かった。


22 恐怖
 何か嫌な気がした。空港と云っても二階建ての大がかりなトイレのような管制塔らしきものがあるだけで、何もない。ホテルのボーイの案内で、雨の降る中、フェンスの側で傘もささず、家族四人ヘリを待つ。定刻に五分遅れてやってきた。オンボロのヘリがよろよろ着陸した。操縦士がタバコをくわえながら、降りてきて燃料タンクのキャップを開け給油する。おい、危ないがな、タバコの火を消せ、、。ここには管制官もいなければ」整備のチームもいない。ただ、砂利道が滑走路としてあるだけである。後部座席に妻と娘が、前部に操縦士、息子、謎の順で座る。4人乗りのヘリに5人乗っているので倅は私の膝の上だ。安全ベルトが装着できない。おい、パイロット君、これ壊れてるぜ。それに、ガラスに張ってあるこの丸い紙はなんだ。そう、一列に並んで張ってあるこの紙や。まさか、破れたガラスを紙で継ぎ接ぎしてあるんやないやろ。そのとうりやて。なに土佐の最高級の和紙使ってあるし、糊はは不易糊やから安心しぃてか。どこが安心できるのや。このヘリは何時から使うてんのや。朝鮮戦争の生き残りの勇者やから安心せぇて。40年以上昔のんか。もう、僕降りるは。 さぁ、離陸や。しかし、天気悪いな、丸い紙が滲みてきたぜ。あ、あそこが昨日歩いた道や。土砂降りの中でお弁当食べたシェルターが見える。やっぱり、ヘリは楽や。おいおい、パイロットのおっさん、高度上げてくれ、岩壁にぶつかるがな。ア、左により過ぎ、あかんぶつかる。”ギシギシ”。今、確か、橇が岩にぶつかったで。何で、空中回転するんや。なに君のテクニックを見せたいからか。なにも芸せんでえぇから、大人しゅう、穏やかに行こう、な、パイロットの大将。ここは航空ショーの会場やないねんから。なに、僕に無線が入ってるって?   「こちら、テ・アナウの{貴方がた一家救出対策委員会}のキース・マロリー大尉ですが、今、ニュージーランド政府の首相が御一家に遺憾の意を表すため、ミルフォード・サウンドのホテルにヘリで向かっています。どうぞ、ミルフォードに引き返してください。」   「マロニーかハルサメか知らんが、引き返せて。誰が命令しても僕は引き返さんぞ。もう、こんなヘリはコリゴリや。首相にゆうておいてくれ。堺へ来たら、電話をくれとな。華旦那さんの案内でもんじゅ焼き食わしてあげる。さあ、運転手君、機首を上げとくれ。南に向かってナ。」


23 勇者の帰還
 二日前風に吹き飛ばされそうになり、あれほど苦労したマッキノン峠が目の下に見える。水しぶきを上げるクリントン河が白い龍の如く谷間を流れている。左右には氷河を戴いた無名のピークが並ぶ。苦労と感激が胸をよぎる。草原の中の小屋、グレード・ハウスが見える。マッキノン峠を越した途端、天候が回復した。前方にテ・アナウ湖が輝いている。もはや、湖面上空だ。娘が「あ、虹よ」と叫んだ。ヘリの左下方に丸く虹が見える。虹は300度近くの円に近いほど大きい。「虹の彼方に」我が家のこれからの幸せがあるのだろうか。







壁紙の写真は100年前のミルフォード開拓時の風景
映画「ピアノ・レッスン」参照




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