言焦の風 1 2 3 4 |
静かだった。ただ、時折鳥の声が聞こえた。敷布に顔をすりつける。絹の感触。その心地良さに違和感を覚え、夏侯惇はぼんやりと目を開けた。 「……将軍」 不意に名前を呼ばれ、夏侯惇はハッとして起きあがろうとした。しかし体中の痛みに、起きあがることができない。 何だ……?何でこんなに体が痛むんだ……? 「将軍、起きていらっしゃいますか?」 韓浩の声だ。扉の向こうから声をかけてきているらしい。 「……すまん、今起きた。ちょっと待ってくれ」 ふと、自分の手首が目に入った。我が目を疑った。手首に、掴まれたような痣がある……。 「っ!」 一気に、昨夜の記憶が蘇った。 「将軍?」 「待て!」 慌てて自分の姿を検分する。体は綺麗に清められ、夜着も新しくなっている。昨夜の痕跡は、体にしか認められなかった。 辺りを見ても、夏侯淵の姿は見えない。 ……なんだ?昨日のことは無かったとでも言いたいのか?いや、あいつにこんなに芸の細かいことができるか……? だが考えていても仕方がない。一通りおかしな点がないかを確かめてから、韓浩に入るように返事をした。 「失礼します」 韓浩が帳の外から声をかけた。 「妙才殿から、将軍はお加減が悪いので寝かせておくように言いつかりました。視察は妙才殿がお一人でなさっています」 「……そうか」 「県令達も口うるさい方の将軍がいないとあって、露骨に安心した顔をしていました」 「……そんなことまで報告するな……」 「はっ。失礼いたしました」 ……韓浩がいつまでも帳を開けないのが気に障った。いつもはこんな遠慮をするような男ではない。戦の天幕にいるときなど、こちらが裸だろうが、用があったら勝手に入ってくる男だ。 「……お前、何で今回一緒に来たんだ。俺はお前に留守居を任せたよな?」 「司空閣下に命ぜられました」 失礼しますと断って、やっと韓浩は帳を開けた。何事もなかったような顔をしているのが、余計に苛立ちを挿そう。 「……輜重隊長のくせに、何で俺の随従みたいな真似をしてるんだ」 「閣下から、将軍方では心許ないことがあるので、随時気を配れと仰せつかりました」 ふざけんなクソ主公……!! 「お前、いつからあいつのこと妙才殿って呼ぶようになった?」 「今朝、二人とも夏侯将軍だから、紛らわしいから字で良いと言われました」 「……元嗣……!」 絶対に、こんな事をしたのはこの野郎だ!主公から何を聞かされてきたんだ!! 「お前、昨日の夜ここに来たのか!?」 「何の話ですか?」 いつも通りの無表情に腹が立つ……! 「妙才殿から当分将軍を休ませるようにと言われておりますが、そろそろ官吏共がご機嫌伺いに来そうです。その前に何か胃に物を入れた方が良いかと思い、粥など用意させましたが、召し上がれますか?」 全く取り合うつもりがないらしい韓浩に、これ以上何を聞いても無駄と悟って、夏侯惇は溜息をついた。いや、逆に何か言われてしまってもこちらが困るだけか……。 「……水だけくれ」 「はい、ただいま。では、粥はこちらに置いておきますので、食べれそうなら食べてください。他にご要り用な物はありますか?」 「……一人にしてくれ……」 「はっ。では、当分面会は謝絶としておきます」 「ああ」 「何かありましたら隣に控えておりますので、すぐにお呼び下さい。それでは、失礼致します」 韓浩が出ていくのを見届けてから、夏侯惇はずるずると臥牀の上に倒れ込んだ。 嫌でも、手首の痣に目が行く。 夏侯惇はきつく目を閉じた。まるでそうすれば、手首の痣などなくなるとでも言うように。 韓浩が夏侯惇の部屋から出てくると、廊下で夏侯淵が待ちかまえていた。 「元譲の様子、どうだった?」 「普通にしてらっしゃいましたが、まだお加減は悪いようです」 「……そっか……」 「人払いをご希望でしたので、妙才殿も入室しないでいただけますか」 「……分かってるよ……」 昨日の夜は驚いた。夏侯惇がぐったりと動かなくなった後、暫くして突然韓浩が部屋にやって来たのだから。最初は居ない振りを決め込んでいたが、「夏侯将軍、こちらにおいでなのでしょう?」と名指しされ、それがどちらの夏侯将軍なのか一瞬分からなくて、余計に焦った。 「……いるけど……」 「失礼します」 こちらの返事も待たずに、韓浩は勝手に入ってきた。手に、湯を張った盆を持っていた。 「……何それ。お前、聞いてたのか?」 夏侯淵が睨みつけても、韓浩は全く意に介さないようだった。それどころか、夏侯淵の乱れた袍も、帳の中の夏侯惇の様子も、一切見えていないように振る舞っている。 「事情は大体閣下から伺っております」 「……あの主公……!」 「将軍はまだお休み中ですね?では、今のうちに体を清めていただけますか?夜着や敷布なども新しい物を用意しましたので」 「……なんだよ……っ!」 自己嫌悪から不機嫌になる夏侯淵に、韓浩はあくまでも淡々と、事務的な話し方をした。 「明朝、将軍が取り乱しても良いのですか?」 「……いや、それは……」 「では、夏侯将軍にお任せして良いですね?」 「……あぁ……」 盆を脇卓に置くと、何枚かの布と夜着もその脇に置き、夏侯淵にもう一度向き直った。 「……言いづらい事を申し上げるようですが、見えない場所も適切に処置して下さい」 見えない場所……? 夏侯淵はさすがに赤くなって憤慨した。 「お前…!ちょっと待てよ!何なんだよお前!手慣れすぎてないか?」 「男のする事は、相手が女でも男でも大して変わりはありません。別に某は将軍方の私生活はどうでも良いのです。ただ、将軍が取り乱すような事があっては、副官として困ります。将軍の名に疵がつく事も望みません。なさった事の責任として、適切に処置をお願いします」 言い返す事ができなかった。 そのまま頭を下げて出ていこうとする韓浩に、夏侯淵はぼそっと礼を言った。 「……俺、頭に血が上って、この後始末をどうするかとか全く考えてなかった。世話をかけてすまん」 「人生の勝負に臨んでおられたのなら当然です」 そのまま出ていこうとする韓浩を、もう一度呼び止める。 「あのさ、俺ら両方とも夏侯将軍だから、俺の事は字で良いよ。さっき、夏侯将軍はこちらにおいでですかって言われた時、どっちの事か分からなくて返事ができなかったから」 「……どちらの事か分かっていても、返事などすぐにはできなかったでしょう?」 韓浩がにやりと笑って見せた。 「……っの野郎……。てめぇ元譲と俺の前じゃ、ずいぶん態度が違うじゃねぇか」 「当然です。某は、将軍の副官ですから」 もう一度笑ってから、礼をして出ていく韓浩を見て、何となく曹操や夏侯惇が韓浩を信頼している理由が分かったような気がした。 後はもう、すっかり主導権を握られっぱなしである。 「取りあえず、午後の視察も俺一人でやっつけるけど、多分元譲は夜まで起きてこないと思うから」 「畏まりました。出立は二日後ですが、予定通りで大丈夫ですか?」 「……それ、どういう意味?大丈夫だよ!」 憤慨する夏侯淵に、韓浩がきまじめに頭を下げる。 「それと伝令に、次の県城には間違っても大袈裟な饗応はするなって、もう一度念を押させておいてくれ」 「こちらでの様子をつけて、すぐに伝令を出しておきます」 小さく頷くとそのまま視察に戻る夏侯淵に、韓浩は拱手の礼を取って見送った。 「元譲」 声に、目が醒めた。また眠っていたらしい。体を起こすと、辺りはもう暗くなっていた。 「大丈夫?何にも食べてないのか?」 「……」 当たり前のように声をかけてくる夏侯淵の神経が信じられない。夏侯惇はむっつりと押し黙り、目を合わせないようにした。 「元譲が夕飯の時も居なかったから、県令達焦ってたよ。昨日の事が相当ご立腹で姿を見せないのかって」 喉が渇いていた。脇卓の上に、水が置いてある。取ろうとして手を伸ばしたら、夏侯淵が取って渡してきた。夏侯惇は何も言わずにそれを受け取り、一気に飲み干した。 「……元譲、ごめん。驚いただろう……?」 「……」 驚いたに決まっている。まさかあそこまでひどい事をされるとは、一体誰が考えるというのか。夏侯淵は恐る恐る夏侯惇の肩に触れようとしたが、夏侯惇は即座にその手を払いのけた。 「元じょ……」 「俺は嫌だって言った!」 「元譲!」 「俺は物じゃない!お前とだけは絶対にこういう事にはならないって決めてたのに……!俺にだって心はあるんだ……!!」 両肩をいきなり掴まれた。振り解こうとするが、夏侯淵はそれを許しはしなかった。天下一の弓取りの名を欲しいままにする夏侯淵の握力は、夏侯惇が考えていた以上の物だった。 「俺にだって心はあるよ!俺とだけはこういう事にならない?どうして?それは元譲が勝手に決めていた事だろう!?」 「こういう事は、お互いが同意して初めてやる事だろう!?別に男同士だろうと従兄弟同士だろうと構わんが、お前とは絶対したくなかった!俺は何度も嫌だって言った!それをお前が、お前の気持ちだけで勝手に無理矢理やったんだ!俺は物じゃない……!絶対許さねぇ!二度と俺に触るな!」 突き放そうとした腕を、また掴まれる。どうしても腕力では敵わないのが余計に腹立たしい。剣でこいつに負けた事はないのに……! 「嫌な相手に触られたって、そうそう勃たねぇだろ!?元譲、キスしただけで感じてたじゃねぇか!」 「ふざけんな!戦の前でも普通に勃つわ!」 「あぁもう……!」 もう無駄な話はしないとばかりに、夏侯淵が唇を合わせてくる。 「んっ…ぐっ、離……っ!!」 こいつ、まさかこんな事で何とかなるとか本気で思ってるのか!?信じられん……!! 「離せって言ってるだろう!?」 一瞬口が離れたのでそのまま顔をもぎ離そうとしたら、夏侯淵の頬にかかった爪から皮膚を裂く感触が伝わった。 「あ…!」 慌てたのは夏侯惇の方だった。夏侯淵の頬を確認すると、血がにじんでいる。 「……もっとひどい事されたの誰だよ……。いちいち気にしなくて良いよ……」 「いや、でも明日官吏達になんて言うんだよ……」 「……そっちの心配かよ……。いや、別にどっかに引っかけたとか言うから良いよ。それ言ったら元譲のその首だろ」 「……え……」 首筋に手を当てる。何?何かついてるのか……? 「……まぁ、元譲の首にそんな痕がついてて、俺の頬に傷なんかあったら、確かに何してたんだって話になるよね……」 「……お前!!」 夏侯惇が思わず涙目になる。 「ごめん!でも昨日はそんな加減する余裕なんてなかっただろ!?」 「偉そうに言う事か!」 「多分、襟を高く作れば見えないと思うけど……いっそ鎧着ちゃう?」 「……武官なんだから、視察といっても軍装で良いだろ……」 「ごめん、調子が悪いときに……」 そのまま冷静さを取り戻し、二人は溜息をついた。臥牀に並んで座る、沈黙が痛い。取りあえずもう一度座り直すと、夏侯淵は夏侯惇の背中に自分の背中をくっつけて、切なげに呟いた。 「……俺、本当に元譲の事が好きなんだけどな……」 「……」 「元譲は信じてないみたいだけど、俺はもう何十年も前から元譲の事が好きなんだよ……。元譲に嫌われたくないから、ずっとそう見えないように振る舞ってきたけど……。別に、元譲が男とやったとか、そういうのはどうでも良いんだ。人に取られそうだから俺が先にって、そう言う訳じゃないんだ」 夏侯淵の告白に、夏侯惇はバカバカしいと鼻を鳴らした。 「嘘つけ。じゃあ最近のアレは何だよ」 「……主公は別なんだよ……」 「は?」 「……主公は別なの。俺、主公にこれ以上元譲取られるのやなんだよ……。元譲さ、ガキの頃から孟徳ばっかりじゃん……。俺がどれだけ辛かったか分かる?元譲が孟徳孟徳って言うたんびに、俺、いつかぶっ殺してやろうとか思ってた……」 「なっ!」 「いや!ガキの頃の話!!本当にぶっ殺そうと思ってたら、主公の身代わりで役所に捕らえられたりしないでしょ!?」 曹操が十常侍の張譲とのいざこざでショウに戻っていた頃、十常侍からの差し金だろう、曹操が捕縛されそうになった事がある。その時、身代わりになって出頭したのが夏侯淵だ。危うく殺されそうになったが、曹操が曹騰の力を使って何とかもみ消し、危うく難を逃れた事がある。この時、夏侯惇は師を侮辱した男を斬り、逃亡生活を送っていたのでショウにはいなかった。夏侯淵は、夏侯惇が居なくて良かったと思った。もしもショウにいたら、夏侯惇の方が身代わりになったろう。 「でも、そのくらい俺にとっては元譲が主公の枕席に侍ってるって噂はショックだったんだよ。周りの奴らもそう思ってんのかって思ったら堪んなくて……」 「でもお前、主公に対してだけじゃなくて文遠殿とか俺の側近とかにも突っかかってるじゃないか」 夏侯淵は困ったように息を吐き出した。この人、やっぱり言われないと気付かないんだ……。 「元譲……あのさ、言いたくないけどさ、元譲ってちょっと鈍いよね……?」 「何が?」 「いや、まぁ普通はそうか……。でも自分が粉かけられてる自覚はないよね……?」 「は?」 本気で嫌そうな顔をする。 「お前は自分の頭が腐ってるから、周りまでそういう風に見えるんじゃないのか?文遠殿なんて、俺と剣術の話しかしないぞ?」 「いや……そうなんだけど……。でもほら、あの人、元譲とばっかり撃ち合いしたがるの変じゃない?」 「バカか?」 「いや……」 張遼が夏侯惇と立ち会いをしたがるのはいつもの事だ。確かに剣が互角だからというのなら張コウだって互角の筈だが、張遼が張コウと立ち会いをしているところは、あまり見た事がなかった。魏に来たばかりの頃、うっかり夏侯惇に立ち会いで負けて以来、意地にでもなっているのだろう。呂布軍とは色々と因縁のある夏侯惇と、呂布の五将と呼ばれた男が撃ち合っている風景に、最初は周りの方が戸惑っていたが、今ではいたって日常的な風景だ。しかも絶対に張遼に有利な騎馬での立ち会いはしない。互角に撃ち合える馬無しでの稽古の時ばかり、しつこく張遼は夏侯惇に立ち会いを望んだ。確かに少々鬱陶しくはあるが、張遼ほどの男に立ち会いを望まれるというのは、武人の誉れとも思っている。 「撃ち合いを望んでいるだけでそんな風に勘ぐられるのもえらい迷惑だな。それじゃ何か。俺は関羽を好きって事になるのか」 「いやそれは……」 「主公は袁紹や劉備が好きなのか」 「そうじゃなくて……」 「バカなのか、お前」 「……元譲……」 駄目だこの人……。ホントに全く自覚がない……。文遠なんて、元譲が他の奴と立ち会おうとしてても間に割って入ってきて、他人と絡ませないようにしてるの見え見えじゃん……!! 夏侯淵はさすがにこの議論は無駄だと悟った。仕方ない。奴らには遠巻きに圧力をかけていくしかないか……。 「……分かった。それに関しては俺が譲る。元譲の周りの奴らに俺が突っかかるのは我慢する。じゃあ今度は他の議論をしよう」 「話し合う、って奴か。そうだな。最初から話し合ってりゃこんなことにはならなかったんだ」 「……いや、それはしたと思うけど……」 「何?」 「……いや、何でもない……」 夏侯惇は昨日着替えさせた夜着のままだった。いやでも昨夜の事を思い出す。相変わらず、臥牀の上に座っていた。夏侯惇はまだ自分がどんな姿なのか知らないのだ。手首や首だけではない、胸や鎖骨にも口付けた痕が浮いている。夜着で隠れてはいるが、背中や内股にも……。 夏侯淵は一人悶々として視線を外した。 「……げ、元譲は、なんで俺とだけは寝ないって決めてたんだよ……。俺とだけはってどういう意味?他の奴とは寝るけどってこと?」 「言葉尻をとらえて何だかんだ言うな。他の奴とも今更しねぇよ」 「今更?」 「だから言葉尻をとらえるなって!」 夏侯惇に睨まれ、夏侯淵は不満そうに唇を噛んだ。 元譲が他の男と過去に色々あったのは、それは生きるための手だてだと思って我慢もできる。だが、今は別々の戦場に送られている事が多く、一年のうちでも一緒に居られる時間の方が少ないのだ。自分の居ない所で何が行われていても、夏侯惇が完璧に隠そうとしたら見抜けるかどうか分からないではないか。 そもそも主公の枕席に侍っているという噂も、一瞬信じたのはそういう可能性があるからだ。十四歳の時の、男同士には友情しかないと思っていた夏侯惇が出奔して大変な経験をして帰ってきたのと、その経験を全て消化して取り込んでしまった今の夏侯惇が色々しでかすのでは、全然訳が違うのだ。 「……元譲が他の男と寝てたら、俺は気が狂うよ」 「お前、俺の事なんだと思ってんだよ」 「色っぽくて綺麗な俺の想い人だよ」 「死ね」 即座に言い放つ夏侯惇に、夏侯淵はむっとした。 「だって、こいつとだけは寝ないって決めてた俺に、簡単にされちゃったじゃないか!他の奴にこんな事されてからじゃ遅いだろ!?」 「お前にだけは言われたくねぇよ!それに何だ!?簡単に!?あんな事をしておいて、簡単な事にするつもりか!?」 「……ごめん……」 さすがに失言だった。抜き身の剣まで握らせたのだ。お互いに、伸るか反るかの大勝負だったのに。 「……心配しなくても、こんな事をしたがる気の狂った奴はお前しかいないだろ」 「……これは絶対譲らないけど、下っ端の兵士達まで元譲の事を色っぽいって言うんだよ?普通に主公の枕席に侍ってるって、みんな信じてるのが何でなのか、ちょっと考えてみなよ」 夏侯惇は本気で嫌そうに眉をしかめた。苛々と夏侯淵の顔を睨みつける。 「あのなぁ、下っ端の奴らの話はいつだって色事だろう?」 「文官の綺麗どころならともかく、他の奴が色っぽいだの男同士でできてるだの、聞いた事ないよ」 「……他の部隊の奴らに聞いてみろ。絶対お前がどうこう言われてるはずだぞ。お前の方が両目がある分、どう考えたって整った顔してるしな」 「……元譲とできてる、とかなら聞いた事あるけど?」 「あんだけお前が俺にひっついてたらそんな噂にもなるわ!」 「ね、元譲、そんな話はどうでも良いよ」 夏侯淵は敷布に手を突いて、夏侯惇を下から見上げた。 「さっきから元譲、ちっとも答えてないじゃん。どうして俺とだけは寝ないって決めてたの?俺とだけはってどういう意味?寝ないって決めてたって事は、寝る可能性があるから寝ないって決めてたんだよね?」 「……」 「元譲」 むっつりと黙り込んだ夏侯惇に、無理矢理視線を合わせる。顔を逸らして俯く夏侯惇の憂い顔には色気があると思ったが、口に出して言えば確実に殴られるだろう。 「元譲、話し合うんだろ?俺を納得させろよ」 「……俺は、お前が大切なんだよ」 絞り出すように、夏侯惇が呟く。顔を逸らしているので、傷ついた左目はここからは見えない。夏侯惇は無意識に、人と対するときには僅かだが顔の右側を相手に向ける癖があった。夏侯惇の左側の顔にこそ、彼の真実があるのに。 「お前は、俺の親友じゃなかったのか?……多分、寝ようと思えば、そういうきっかけはどこにでもあった。でもお前と俺は親友だから……」 「……最初から、友情なんかじゃなかったんだよ……。俺は少なくとも、元譲がそう思うように振る舞っていただけだ」 夏侯淵の声も細かった。そのいつもの彼らしくない小さな声に、夏侯惇は目を閉じて肩で息を吐いた。 「……親友だと思っていた間抜けは俺だけだってことかよ。じゃあ、何で今まで一言も言わなかったんだ!?今更こんな事するくらいなら、もっと早くに言や良いだろうが!」 「言えないだろ!?言ったら元譲、俺の事切り捨てるに決まってる!」 「じゃあ何で今頃こんな事……!」 苦しそうな顔をする夏侯惇に、夏侯淵の方が泣きそうになる。そんな顔をさせたい訳じゃないのに……。 「……もう、だって俺、苦しいんだよ……。元譲の側にいるの、もういい加減辛いんだよ。元譲に嫌われないように親友の顔してんの、もうやなんだよ」 声を出そうとすると、喉が強ばった。情けなく泣き声に聞こえないようにと思えば思うほど、声が震えた。 だが。 「……すぐに飽きるさ」 「何?」 夏侯惇はひどく冷たい顔をしていた。 「すぐに満足して、すぐ飽きるっつったんだよ。抱いてみてどう思った?普通におっさんだったろ?別にお前の頭の中に膨らんだ、夢みたいなもんでもなかったろ?」 「……怒るぞ、元譲」 「今は長い間目の前にぶら下がっていたご馳走を食べたような気がしてんだろうけど、喰ってみたら何てことはなかったろう?すぐに満足して、こういうもんだって納得したらすぐ飽きるさ」 「何だそれ!ふざけんなよ」 夏侯淵が怒鳴っても、夏侯惇はやめなかった。それどころがますます激昂していく。 「お前は自分が満足して俺に手を出すのをやめても、何事もなく今まで通り普通に付き合えると思ってるんだろうけど、好き勝手された俺の気持ちはどうなるんだ!?何で俺がお前の好奇心を満足させてやらないといけないんだよ!」 「ふざけるな!」 「ふざけてるのはお前だろう!?どうせすぐなかったみたいな顔で普通に暮らすようになるんだから、だったら最初からこんな事しなきゃ良かったんだ!言っておくが俺はもう、お前と前みたいに付き合う事なんて絶対できないからな!」 「元譲はどんだけ俺をバカにすれば気が済むんだ!?」 夏侯淵が夏侯惇を黙らせようと掴みかかってきたが、夏侯惇は構わずに続けた。 「どうせ主公に焚きつけられて、ちょっとその気になっただけだろう!?主公がこんな事しなけりゃ今まで通り付き合っていかれたくせに!?その程度の気持ちのくせに!」 「黙れ!」 気がつくと夏侯惇を押し倒していた。押さえつけられた夏侯惇が、下から自分を睨みつける。 「図星を指されて腹を立ててるのか!力で俺を押さえつければ、俺がお前の言いなりになるとでも思ってるのか!?」 「俺のこの気持ちは、どうしたら元譲に伝わるんだ!?俺の体を切り裂いて、中身をお前に見せれば良いのか!」 そのまま、夏侯惇を抱きしめた。悔しくて涙が出た。どうしてこんなにも伝わらないのだ。どうして!? 「離せ!俺に触るな!」 「なんべん言ったら分かるんだ!俺は元譲を愛してるんだ!」 「俺はお前とは絶対にしたくなかった!」 「元譲!」 「お前の肌が熱いのか冷たいのかなんて知りたくなかった!どうせ……どうせすぐに飽きるくせに!!」 「……元譲?」 思わず夏侯惇の顔を見た。泣きそうな顔をしているのは、夏侯惇の方だった。 「……元譲、それ、どういう……」 「何だよ!離せって!」 油断しているところに拳が飛んできて、顎を思い切り殴られたが、それどころではなかった。 「元譲!今なんて言った!?」 「何が!」 曹操の台詞を思い出す。 『元譲が恐れているのは、お前との交わりではない。お前が子供過ぎることだ』 まさかそんな……。元譲は今自分が何を言ったのか、気付いていないのか? 「元譲、落ち着いて!ちょっと落ち着いて!」 自分から逃れようともがく夏侯惇を、落ち着けようと余計に強く押さえつけてしまって、これでは埒が明かないと取りあえず一度夏侯惇の上からどいてみた。夏侯惇が肩で息をしたまま体を起こし、こっちを睨みつけているが、夏侯淵はまず自分が落ち着かなければと呼吸を整えた。暫く、帳の中にはお互いの呼吸の音だけが響いていた。 「……元譲、さっきのアレは、何?」 「……何が……」 「覚えてないの?」 夏侯淵が夏侯惇の手を取ると、夏侯惇の肩がびくりと震えた。そのまま襟元をくつろげて、その手を自分の裸の胸に押しつける。夏侯惇の顔は強ばったままだった。 「元譲。俺の肌は、熱い?冷たい?」 「!」 一瞬、僅かに夏侯惇の頬に朱が上った。 「俺の肌は、熱いでしょう?」 「……」 「元譲が触れているから、熱いんだよ」 そのまま唇を寄せる。ほんの僅かに唇と唇が触れたが、すぐに夏侯惇は顔を背けた。 「大丈夫。何もしない。何もしないから」 そっと、抱きしめる。 「今だけで良い。大人しくして。何もしないから」 抱きしめた夏侯惇は僅かに震えていた。愛しさに心が震えた。 「愛してる。元譲が信じてくれるまで、何度でも言う。愛してる」 「……すぐ飽きるくせに……」 「愛してる」 その晩は、夏侯惇の震える体を抱きしめたまま眠った。最初夏侯惇は抗ったが、辛抱強く抱きしめ、ただ愛していると囁いていると、そのうち夏侯惇も体の強張りを解いた。夏侯惇の体が腕の中にある。子供の頃に還ったみたいだ。 この夜が明けなければ良いのに。夏侯淵はいつまでも眠らずに、ただ夏侯惇の体を抱きしめていた。 朝、体が痺れて目が醒めた。目を開けると、夏侯惇の額が自分の肩の上に、腕が自分の胸の上に乗っていて、一瞬何が起きたのか分からなかった。 「げ、元譲……?起きてる……?」 「ん……」 掠れた声。思わず赤くなった。 昨日の台詞を反芻する。 『お前の肌が熱いのか冷たいのかなんて知りたくなかった!どうせ……どうせすぐに飽きるくせに!!』 ……それって……。 夏侯淵は火照った自分の頬を軽く叩いてから、次に夏侯惇の頬を、軽く引っ張ってみた。僅かに身じろぎする夏侯惇が愛おしく、そのままキスしようとしたら扉がノックされ、近づけた顔を慌てて引き離した。 「将軍、入ってもよろしいですか?」 韓浩の声だ。あの野郎、ホントに狙い澄ましたみたいに……。覗いてるんじゃないだろうな……? 「まだ元譲寝てるから、ちょっと待ってくれ」 「そろそろ起こしていただいても良いですか?」 「分かった。今日は元譲も視察に出られると思うけど」 「お待ちしております」 韓浩の気配が遠ざかっていくと、もう一度、今度はゆっくり唇を近づけた。浅く唇を交わし、上唇をついばみ、我慢できずに深く舌を絡める。 「……ん……?」 寝ぼけたように微かに舌を絡め返してきたが、その瞬間に夏侯惇はいきなり目を開けた。 「……妙才!?」 「おはよう。何?嫂上か誰かと間違えた?」 「……他に誰と間違えるんだ……」 「……仲が良くて本当に妬けるんだけど……」 側室の一人も持たない夏侯惇は、当然のように女の噂が全くない。そのせいで余計に主公の枕席云々という噂が立つのだろうか。 「いい加減にしろ。朝っぱらから俺を怒らせるな」 「ごめん」 「さっさと出ていけ!お前とはもう今まで通りには付き合わないと言っただろう!?」 本気で怒っている夏侯惇の気を逸らそうと、夏侯淵はわざとおどけた声を出した。 「元譲、首だけじゃなくて手首も気をつけて」 「なに?」 「鎧着るとして、手甲つける位置、少し深めにしないと」 「あぁ……って、そんなんで誤魔化せるつもりか!?」 「いや、でもちょっと見えてるよ」 「誰のせいだ!」 相当腹を立てているらしいが、手だけはさっさと鎧を身につけている。武将だから当たり前だが、手があまりにもなめらかに動くので、少しの間夏侯淵はその手の動きに見とれた。 「何だ、何見てるんだ。さっさと自分の部屋に戻れ」 「いや、俺も昨日ここで鎧脱いだから」 「自分の部屋で寝ろ!」 「ごめん」 「お前のごめんは口ばっかりだ」 昨夜は袍だけ脱いで、そのまま元譲の布団に上がり込んだのだ。いそいそと袍を引っかけ、もそもそと鎧をつける。鎧の上に紐をかけたり衣をかけたりするのが、夏侯淵はあまり得意ではない。普段は夫人か、戦に出ているときは従卒に手伝わせたりしているのだが、夏侯惇は自分一人でさっさと紐をかけていく。その指が、本当に美しく動いていた。 「……元譲、器用だよね」 「何年鎧着てるんだ、お前は」 「……俺はいつも人任せだから……」 あっという間に鎧をつけ終えた夏侯惇が、「貸してみろ」とくるくる紐をかけ始めた。 「都から来た将軍がみっともない鎧の付け方をしていたら士気に関わる」 「すいません……」 自分のすぐ後ろに立って、きつく紐を縛る夏侯惇の指先がどんな風に動いているのかを想像して、ちょっとドキドキした。何だかんだ言って元譲は俺に甘いのだと思うと、余計にニヤニヤする。 「昨日はどうしたんだ」 「昨日は朝服で済ませちゃった。どうせ役所の視察だけだったし」 「明日は元嗣にでもやらせろ」 「え〜?」 「いい気になるなよ」 さっさと腰に剣を佩くと、夏侯惇は部屋を後にした。 「待ってよ!」 夏侯淵も慌てて廊下に飛び出し、夏侯惇の後を追う。暫くそうして歩いていると、二人の姿を見つけてた県令達が慌てて走り寄ってきて、膝を付いて拱手の礼をした。 「お早うございます。お加減はもうよろしいのですか?」 「心配をかけてすまなかった。お陰ですっかり良くなったようだ」 夏侯惇が穏やかそうな顔を見せるので、県令は心底ほっとしたようだった。 「良くなられて何よりでございます。本日は軍装でいらっしゃいますな」 「衛士の閲兵をさせてもらおうかと思ってな。元嗣、お前は民政の書類などを見せてもらって、説明を受けておいてくれ」 「畏まりました」 鷹揚に頷いてみせる様などは、さすがに曹操軍一の将軍である。一昨日の今日でよくもまぁこれだけ堂々としていられると、夏侯淵は少しだけ心配してハラハラした。できるだけ体に負担がないようにしたつもりだが、あれだけ暴れていたのだし、第一昨日は丸一日気を失ったように眠っていたのに……。 だが夏侯淵の心配もよそに、夏侯惇は閲兵となったら兵の間を動き回り、調練にまで立ち会って、若い兵士の槍の持ち方を直したりしている。 「ちょ、元譲。体大丈夫?」 「何がだ?」 じろりと睨まれる。体を動かしていた方が気が紛れるのか。仕方なく夏侯淵も兵の間に入って、指導の役を買って出た。 夏侯惇が、体を動かしている間だけは自分のことを忘れていられると、そう思っていることはすぐに分かった。それだけショックだったのだろうし、忘れたいと思われているのだ。 だが気持ちを知られた以上、一気に攻め立てるしかないのだ。勝負はこの旅の間でつけなければならない。自分の戦はいつだってバカみたいに攻め込んで、敵に息をつかせないのが持ち味だ。俺はこのやり方しか知らない。 これは、戦だ。 城ではなく、心を奪い合う戦なのだ。 その夜、まだ眠りにつく前の夏侯惇の部屋を訪なった。夏侯惇は鎧を脱ぐ途中だったらしく、眉間に皺を寄せた。 「……何の用だ」 「用ならないよ」 「なら帰れ」 きつい眼差しを受けても、夏侯淵は気付かない振りをする。勝手に卓の前に座ると、酒を注いで飲み始めた。 「元譲、俺は、この旅の間に何度でも元譲を抱くよ」 「……戯れ言はいい。とっとと自分の部屋に戻れ」 「明日からまた行軍だね。どうして欲しい?障りがないように優しく?それとも、最初の時のように、思いの丈をぶつけた方が良い?」 夏侯淵が立ち上がると、夏侯惇は一歩退いた。外していた鎧を、付け直そうかと手が逡巡している。 「怖がらせたい訳じゃないんだ。ただ、俺が本気だって事を、元譲に知って貰いたいだけだよ」 「……お前のは、ただの肉欲だ。俺のことが好きだというのなら、こんな事はしないはずだ」 「……肉欲?」 「自分でそう言ったろう?」 「……さすがに伏波将軍は手強いね……」 言った瞬間に、夏侯惇の体に腕を巻き付け、強引に唇を奪う。舌が逃げるのを許さず、強引に絡めてきつく吸い上げる。そのまま体を壁に押しつけ、脱ぎかけていた鎧の留め具を外した。 「くっ…!ふっ、やめろ!」 夏侯惇の足の裏が、勢いよく鳩尾にけり込まれる。さすがの夏侯淵も体を折って咳き込んだ。 「げほげほっ、ぐっ……」 口元を拭うと、すぐに夏侯惇に視線を戻した。夏侯惇の頬は上気していた。それが怒りのためだけではないように見えるのは、自分の願望だろうか。 「……元譲にだって、肉欲はあるよね……」 「お前に対しては持ち合わせていない」 「今自分がどんな顔してるか知ってる?」 「俺を侮辱するつもりか!」 「元譲がその気持ちを認めてくれれば、俺は今日元譲を抱かなくても良いよ?」 「ふざけるな!」 腕を掴んで強引に臥牀に連れ込む。 「離せ!」 臥牀に膝の裏を押しつけられ、そのまま肩を押し込まれると、膝が折れて簡単に上体が臥牀に沈んだ。夏侯淵はすかさず夏侯惇の鎧を外し、帳の外に投げ捨てる。 「お前はけだものか!」 「そうかもね!」 明日のことがある。手荒なことはしたくないと思っても、夏侯惇の少し怯えた顔が自分の体の下にあると思うと、体中が滾ってくる。 「元譲…、俺がどれだけお前を好きか、元譲は知らないんだ」 「……こんな事をする奴の言うことを信じられるか!?」 そのままそっと目の覆布を外す。夏侯惇の顔が微かに強ばった。傷口に唇を寄せると、先日のように丹念に味わった。誰も、曹操ですらこの覆布を外した顔を見たことがないのだと思うと、余計にその傷ついた左目は愛おしく思えた。 「……よせ」 「何が?」 「お前、その傷に触れようとしたことはなかったじゃないか!」 「元譲が気にしてるから触れないようにしてただけだよ」 確かにあの時、一箭の矢が夏侯惇の左目を貫いた時、夏侯淵は恐怖におののいた。それは隻眼となることで、夏侯惇がもう二度と戦場に立てなくなるのではないかという恐怖だった。隻眼の男が残った目を酷使したために、そちらの目まで見えなくなるという話はよく聞いた。曹操の野望を実現するためならどんなことでもしてきた夏侯惇が、己を酷使して目を潰すのではないか。それを危惧した曹操が夏侯惇を戦場から遠ざけるのではないか。もし戦場から遠ざけられたら、夏侯惇はどうなってしまうのか。曹操から無用のものだと言われてしまったら、夏侯惇は普通ではいられなくなるのではないか。 それが、夏侯淵には身震いするほど恐ろしかった。 だが、それを夏侯惇は、あの矢が自分と夏侯淵を決定的に違う物に変えてしまったから、夏侯淵はこの傷口を恐れているのだと信じていた。そう思っていることは知っていた。自分はずっと元譲と俺は同じ物だと言い続けていたし、あの傷以来、それを言うことを控えてきたのだから。元譲が誤解しているのならそれで良いと思っていた。あの頃の自分は、自分の気持ちを夏侯惇に知られまいと必死だったのだ。 夏侯惇の左目を抉った傷。あれほど武に秀でた夏侯惇の顔に穿たれた、深い傷。それは余人が無遠慮に語って良いものだとは、夏侯淵にはどうしても思えなかった。夏侯惇はその傷を見る度に、陰で人が「盲夏侯」と呼ぶ度に、鏡を床に投げ捨てていた。だから自分はその傷に触れないようにしていただけだ。そんな傷があっても、夏侯惇の武にいかほどの疵が付くというのか。そう思うから、その傷がまるで存在しないかのように振る舞っていただけだ。 だがこうして目の前の傷に唇を寄せると、それは二人だけの秘め事のようで、愛おしさが募った。 「元譲、愛してる」 そのまま唇に口付ける。夏侯惇の体はびくりと強ばったが、抵抗は少なかった。無駄な事だと悟ったのだろう。その意地の張りようが元譲らしいと口元に微笑を上らせた。 「元譲、元譲、俺の元譲……」 それでも頑として歯を食いしばり、本意ではないのだと示している。夏侯淵は根気強く歯列に舌を這わせ、歯茎を辿り、ほんの僅かに開いた歯の隙間から舌で押し入ろうとした。 「ん…っ」 さすがに、逃れようともがいた。だが、確かに無駄な抵抗なのだ。ほんの少し防御が崩れた隙に夏侯惇の口内に押し入り、舌を絡め、唾液を啜った。 「んんっ…、んくっ……」 息が苦しいのだろう、夏侯惇の息が荒くなる。そのまま、手を下半身の伸ばすと、夏侯惇はきつく閉じていた目を開けた。 「やめろ!」 「元譲、ここは、良いって言ってるよ?」 半ば勃ち上がっている物を、手のひらで包み込む。少しの刺激で、そこは更に形を変えた。 「……やめろ、駄目だ……!」 「じっとしてて、元譲。すぐに達かせてあげる」 「やめてくれ…!」 顔を白くして、夏侯惇は泣きそうな顔をした。それでもなお夏侯淵がそこをしごくと、夏侯惇は悲鳴じみた声を上げた。 「お前の知らないことがある……!」 「……元譲?」 白い顔。何を恐れているのか。 「……俺は、昔男に……身を任せていたことがある……」 「……出奔していたときの話……?」 夏侯淵が慎重に聞き返すと、夏侯惇はハッとしたように言葉を切った。白い顔がわななくように震えている。泣き出すのかと思ったが、涙は出てこなかった。 「知ってるよ。元譲が生きるために、生きてショウに戻ってくるために、手段を選ばなかったことは」 「……じゃあ、何で……」 「……俺は、元譲がどんな経験をしていようが、その経験を呑み込んで今の元譲があると思っている。だから俺は、元譲の過去を否定はしない」 夏侯惇は首を振った。 「男が、怖い?」 返事はなかった。ただ、微かに震えている。 「それじゃあ、俺が怖い?」 やはり、返事はない。 「……忘れちゃえとは言わないよ。俺は元譲の過去を否定しようとは思わないし。でも、ずっと昔の敗戦を、いつまでも気に病んだりはしないだろう?戦に臨んで、昔の敗戦を思い出して、臆して出撃をかけられないような男じゃないだろう?同じ事だよ」 当たり前のようにそう告げると、夏侯淵は夏侯惇を口に含んだ。夏侯惇の手が咎めるように夏侯淵の頭にかかったが、きつく握りしめていたその手は、途中で力が抜けていった。 「っ……、はっ……」 元譲の微かな喘ぎ声が聞こえる。必死で快楽を怺えているのか。その声だけで達きそうになった。 「元譲……」 「んんっ」 「元譲、全部出して。俺が全部受け止めるから」 「くっ、んっ!!」 飲み込むように吸い上げると、夏侯惇の腕が自分の頭を抱きしめるのを感じた。 乱れさせたい。 この人を、淫らに蕩けさせたい。 他の何も考えられないほど、俺のことを感じて欲しい……!! 「―――――!」 精を吐き出して肩で息を吐く夏侯惇を、夏侯淵は抱きしめた。暫くして落ち着いたらしい夏侯惇が、きつい目で夏侯淵を睨みつける。 「貴様…!」 「駄目だよ、元譲。俺にそんな顔を見せちゃ。その目がどれだけ男に劣情を催させるか知ってる?」 「何を言ってるんだ!?気が狂ってるとしか思えない!」 「そうだね。俺はきっと、とっくにおかしいんだ。元譲のことしか考えられない」 強く抱きしめると、夏侯惇は嫌そうにもがいた。 「……お前は、俺の触れて欲しくないところばかりを抉ってくる……」 「それが元譲を損ねるものだとは、俺は思わないよ」 「俺は触れて欲しくないんだ!」 「愛してる。もしも元譲がそれを疵だと思うなら、その疵ごと愛している」 「離せ!」 「離さないよ。俺はもう二度と元譲を放さない!」 「いやだ!」 無理矢理に唇を結び、体を絡めて抱きしめた。一瞬、そのまま帯を解こうかと思ったが、必死の理性でそれを抑えた。明日からはまた次の県城まで行軍が始まる。自分は夏侯惇を傷つけたいわけでも苦しめたいわけでもないのだ。 「元譲、元譲、俺を好きでしょう?」 「ふざけるな!」 「でも元譲は、俺の肌の熱さを知ってるでしょう?」 「……っ!」 「俺は、元譲を愛してるんだ。何度でも言うし、何度でもするよ。今まで俺は元譲に俺の気持ちを隠し続けてきたけど、もう隠さない。何十年もずっとこの気持ちを怺えてきたんだ。ここから先はもう我慢なんてしないよ。元譲だって俺を好きでしょう?何が怖いんだ?俺がすぐ飽きるって、本気で思ってるのか?俺が何年この気持ちを怺えてた思ってんだよ!」 「飽きるに決まってるだろう!?すぐに満足して、すぐに飽きるに決まってる!」 「飽きなければ良いのか!いつまでも元譲だけを愛し続ければ、元譲は俺を愛してくれるのか!?それなら答えはもう出てる。俺は元譲を一生愛し続ける。あんまりガキの頃から元譲がのことが好きで、元譲を好きでない自分なんて想像もつかない位だ!元譲は一生かけて、俺がお前に惚れてるって事を確かめれば良いんだ!」 激した自分を、夏侯惇は悲しそうな顔で見つめていた。あんまり悲しそうな顔だから、夏侯淵の方が泣きたくなった。 「……お前は、子供過ぎる……」 その台詞は、曹操から既に聞かされている。 『元譲が恐れているのは、お前との交わりではない。お前が子供過ぎることだ』 伝わらないもどかしさに、夏侯淵は絶望的な気持ちになった。 こんなに愛しているのに、なぜ伝わらないのか。この気持ちが伝わりさえすれば、元譲は俺を受け入れてくれるのに……。 夏侯淵は言葉にする替わりに、きつく夏侯惇を抱きしめた。夏侯惇は、今度は抗うことをしなかった。 誰よりも愛しい夏侯惇の体が自分の胸の中にある。それなのに、こんなに悲しい気持ちがするのはなぜだろうか……。 行軍中の夏侯惇は、自分の感情を一切消したようだった。当たり前に行軍の指揮を執り、当たり前に夏侯淵と話し、当たり前に夏侯淵と飯を喰って、当たり前に眠った。あまりにも当たり前の、普段通りの態度で、周りの者達はあの県城で何が行われたかなど、きっと露ほども思い当たらないだろう。韓浩は韓浩で、こちらも全くいつも通りの無表情を貫いている。なんだか気にしているのは自分だけのようで、夏侯淵は一人で気まずかった。 「この辺はもうすっかり元通りだな」 「そうですね。まだギョウに近いですから、復興も早かったのでしょう。ショウの情報はお持ちですか?」 「無論だ。主公が大分力を入れて建て直されたが、それが民の心のどこまで入っているか……」 官渡の戦の折、曹操の力を削ごうと、袁紹は曹操の郷里であるショウを徹底的に狙い、ショウは一時袁紹軍の手に落ちた。郷里から人や物の支援が無くなり、曹操はかなり苦しい戦を強いられたのだ。それは、同じ郷里である夏侯惇や曹洪達にも大きな打撃だった。 「まぁ、主公の仰有るとおり、慰撫に勤めるしかありますまい。幸い将軍方は民の受けが良いので助かります。豫州に入れば、地元の英雄としてもっと喜ばれるでしょう」 「だと良いがな」 夏侯惇は僅かに笑って夏侯淵を見たが、夏侯淵は戸惑って、一瞬話に乗ることができなかった。 「何だ、妙才。お前がそんな顔をしていては、兵達の士気が上がらんぞ」 「ご、ごめん……」 任務に身が入っていないわけではない。ただ、普段通りの二人の態度が理解できないのだ。 県城に入れば、当たり前のように夏侯淵は夏侯惇を抱いた。それは抱いたなどというものではなく、命懸けの行為だったし、ひどい暴力でもあった。夏侯惇は抗い続け、夏侯淵を罵った。次第に体は馴れてきたが、体が馴染めば馴染むだけ、心は頑なになっていく。それでも、県令達の前では全く夏侯惇は平静な顔をしたし、行軍に出れば何事も無かったような夏侯淵に接した。 互いの心はもうかなりギリギリの所にあると、二人とも分かっていた。それでも譲れなかった。 これは、人生を懸けた戦なのだ。それならば、互いに退けるはずがなかった。 いつまでも平行線を辿るままこの旅を終えるのか。気が狂いそうだと思っていたその時、懐かしい風が吹いた。 心を揺さぶる、この香。 どこまでも甘く、心を蕩かせる、故郷の香。まだ自分たちが何者でもなく、ただ二人いつまでもじゃれ合っていた頃の、懐かしいショウの風だ。 1 2 3 4 |
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