言焦の風

   



 ショウの県城に入ると、さすがに県令はよく心得ていた。韓浩の言うとおり、夏侯惇・夏侯淵は地元の英雄である。二人の心の有り様は県令よりも官吏達がよく心得ており、彼らは県令にも将軍の遇し方を説いていたようだ。出迎えは質素で、官吏達は晴れやかな顔で一行に頭を下げるが、仕事の手を休めることはない。夏侯惇も夏侯淵も、その様子に満足そうに頷いた。
「故郷がこの様であるというのは、ありがたいことだ」
「畏れ入ります。ところで将軍様、遠路の旅、お疲れではございましょうが、実は早々に面会を申し出ている者がございまして」
「面会?」
 県令は頭を下げながら、何やら含み笑いなどをしている。
「はい。ぜひ将軍方のご逗留を願えないか、と申されて」
 県令が官吏に向かって軽く頷くと、すぐに懐かしい顔が通されてきた。一瞬二人は息を呑んだ。そこに立っていたのは、年は二人より僅かに上、自分たちと面差しの似た、叔父の姿だった。二人は即座に膝を付いて拱手の礼を取り、叔父に拝した。
「五叔ではありませんか。叔父上、お懐かしい!」
「叔父上から来ていただかなくても、我々がすぐにお伺いしようと思っておりましたのに!」
「将軍方がわざわざ訪なって下さるなどとは畏れ多い」
「またその様に他人行儀な!昔のように、どうぞ名前でお呼び下さい」
 五叔と呼ばれたこの叔父は末子であり、夏侯惇達と年も五つしか違わなかった。二人にとっては、叔父というよりも兄のような存在である。性質の穏やかなこの叔父は、何度勧めても都に来ることを拒み、故郷で墓守を続ける頑固な所もある。
「積もるお話しもおありでしょう。今日は一日ご自宅で旅の疲れをお取りになって、ご視察は明日からでも宜しゅうございますか?」
「何よりのもてなしだ。礼を言う」
 二人は県令に向かって笑顔を見せると、簡単な采配だけ済ませて後の事は韓浩に託し、そのまま夏侯の屋敷に向かった。
 屋敷は、昔のままだった。
 曹崇が曹騰の養子になるまで、この屋敷はこんなに大きな物ではなかったそうだ。糊口をしのぐのが精一杯、という暮らしをしていたらしいから、当然屋敷と呼べるような物ではなく、粗末な家で窮屈に身を寄せ合っていたらしい。だが、三人はその暮らしを知らない。曹騰は曹崇を貰うと、夏侯の家に新しい屋敷を用意し、見苦しくない程度に家人を配した。急に暮らし向きが一変したが、もちろん夏侯家でそれを賄えるはずはない。その費用は曹騰・曹崇が出し続けていたらしいが、今ではもちろん夏侯惇・夏侯淵が賄っている。一族が権門に登っても、曹騰が用意した屋敷をそのままに留め、決して大袈裟にしようとしないところが、二人には何よりありがたかった。
「あぁ、いつ来ても自分の家ってのは良いな」
「懐かしいな、この刀傷。妙才がやった奴だろう?」
「そうそう。刀を貰って嬉しくって振り回してな」
「兄上から妙才がえらく怒られて」
「今思うと、あれ刀じゃなくて、ただの切り出しか何かだったろう?」
「あの頃、刀も切り出しも包丁も、区別つかなかったもんなぁ」
「そんな頃があったなんて、今の二人からは想像もつかないけどね」
 三人は室内に至るまでの道中、懐かしい話で盛り上がった。
「そうだ叔父上。いい加減にギョウに来てくださいよ。父上がショウに戻りたがって大変なんです。主公のお父上が徐州であんなことになって、先年元譲の所の大伯もお亡くなりになったでしょう?もう父上、都にいても寂しいとか言い出して、ショウに帰る帰るって。叔父上がこちらに来てくだされば、父上も帰るなどとは言い出さないと思うんですよ。ね?いい加減諦めて、ギョウに来ませんか?」
「ありがたいお話しだけど、私はああいう所は恐ろしくて嫌いだよ。それに私がここにいないと、お前達がショウに戻ってきたとき、誰がこうして出迎えるんだ?お前達の部屋も兄上の部屋も、昔のままいつでも使えるようにしてあるから、兄上にはその様に伝えておいてくれよ」
「やめてくださいよ、叔父上!父上、速攻で帰って来ちゃうから!」
「好きな所に住まわせてやればいいじゃないか」
「主公が、もう一族が離れて暮らすの嫌がるんですよ!人質に取られるかも知れないし、それでなくても徐州のことがあったから、俺達だって心配なんですよ」
「なんだ、そんな臆病な事を言っていると、典軍校尉の名が泣くぞ」
「も、叔父上は暢気なんだから!」
 のらりくらりと煙に巻く様子は、僅か五つの年の差とも思えない。二人にとってこの叔父は、やはり兄ではなく叔父なのだと、いつも思い知らされる。
「はいはい、で?荷物はどっちに運ぶ?自分たちの部屋?それとも、昔みたいに元譲の部屋を二人で使うんで良いのかな?」
 その問いに、一瞬二人の動きが止まった。
「ん?どうした?もうそんな子供じゃない?」
「……いや、叔父上、俺達のこと何だと思ってるんですか……」
「私の自慢の甥っ子だよ。妙才、いっつも気がつくと元譲の部屋にいるから、お前の部屋は必要ないのかって、兄上達いつも怒ってたじゃない」
「……じゃあ、元譲の部屋で」
「おい」
 さすがに夏侯惇が咎めるが、夏侯淵は知らん振りを決め込んでいるし、叔父がそれに気付いた様子もない。
「はいはい。どうせそんなことだろうと思ってたよ」
「ちょ、叔父上!何でそんな窮屈な思いをしないといけないんですか!昔と違って、こいつこのでかさですよ?」
「棟が違うんだから面倒だよ。同じ部屋にしときなさいって。ああ、だったら隣の子雲の部屋使う?子雲いないから、昔と違って綺麗だよ?」
「次に子雲が来たときに何か言われるといやだから、元譲の部屋で良いです」
「従兄弟なんだから仲良くしなさいよ。まだ元譲の弟に焼き餅焼いてるの?」
「だから、俺今いくつだと思ってるんですか!」 
「身内の小さい子なんて、思い出の中の年から大きくならないもんなんだよ。お前達、小さい時にショウから出ちゃったからねぇ」
「途中で戻ってきたでしょう!?成人だってここで迎えたし、嫁取りだってここでしましたよ!大体小さい小さいって、叔父上だって五つしか違わないくせに!」
「ああ残念。私の方が叔父さんだから、叔父さんってのは年喰ってるもんなんだよ」
「うわっ!むかつく!」
 笑いながら叔父は二人を夏侯惇の部屋に押し込んだ。昔のままの、懐かしい部屋。窓から見える白蓮の枝振りも変わらない。二人は懐かしさに言葉が詰まった。
「じゃあ、食事の支度ができるまでゆっくりしてて下さいね」
 叔父が扉を閉めても、二人はそのまま暫く窓の外を眺めていた。二階から見下ろす中庭に、昔の自分たちが見える。気がつくと、夏侯淵が夏侯惇の後ろに立って、肩に手を置いていた。
「覚えてる?元譲。あの雪柳の陰に、昔よく隠れてたよね」
「そうだな。今見ると、そんなに大きくもないんだな」
「うん。それなのに母上達が俺達を探しに来ても気付かれなかったっけ……」
 息を潜めて、体を寄せ合い、誰にも見つけられないのが嬉しくて、二人はずっと隠れていた。痺れるほどの幸せ。なんて素晴らしい日々だったのだろう。
「……多分、俺はあそこで、元譲への気持ちを知ったんだ……」
 後ろから抱きしめても、夏侯惇は抗わなかった。項に唇を寄せ、小さく啄む。
「……主公にはかなわないな……」
 夏侯惇の呟きは小さかったが、夏侯淵の耳を打った。
 主公にはかなわない。
 夏侯淵も同じように思っていた。
 曹操は、心の一番柔らかいところを衝いてくる。ここからの眺めを見ていたら、一体心に何を纏えるというのか。
「元譲、元譲……」
 後ろから、頬に手を沿わせ、顔を引き寄せる。唇を重ねても、それでも夏侯惇は抗わなかった。
「……元譲……」
 それ以上、何が言えただろうか。夏侯淵はただ「元譲」と名を呼びながら、いつまでも唇を貪り続けた。



 夕飯に呼ばれると、夏侯淵は後ろ髪を引かれるように夏侯惇から体を離した。心なしか夏侯惇の頬が上気している。夢みたいだ。今迄の道中を思えば、夏侯惇がこんな反応を示すなんてありえないのに。
 食堂に行くと、自分の子供と同じ年頃の従兄弟達が顔を輝かせてこちらを見ていた。夏侯惇は子供達にせがまれるまま武勇伝を話して聞かせている。どこの子供もそうだが、大抵聞きたがるのは呂布の話だ。呂布が死んで五年。奴の姿はまだ豪傑として人々の心の中に輝いてるらしい。
「それで元譲の従兄上は呂布の軍を引きつける為に走ったの!?」
「怖くなかった!?」
「怖くはないさ。ただ奴の馬は死ぬほど速いから、追いつかれないように必死だったけどな」
「やっぱり赤兎馬は速いんだね!」
「それでどうしたの!?」
「隘路に誘い込めば、戦列が後ろに伸びて細長くなる。分かるか?」
「分かります!」
「うん。そうしたら途中に兵を伏しておいて……」
 あの呂布と実際に自分の従兄が戦ったのだ。子供達は口々に戦の話を聞きたがり、夏侯惇も珍しく微に入り細に入って、戦の話をしてやっている。
「でも何で直接撃ち合わないのですか!?」
「そうですよ!従兄上なら直接撃ち合ったって、負けたりなんかしないでしょう!?」
「でも相手は呂布だよ!?」
「何言ってんだよ!呂布にだって負けるもんか!元譲の従兄上は強いって、みんな言ってるぞ!」
 豪傑呂布に対する憧れに似た想いと、自分の従兄が英雄と呼ばれる誇らしい気持ちが、なかなか複雑に絡まっているようだ。夏侯惇は微笑ましい気持ちになった。
「ははは、そうだな。まぁ、軍師の策だからしょうがない。良いか?戦場に出たら、それがどんなに自分のしたい戦と違っても、総大将や軍師の言うことは絶対だ。お前達もそれだけはよく覚えておけよ。で、お前らの中でこのまま俺と一緒に都に行って、将になろうというのはいないか?」
「俺!俺を連れてって!従兄上!」
「俺も!!」
 夏侯惇は楽しそうに笑うと、幼い従弟達の頭を撫でてやりながら、叔父の顔を伺った。
「叔父上、連れて行っても良いですか?」
「まぁ、本気でやる気があるならねぇ。こないだ袁紹軍が攻めてきてたときは、泣いてたんだよ、この子達」
「ははは。暫く揉んでやれば、すぐに一人前の兵になりますよ」
 従弟達は滅多に会うことのできない夏侯惇達を前にして興奮している。それはそうだろう。自分の息子とだってなかなか会えないのに、離れたところに住んでいる従兄弟になど、数えるほどしか会ったことがないのだ。この機会を逃してはならないと、我先に「俺を都に連れて行って!」と手を挙げてくる。年嵩の従弟達は自分の息子達とそう年も変わらない。連れて行くなら今のうちだ。あまり年が行ってしまうと、体がついてこなくなることもあるだろう。
「どうだ。うちに来るか?四叔の子供達も都にいるし、うちの息子達は年回りも近い。将来一緒に我が軍を背負って立ってみるか?」
 この道中、兵に加わりたいと志願してくる者も結構いた。募兵が目的ではないが、兵が増えるのはいつでも歓迎だ。ましてやそれが血の繋がった従弟なら。
「連れて行ってください、従兄上!」
「おいおい、都に行ったら、こんなに優しい従兄のおじさんじゃないってお前達分かってるのか?夏侯元譲といったら鬼将軍で有名だぞ。こういう時は『どうぞ麾下にお加え下さい、夏侯将軍』くらい言えないと、すぐぶっ飛ばされるぞ」
あきれたように叔父が混ぜ返すと、夏侯惇はわざと穏やかそうに笑ってみせた。底の見えない笑顔だ。これにみんなが騙される。
「まさか、俺は軍の中でも優しいんで有名ですよ」
「嘘つけ元譲!」
 即座に夏侯淵が突っ込むと、座は笑いに包まれた。



 ひとしきり笑った後、翌日のことがあるからと、食事の席はお開きとなった。久しぶりに大笑いしたような気がする。笑いすぎて頬が痛い程だ。
「ホントに連れてく気?」
 夏侯淵が笑いながら訊くと、夏侯惇はまじめに頷いた。
「そのつもりがあるなら連れて行く。そろそろまじめに仕込まないと、兵卒で終わってしまうからな」
「じゃあこっちにいる間、ちょっとしごいてみるか。音を上げるようならそれまでだけど」
「いや、意外と叔父上は、そういう鍛錬だけはさせてるんじゃないかと思うんだがな」
 夏侯の家は、高祖劉邦の時代に遡るまでの武門の家だ。没落していた間でさえ、その気概を失ったことはない。
 当たり前のように夏侯惇の部屋に一緒に入る。扉を閉めると、一瞬二人の間に沈黙が走った。
「……元譲」
 伸ばしてきた夏侯淵の腕を、夏侯惇はかわして卓に手を這わせた。
「……懐かしいな……。疵の一つにまで、思い出がつまっている」
 人を殺して故郷を出奔し、ほとぼりが冷めるまで各地を流浪した。何が何でもショウに還ろうと、そう思ったのは何故だったのか。
「元譲」
 後ろから、夏侯淵に抱きしめられた。
 そう。
 ショウには、夏侯淵がいた。
 夏侯淵が待っている。そう思えば、どんな苦痛にも耐えられた。
「元譲、一度だけ訊いても良い?」
「……なんだ」
「初めて男に身を任せたとき、俺のこと、考えた?俺のこと、少しは考えてくれた?」
 かき抱く腕が強い。声がかすかに震えている。夏侯惇は目を閉じた。この地で、自分に嘘をつくのは難しい。一瞬ためらったが、夏侯惇は押し出すように言葉を口に乗せた。
「……考えたよ……。これがお前でなくて良かったと思った」
「そっか。俺のこと、考えてくれたんだ……」
 まだ、自分はたったの十四だった。髭も生えそろわぬような幼さで、行く当てもなかった。役所に突き出されたくなければと、汚らしい小屋の中で無様に這わされた。生きていくことだけを考えた。生きて、ショウに帰るのだ。妙才のいる、ショウへ。閉じた瞼の奥に浮かんだのは、いつでも自分の傍らにいた、夏侯淵の日向のような笑顔だった。男の手が自分の体を穢していくのを感じながら、この手が妙才の手でなくて良かったと思った。俺の大切な妙才の手でなくて良かった。触れあわなければ、別れることはないのだ。俺たちはいつまでも一緒にいられる。そう思いながら、夏侯惇は男に身を任せた。
「元譲、俺の元譲……」
 夏侯淵の手が頬にかかる。夏侯惇はそっと目を閉じた。夏侯淵の唇。夏侯淵の舌。本当は、いつだって焦がれていた。だからこそ、絶対に触れたくなかった。一度でも知ったら、二度と手放せなくなる。もっと欲しくなる。もっと求めたくなる。
 ……どうせ、すぐに満足して、俺を手放すくせに……。
 夏侯淵に唇を貪られながら、夏侯惇の胸は悲鳴を上げていた。夏侯淵が自分を手放した後、それでも自分はきっと夏侯淵を求めてしまうだろう。自分は、夏侯淵の肌の熱さを知ってしまったのだから。知らなければ良かった。ずっと知らずにいれば、肌の熱さに焦がれたりはしないのに。
 それでも、それでも今だけは、自分の気持ちに嘘がつけなかった。
 初めての夜のように、夏侯淵に体を抱き上げられた。だがあの日とは違い、今日は臥牀の上に、優しく横たえらえる。まるで壊れ物のように。
「元譲…」
 袍を結ぶ帯を解かれる。袷を緩めながら、首筋に夏侯淵の唇が吸い付く。目の覆布を外され、そっと額にキスをされた。夏侯惇は、夏侯淵の頬を手でそっと包んだ。
「元譲?」
「……どんな顔してこんなことしやがるんだ……」
「こんな顔だよ」
 笑いながら、夏侯淵が夏侯惇の唇に軽く唇を合わせた。夏侯惇は軽く口を開けて、自分から夏侯淵に舌を絡めた。首に腕を回し、強く抱きしめる。
 今だけだ。
 今だけなら、夢だと思って諦められる。
 懐かしいショウが見せた、優しい夢だと。
「……妙才……」
「元譲……」
 口づけは激しかった。唾液が顎を伝う。その舌の熱さに、ひどく求められている気がした。こんな風に求めるのは最初だけだ。いつだって、俺の後をついて何でも真似をしてきた。俺と同じならばそれで良いのだ。俺を抱いて、俺を自分の物にしたいだけだ。こんな気持ちはいつまでも続かない。分かってる。でも、今は求められている。切なくなるほど、強く求められている。ならば今だけは、俺がこいつを求めても構わないだろう?
「元譲、元譲、愛してる!愛してる、元譲!俺の物だ……!」
 うわごとのように囁きながら、夏侯淵は夏侯惇を抱き続けた。体中に唇を寄せ、自分の証を刻むように吸い上げていく。
 こんな事をしなくても、最初から俺は妙才の物だ。
 でも、妙才が俺の物だったことは、今までに一度だってなかった。
 夏侯惇は夏侯淵の背に手を回した。ただ、抱きしめる。夏侯淵のように、愛しているとは言わない。そんな言葉は、口に出した途端に消えていく言葉だ。
「妙才……」
 夏侯惇は目を閉じた。
 これは夢だから。
 いつか醒める、夢だから―――――。

 

「元譲、起きれる?」
 優しく髪を撫でられ、夏侯惇は目を開けた。朝日が眩しい。すぐ脇に、夏侯淵の顔があった。満足そうに笑っている。
「……そうか……」
 その笑顔に一人納得して、夏侯惇はまだ眠りたがっている体を無理矢理起こした。
 昨日は、明け方近くまで寝かせてもらえなかったのだ。節々がだるく、自分の体ではないみたいだ。こちらの気持ちも知らずに、夏侯淵がひどく嬉しそうな顔して唇を寄せてきたので、夏侯惇はそのやに下がった顔を手のひらで押しのけた。
「何だよ、元譲。ちゅーとかないの?」
「誰がするか」
「何だよ!昨日はあんなに可愛かったのに」
「誰が可愛いだ」
 夏侯惇は不機嫌そうに自分の服を直した。いつものように、体が清められている。何となく、その手際がむかついた。
「ねぇ、元譲、何で今迄、こんな風に可愛くしてくれなかったの?」
「何が」
「俺、本当にこの道中、元譲にひどいことしたくないのにひどいこと沢山しちゃって、すごい自己嫌悪だったんだよ?」
「俺は今だって、お前とはしたくねぇよ」
「じゃあ何で昨日はあんなに?」
 その言いぐさに、思わず頬がカッと熱くなった。俺の気も知らないで……!!
「……ショウだからだろうな。……あぁくそ、本当に主公、余計なことを……!」 
 ここでなければ、夏侯淵を拒み通す事だってできたのに。
 ニヤニヤとこっちを見ている夏侯淵に腹が立ち、乱暴に夏侯惇は立ち上がった。手早く服を身につけていく。
「……今日は変な所に変なモンつけてないだろうな?」
「大丈夫だと思うけど……」
「……なら良い」
 さっさと身支度を調えると、夏侯惇は夏侯淵を置いて部屋を出た。一人になって初めて、小さな溜息をつく。
「本当に、主公ときたら余計なことを……」
 何でショウで話し合って来いなどと。こんな事をさせてどうしようというのだ。
 曹操の考えていることが全く読めないが、何か考えがあってのことだろう。いや、案外ただの野次馬根性かもしれない。曹操は自分の女遊びに夏侯惇達を巻き込もうとするところがあった。しかしいくら何でもたかがその程度のことで、ここまでの事はしないとは思うのだが……。
 何にしても、この采配ははまり過ぎている。だが、曹操の炯眼に畏れ入りつつも、やはり余計なことをという気持ちが否めない。こんな所にやられなければ、夏侯淵とあんな事にはならなかったのに。
 ……いや、もしかしたら、自分は心のどこかで望んでいたのかもしれない。この道中、夏侯淵に抱かれ続けた。どれだけ拒んでも、夏侯淵は決してそれを許さなかった。夏侯淵とこんな関係になりたくないという気持ちは本当だったが、それでも無理矢理関係を強要されるうちに、心の中に押し込めていた自分の欲望が頭をもたげたのだろうか。いや、しかし俺は奴に抱かれたいと思ったことはないのだ。触れあいたいと思ったことはある。だが、何故俺が抱かれなければいけないのだ。俺は女ではないのに……。
 そこまで考えて、夏侯惇は我知らず赤くなった。
 ……浅ましい……。
 思わず苦々しく下を向く。こんな事を考えるなんて、バカじゃないのか、俺は……。
 朝食の席で、上機嫌の夏侯淵と不機嫌な夏侯惇の顔を見比べ、叔父夫婦は顔を見合わせた。
 


 その日は巡視の仕事に一日費やした。どこをつついても役所には何の問題もないようで、それは城外でも同じようだった。さすがに曹操の郷里である。おかしな事をしたくてもできない、というのが実情かもしれない。袁紹軍の残した被害などもつぶさに検証したが、それもすでにほとんど元通りになっていた。
 宗廟へ詣でる吉日を調べて貰ったら、どうやら五日も先のようだ。仕方がない。役所の視察に、城内、城外の視察、慰撫、閲兵に調練まで徹底的にできる仕事はして、結局募兵まですることにした。仕事もしないで故郷にいるのが、何となく気詰まりだった。遊びで来ているのではないと、内外に見せているような気もする。だが本音を言えば、二人でぶらぶらしていると余計なことを考えてしまうので、それを避けたいだけだったのかもしれない。
 夜は、ひたすら抱き合った。お互いに、この刹那の快楽を追っているだけだと夏侯惇は苦く思った。
 その夜も、夏侯淵は当たり前のように自分を求めてきたので、夏侯惇はさすがに夏侯淵を叱りとばした。
「お前、明日が何の日か分かっているのか?」
「宗廟に詣でる日」
「分かってるなら、今日ぐらいは大人しく寝ろ!大体こう毎晩やられたら、さすがに死ぬわ!」
 無理矢理引き離そうとしたら、夏侯淵は意地になったように夏侯惇の体を抱きしめてきた。
「おい!お前はまだ父上生きてるかもしれないけど、俺の親父はあの墓の中に入ってるんだぞ!いくら何でも、父親の墓参りに行く前日位、身を慎ませてくれ!」
「だって元譲、ショウを出たらまた何だかんだ言って、俺との関係を終わらせようとするんだろう?言っとくけど、俺はそんなことは絶対に認めないからな。ショウにいる間しか素直になれないって言うんだったら、俺はここにいる間、一秒だって無駄にしないぞ!」 
 夏侯淵の目は真剣だった。
 そう。夏侯淵の言うことは間違ってはいない。ショウにいる間だけ。そう思っていたから、自分の心のままに振る舞うことができたのだ。これは、夢なのだ。ショウの風が見せる夢なのだ。
 何と言ったら夏侯淵が大人しく引き下がるか思いつかなくて、夏侯惇は睨むように夏侯淵を見つめた。このまま事に持ち込まれることだけは、何としても避けなければいけない。
「……」
「ほら!元譲答えられないじゃないか。そうするつもりなんだろう?何で?何で終わりにしないといけないんだ?」
 夏侯淵は上から被さるようにして、夏侯惇の襟元に掴みかかった。それは体を合わせる前の姿勢によく似ていた。
「よせ。お前だって、三叔から墓参を頼まれてるんだろう?」
「頼まれてるよ。爺様の分と、叔父上方の分、父上の替わりに詣でてくれって、供物だって別に預かってきてる」
「だったら、こんなのはまずいって分かるだろう?」
「……俺は、祖先の祀りより、元譲の方が大事だ」
「これだから枝族は!俺は本家を継いだから、そういう訳にはいかんぞ!第一今回の行軍の目的は、主公のお父上の為に、主公に替わってうちの宗廟を祀ることだろう?分かってんのか、このバカ!」
「何とでも言えよ!どうせ元譲は俺より主公が大事なんだろう!?」
「子供か!」
「だから何とでも言えよ!」
 強引に唇を寄せてくる。力が同等だとしても、上に位置する方が力は強くなる。下に置かれている自分はそれでなくとも不利なのに、最初から膂力は僅かに夏侯淵が勝っている。この行軍中に、何度も見せつけられた構図だ。だが、身を浄めなければならないこの時期にこんな事をしていては、明日陵内の父親に合わせる顔がないではないか。
「分かったから!分かったから離せ!」
「何が分かったんだよ!」
 夏侯淵の胸が自分の胸の上に乗っている。夏侯惇は肩と肩の間に腕を入れ、何とか距離を取った。
「……ショウから出ても、お前を……受け入れればいいのか……」
「口先だけで俺を欺けるとでも?」
「頼む。本気で言っている。信じてくれ」
「……元譲は嘘つきだから、信じられない」
 夏侯淵の指が、夏侯惇の唇を辿った。その指が、口の中に入り込んでくる。仕方なく、夏侯惇はその指に舌を這わせた。軽くしゃぶり、ゆるく吸い上げる。
「……元譲……」
「……頼む。もしお前の父上が亡くなったとしても、お前は墓前でこんな事ができるのか?俺は父上をもう亡くしてるんだ。頼むから、俺に不孝をさせないでくれ」
 一瞬夏侯淵の頭に、自分の父親と、夏侯惇の父親の姿が浮かんだ。どこかおどけた自分の父親と違って、夏侯惇の父上は気概と矜恃を失わない立派な人だった。さすがにその姿を思い浮かべれば、自分の心も微かに鈍る。
「……ここを出ても……?」
「約束する」
「ショウを出ても、自分の心に嘘をつかないで、俺と愛し合ってくれる……?」
「約束するから」
 夏侯淵は暫く夏侯惇の顔を訝しげに見つめていた。夏侯惇はいつでも平気で夏侯淵に嘘をつく。うっかり信じて痛い目に遭ったことが、今までに何度もあった。
「じゃあ、約束のキスをしても良い?」
「……キスだけなら……」
 夏侯惇はどうでも体を浄く保つために腐心して、かなりの譲歩を見せているようだ。ここまでされるとさすがに申し訳なくなってくる。
「分かった。じゃあ、キスだけ」
 ほっとしたような夏侯惇の唇に、夏侯淵は唇を重ねた。
 薄くて冷たい唇。それに反して、その舌は熱く甘い。まるで、夏侯惇そのものだ。
「元譲…」
 夏侯淵は夏侯惇の甘い唇を絡め取り、吸い上げて、歯茎の裏をなぞって口蓋を舌先でくすぐった。それでもまだ足りない。もっと、もっと欲しくなる。
「くっ……、しつこい……っ!」
 口元に流れた唾液を指先で掬いながら、夏侯惇が赤くにじんだ目元で夏侯淵を睨みつけた。そんな顔で睨みつけられては、なんだか違うことを想像してしまうではないか……。思わず夏侯淵はすでに暴れたがっている下半身を押しつけてみた。
「ごめん……なんか、こんなになってきた……」
 夏侯惇はその感触に本気で怒ったようだった。
「貴様……!」
「分かってる!これ以上は何にもしない!」
「当たり前だ!!」
「でもキスぐらいでこんなになっちゃう俺の正直な下半身を可哀相だと思わない?」
「思うか!」
「……だけど、元譲のだってほら……」
「触るな!!」
 本気の拳を頭に喰らって、夏侯淵はやっと諦めたように夏侯惇の体を抱きしめながら布団の中に潜り込んだ。
「ちぇ〜。良いよ、今日は大人しくする。その代わり、約束を忘れるなよ」
「……ああ」
 向き合って体を横たえ、互いに抱き合うようにして眠った。子供の頃のように。夏侯淵は夜中に何度か目を覚まして、夏侯惇の寝顔を見つめた。
 良かった。俺の腕の中にいる。
 夏侯惇がそこにいることを確認すると、夏侯淵はその度ごとに緩い眠りに身を委ねた。



 翌日は朝からよく晴れた。朝一番に水で体を浄めると、白い喪服に身を包む。夏侯の家の者はもちろん、夏侯惇がギョウから曹操の名代で来ているのだから、韓浩以下、同行した兵や県城の官吏達も、夏侯の宗廟に詣でた。
「……一氏族の宗廟に、こんなたくさんの人が詣でるとはね……」
 叔父がうんざりとしたように後ろを振り返る。白い喪服の行列に、どこまでも続く供物の山。天下人が一声かけるとこういうものか。
「叔父上、ここは諦めて下さい。あなたの一族は、もうこういう一族なんです」
「……気楽な末っ子で良かったよ。ところで元譲、お前達ももちろんこの墓に入るんだろうね?」
「さあどうでしょう。陪臣墓に入ることになると思うのですが、死に方にもよりますね。志半ばで討ち取られれば、体は還ってこないと思っていて下さい」
「怖いことを平気で言うね」
「武将とはそういうものですよ」
 叔父は小さく溜息を吐いた。
「夏侯氏の惣領はお前だろう?ちゃんとこの墓に入りなさいよ」
「まぁ、祖先の祀りはちゃんとうちの息子の誰かがやりますよ、きっと。でも俺は陪臣墓に入ると思うので、ここに入る可能性は低いと思ってて下さい」
「そういう時は年寄りを安心させるために、ちゃんと入るって答えときなさい」
「五つしか違わないくせに」
 夏侯惇が笑うと、叔父は後ろを振り返り、夏侯淵に声をかけた。
「どう思う、妙才?このつれなさは?」
 しかしその問いに、夏侯淵は目をしばたかせた。
「え?別におかしな事言ってないでしょ?もちろん俺も陪臣墓に入りますよ。まぁ、ここでも陪臣墓でも、まともな死に方さえすれば、どっちみち俺と元譲は近くに埋めてもらえそうだから、敵に首を取られないように頑張って戦います」
「お前は本当に元譲と一緒ならどこでも良いのか……。元譲、妙才はいつでもどこでも相変わらずあの調子なのか?」
「……叔父上、あいつの言うことはあまり本気にしないで下さい」
 わざとらしく叔父は首を振ってから、それから優しい顔で、少し寂しそうに笑った。
「まぁ、心配することはないよ。あの殿が、お前達の体を異国に残しておくわけがないさ。どこで討ち死にしたとしてもちゃんとこの国に戻ってきて、きっと隣のお墓に入れてもらえるから、安心してどこででも戦ってきなさい」
 夏侯惇と夏侯淵は一瞬見つめ合った。その台詞は、二人の心にストンと落ちていった。
 だが、すぐに今の台詞がすごく不吉だったことに気がついて、夏侯淵は嫌そうに顔をしかめた。
「叔父上、墓前で討ち死に前提の話は不吉です……」
「おや、お前達が言い始めたんじゃなかったっけ?」
「いくら何でも討ち死に前提では話してませんよ……。大体、主公が俺達の体を取り返そうと思ったら、どんだけ無理難題呑まないといけないと思ってるんですか……」
「無理難題くらい呑ませときなさい」
「叔父上」
 夏侯惇も一緒になって睨むが、叔父は気にしていないようだ。
「私には、お前達が無事に揃って戻ってくる方が大事だよ。戦なら好きなだけすれば良いさ。でもお前達はうちの子なんだから、どこに行ってもちゃんと帰ってきなさい」
 叔父が珍しく不機嫌そうな顔をした。二人はちょっと憮然としたが、それでも自分達の身を案じてくれていることだけは間違いなさそうなので、大人しく「肝に銘じます」と頭を下げた。



 宗廟での祭祀が終わったら、曹家の宗廟に出向き、亡き曹崇に対して無事に夏侯の祭祀を執り行った報告を済ませた。それが済んだら、もうショウでの用は無くなってしまった。叔父夫婦は寂しそうな顔を見せたが、また来ると良いよと、まるで遊びに来た子供を見送るように、二人を送り出した。送り出すついでのように、息子を三人、夏侯惇に託した。息子に対する別れ際は、宗廟で見せたような気遣いなど無い、なかなか厳しい武家の物であた。自分たちにはまた来ると良いよと言っておきながら、息子達には陣中にあっては親が死んでも帰ってくるなと諭して送り出している。
「叔父上らしいと言えば叔父上らしいけど、息子に向かっては普通に命を惜しむなとか言うんだね。俺達にはちゃんと帰ってきなさいとか言うくせに」
「まぁ、あの人も夏侯の人間だ」
「でもさぁ、あんな事人に言われたの、初めてだよね。俺達武将だっつうの」
「ありがたい話ではあるけどな」
 そのまま二人は県城に向かった。そこで、帰りの兵達と合流する。県城に入ると、すぐに韓浩が出迎えた。
「お待ちしておりました、将軍。帰りの進路は変更ありませんか?」
「募兵の兵は全部で何人になった?」
「千人を少し欠ける程度でしょうか」
「帰りは少し時間がかかるな。天幕や兵糧は足りそうか?」
 この人数であるから、行きのように村々の慰撫がてら宿を借りるのは不可能だ。正直、他人に宿を借りるより、天幕を張って行軍しながら行く方が、二人の性にも合っている。思ったより兵が増えてしまったので輜重や天幕が足りるか少し心許ないところだが、そこは韓浩が心得ていた。
「そちらはつつがなく。人数が増えた時点で、ショウの県令に用意させておきました。供物を積んできた馬車に乗せていきますのでご安心を。それよりも、将軍方だけでも先にお戻りになりますか?馬を駆ればそう遠くはない距離ですし。慰撫やら募兵などは私程度でも事足りますが、将軍方がいなければ、将のやりくりに主公もお困りでしょう」
「ギョウに戻ってお前がいないと、俺が困るぞ」
 夏侯惇が案外真面目な顔でそう言うと、韓浩は困ったように顔を撫でた。
「冗談だ。だが巡視も言いつかっている。行きと違う行程で視察をしなければならんから、どのみち急いで帰るのは不可能だ。しかし確かに行程は詰めたい所だな……。よし、俺達は先に県城に移動しているから、視察をしている間に加わった兵を移動させてくれ。兵は駆けさせろ。都に着くまでには立派な兵になっているだろう。慰撫や募兵はお前に任せる。お前の面では民が怖がるかもしれんが」
「畏まりました」
 韓浩が拱手の礼を取ると、夏侯惇は軽く頷いて夏侯淵を振り返った。
「そういうことになったが、構わんか?」
「俺も早くギョウに戻りたいよ。あちこち討伐して回らないといけないことになってるし。あの子達はどうするの?」
 夏侯淵は預かったばかりの従弟を気にした様子だったが、「あいつらは新兵だ。新兵には新兵の扱いがある」と、夏侯惇は早くも鬼将軍振りを見せた。
「も〜。元譲は自分の身内にきつすぎるよ。新兵って、何の訓練も心構えもないのに」
「俺達が甘やかしてたら、いつまでも心構えなんてできないぞ。ここで揉まれれば、すぐ一人前の兵になるさ」
「でもまだ兵にもなってないような募兵に混ぜちゃったら危ないよ。元嗣、あの子達頼んだぞ。馬には乗れるから、そっちも鍛えてやってくれ」
「はっ」 
 二人は必要な荷を馬車に積み、伝令と進路の確認だけすると、さっさと馬上の人となった。



 県城と県城の間は、場所にも拠るが、この辺りでは直線距離にして五十里から百里程度。ただ馬を駆けさせるだけなら、一日もかからずに辿り着く距離にある。ましてやこの行軍には夏侯淵がいる。夏侯淵は急襲を得意とし、その用兵の速さから「典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、六日で千里」と謳われているのだ。もちろんこれは、他の者より倍走るという意味であって、実際に三日で五百里は大袈裟だが、それでも騎馬だけで走るなら、百里程度の距離など庭を散歩するようなものだ。
「やっぱり慰撫がないと速いねー。俺、ああいう地道な活動は性に合わないわー」
 馬を軽快に走らせながら、夏侯淵が涼しげに笑って随行達を笑わせた。
「慰撫も募兵も軍にとっては必要な活動だ。いくらここが本拠地近辺といっても、まだ袁家の残党や黄巾の残党も残っているし、夜盗の類もうようよしてるんだぞ」
 夏侯惇が厳しい顔で言うと、夏侯淵は小さく肩をすくめた。
「も、元譲、そういうとこ固すぎるよ。俺だって大事だって事は分かってるって。でもほら、これだけ天気が良いとさ、馬を走らせるのって気持ち良いじゃない」
 夏侯淵が上機嫌な理由が別にあるのが透けて見えるから、夏侯惇は余計にむかつくのだ。途中で慰撫をしなくて良いなら、天幕で寝たり民家を借りる必要がなくなる。すぐに次の県城に入れれば、例の「約束」が実行できるから、だからこいつはこうまで上機嫌なのだ。
 夏侯惇は少し昏い瞳で夏侯淵を見つめた。
 ……もう忘れているのか。俺は最初から、ショウで終わらせるつもりだったのだ……。
 夏侯惇の思惑は杞憂などではなかった。県城に入ると当たり前のように体を求められたが、夏侯惇が大人しくしていることに安心しているのか、夏侯淵も前ほど激しく求めてくることはなかった。
 もう、ギョウは目の前だった。ギョウに戻れば、夏侯淵はすぐに黄巾賊の残党や反乱軍の討伐に出ることになっているし、曹操は袁紹軍残党の征伐に乗り出し、夏侯惇はその留守居役を仰せつかることになるだろう。もうこの旅のように一緒にいられることは滅多になくなるのだ。それが夏侯淵の焦りを募らせるのか、最後の県城では、執拗に求められた。
「元譲、愛している。愛してる」
 何度も何度もそう言われた。夏侯惇は目を閉じた。
 心に、鎧を付けなければ。そう思って、夏侯淵に抱かれた。



「最後の朝かぁ……。元嗣達と合流して、そうするとギョウはもう目の前だなぁ……」
 夏侯淵が臥牀の上に座って名残惜しそうに鎧を身につけているのを横目に、夏侯惇は素早く身支度をすませた。
「どうしたの、元譲?何か、怖い顔してるね」
 夏侯惇はゆっくりと夏侯淵の顔を見た。それから、表情を消して切り出す。
「もう、終いにしよう」
「……元譲?」
「ショウを出てからもお前を受け入れてきた。もう約束は果たしただろう。ここから先はギョウだ。俺達はいつまでもこんな事に耽っている場合ではない」
 夏侯淵は無意識に立ち上がっていた。軍装を整えた夏侯惇は、戦場に立つ伏波将軍そのままの顔で、夏侯淵を見つめている。
「……何言ってるんだ」
「もう満足しただろう?俺は忘れるから、お前も忘れろ」
「……最初から、そのつもりだったのか……!?」
 夏侯淵は夏侯惇に掴みかかった。体ごと壁に押し上げると、鎧がガシャリと重い音を上げた。
「どうして!?どうせ都に戻ったら、俺達は一緒にはいられないんだ!なのになんでわざわざ終いになんてしないといけないんだ!」
「戦でまでこんな気持ちでいるつもりなのか!?もう満足しただろう?俺の体をこれだけ好きにしたんだ、もうこれ以上、何を望むんだ!?」
「俺は元譲の体が欲しいんじゃない!心が欲しいんだ!」
「こんな事をして、信じられるか!?」
「だって元譲は、こうでもしないと分からないじゃないか!」
 心だけなら、この旅に出るまで、俺達は互いの心を手に入れていたのではないのか?それを壊したのは自分のくせに!
 夏侯惇は忌々しげに夏侯淵を睨んだ。
「お前の言う心と、俺の言う心は、随分違う所にあるらしい」
「元譲は肉欲を否定している。自分にだって肉欲はあるくせに、一人だけ綺麗な所に住んでいる顔をしている。俺にはそれが信じられない。肉欲の何がいけないんだ?好きな相手と蕩け合って、互いの快楽をぶつけ合って、一番正直な所を晒け出して 誰にも見せない姿を分け合うことの、何がそんなにいけないんだ!?」
「別にそれを否定するつもりはない。でも、そんなものは満足して馴れてしまえばどうせ終わりが来るものだ。俺はそんな、壊れちまうような物は欲しくない!」
「どうして終わりが来るって決めてかかるんだ!終わらせたがってるのは元譲だろう!?俺は終わらせるつもりなんてかけらもない!」
 暫く二人で睨みあっていた。
「……ギョウに戻って、戦に出ろ。帰ってくる頃には、きっとお互い忘れている。それで良いじゃないか」
「……ギョウに戻って……?」
 夏侯淵が夏侯惇の肩を掴んだ。鎧を身につけた夏侯惇の肩は、何の体温も感じられなかった。
「……じゃあこのまま、ギョウに戻らなければ良い」
「妙才?」
「ギョウになんか帰らずに、このままお前を掠って逃げれば、元譲は俺の物になるのか?」
「何言って……」
 夏侯淵の目は思いの外真剣だった。
「バカバカしい!大体どこに逃げるつもりだ?どこに逃げても、俺はギョウに戻るぞ!」
「長城を越えて、中原の覇の届かないところに行こうか?それとも始皇帝を騙した徐福のように、蓬莱の島とやらを探しに東海に出るか?絶対に元譲が逃げ出せない所に連れ去って、伏波将軍も典軍校尉もない所で二人きりで暮らせば良いのか!?」
 聞き捨てのならない台詞を口にしているのに、それを一喝する事ができない。こいつなら、本気でやるかもしれない。そう思うと、冷たい汗が額を流れた。
「……目を醒ませ……」
「目ならとっくに醒めている」
 夏侯淵の手が、両の二の腕を掴んだ。やめろと叫ぼうとしたとき、扉を小さく叩く音がした。
「将軍、お早うございます。起きていらっしゃいますか?」
「元嗣?元嗣か……?」
「はい。昨晩遅くに、全員無事に城内に入りました。これから食事を取らせます。食事の後はすぐ出立いたしますか?」
 韓浩の声を聞いても、夏侯淵は腕の力を緩めようとはしなかった。扉の向こうに副官が立っているというのに、夏侯惇は壁に押しつけられ、痛いほど両腕を掴まれている。もし韓浩が今部屋に入ってきたらと思うと、顔が蒼白になった。口を開けるのに、相当な気力がいった。だが、一度口を開けると、それはまるで哀願のように、言葉が流れ出した。
「今すぐ行く。食事を取ったらすぐに出立する。先に行っててくれ」
「畏まりました」
 遠ざかる靴音を聞きながら、夏侯惇はわななくように夏侯淵を見つめた。
「……このままギョウに帰るのなら、俺はギョウでも元譲との関係を終わらせる事はないぞ」
「妙才……」
「どうする?このままギョウに戻って、俺との関係を続ける?それとも、俺にこのまま連れ去られた方が良い?」
「……どっちに転んでも、お前は自分の意見を曲げてないじゃないか。ギョウに戻ったら終わるんだ!」
「じゃあこのまま俺はお前を掠っていく。ひどい捜索がされるだろうね。元嗣は責任を取らされるかもしれない」
「妙才!」
「俺は本気だよ!!」
 夏侯淵は夏侯惇の手首を掴んで外に引きずり出そうとした。
 だが。
 扉を開けた途端、視界の隅に一番年嵩の従弟の姿がかすめた。廊下の端から、小走りにこちらに駆けてくる。
「っ!」
「あ、将軍。お早うございますっ」
 慌てて夏侯惇が夏侯淵の腕を振り払った。
「韓護軍から、将軍をお呼びするように言いつかって参りましたっ」
 ずっと駆けてきたのだろう。頬が少し上気し、軍装の二人を、憧れの英雄を見る目で見上げている。
「……」
 どんな顔をして良いのか分からなかった。従弟のまっすぐな瞳が、なんだか異様に眩しかった。
 二人のただならぬ様子にやっと気がついたのだろう。従弟は自分の従卒用に作られた姿を気にしながら「あの、何か問題がありましたか?」と、困惑したように訊いた。
「……いや……」
 毒気を抜かれ、二人は仕方なく従弟の後を付いていった。
「……随分口調が改まったな……」
「はい。韓護軍から、陣中の心得を教えていただきました。馬での行軍も随分馴れて参りました」
「……そうか」
「護軍は、ギョウに着いたら誰か他の将についた方が良いのではないかと仰有られました。血の繋がりに甘えが出てはならぬからと」
「……そうか、そうだな……。どのような武将になりたい?我が軍には豪傑が揃っているが、師事する将によって型が決まってくる」
 二人とも、不自然な作り笑いを作るのがやっとだった。何か気付かれただろうかと、背中に嫌な汗をかいている。
 そのまま従弟に導かれるように餐庁に入ると、県令達も揃っていて、二人に恭しく挨拶をした。二人は軽く頷くと、空いていた上座に座った。二人が座ると食事が始まる。もちろん、募兵の兵達はここにはいない。ごく限られた階級の兵だけが、着座して二人を待っていた。
「ここまでの道中ご苦労であった。この県城を出たら、ギョウはもう目前である。食事がすんだらすぐ出立するので、容儀を正してギョウに入って欲しい。以上だ」
 夏侯惇が短く言うと、皆拱手の礼を取ってから、朝食となった。
 夏侯惇はすぐ前に座っている韓浩の顔を見た。素知らぬ顔をしている。
 助かった、と、言うべきか……。韓浩が曹操から何を言いつかってここに来ているのかは知らないが、腹が立つほどの手際だ。あそこで従弟を使うなど、中の様子を伺っていたに違いないのだ。夏侯惇は思わず韓浩を睨みつけたが、韓浩は気付いていないように箸を使っている。
 夏侯淵の顔は、見る事ができなかった。
 掴まれた腕が痛い。
 本気だったのだ。そう思うと、目の前が暗くなったような気がした。

   


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