血 の 掟

  

 
  目が醒めると、呂蒙はまず甘寧の額に自分の額をくっつけた。昨日虎青が言ったように甘寧の熱はすっかり引いていたが、目の下はやつれたようにくすんでいた。五日分の薬を渡されたということは、五日は養生させておけということだろうか。

「旦那様、そろそろお起き下さいませ」
 寝室の扉を叩いて、家宰が外から声をかける。言いつけたわけでもないのに中を覗かないというのは、生活の知恵とでもいうのだろうか。

 呂蒙は少し考えて、自分も仕事を休むことに決めた。甘寧でさえ流行の風邪にかかったのだ。自分がかかってもおかしくはないだろう。

「昨日の帰りに甘寧を見舞ったら、風邪をうつされたらしい。俺は今日熱が高いので仕事を休むと、そう連絡しておいてくれ」
「かしこまりました。朝餉はいかがしますか?」
「ここに運んでくれ。興覇には粥を用意してもらえるかな」
「昨日は無理しても食べさせろと仰せでしたが、粥でよろしいのですか?」
「あぁそうか……。いつもどういった物を食べさせられてるのかな……。まぁでもいいや。おかずは普通に二人分持ってきて。それで興覇は粥で、俺は米飯」
「かしこまりました」

 家宰が去っていくと、呂蒙は自分の身支度だけ済ませて、それから甘寧の頬をつついた。
 いつものことだが、甘寧にひどいことをした次の日は、ひどく自己嫌悪する。後で後悔するくらいならあんなことしなければいいと分かってるのに、それでも時々無性に残酷な気分になってしまうのだ。

「具合悪いって分かってるのに……ごめんね、興覇」
 呂蒙が頬をもう一度つつくと、甘寧は小さく身じろぎをして寝返りを打った。



 昼を過ぎて、甘寧はやっと目を覚ました。目が醒めると、恨めしげな表情で呂蒙を見る。そんな顔をするのなら、もっとはっきり文句を言ってくれればいいのに、甘寧は恨み言めいたことは一言も言わなかった。
 呂蒙もどう切り出したものか少しだけ考えた。昨日したことに対してではない。昨日の、甘寧の屋敷で起こったことに対してだ。

 少しの間気まずい沈黙が落ちていたが、結局甘寧の方が先に口を開いた。

「言いたいことがあるなら言えよ」
「言いたいことって?」
「白々しいな。昨日あんなひどいことしやがったのは、腹に据えかねることがあるからだろ」
「ひどいことなんてしてないだろ。俺は興覇の体を気遣ってたんじゃないか」
「白々しくよく言うぜ。楽しんでやがったくせによ」
「それは興覇の被害妄想って奴だよ」
「ふざけんなよ」

 二人は互いに睨みあったが、すぐに呂蒙が目線を外した。喧嘩をしたい訳ではないのだ。今ここで自分がごちゃごちゃ言えば、甘寧は肝心のことを言わなくなるだろう。

「……昨日のアレ、どういう事だ?」
「アレって? 熱が出ると男が欲しくなるのは昔からだぜ?」
「それ絶対熱のせいで体が火照ってるだけだからな!」
「それで男が欲しくなるんなら、疼いて火照ってんのと一緒だろ」
「……!」

 また叫び返そうとして、呂蒙は何とか言葉を飲み込んだ。甘寧は分かっていて混ぜ返しているのだ。こんな挑発にたやすく乗るなと、呂蒙はいきり立つ胸を深呼吸でごまかした。

 冷静さだ。冷静に話さなければ。

「あんなどうでも良いような下っ端に襲われて、虎青達も承知してるってのはどういう事だよ」
「どうでも良いってどういう事だ!」
「あぁ悪かったよ! 今そういう話してる訳じゃないだろ!」 

 ああ言えばこう言う甘寧を見てると、ぶん殴ってやりたくなる。呂蒙は甘寧に背を向けることにした。とにかく、今は甘寧ときちんと話し合わなければならないのだ。

「普段ならお前に直接口もきけないような奴が、お前を三人がかりで襲ってただろう? 何でそれをお前も組頭連中も許してんだよ! 前に興覇言ったよな? 俺に襲いかかろうとするバカは五寸刻みに切り刻んで河に捨ててきたって! なら切り刻めよ!」

 叩きつけるようにそう叫ぶと、呂蒙は大きく息を吐いた。落ち着こうと思っているのに、どうしても冷静さを取り戻せない。
 これは今までの浮気とは訳が違うのだ。俺の何より大切な興覇になんて事を……!!
 呂蒙の脳裏に、また昨日の光景がよぎる。怒りに震えるこの拳を、どこに叩きつければいいのか……!

 背後で、甘寧が溜息をついた。ゆっくりと臥床の縁に腰を下ろし直す気配がする。
「ちょっと長い話だけど、おとなしく聞く気、あるか?」
「場合による」
「なら話さねぇ」
 呂蒙は勢いよく、体ごと振り返った。甘寧は多少険しい顔をしているが、どこか困ったようにも、呆れたようにも見える顔をしていた。口は厳しく横に結ばれている。ここで前言を撤回しなければ、きっと本当に甘寧は何も話してくれないだろう。

「分かった聞くよ! おとなしく聞く! だから俺がちゃんと納得できるように話してくれ!」
 仕方なく呂蒙は窓際の文机の上に荒々しく座った。甘寧の隣に座れば、きっと途中で甘寧の肩を揺さぶって、話を中断してしまうだろう。

「あぁ。……さて、どう話したもんか……」
 甘寧は軽く目を伏せた。まつげが影を落とし、目の下に隈を作る。
「うちは意外と決まりが少ない方だと思うんだけど、これだけは守れっていう決まりがある」
「……」

 きつい目で先を促す呂蒙に小さく溜息をついて、甘寧は続けた。
「こういう賊の中だと、よくあるのは仲間内では殺さず犯さずって奴だが、うちは逆だ。殺すのも犯すのも、オープンでやること。但し、必ずサシで」
「サシ?」
「そう。まぁ襲う方が一人で、相手が複数ってなら良いんだけど。複数で一人を襲ったり、複数で複数を襲ったりすれば、そいつらは俺が殺す。それと、襲われた方は必ず相手を殺さなければならない。犯されて観念したってんならまぁ別に良いけど、自分の身を守りたいなら半端なことはせずに、必ず殺せってな。ま、やるにしろやられるにしろ、これで必ず一人は死ぬことになる。これに対して、例えどんな近い間柄の奴でも、報復は禁止。これが決まりだ」

 呂蒙は呆気にとられたような顔をした。そんな決まりは聞いたことがない。仲間意識の強く、いつも家族のように過ごしている錦帆賊の中に、そんな壮絶な決まりがあるなんて。その思いが顔に出たのだろう。甘寧は少しだけ口元を笑いの形に歪めた。

「お前、八〇〇人ものならず者が男だけで一つ所に固まって暮らすって状況が、どういうモンか分かるか?」
「軍隊は、もっと大人数で編成されてるよ?」
「ならず者って言っただろう?」
 何か言おうとして、呂蒙は言うべき言葉を見つけられなかった。八〇〇人もの水賊。その全てが精鋭だという錦帆賊がどのような集団なのか、考えてみれば自分に理解できる筈がない。生活に困っていたとはいえ武官の家に育ち、軍隊以外の集団を知らない自分が、甘寧やその屋敷にいる者達を知っているからといって、それで本当の錦帆賊を理解しているつもりになるのは大きな間違いだ。

「賊徒の集団ってのは、軍隊みたいな細かい決まりがある訳でもなければ、先の保証も家族への保証もねぇ。そのくせ縛りだけはきつくて、下の奴らは人間扱いもされねぇもんなのさ。しかも元から暴れたくてたまんねぇようなのが集まってるし、特に俺らんとこは みんな一つ所に固まって暮らしてるからな。ちょっとしたことでストレス解消のために刃傷沙汰が起きたり、手っ取り早くその辺の奴ら捕まえて強姦騒ぎが起きるんだよ。別に俺ら板の上だけで暮らしてる訳でもねぇし、いつでも陸に上がって女んとこ行ったって良いようなもんだけど、頭の俺があんま女んとこ行かねぇから、そうなると下の奴らは行きたくても行けねぇだろ? そうするとその辺の男で手っ取り早く済ませちまうってのは、軍隊の中でもよく聞く話だよな?」

「禁止はされてるけど、確かによくあるみたいだね。まぁ俺たちの所までは滅多に聞こえてこないけど」
「あぁ、報告がないから事実がないなんて思ってるようなバカもいるが、これは確実にあることだ」
 甘寧は少し口をつぐむと、どこか遠い所を見て眉間にしわを寄せた。本当に怒っている時、甘寧はよくこんな顔をする。

「俺はさぁ、そういうの、絶対ダメなんだよ」

 うるさそうに投げ出された手が、呂蒙に「何でだか分かるだろ?」と言っている。言われなくても甘寧の陰惨な過去と、この話は恐ろしいほどリンクしていた。

「だから、逆に俺はそううい決まりを作った訳だ。人間、陰に隠れた所じゃどんどん凶悪なことをやるようになるからさ。実際この決まりを作ったら、人死にもレイプ騒ぎも驚くほど減ったんだぜ?」
「でもそんな無茶な話があるもんか。強ければ何をしても良いって事になれば、弱い奴らはますます犠牲になるだけじゃないか。諦めてレイプされる奴だっているんだろう?」
「だからさ。この決まりにゃミソがあって、二つばかりの特記事項があんだよ」
 甘寧はちらりと呂蒙を見て、口元だけで笑った。

「一、頭連中はてめぇの勝手で殺したり犯したりしちゃならねぇ」
「てめぇの勝手で?」
「あぁ。うちは組頭とか副長とかがしょっちゅうつるんでるから、特に誰が決めた訳でもねぇけど、いわゆる合議制な訳ね。だから他の奴らの許可が出ねぇような殺しは、頭連中はやっちゃなんねーの。こいつらがそれやって良いってなったら、下っ端の奴らなんて秒殺だぜ。絶対かなうわけねぇんだから、とりあえずそういう理不尽に殺されたり犯されたりすることはないようにしてやんないとさ」
「うん、それは大切なことだと思う。…それで、もう一つは?」

 甘寧と正面から目が合う。甘寧は少しだけどう言ったものかを考えるように、首を小さく傾げた。

 三人がかりの男に押さえつけられていた。それは今まで甘寧が語ってきた話とは、明らかに矛盾している。甘寧の手足が必要以上にゆったりと見えるのは、病み上がりだからというわけではないだろう。

「…興覇、もう一つは?」
 呂蒙が更に促すと、甘寧はまるで呂蒙がいることに今気づいたとでもいうような顔をして、さらりと言った。

「あぁ、頭領の俺を襲う時は、複数で襲っても構わないって、そういう決まり」

 あんまりさらりと言ったので、呂蒙は一瞬その意味が分からなかった。

 複数で襲っても構わない。

 三人がかりに押さえつけられていた、ぐったりとした甘寧の体。

 まさかそれは「殺す」方にもかかっているのではないのか!?

「興覇!?」
「いやだからさ。それを決めた時、頭連中も反対してさ。色々話し合った結果、頭領の俺だけじゃなくて、頭連中に対しても複数OKって事になって」
「そうじゃないだろう!? 待てよそんな…それは下の奴らがいつ暴動を起こして興覇の首を取っても良いって、そういうことだろう!?」
「取られてねぇだろう?」
「でも昨日は襲われてたじゃないか! なんて危険なことを……!」

 いつも屋敷のここそこにいる、錦帆時代の手下達。自分を見るといつも忌々しげに舌打ちをした。甘寧に心酔しきっているあいつらが甘寧を殺しにかかるとは思えないが、でも万が一ということもあるじゃないか……!

「子明」
 甘寧は少し宥めるように、優しい声を出した。
「お前、上に立つモンに求められる物が何だか分かるか?」
「統率力とか、カリスマとかって事? でも興覇」
 まだ言い募ろうとする呂蒙を、甘寧は手で制した。

「それも確かにあるが、俺らみたいな所で一番必要なのは力だ。それだけじゃないだろうってお前は言うかもしれないが、でもやっぱ俺らみたいな単純な集団には、腕っぷしが何よりも大事なんだよ」
「でも」

 呂蒙だって一軍を率いる将軍なのだ。用兵や調練だけでなく、兵との関係に関しても、呂蒙にも一家言も二家言もある。
 力だけではない。それだけでは兵は動かせないと、呂蒙は常々言っているのだ。持論を展開しようとした呂蒙を、甘寧は目で制して先を続けた。黙って聞くのが約束だ。

「下の奴らは力で押さえつけられている。だからこそ、何十人で襲いかかっても返り討ちにあうような、そういう奴が上に立ってねぇと下は納得できねぇんだよ」
 呂蒙はイライラと爪を噛んだ。甘寧の台詞は、あまりにも楽天的すぎる。
「八〇〇人が襲ってきたら?」
「それはあり得ねぇ」
「でも!」

「あり得ない話をするのは時間の無駄だ。うちはそんなに柔な組織じゃねぇんだよ。いいか? さっきから何遍も言ってるが、上からの縛りのきつい賊集団では、不満やストレスが溜まって、それでちょっとしたことで問題が起こる。だからガス抜きが必要なんだ。上に何しても良いって言われれば、下っ端なんかに目がいくもんか。頭ん中は頭領に意趣返ししてすっきりしてぇって、それでいっぱいさ。だからこの決まりを作ったら、うちの中ではリンチだとか人死にとかがめっきり減ったのさ」
「自分を危険にさらして……!」
「あいつらの命を預かってるのは俺だ。このくらいは屁でもねぇよ。それにこの決まりができて以来、弱い奴らはさっさと姿をくらましてくれるし、他人と渡りのつけられねぇような奴は誰かしらが殺してくれるから、正直助かってんだよ。それにこういう集団だから、他人より弱いってことは即、死につながるってんで、あいつら勝手に調練めいたこととか自分たちでやるようになったしさ。最初は弱っちくて足を引っ張る奴を殺したりしてたけど、この決まりができてからはそういうこともなくなった。錦帆賊には精鋭しかいないと言われているのはそのせいだ。一石二鳥だろ?」
「興覇…」

 なんと言っていいのか、まったく言葉が浮かばない。そういうものだと言われれば、それが正しいことのような気がしてくる。

 江の畔に住む者で、誰一人畏れぬ物はいないと謳われた錦帆賊。統率が取れて、どんな困難な任務でもあっさりとこなした。合肥攻めで魏に一〇〇人の夜襲を掛けた時も、そのメンツは全員が錦帆時代からの手下だったのだ。どのような調練を積んでいるのかと、羨ましく思ったことがあるのも本当だ。

 血の掟。

 弱い奴には生きる価値がないと言わんばかりのその集団に、どんな調練も叶うはずがないではないか。
 そして、それを束ねてきたのが甘寧なのだ。屋敷の中にいてまで自分の身を危険に曝して、それでも悠然と笑っているのが、それが甘寧なのだ……。

 白い顔で黙ってしまった呂蒙に、甘寧はいたずらを仕掛ける子供のように笑った。立ち上がって呂蒙の脇まで来ると、小さな子供を宥めるように、軽く背中を叩いてやる。

「それにほら、俺熱出てるのか男が欲しくて体が火照ってるのかの見分けがつかないじゃん? そんな時あいつら適当に俺のこと襲ってくれるから、ちょうど良いんだよね。あいつらには良い吐け口だし、俺は満足できるし。なんか一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもなってると思わねぇ?」
「……俺を怒らせるのがそんなに楽しいのか」
 甘寧の腕を邪険に払い落とす。甘寧はそんな呂蒙にもう一度笑って見せた。

「ばれたか。俺は子明に怒られんのが好きなんだ」
 そっと唇をふさぐと、突き放されると思ったのに、呂蒙は甘寧の頭を力強く引きつけて口中をかき混ぜるようなキスをした。それは思いもしないキスだったので、甘寧はぞくぞくと肌が粟立つのを感じた。

「……興覇が何て言うかだいたい分かるけど、それだったら俺は興覇をあのうちには帰さないぞ」
「閉じこめて俺のことをずっと怒ってくれるのか? …んっ」
 甘寧が混ぜ返すのを、呂蒙は許さなかった。そのまま床に押し倒し、昨夜の痕の残る体に唇を寄せていく。

「……なぁ子明、昨日みたいのはもう勘弁だぜ」
「阿寧が良い子にしてればね」

 呂蒙は甘寧の衣服を二つに割って、明るい室内に甘寧の体を曝した。甘寧がそれをひどく苦手としていることを、もちろん知っての行為だ。甘寧の体が硬くこわばる。

「おい、まだ日が出てるぞ」
「そんなの興覇にはいつものことでしょ。興覇は昨日、あんなに俺を怒らせたんだから、今日は覚悟しろよ」
「俺が良い子にしてれば、昨日みたいのはしないんじゃなかったのかよ!」
「そうだよ。その代わり今日は、興覇のほくろの一つ一つまで全部数えてやるからな」

 甘寧がイヤそうに口元を歪める。呂蒙は黒い笑顔でそれに応えた。




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