手のひら 2
・2・

 
 京口の街は坂が多い。ゆっくりと下り坂を長江に向かって歩きながら、呂蒙は甘寧に子供の頃のことを聞き出していた。
「じゃあ興覇って兄弟多いんだね」
「あぁ。貧乏子沢山って奴?」
「へぇ。だから興覇、子供好きそうなんだ」
「はぁっ…?」
 甘寧は呆れて呂蒙の顔を見た。何を言ってやがるんだ……。
「なんで? 嫌い?」
「いや、別に嫌いじゃねぇけどよ……」
「じゃあ何でそんな顔するの?」
 呂蒙は不思議そうに、だが笑いながら甘寧を見た。不思議なのは甘寧の方だ。俺が子供好きそうに見える? 俺が?

「そんなに兄弟多いと、ケンカとかしなかった?」
「んなの日常茶飯よ。まぁでも、うちは大哥がよく出来てるからな」
「へぇ。興覇、お兄ちゃん子だったんだ」
「別にそんなんじゃねぇよ……。ただ親父がさっさとくたばったから、大哥が家長だったってだけだ」
「ふぅん」
呂蒙は甘寧の話を引き出しながら、嬉しそうに笑っていた。何がそんなに嬉しいのかよく分からないが、何となくその顔を見ていると、もっと何か話さないといけない気分にさせられる。言葉が途切れて沈黙が流れると、なんだか妙に不安になった。黙っている間にも呂蒙は笑顔を崩さずに、ずっと甘寧を見ていた。見られていることが苦痛なのか、その笑顔が苦痛なのかは分から

 苦痛……?

 苦痛というのとは少し違うのかもしれない。落ち着かない……そう、落ち着かないのだ。身の置き所がないような気がする。だから甘寧は、訊かれたことにはさっさと答えて間を作らないようにした。
 最初に昔の話を聞かせているせいか、普段は人に訊かれてもはぐらかしてきた子供の頃の話をするのに、甘寧は大した抵抗を感じなかった。

 暖かくて優しくて、そして悲しかった子供の頃。貧しくて、いつもこんな生活から早く抜け出すのだと歯を食いしばっていた頃。

 思えば、あの頃が一番幸せだったのかもしれない。

「ね、興覇」
「ん?」
 少しぼんやりとしていたらしい甘寧に、呂蒙が照れたように微笑みながら尋ねた。
「手、握っても良い?」
「えっ…」
 甘寧は呂蒙の顔を見て、それから自分の手を見た。
「良いけど、何で……」
「だって、手ぇ握って歩きたいんだもん」
「……別にそんな事いちいち聞かなくたって良いぜ。触りたきゃ触れよ」
「でも、触られたらイヤじゃない?」
「何でっ」
 思わず甘寧の口調がきつくなった。
 
 何でこの俺が、手を触られるぐらいでイヤだなんて思うんだ。だいたい、何でこいつはいちいちこう俺に許可を求めて来るんだ。触りたきゃ触ればいいじゃねぇか。

「……怒ってる?」
「腹が立つんだよ。 いちいち俺に訊くな!」
「だって、興覇がイヤなことはしたくないでしょ? 俺、興覇がどうされるとイヤなのか、知らないもの」
「機嫌伺われてるみたいでイヤなんだよ!」
 怒鳴ってから、甘寧は気まずい思いで下を向いた。どうして自分でもこんなに腹が立つのかが分からない。
 呂蒙は優しい。いつでも自分のことを真っ先に考えてくれる。

 ……それが、腹立だしいのだ……。 

「ごめん」
 下を向いた甘寧に、呂蒙が小さく謝った。
「お前が悪くないのに謝るな」
「でも俺は興覇を不快にしたんだよ?」
「俺はヒステリーを起こす。いちいち本気にして謝るな」
「……興覇」
「謝るな。いいな?」
 地面を睨むようにそう告げると、呂蒙は分かったと頷いた。頷いて、それから甘寧の手を握った。

 甘寧はその手を振り払わなかった。

 呂蒙の手は温かく、しっとりと汗ばんでいた。大きな手のひらだ。甘寧の手のひら全体を包み込むように、力強く握りしめている。

 胸がざわついて、呼吸が速くなる。

 甘寧は、ただ手を握られているだけなのに、まるで抱きしめられているような錯覚を覚えた。甘寧を抱きしめ、そしてキスする時の呂蒙は、いつもこんな風に力強かった。曖昧な気持ちを決して許さない、その力強さ。

 この男は、あまりにも俺と違いすぎる……。

「興覇」
「…なんだ」
「興覇、俺のこと、嫌い?」

 呂蒙はまっすぐに甘寧を見つめていた。優しい、それでもどこか寂しそうな瞳だった。

 嫌い……?

 「好き」という感情が分からない甘寧は、同じように「嫌い」という感情も分からなかった。「憎い」ならば分かる。でもきっと、それとは違う。「頭にくる」とか「腹が立つ」とか、そういう気持ちとも多分違うものなのだろう……。

「興覇?」
「……嫌いって、どういうのかよく分かんねぇ……」
「そっか…」

 それでも、呂蒙は甘寧の手を離さなかった。

「じゃあ、どういうのが好きで、どういうのが嫌いなのか、一緒に考えてみようか」
「……あぁ」
 坂を下りきると、少し平地が続いて、また上り坂になった。その坂を上らずに、二人は長江の川辺に降りる土手を選んだ。
「興覇、大哥のこと、好きだよね?」
「家族はみんな大切だ。でもお前が言ってる好きってのは、家族を好きなのとは違うんだろ?」
「あはは、そうだね。うん、全然違う『好き』だ」
 本当は、愛してるって事なんだけど、と呂蒙は笑った。
「じゃあいろいろ質問するからさ。簡単でいいから答えてよ」
「…あぁ」

 ばかばかしいと思いながら、どうして呂蒙の問いに素直に答えようとしているのか。甘寧には、自分で自分の気持ちがよく分からなかった。ただ、とにかく何かを話していないと、胸がザワザワとしてやっていられないような気がした。

「俺はいっつも興覇のこと考えてるんだけど、興覇は俺のこと考える?」
「……何考えるんだよ」
「例えば、そうだなぁ……、興覇今何考えてるかなぁ、とか、屋敷は気に入ってもらえたかなぁ、とか、俺のこと少しは好きになってくれたかなぁ、とか」
「……そんな事ぁ考えないけど……」
「じゃあどんなことなら考える?」
 呂蒙は少しでも考えてくれてる?と楽しそうに笑うが、甘寧はまたその笑顔に胸が痛んだ。

 俺はお前が思うようなことは考えないのに……。お前が期待している様なことを、俺は何一つ叶えてやることなんかできないのに……。

 それでも、お前は俺のことが「好き」なんだろうか……。

「興覇?」
「あぁ……。そうだな、何でお前は俺のことなんか好きなんだろう、とか、好きになるってどういうことだろう、とか、好きになったらどうなるってんだろう、とかなら考える」
 その答えに、呂蒙は少し奇妙な顔をした。
 ほら見ろ。俺がお前の思う通りのことなんか、考えてる訳ないだろう。俺はお前とは違う人種の人間なのだから。

 なのにどうしてこいつは俺と一緒に居たがるんだろう?

「興覇……」
「ん?」
 甘寧は出来るだけ普通に返事をしたが、もうとっととここから帰ってしまいたかった。どうせ一緒にいたって二人とも良い気分ではないのだ。甘寧はどうしたって居心地が悪いし、呂蒙はきっと一緒にいればいるだけ自分に失望するだろう。

「どうして『俺のことなんか』って言うの……?」

「え?」
 呂蒙の言葉は甘寧の不意をついていて、甘寧の返事は間抜けな物になった。
「俺の好きな人のこと、『なんか』って言うな」
 呂蒙の顔は、少し怒っているようだった。何で怒るんだろう、と思うと、今度は甘寧の腹が立ってきた。
「自分のことなんて言ったって俺の勝手だろ! 何でお前が偉そうに怒るんだよ!」
「自分の好きな人のことそんな風に言われれば怒って当然だろ!」
「いちいち俺に指図するな! だいたいお前が変なんだよ! 俺のことなんか勝手に好きになって勝手に会いたいとか何とか言って、会えば会ったで抱きもしないくせに!」
「『なんか』って言うなって言っただろ!」
 呂蒙は言うなり甘寧の腕を掴んだが、甘寧はそれを振り払った。

 肋骨の間が痛むような気がした。胸の間がザワザワと落ち着かなく、それは息苦しく感じるほどだった。

「俺はやっぱりお前とはつきあえないし、お前のことなんか好きになれない!! お前のことこんなに考えてこんなにお互い不愉快な思いして、その上あれこれ指図までされて、なんで一緒になんて居ないといけないんだ!!」
「俺が嫌いなのか」
「お前だって俺のこと、好きかどうかなんて分からないだろ!! 俺がやることなすこと癇に障ってるくせに! お前の言うことは綺麗事ばっかりで、気にくわねぇんだよ!!」

 いつも優しい顔しかみせない呂蒙が、ひどく厳しい顔をしていた。本当はこういう顔をする男なんだなと思うと、甘寧はほんの少しだけ安心した。人間のマイナスの部分に安心する自分が、こんな真っ直ぐな男とうまくいく筈がないのだ。

 その時。

 甘寧はいきなり呂蒙に胸ぐらを掴まれた。並んで立つと呂蒙は甘寧より1寸半ほど大きい。上向きに引き寄せられた顔の前で、呂蒙が自分を睨みつけ、見下ろしていた。
「俺はお前を好きだって、いつも言ってるだろう」
「そんなの信じられない」
「どうして信じられないんだっ」
「お前が言ってる好きって何なんだ!? 俺と一緒にいて、俺に指図して、俺をお前好みに変えたいのか!? 一緒にいたいってしょっちゅう言ってるけど、でも一緒にいたってお前何にもしないじゃないか!! お前は俺に何をさせたいんだよ!!!」
 声が震えていた。自分でも自分が混乱しているのが分かる。もう何も考えたくなかった。このままこの男が呆れてどこかに行ってしまえば、自分は何も考えずに済むのだ。
 しかし、呂蒙は辛抱強く甘寧の息が整うのを待っていた。相変わらず上から睨み付けるようにしているが、それでも甘寧を残して消え去る気配はなかった。

 そうしてどれだけ時間が経ったのか。甘寧が落ち着いたように深く息を吐くと、やっと呂蒙は口を開いた。
「俺は興覇に、興覇のことを好きになって欲しい。俺が興覇に変わって欲しいところは、興覇が自分を好きでないところだけだよ。俺の好きな人のことを興覇には好きになって欲しいし、第一自分を好きじゃないなんて悲しすぎるよ。『俺なんか』なんて言ってたら、興覇はいつまで経っても自分のことをその程度にしか考えられないんだよ」
 胸ぐらを掴み上げたままだというのに、呂蒙の声は落ち着いた、いつも通りの声だった。
「俺みたいに自分勝手な人間に、何言ってんだ」
 呂蒙につられて、甘寧の声も小さくなったが、それでも声に含まれた嫌悪感は隠しようもない。
「ほら。そんな風に言うのが、興覇が自分のことを好きでない証拠だよ。俺は興覇が好きだ。すごくすごく好きだ。俺、興覇には幸せになって欲しいし、できるんだったら俺が幸せにしたいんだ」
「……綺麗事ばっかりだ」
 気がつくと、呂蒙の左腕は胸元から腰に回っていた。右手で優しく抱きすくめられる。

 こうして小さな子供のようにあやされることが、気持ち良いような気もするし、居心地が悪いような気もする。こんな時どうしていれば良いのか、甘寧にはまるで分からなかった。

「綺麗事でも良いよ。興覇が自分を好きになってくれるなら、俺がどう思われても良い」
「じゃあ俺がお前を好きにならなくても良いってことだな」
「どうしても俺を好きになれないなら仕方がないよね」
 意地悪く言った甘寧に、呂蒙は笑って答えた。
「でも俺は、興覇が俺を好きになってくれるように頑張るけどさ。興覇が俺のこと嫌いって言っても毎日興覇のとこに押し掛けて、俺を好きになってくれるように努力する。だって俺、興覇のことがすごく好きだし、俺が努力するのは俺の自由だもんね」
 俺、結構しつこいよと笑う呂蒙に、甘寧は苛立った。

 こいつがそうまでして手に入れたい「甘寧」は、きっとこいつの頭の中にいる「甘寧」で、俺じゃない。

「……もう帰っても良いか……?」
「興覇?」
 抱き占めてくれる甘い腕が、甘寧には辛かった。だが呂蒙の腕から逃げ出そうにも、呂蒙はしっかりと甘寧を抱きしめたまま、その腕を緩めようとはしない。
「放せよ」
「どうして?」
「お前と一緒にいたくない。これ以上お前の勝手には付き合えねぇよ」
「……興覇」
「俺のイヤなことはしないんだろう? だったらとっとと俺を帰してくれ」
 情けない顔をしている呂蒙に、甘寧はわざと冷たい顔を見せて笑ってみせた。
「俺を抱く勇気もないような甲斐性のない男に、これ以上時間割けるかっつうの。最初の時に言っただろ? 俺は男がいないとダメなんだって。じゃ。お前は家でマスでもかいてな」
「興覇!」 

 呂蒙の腕を振りきって背を向ける。呂蒙が動く気配はなかったが、背中には痛いほど視線が突き刺さっていた。

 今の自分を呂蒙がどう思ったろうかと考えている自分に気づいて、甘寧は自嘲気味な笑みをこぼした。
 あいつがどう思おうが俺の知ったことじゃない。とにかく、もうこんな風に自分の心を誰かに掻き回されるのだけは、勘弁して欲しかった……。


手のひら ・2・


「小説部屋」
へ戻る

「泡沫の世界」
トップへ戻る

「新月の遠吠え」
メニューへ戻る