手のひら 3
・3・

 
 鉄翁城の中で、甘寧の存在は浮いていた。武将が主を見捨てて何人もの間を彷徨ったり、敵だった男が投降して新たに味方に加わることは、この戦国の世の習いの筈である。また東呉は、水賊であった周泰が孫権の護衛を務める例の通り、出自を無視したざっくばらんな気風の筈である。だが、「凌繰を殺した」というその一点のためか、それとも「錦帆賊」というのがでかすぎるのか、甘寧は未だに周り中から白い目で見られていた。
 そんな視線には馴れているのだろう。甘寧は相変わらず人を食ったような態度で、それが性に合う何人かの人間とは親しく口をきいているようだが、それ以外の人間とは冷たい関係を続けていた。

「興覇」

 一人で飯でも食べようと厨に向かう甘寧を、昨日の今日だというのに、呂蒙が笑顔で呼び止めた。

「……何の用だ?」
「一緒にご飯食べようよ」
「テメェの頭は南瓜か。昨日言ったことをもう忘れてるのか?」
「どうせ一日城にはいないといけないんだし、お昼だって結局食べないといけないんだから、その間だけでも一緒にいてよ。その位なら良いでしょ?」

 昨日自分で「しつこい」と言っていたが、どうやら本当にこの男はしつこいらしい。「断る」と置き去りにしようとした甘寧の横に貼り付いて、結局呂蒙は振り払っても振り払っても甘寧の脇から離れなかった。
 もちろん食事中も、甘寧の態度を一向に気にする様子はない。イライラと握った手の親指だけをせわしなく動かしている甘寧の様子を気にした他の同僚に「こっちに来て一緒に食べないか」と誘われても、呂蒙は相変わらずの笑顔で断り、甘寧をじっと見つめていた。

 根比べだな……。

 何故こうまでしてこの男は自分のそばに貼り付いていたいのか。好きな相手には貼り付いていたい、とでも言うつもりだろうか。だったら何故その対象が自分なのか。蘇飛に引き合わされたとき、本当に会談の時間は短かった。たったあれだけの時間に呂蒙が自分の何を好きになるというのか。
 もし本当にあれだけの時間で好きになったのだとしたら、それはやっぱりこの細くて好色そうな体とか、八〇〇人もの手下をまとめ上げてきた「錦帆賊の頭」という属性が好きなんであって、甘寧の中身を好きになっているとは思えない。

 とにかく今分かっていることは、ここで退いたら負けだということだけだった。

 それからの根比べは、端で見ていて疲れるほどだった。端で見ていて疲れるくらいなのだから、当人達が疲れていることは間違いない。呂蒙は相変わらずのんびりした顔をしているが、少なくとも甘寧は精神的にかなり参っていた。
 この一月というもの、毎日毎日「『好き』ってなんだ」とか、「こいつは俺の何がそんなに好きなんだ」とか、「もういい加減諦めたって良いじゃないか」とか、「こいつはどこかおかしいんじゃないか」とか、そんな事ばかり考えている。家の者達は皆一様に甘寧の様子を気遣って、「呉の水は頭に合ってないんだ」とか、「やっぱり仕官なんかやめてまた水賊に戻りましょうよ」とか、「何でその状態で毎日ちゃんと出仕してるんですか」とか口々に言ってくるのだが、それでも甘寧は仕官を取り消すつもりも、呉から去るつもりもなかった。

 意地、だろうか。そう、きっと意地だろう。ここでしっぽを巻いて逃げるような真似はしたくない。
 意地で気力を奮い立たせて一ヶ月。多分、甘寧はもう限界に来ていたのだろう。

「興覇、帰りに俺のうちに少し寄ってかない?」

 呂蒙のそんな呼びかけに、その日、甘寧はおとなしくついていった。



 呂蒙の室の中はやたらと書物が積み上がっていて、座る場所もないほどだった。呂蒙は慌ててあちこちを片している。
「ごめん、興覇。適当に除けて、適当に座って」
「……へぇ、お前こんなの読んでんだ」
 木簡や巻物を開いてみると、どうやら重要な書類ではなく、そこにあるのは昔馴染んだ書物の山だった。
「あぁ、興覇は学問を修めてるんだもんね。俺はダメ。昔何にもしなかったから、最近付け焼き刃で勉強してるんだけどさ。なかなか身につかなくて」
「……別に修めるって程学問した覚えはないけどな」
 甘寧は懐かしげに書物を広げていたが、呂蒙がただ積み上げていく様子を見て、「お前、少し分類しながら積んでかないと、後が大変だぞ」と口を挟んだ。
「え? 分類って?」
「だからジャンルごとに分けるとか、時代ごとに分けるとかしとかないと、後で必要な時にすぐ探せないだろ」
「……あぁそうか……」
「……お前、結構いい加減だな。学問が身につかないのそのせいじゃねぇのか」
 ほら貸してみろと甘寧が呂蒙の手から書物を取り上げる。馴れた手つきで中身を確認しながら書物の山を作り替えていく様子を、呂蒙は少し驚いたように、だがひどく嬉しそうに見つめていた。

 全ての山を作り替えるのには、それでも結構な時間がかかった。途中からは要領を覚えた呂蒙も手伝ったのだが、それでも量が量だけに、終わる頃には二人共軽く汗ばんでいた。
「やっと終わったぁ……。疲れたね、興覇、何か飲む?」
「あぁ、冷たい物あるか?」
「酒で良い?」
「おう」
 呂蒙が出ていってしまうと、甘寧は書物の一つを手にとってそれを眺めた。書物は懐かしい孫子の兵法だった。昔はこいつが好きでよく読んだっけ……。
 手元が暗いので、勝手にもう一つ灯りをつける。そういえば主公は孫氏の血を引くとかいう噂だが、本当だかどうか……。

 どのくらいの時間が経ったのか。つい読み耽っていたらしく、視界の縁を灯りが掠めるのを見て、甘寧は驚いて顔を上げた。
「読んでるところ、ごめんね」
「いや……。あぁ、酒だけで良かったのに」
 呂蒙に従えられた家人の手には、副菜の鉢が並ぶ盆が乗っていた。
「お酒だけじゃ楽しくないよ。呑も」
「あぁ…」
 向かいあって座るものだとばかり思っていた呂蒙は、しかし甘寧の隣に腰を下ろして、杯に酒を注いだ。

 呂蒙の、体温を感じる……。

 トクン。

 甘寧は自分の心臓が大きく打つのを感じた。

「こないだは、ごめんね」
「…こないだって……?」
「分かってるくせに、謝らせてもくれないのか?」 
 甘寧は小さく唇を噛んで、注がれた酒を一気に呷った。思ったよりも甘い酒だ。
 甘寧の聞く耳を持たない様子に諦めたのだろう、呂蒙は構わず話を続けることにした。

「興覇、一生懸命俺とのこと前向きに考えようとしてくれてたのに、『俺のこと嫌いなのか』とか訊いちゃって、俺、本当に無神経だったと思ってる」
 呂蒙が口にした謝罪は、甘寧が予想していたものとはあまりにも違うもので、一瞬甘寧は何を謝られているのか分からなかった。
「……何言ってんだ? 的外れにも程がないか?」
「なんで?」
「……何でってお前……」
「じゃあどうして興覇はあの時怒ったの? それまではどんなにイライラしても一生懸命我慢してくれれたのに」

 ……なんだって?

「子明、お前俺がイライラしてるって知ってて、それでもあの調子を変えなかったのか?」
「うん。だって興覇、俺にキスさせてくれてたもん」
「……悪い、俺にはお前の話がどこにどう飛んでるのかさっぱり分からんのだが?」
 悪いと言いながら、甘寧の口調は嫌みを含んでいる。
 だが呂蒙は、当たり前のことを子供にでも諭すときのように、優しく、噛んで含めるように興覇に言った。

「だって興覇、キスすると子供が出来るからって、最初の時すごいキスするの嫌がったでしょ? でもあの時、結局俺にキスさせてくれたし、今だってさせてくれてるよね。それって、俺とだったら子供出来ても良いってことでしょう?」

 キスのことを持ち出されると弱い。それは自分でも何故呂蒙に許してしまうのか分からない点だけに、そこを点かれると困ってしまうのだ。
 役人だった時はさすがに求められたのは体だけだったから、キスなんてしようとする奴はいなかった。その後関係を結んだ奴らがキスをしようとすると、甘寧はいつも「キスをすると子供が出来るから」と断ることにしていた。
 そう言うと必ず、どの男も鼻で嗤った。

 でも、呂蒙だけは違った。

 甘寧はどう返していいのか分からなくて、焦れったい気持ちで言葉を探した。

「……それは……」

 どうして自分は呂蒙にキスをさせるのか。それはこの一月、甘寧がくり返し考えてきたことの一つだった。

「子供出来ても良いんでしょ? それにこないだ、子供出来たら俺が一緒に育てるって約束したじゃん。興覇、断らなかったよね?」

 そう、あの時呂蒙は「子供が出来たら俺が一緒に育てるよ」と言った。

 そう言ってくれたのは、呂蒙だけだった……。

「……でもそれは……」
「だから興覇、興覇って本当は俺のこと、好きなんだよ」

 ―――― 好き? ――――

 甘寧は驚いて呂蒙を見た。
 好きというのがどういう感情なのか、甘寧は知らない。自分がこの男を好きだと言われても、それが本当なのかどうかも分からないのに、何故この男は甘寧にも分からない甘寧自身のことを知ったように決めつけるのか。

「だってお前この間、お前のこと嫌いなのかって訊いたじゃないか」
「うん。だって本当は興覇俺のこと好きなのに、あんまり緊張しすぎて嫌いだって思っちゃってるかもしれないって思ったからさ。興覇にとって簡単な問題じゃないんだから、興覇が気づいてくれるまで待とうって決めてたのに、俺もこらえ性が無くてダメだよね、ホント」
「緊張ってなんだよっ。 俺緊張なんて……」

 言い返した甘寧の左胸を、呂蒙はそっと抑えた。いきなり体に触られて、甘寧は思わず身を強張らせた。
「ほら、興覇、すごい息が浅いよね。いつも俺とこういう話したりキスするとき、興覇息が浅くなってドキドキしてるんだ。ドキドキするだけなら、『俺のこと好きなのかな』って喜んでりゃいいんだけど、こんなに息苦しくなるほど呼吸浅くしてさ。知ってる? よく興覇、間接が白くなるほど指握りしめたり、皮が剥けるくらい親指の爪で人差し指をこすってるんだよ。俺ひどい事してるなって思ったりもしたんだけど……」
   
 「違う…俺は別に……」
 
 顎が上がる。呼吸が途切れそうになる。途切れそうになった呼吸に気がつくと、そんなんじゃないと否定しようとして、ますます呼吸が乱れていく。
 背中に、呂蒙の腕が回った。上下にそっと撫でてくれる腕が気持ち良い……。

「ゆっくり呼吸して、興覇。大丈夫だから。俺は興覇を本当に好きだから。絶対興覇を裏切ったりしないから」

 そんな言葉は知らない。絶対裏切らない人間が、いるはずがない。どうしてそんな事が言えるんだ? 俺がどんな人間なのか知らないくせに……!

「興覇が俺にキスさせてくれて、すごく嬉しかった。だって興覇、好きな人の子供じゃないと、子供なんて作れないでしょ? でも俺の子供なら作っても良いって思ってくれたんだよね? 俺のこと好きだから、一緒に子供育てようって思ってくれたんだよね? だから俺、本当に嬉しかった」

 呂蒙の声が優しい。

 俺のことなんか知らないくせに。本当の俺のことなんか、何にも知らないくせに。

 なのに何でこんなにこの男の声が心地良い?
 
 甘寧はそれを振り払おうと頭を振った。
「俺はお前がどうして俺を好きになれるのか分からない……! お前は俺の何を知ってるって言うんだ! 裏切らないなんて、本当の俺がどんな奴なのかも知らないで、どうしてそんな事が言えるんだ!!」

 涙こそ出ていないものの、甘寧の声は激しく震えていた。
 甘寧には、呂蒙の優しい声が怖かった。
 絶対に裏切らないと、その言葉を信じて裏切られる時が怖かった。

 この体はただの玩具なのだ。弄ぶために作られた体。愛されるために作られたわけじゃない……!!

「阿寧」

 甘寧の頬にそっと呂蒙の手が触れた。
 甘寧は、ゆっくりと、ぎこちなく呂蒙を見上げた。

 阿寧。

 それはまだ自分が何も知らなかった頃、貧しい寒村で大勢いる兄弟達と無邪気に転げ回っていた頃に、いつも呼ばれていた名前だった。
 大きくて頼もしかった父が働きすぎて死ぬことも、大好きだった二姐が商家の妾に売られていくことも知らなかった頃の、貧しいのが当たり前で、その事に何の疑問も持たなかった頃の、誰を恨むこともなく、ましてやこの体が男の慰みになるなどと思うことすらなかった頃の甘寧は、誰にも「阿寧」と呼ばれて愛されていた。

 忘れていたわけではない。ただ思い出そうとすると苦しくて、思い出せなかっただけだ。

「阿寧。俺が知っている阿寧は、呉に投降すれば自分がどんな思いをするのかなんて考えるより前に、自分が殺した男の息子が自分を見て、どんな思いをするのかって事を心配するような、優しい男だよ」
 呂蒙の指が、優しく甘寧の頬を辿る。手のひら全体で頬を包まれ、そっと撫でられる。
「臨江の役所にいた頃、本当は誰よりも強かったのに、家族のために男達に体を任せていたんでしょう? もしみんなが言ってるように冷血で残酷な男なら家族を犠牲にしただろうに、阿寧はそうはしなかった。 俺が知ってるのは、そんな優しい男だよ」
「違う…! 俺は…俺は男達に……俺は……!!」

 そんな言葉が欲しかった訳じゃない。優しい言葉が欲しくて、呂蒙を困らせている訳じゃない。
 こいつは思い違いをしている。こいつは勝手に俺を自分好みの「優しくて可哀相な甘寧」にしたがっているだけだ。本当の俺を知ったら、絶対にこんな風には言えないはずだ。

 優しくされるのはまっぴらだ。どうせいつか俺から離れていくくせに、勝手に俺の中に入り込んで来ないでくれ……!!
 
 甘寧は呂蒙の手を振り払った。呂蒙は相変わらず自分を慈しむように見つめている。その目に映る「甘寧」は、きっと本当の俺じゃない!!

「俺はお前が思っているような男じゃない!! お前は見たい物しか見ていないから、だからそんな見当違いの事を言うんだ! 俺は被害者だったわけじゃない! あいつらが俺を抱いたのは、俺が…、俺が……!!」

 ヒステリックに叫ぶ甘寧を、呂蒙は優しく、まるで子供を宥めるように抱きしめて、背中をそっとさすった。

 呂蒙の腕から逃れようとしたのに、抱きしめられた腕に縋ってしまうのは何故だろう……。

「俺は……」
 呂蒙の腕が気持ち良い。

 この腕を気持ち良いと思っちゃいけないのに……!

「阿寧、何度も『どうして俺を抱かないんだ』って言ったよね? 阿寧が『男無しではいられない体なんだ』って言うたびに、阿寧って本当は男に抱かれるの、嫌いなんじゃないかなって思うんだ。阿寧がそんな体になっちゃったのは、阿寧が家族を守った代償だよ。もっと誇りに思ってもいいよ」
「違う! 俺は本当に……」
「阿寧が男が欲しいなら、いくらでも抱いてあげる。でもそれは、阿寧を愛してるから抱くんだよ。阿寧はもう、誰にも守ってもらえなかった可哀相な子供じゃないんだ。これからは俺が守ってあげる。俺は阿寧を好きだから、だから阿寧にはもう絶対、悲しい思いなんてさせないから。だから阿寧、阿寧にも俺を好きになって欲しい。ほんの少しずつでも良いから、俺のこと信じて欲しい。阿寧がどんな阿寧でも、俺は阿寧が好きだ。俺は絶対に、阿寧の気持ちを裏切ったりしない」

 頬に、額に、唇に、優しいキスが降ってくる。

 それは心の奥底で、甘寧自身にすら知られないように、小さくなって隠れていた本当の甘寧の固い殻を破り、そっと掬いだしてくれる。

 甘寧は、まるでむずがる子供のように、呂蒙の腕に顔を押しつけた。呂蒙の手のひらが、甘寧の頬を追いかけて、包み込む。
 逃げようと思った。その手から逃れて、呂蒙の気持ちを拒もうと。

 しかし、甘寧の心の中に何かが広がって、甘寧を包み込み、そのせいで甘寧は動くことが出来なかった。

 それは、呂蒙の声と同じように、優しい形をしていた。
 呂蒙の手のひらと同じように、暖かいぬくもりを持っていた。

 目眩がする。甘寧は、呂蒙にしがみついた。

 目眩がする。

 目眩がする。

 心の中の何かが溢れ出し、出口を探し求めているかのように、甘寧の体中を翻弄する。

 苦しげに甘寧は口を開いた。声が震えている。頭の中が白い。甘寧は、その声を出しているのが誰なのか、自分でも分からなかった。

「俺が……俺がずっと、俺がずっと積み上げてきたものを、そんな言葉なんかで簡単に、簡単に溶かしたりしないでくれ……。俺が今まで……俺が…どんな気持ちで……、そんな簡単に俺を……俺……」

 泣きじゃくる甘寧を、呂蒙は優しく抱きしめていた。いつまでも、いつまでも、甘寧の気持ちが落ち着くまで、呂蒙はただ甘寧を抱いていてくれた。

 呂蒙の胸は大きくて頼もしく、甘寧をすっぽりと包むように抱きしめてくれる。

 ――――甘寧が涙を流したのは、故郷でみんなに「阿寧」と呼ばれていた幸せな子供時代以来、初めてのことだった――――。


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