言焦の風 1 2 3 4 |
ギョウまでの道のりは、威容を示すために粛々と進ませた。大所帯となったので、自然と幕舎も別にされた。夏侯惇は三人の従弟の内、一番幼い従弟を従卒として自分の手元に置いて、夏侯淵と距離を取ろうした。 「兄上達から、お前ばかり将軍の元に居てずるいと言われました」 まだ十二歳になったばかりの従弟は、従卒の恰好をしてもなんだか人形のようだった。 「俺の部隊が一番きついんだ。お前はすぐに、俺の部隊に放り込まれた事が失敗だったと気付くだろうよ」 夏侯惇が笑ってみせると、幼い従弟はくすぐったそうに笑った。 行軍中は、夏侯淵と轡を並べて馬を走らせたが、二人とも言葉数が少なく、気まずさは否めなかった。お互いに、ギョウに着くまでには何とか普通に話ができるようにしておかなければと、心中では距離を計り会っていた。曹操を始め、目が三つも四つも付いてるような連中が、あそこには山のようにいるのだ。 「……お前、あの台詞はさすがに聞き捨てならないぞ。この俺を前にして、出奔する話などをよくしたな。……本気でないとは分かっているが、上に伝われば断罪されても仕方がないぞ」 馬の蹄にかき消されそうな囁きで、夏侯惇がそっと呟いた。前を向いたまま、夏侯淵もそれに答える。 「……本気だよ。今でもあの気持ちは本気だ。……ただ、さすがにちょっと……表現が過ぎていたのは反省しています。すいませんでした」 「……本気で出奔するつもりではないだろう?」 「……うん。俺も、元譲のために国や主公を投げ出しても良いとは、さすがに思っていません……」 「……それなら良い」 二人で前を見ながら、速歩で馬を走らせる。沿道で見上げる子供達に時々手を振ってやると、子供達は顔を真っ赤にして、暫く走って馬についてきた。 「……でも、あの気持ちは本当だ。言い方は間違っていたけど、気持ちは嘘じゃない」 馬の蹄を聞きながら、夏侯惇は夏侯淵を見ずに、ただ「知っている」と答えて、馬の速度を僅かに上げた。 ギョウの街を見たとき、新しく付き従ってきた新兵達はおぉと感嘆の声を上げた。元々袁紹が本拠としていた街であり、許昌の実務のみで構築された街から、落としたばかりのこのギョウに本拠を移して日が浅い。あの貴族趣味な男が築いた街だけに、ギョウはいかにも華やかな街だった。 曹操は一行を出迎え、夏侯惇と夏侯淵の労を篤く労い、新しく加わった男達を見渡した。ここに来るまでの間に鍛えられた男達は、立派に「新兵」と呼べるまでになっていた。 「これだけの人間が我が許に集まってくれるとは何と心強いことだ。皆が我が精兵となり、これから必ずや活躍してくれると期待している」 曹操から直に声をかけられたことに感動したのか、男達は地鳴りのような声を上げた。千人の咆吼。曹操は満足そうに頷くと、夏侯惇と夏侯淵に、ついてくるように促した。 曹操は公の謁見の場を使わずに、私的な執務室に二人を通した。曹操の前に膝を並べて座ると、夏侯惇が旅の報告をした。慰撫や視察、募兵の状況などは、詳しく帛に認めてある。ショウでの祭祀の様子もつぶさに語り、曹操は再び二人を労った。 「儂の我が儘で遠い所まですまなかったな。暫くゆっくり休んでくれ」 「はっ」 そのまま礼をして立ち上がろうとすると、そこは曹操が引き留める。 「おい待て」 「まだ、何か?」 「お前達、まだ他にも復命することがあるだろう?」 「……何の話でしょう?」 曹操がじっとこちらを睨んでいる。負けずに夏侯惇と夏侯淵も無表情を装って視線を合わせた。 「……まさか、お前ら、儂に何にも言わないつもりか?」 「ですから何を言えと?」 夏侯惇の顔を見て、これはこちらに照準を合わせても無駄だとすぐ悟り、夏侯淵を見る。夏侯淵は慌てたように唇を結んで、「何も言いません」という表情を作った。 暫く二陣営の間に火花が散った。そうして出し抜けに曹操は「分かった」と膝を叩くと立ち上がり、二人を見下ろしてにやりと笑う。 「そなた達には我が父が世話になった。最上のもてなしをせねばな」 「その様なお心遣いは無用です。お気持ちだけありがたくお受けいたします」 「まぁ待て元譲」 帰ろうとする夏侯惇の肩を、曹操は掴んだ。 「主がもてなしてやると言ったら、部将はありがたく受け取るものだ」 「某共には過分なお言葉です」 二人とも、言葉の字面と顔の表情が合っていない。顔に青筋を立て、今にも決戦の火蓋が切って落とされそうな勢いだ。 「良いから来い。命令だ」 こんな事で簡単に伝家の宝刀を抜くなっ!!というのは心の中に畳んでおく。毎度のことだ。夏侯惇と夏侯淵は仕方なく、拱手の礼を取って「御意」と返した。 曹操が「最上のもてなし」と言ったのは嘘ではなかったようだ。曹操の私邸に招かれた二人は、まず「旅の疲れを落としてこい」と、湯殿にたっぷりと張った湯を勧められた。 「二人でですか?」 夏侯惇が嫌そうな顔をするのを見て、曹操はニヤニヤしている。 「何だ、二人で湯を使うと、何か障りでもあるのか」 夏侯惇が珍しく主である筈の曹操をじろりと睨むと、曹操は嬉しそうに「怖い怖い」と笑った。 「まぁそう睨むな。安心しろ、二人ではないぞ。最上のもてなしと言っただろう?」 「は?」 湯着に着替えて湯殿に入ると、美しい女性が十名程控えていた。「気に入った女がいたら手を付けても構わない」ということらしいが、それ、普通二人一緒の時にやるか!? 「……元譲、何これ……?」 「……お前は初めてか?」 「え?」 「……主公の趣味だ。気にするな」 夏侯惇は過去にも何度かこれをやられている。女性に手を付けなくても、別に自分が咎められることも、女性達が咎められることもないようなので、気にしなければいいのだ。但し、女性の方は曹操から「何とかその気にさせて、寵愛を勝ち取れ」と言い含められている。 それにしたって、曹操が二人を旅に出させたのはどういう状況を想定しての事だったのか。そのくせ今女性達に囲まれて体を洗われたり何だりするのが、嫌がらせとしか思えない。 「……げんじょう……。ど、どうしたらいいの、これ……?」 「お前は気に入った女がいたら後でいただいたらどうだ」 「いや、ごめん……。元譲と一緒にいるのに、そんな気になれると思う……?」 「俺のことは気にするな。この屋敷の女達は、俺が一度も手を付けたことがないから、もう俺のことは諦めてる。なぁ?」 夏侯惇は背中を流している女性に声をかけた。 「まぁ、将軍様。今日こそは将軍様のお目に止まる幸運を賜りたいと思っておりますのに」 「そうですわ。でないと妾共も、殿からお叱りを受けますのよ?」 「だそうだ、妙才」 「何で俺!?」 夏侯淵はちょっと泣きそうになった。夏侯淵だって決して嫌いなわけではないが、今ここで薄物の絹を通した胸なんか押しつけられても困るだけだ。涼しい顔をして馴れてるらしい夏侯惇に腹が立つ。つうか主公、なんで元譲に女を勧めるんだ!?前も褒賞と一緒に女を贈ってたぞ!?何それ!?何それ!!?元譲が押し返してるからまだ良いようなものの、どういう境地でそういう事するの!? 「すまんがもう出るぞ」 「そんな、将軍様」 「俺は長湯をすると具合が悪くなるんだ。すまんな」 「お、俺も出る!!」 せっかく元譲と二人で風呂なんて美味しい状況だったのに……。張りついた湯着から透けて見える素肌の色っぽさを、眺めるどころの騒ぎじゃなかった。くそう、もう少し主公も気を遣ってくれればいいのに!! 本当に二人きりにされちゃったら、それこそどんな状況になっちゃうか分からないのだ。これでも曹操が相当気を遣っていることに、夏侯淵は気付いていないようだ。 外には新しい服が整えてあった。曹操が、最初から二人が戻ってきたら自宅に誘って何やらしてやろうと企んでいたのはこれで明白だ。新しい衣服に袖を通すと新しい侍女がやって来て、二人を案内した。案内された先には曹操と、三人だけでは気詰まりだと思ったのだろう、曹丕や曹彰、曹植といった十代になった子供達や、何晏や曹真といった、曹操の元で育てられている養い子達、それに二人と親しくしている夫人達も揃って、小さな宴が整えられていた。 「おお、なかなか似合うじゃないか。こいつらがショウの様子を聞きたいというのでな。まぁ、身内同士の気軽な席だ。寛いで土産話でもしてやってくれ」 「はっ」 身内同士の気軽な席と言っても、天下人の宴である。最高の音楽が奏でられ、美しい妓女が舞い、山海の珍味が並び、芳しい美酒がどんどん封を切られていく。帝の後宮であってもこのようなもてなしは受けられまい。 「……気軽な席って……。俺達にどうしろと……」 「泣くな、妙才。お前の主は曹孟徳だぞ。この位のことで驚いていたらしょうがないだろうが。ほら、ショウでの土産話だそうだ」 二人で入り口でぐずぐず言っていると、曹操に早く着座しろと急かされた。 「主公が私的な席でこの様な贅沢をなさるのもお珍しい」 「なに、お主達には世話になった。たまにはこの位のことをしてやらんとな。第一、元譲は物でやってもすぐ下の奴らにばらまいてしまうだろう?湯殿の女にも手を付けなかったそうだな?」 「某は長湯をすると具合が悪くなると、何度も申し上げています」 「つまらん男だな。こんな堅物が傍にいては、妙才も何も出来なくなるではないか」 「我が君。妹が泣きまする。妙才様にはどうぞその様ないたずらはおやめ下さいませ」 夏侯淵の妻を妹に持つ下氏が、軽く曹操を睨む。 「すまんすまん。こいつらがあんまり堅物なので、たまにはやに下がった顔を見てみたいと思ってな。それで、ショウはどうだった」 曹操が酒の瓶を持って、自ら酌をしに来る。二人は畏まってそれを受けた。 「もうすっかり元通りです。役所も良く機能し、他の県城と比べようもないほど清潔なものでした」 「誰がそんな視察報告をしろと言った。それは先ほど役所で聞いたわ。そうではなくて、故郷の空だとか匂いだとか人々の顔だとか、そういう懐かしい話があるだろう」 「懐かしい話……。そうですな、曹家の別邸は相変わらずきちんと管理されておりました。今、蓮の花が見頃です」 「……元譲のこの堅物振りは何とかならんのか……」 曹操が頭を振ると、曹植が笑いながら声をかけた。 「叔父上方が小さい方を連れていらしたと聞きましたが、血族の方ですか?」 「はい。父の末弟の息子達を少々預かって参りました。某共には従弟に当たります」 「では儂にも従弟に当たると言うことか。今度連れて参れ。こいつらと同じくらいの年だろう?」 「はっ。ありがとうございます」 曹丕はこの頃まだ十七歳、曹彰は十五歳で曹植は十二歳になる。なるほど、大体同じ年回りだ。 「妙才様、蓮の花はいかがでございましたか?」 下氏がたおやかな顔を夏侯淵に向ける。夏侯淵は曹操にからかわれぬように言葉を探った。 「別邸の蓮はそれは見事でした。青い池に葉の緑と花の白さが目に涼やかで、とても美しくございました。奥方様方も、是非一度ご覧下さいませ」 「ほら元譲、こういう風に答えるものだ」 「失礼いたしました」 夏侯惇がきまじめに返事をすると、皆楽しそうに笑った。 「宗廟の話をお聞きしても宜しいですか?」 曹丕の問いに、曹操も大きく頷いた。 「それがこの旅の一番の目的だ。儂も詳しく聞きたい。但し、報告書のような話ではないぞ。叙情的に語ってくれ」 「叙情的に、ですか。困りましたな。某には荷が重いので、妙才、頼んだぞ」 「俺!?いや、俺も叙情的にと言われると言葉に詰まります」 「妙才、蓮の花を語るようにやってくれ」 「宗廟の祀りの様子など、どうやったら蓮の花のように語れるのですか!?」 どっと笑いが起こる。月が傾くまで、一同は笑いながら大いに呑んだ。 「大分過ごしたようだ。そなた達はもう下がって良いぞ」 夜も更けてから曹操が頷くと、子供達や夫人達はそれぞれに暇を告げ、部屋から下がっていった。二人もそれではと礼をして立ち上がろうとすると、曹操がここからが本番と言わんばかりに二人を引き留める。 「何をやってる。お前達は朝まで付き合え。別室を設けてあるのだ」 「いえ、もう夜も更けてまいりましたので」 「最上のもてなしをしてやると言っただろう。今日はもう帰してもらえぬものと心得よ」 二人は互いに顔を見合わせて、曹操に気付かれぬようにそっと肩をすくめた。 もう腹は一杯だろうと、菜はつまみ程度に留められていたが、酒だけはふんだんにあった。酔わせて口を軽くしようというつもりだろうが、そうはいくかと盃の酒を舐める。しかし酔いというのなら、既に先ほどの宴で気持ち良く酔っている。旅の疲れと相まって、眠ってしまいたい気分だ。 「で、どうなんだ、妙才。誤解は解けたのか」 「いや、全然駄目です」 「おい」 曹操に水を向けられてぽろぽろ喋りそうな夏侯淵を、夏侯惇が肘でこずく。最初から曹操の狙いは夏侯淵だ。この旅に出す前から、夏侯淵は自分の気持ちを隠そうともしていなかった。第一夏侯淵は、ザルの夏侯惇や曹操より僅かだが酒が弱いのだ。二人はまだほろ酔い程度だが、夏侯淵は半ばできあがっている。それに奴は愚痴をこぼしたさそうな顔をしていた。 「何だ、じゃあ何も出来なかったのか」 「いや、それは色々頑張りました」 「妙才!」 「ほう。その色々を語ってみよ」 「やめて下さい主公!」 「お前は黙っとれ。なんならその辺で寝てても良いぞ」 曹操は夏侯淵の前に膝をくっつけるようにして酒を勧めている。 「でも主公、どう思います?そりゃ最初は元譲も絶対駄目で、もう強姦?思いっきり強姦だったんですけど、」 「もうお前それ以上呑むな!!」 「妙才、強姦はまずいぞ」 「だって元譲、匂わせてくるのに絶対拒否なんですよ!」 「匂わせるって何だ!?匂わせてなんかないだろう!?」 「匂わせてただろ!?も、俺のこと好きなのかもっていうようなことは匂わせるくせに、すげぇ全力で拒否するんですよ!?」 「普通それは全力で拒否するだろう?」 「だから、それはもうしたくなくても強姦になっちゃいますよね!?」 「ね?じゃねぇよ!も、お前本当にそれ以上呑むなぁ!!」 「元譲!黙っとれ!」 曹操が盃になみなみと酒を注ぐと、夏侯淵は律儀に杯を空けていく。ぶっちゃけ、酔ってないとこんな話は出来ない。 「で、その後どうなったんだ」 「それがショウに着いたら急に素直になっちゃって」 「やめろバカ!本当にやめろ!!」 「元譲はあっちで寝てろよ!」 一度話し始めたらすっかり話す気満々になってしまった夏侯淵が、曹操と一緒になって夏侯惇をのけ者にする。ちょっと待て!こんな話を普通人にするか!?自分で思い返すことだって苦痛なのに!! 「じゃあ途中は結構良い感じだったのか?」 「良くないですよ!ショウに着くまでは大変だったんだから!主公の読みばっちりでした!ショウ最高です!」 この酔っぱらいが!!何が最高です、だ!信じられん!! 「邪魔者扱いのようなので、某はもう帰っても良いですか!?」 「駄目だここに居ろ!」 曹操に睨まれて、夏侯惇は夏侯淵に向き直った。 「妙才!黙らないと貴様とは二度と口をきかんぞ!!」 だが、もう曹操も夏侯淵も、夏侯惇などいないものの様に話している。全く自分の制止など、聞いてもらえてないらしい。 「分かった。じゃあ元譲がうるさいから、そこの所は割愛しろ。儂もあんまり具体的な話は聞きたくないし。で?結構うまくいってたのに、誤解は解けてないってどういうことだ」 「だから、最後の県城ですよ。いきなりもう出立って時になって、いきなり終いにしようとか言うんですよ。前の晩はすごい可愛かったのに、手のひらを返したように急にですよ!それが主公の言った通り、もう俺のこと子供扱いで。どうせすぐ飽きるとか、終わりが来るものは欲しくないとか、戦から帰ってくるまでに忘れてるとか、も、元譲あんだけ俺が死ぬ気でやってるのに、何にも分かってくれないんですよ!!」 「あんな事されて、本気だと思うか!?」 「本気じゃなきゃ、あんな事するわけないだろう!?」 「違うだろ!?お前は俺の気持ちとかそういうのはどうでも良いからあんな事したんだろう!?」 「違うよ!元譲、俺のこと好きだろう!?」 「バカが!本当に好きなら強姦なんてするか!?俺は物じゃねぇよ!」 「……その平行線か……」 曹操は思わず頭を抱えた。その平行線を、この旅の間中やっていたのか。なんて気の長い奴らだ。信じられん。 「元譲、お前、妙才に惚れてるんだろう?」 「なっ、何言ってるんですか!」 「もう良いから!ショウでは素直になれたんだろう?って事は、やっぱりお前だって妙才が好きなんだろう?」 「俺は、こいつとそういう関係にはなりたくなかったんです!」 「でもショウではそうなっても良いかなって思ったんだろう?」 「違います!」 「嘘だよ!ショウでは元譲、すごい素直で可愛かったんだから!嫌がるどころか自分から……」 「やめろバカ!」 夏侯惇の顔が真っ赤だ。うわっ、こんな元譲初めて見た!!これでこいつ、終いにしようとか言うのか!?儂が妙才でもそんなの納得いかんわ!! 「元譲は何でそんなに終いにしないといけないんだ?何がそんなに駄目なんだ?妙才がすぐ飽きるからか?飽きて捨てられるとでも思ってるのか?」 「……だから……」 夏侯惇は額を押さえて暫く黙っていた。しかし諦めたように、小さく絞り出した。 「だから、そのうちこいつが満足して、終いになるでしょう?その後こいつ、どうせ当たり前の顔で今まで通り何も無かったようにするのはもう目に見えてるでしょう?俺はそれが許せないんですよ。俺にあんな事しておいて……」 「無かった事になんか、しなけりゃ良いだろう?っていうか、何で終いになるのが前提なんだ?」 「だってそれは当たり前でしょう?」 「つうか、お前どんだけ平和なんだ?」 曹操は眉間に皺を寄せて首をかしげた。 「……は?」 「だから、どんだけ平和なんだ?お前、自分たちが武将だって知ってる?良いか?仮にお前の言うとおり、妙才がそのうち満足してなかった事にするっていうのが本当だとしても、それ、いつの話だ?一年後か?五年後か?十年後か?」 「……それは……」 「次の戦でどっちか死んだらどうするんだ?満足する前に討ち取られてもう二度と帰ってこなかったら、そん時どうするんだ?もっと愛してやれば良かったって思わないのか?好きだって言ってやれば良かったって思わないのか?」 「……そ……」 言葉に詰まる夏侯惇の肩を、曹操が叩いた。 「お前の不安な気持ちは分からんでもない。今まで自分の事を好きな素振りなんてまるで無かったのに、儂につつかれて急にその気になったように思えてるんだろう?儂もそう思っておったからその気持ちは分かるけど、こいつがガキの頃から儂やお前に気付かれないように細心の注意を払ってきたんだとしたら、それはよっぽど本気だという意味だと思わんか?」 「……」 「それでもまだ妙才の気持ちを信じられないんならしょうがない。旅の間だけのつもりで関係を持っていたように、これから先も心に期限を切れ」 「期限?」 曹操の言葉に、夏侯惇と夏侯淵、二人が同時に訊き返した。曹操は「そうだ」と頷くと、言葉を続けた。 「お前らも、戦に出る度に死ぬ覚悟だろう?だから、次の戦で死に別れると思って付き合えば良い。自分が死んでも相手が死んでも、後悔しないように愛してやれば良い。その代わり戦の間は相手の事はすっぱり忘れろ。こんな事引きずってたら、本当に死にかねんからな。そして帰ってきたらもう期限が切れてるわけだから、もし気持ちが醒めていたらその時はお互い無かった事にして、まだ次の戦で死なれたら後悔するなって思ってるようなら、また最初から口説き落とせ。そうやって続けてたら、多分お前ら八十過ぎても別れてないと思うぞ」 夏侯惇と夏侯淵はお互いを見た。二人とも、目から鱗が落ちたような顔をしている。曹操は小さく苦笑した。 「元譲、今妙才が死んだら、妙才はお前に拒絶された思い出だけ持ってあの世とやらに行かないといけないんだぞ。お前、それで良いのか?」 夏侯惇は答えなかった。だがその顔を見れば、言いたい事が伝わったという事は分かった。全く、なんて手のかかる奴らだ。 「それじゃ、儂ももう寝るわ。お前らの客間は、この棟の一番奥が妙才、その手前が元譲の為に用意してあるから、適当に使ってくれ。元譲、妙才は大分酔っぱらってる様だから、ちゃんと送り届けてくれよ。じゃあな」 後は、もう自分は邪魔なだけだろう。魂が抜けた様な顔をして見つめ合っている二人を残して、曹操は部屋から出た。 「……しかしそうか……。あの二人、やっちゃったのか……」 二人が見えなくなってから、曹操はちょっと頭を抱えた。そうなって欲しい様な、なって欲しくない様な、複雑な気持ちは今でも変わっていないのだ。 「うわぁ……。なんかすごいな、それ……」 今更ながら、自分の中の二人は幼馴染みの従兄弟なのだと思い知る。その従兄弟がそんな関係になってしまった事が、なんだか二人が手の届かない所にいってしまった様な気もするし、もっと下世話な言い方をすれば、どの面下げてそんな事しやがるのかとも思う。 「……なんか、夢に見そう……」 取り残された様な気持ち、というのが本当なのかもしれない。ちょっと寂しい気もするが、それでも二人が収まるべき所に収まったのなら、それで良いかと曹操は自室に戻った。 曹操が居なくなった部屋の中で、どれだけ見つめ合っていたのか。そのうち二人はどちらともなく部屋に戻る事にした。 「妙才、立てるか?」 「……うん」 二人は何も言わず、ただ言われた部屋を目指した。曹操から、酔った夏侯淵をちゃんと送り届けろと言われたのを思い出し、夏侯惇は夏侯淵のために用意された部屋の扉を開いて、臥牀の帳を開いた。部屋には灯りが入っていた。脇卓には水と夜着も用意されている。 「妙才、水飲むか?」 盃に水を注いで振り向こうとした瞬間、後ろから夏侯淵に抱きしめられた。 「……妙才……?」 「元譲、元譲はさっきの話、どう思った?」 「……酔ってるんだろう?取りあえず、今日はもう寝ろ」 「元譲!」 そのまま体をねじられ、唇を貪られた。痛いほど抱きしめられる。 『今妙才が死んだら、妙才はお前に拒絶された思い出だけ持ってあの世とやらに行かないといけないんだぞ。お前、それで良いのか?』 曹操の台詞がまだ耳に残っている。 今妙才が死んだとしたら。 夏侯惇は、震える指を夏侯淵の背に回した。 「俺が、俺が元譲を不安にさせてるんだとしたら、それは謝る。謝るから、俺のものになってくれ。頼む!」 そのまま、臥牀の上にもつれる様に倒れ込んだ。夏侯淵の目はまるで酔ってる様には見えなかった。真剣で、でも怯えた様な目。夏侯惇はその目の中に自分が映っているのを見た。俺の瞳の中にも、こいつが映って見えるのだろうか。 夏侯惇は、夏侯淵の目を覗き込みながら、そっと夏侯淵の頭を抱き寄せた。 「……俺は最初から、お前のものだったろう……?」 夏侯惇が小さく囁くと、夏侯淵が驚いた様に夏侯惇を見た。 「……元譲……」 それから夏侯淵は泣きそうな顔になって、もう一度夏侯惇の唇に唇を重ねた。 気怠い体を投げ出している夏侯惇の背中に、夏侯淵が唇を落とした。もぞりと夏侯惇が背中をねじる。 「元譲、大丈夫?」 「……いや、あんまり大丈夫じゃない……。俺がこんな事するの、本当に苦手なんだって事だけは覚えておいてくれ……」 「……そうは見えないんだけど……」 「……なんか言ったか」 「いや、ごめん……」 俯せの夏侯惇の腰の上に、夏侯淵は自分の頬を乗せた。 「……俺達、随分遠回りしたね」 「……」 返事をしてくれない夏侯惇に、かまわず言葉を紡いでいく。 「でもきっとさ、若い内にこうならなくて良かったのかもしれないね」 「……」 「こんだけ遠回りして、こんな年になっちゃったんだしさ。主公が仰有る様に、きっとヨボヨボのじいさんになっても、俺達まだ始まったばっかりみたいに付き合ってられると思うよ」 「……俺は主公の仰有るとおり、期限は切らせてもらうけどな」 「まだ信じてくれてないの!?」 「……」 「も…」 夏侯淵は頬を乗せた腰に、抱え込む様に手を回した。 「良いよ。そしたら主公の仰有るとおり、そのたんびに口説き落とすから。それはそれで美味しいよね」 「……」 さっきから口数の少ない夏侯惇に、夏侯淵は少しむくれてみせた。まだ不本意だとか言うつもりなんだろうか。だが、あの夏侯惇がここまで変わってくれようとしているのだ。少しくらい無愛想にされても、御の字ではないか。 「でも元譲、これだけは覚えておいてね。俺は、ただ、元譲を愛している。この気持ちの他は、何も持っていないんだ」 腰から顔を離し、夏侯惇の顔を伺うと、すでに夏侯惇は眠っていた。キスでもしようと思っていたのに。 「もー。聞いてないのかよ……」 そのあまりのつれなさに、夏侯淵は夏侯惇の頬を少しだけ引っ張って、それから眠る夏侯惇に口付けた。 「ん……」 小さく身じろぐ夏侯惇に、ただ愛しさが募る。 「まぁ良いか。これから一生かけて、俺がどれだけ元譲のことを好きか、分かってもらうから」 一生かけて。 それはすごく、楽しそうな気がした。 1 2 3 4 |
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