読書メモ  

・「劒岳<点の記>」(新田次郎・著、 \476、文芸春秋)


はじめに:
 「槍ヶ岳開山」同様これも一種の開山物語である。
 山登りをするようになって、ごく当たり前のように見る地図。しかし地図一枚を作るのには並々ならない苦労があることを思い知らされる一冊。
 日本国内の地形地図は全て出来上がっているものと私は思っているが(多分そうだろう)、百名山といわれる有名な山々だけでなく一般には知られない無数の山に、本書の主人公のような多くの測量士が登り、測量観測に当たっていたのである。従って、ほとんどの山という山は彼らによって登り尽くされているのだろう。
 その測量であるが、常に自然との戦いであり、天候が悪いと仕事にならない。何日も山中で天気がよくなるのを待つこともある。それを年じゅう繰り返すのである。布団の上で眠ることも年に僅かである。

登場人物:
柴崎芳太郎(陸地測量部測量官)
宇治長次郎(ガイド、和田村)
宮本金作(ボッカ、同)
岩木鶴次郎(同)
木山竹吉(測夫)
生田信(同)
小島烏水(山岳会)

内容と感想:
 
柴崎が劒(つるぎ)岳山頂を踏む明治40年の前年、上司から直接表現ではないが劒岳に登頂し、三角点を埋設するよう命令を受ける。その背景には、更に一年前の明治38年に創設された山岳会(山岳会の設立など近代日本の登山史は「われわれはなぜ山が好きか」が詳しい)も前人未踏といわれる劒岳登頂を狙っていることを知った陸軍の上層部の、遅れを取ってならないという意図があった。
 結果から言えば柴崎等は山岳会に先んじて登頂に成功するわけだが、第一登を遂げた測夫・生田(柴崎の助手)ら一行が山頂で見付けた鉄劒や錫杖の頭は、彼らよりも千年以上前に何者かが登頂していたことを示していた。柴崎自身は第二登であったが、登頂の成功の報告に対して測量部上層の反応は手のひらを返したように冷たいものであった(”初”登頂でなかったかららしい)。陸軍の石頭とは対称的に、最初は敵対勢力のように感じていた山岳会からは賞賛され、柴崎も彼らの見方が変わる。
 柴崎は劒岳に登頂したその年は、劒岳だけに登っていただけではない。4月から10月にかけて立山を中心に約20Km四方の地域に30箇所ほどの三等三角点を埋設し、測量を行っている。その一つが劒岳であった。

 今でこそ百名山と言われ多くの登山者が訪れる劒岳であるが、柴崎等が登頂するまでは、地元では登れない、登ってはならない山と怖れられていた。そんな山を登れという陸軍も陸軍だが、タブーに挑戦し見事、登頂を果たした柴崎の功績は大きい。残念ながら山頂に三等三角点を設置することは叶わなかったが(そのときは臨時的な四等三角点が設置された)、これは如何に劒岳が困難な山であるかを示している。槍ヶ岳山頂にさえあるのに、劒岳には現在もなお三角点が設置されていないところをみると更にそれを感じる。
 面白いのは柴崎等に登頂ルートを暗示する行者(修験道)の言葉である。前年秋に下見に出掛けた柴崎と長次郎は、その帰り山中の洞窟で救った行者が残した謎の言葉「雪を背負って登り、雪を背負って帰れ」である。何度も登頂ルートを探ったが劒岳は彼らの登頂を拒み続けるが、その謎の言葉の暗示するルートに気付いた彼らは見事登頂を果たすのである。

 昨年夏、私はそんな歴史も知らずに劒岳山頂に立っている。カニノヨコバイでは恐怖に”死”の文字も頭に浮かんだ。ようやく踏んだ山頂ではガスって、眺望を楽しむことは出来なかった。恐いもの知らずの、体力任せで日帰りが強行できたのだが、天候にも恵まれ山頂付近の岩場以外には困難な場所はなかった。比較的容易に登頂できたのは勿論、鎖や鉄梯子が架かっているからで、柴崎等が登頂した頃には当然そんなものはなかったから、その胆力と執念には感服する。


追記:
*この3連休は台風14号、17号のせいで、うちに閉じ込められていた。私の住む東京多摩地区は雷が凄まじく、一時的な停電も2度あった。ようやく台風が遠ざかった日曜の午後、近所へジョギングに出ると、虹が出た。とても久しぶりに虹を見た気がして子供のように嬉しくなった。

更新日: 00/09/18