読書メモ  

・「槍ヶ岳開山」(新田次郎・著、 \467、新潮社)


はじめに:
 江戸時代末期の天保年間、槍ヶ岳山頂(標高3,180m)に祠を納め、道を開拓し、登山を容易にするための鉄鎖を懸けた僧侶がいた。それが播隆である。百姓の生まれで元は越中八尾の商家の番頭であったが、百姓一揆に荷担し、そのどさくさで誤って妻を刺殺。故郷を捨て、罪の償いのために僧籍に入る。開山のために奔走し、苦悩に満ちた播隆の一生を描く(解説の武蔵野次郎氏はこの作品を山岳宗教歴史小説と呼んでいる)。

登場人物:
播隆(俗名:岩松、出家して岩仏)
徳念(俗名:徳助)
柏巌尼(一番弟子)
臨済宗・本覚寺(飛騨・美濃)、椿宗和尚
浄土宗・一念寺(山城国)、蝎誉和尚
宝泉寺(摂津国)見仏上人
祐泉寺(美濃大田)、海音和尚
弥三郎(同じ越中出身の商人)
おはま(妻)
中田又重郎、九左衛門(安曇郡小倉の鷹庄屋)
穂刈嘉平(案内人)

内容と感想:
 
播隆の名は深田久弥の「日本百名山」や住谷雄幸の「江戸人が登った百名山」などで日本アルプスの先駆者として読み知っていた。
 岩松(のちの播隆)は妻・おはまを誤って殺めてしまってから僧になり、笠ヶ岳や槍ヶ岳に登ることで何時かおはまに許してもらえるような気がしていた。笠ヶ岳再興や槍ヶ岳開山への執念は全てそこから来ていた。
 常に彼を責める死の直前の妻の目。笠ヶ岳再興を果たしたその山頂で見た阿弥陀如来の来迎が、その後の彼を突き動かしていった。

 最近私も考えることがある、登山と精神世界について、本書で新田氏は書いている。
・笠ヶ岳再興を実現した播隆が村人にこう話す(p.142)。
 「(略)山へ登ることが瞑想に(精神統一に)近づくことのできる、もっとも容易な道のように思われました。山の頂に向って汗を流しながら一歩一歩を踏みしめていくときには、ただ山へ登ること以外は考えなくなります。心が澄み切って参ります。登山と禅定とは同じようなものです。(中略)登山はけっして苦行ではなく、それは悟りへの道程だと思います。」

・また、槍ヶ岳開山を果たした後、天保の大飢饉の最中にも、「山を登ることは人間が一心不乱になれることです。(中略)悟りに近づくことのできるところなのです。悟りとはなにごとにも心が動かされなくなることです。死をおそれなくなることです。(略)」(p.314)
 
 登山と宗教、伝記をうまく結び着けた、実に興味深い小説であった。

 私自身まだ槍ヶ岳には登ったことはないが、いつかはその頂を踏みたいと考えている。歴史を知ると、また山の見方も変わってくる。
 ところで、播隆が笠ヶ岳や槍ヶ岳山頂で見た”阿弥陀如来の来迎”について高野長英と話す場面がある。長英は蘭学者らしく科学的に、それが自然現象であると説く。これは西洋では「ブロッケン現象」とも言われているものだが、つい先日私もこれに似た現象を見ることが出来た。
 この8月に富士山に登ったとき(残念ながら途中リタイヤした)、6合目の登山指導センターがある広場でのこと。山頂でのご来光を求めてやってきた多くの登山客がいた。ここは夜は煌々と強烈なライトの照明が低い位置から照らされている。それをスポットライトのように正面から受けると、丁度辺りの空気が霧状になっていたため背後に光の環ができ、その中心に自分の影が映し出されたのだ。そのときは何だこれが、それかというくらいにしか思わなかった。科学的に理解していると、さして感動もしないものである。ただ、昔の人はこれをなかなか見ることが出来ない、ありがたい”阿弥陀如来の来迎”として捉えたわけであるから(西洋では妖怪の悪戯と言われていた)、自分もその時代にあれば、そう見えたのだろう。

更新日: 00/09/16