| 三国一のバイク馬鹿翼よ
 
 
 私は、鶏肉があまり得意ではない。というか、鶏肉を食べるのは好きなのだが、
 手羽先なんかの骨付きの奴を食べるのが下手で、
 指なんかが油でベッタリになってしまう。
 そんな感じで、あまり人前では鶏肉を食べない。
 「宗教上の理由で、鶏肉は食べられないんだ」。
 とか、本名のわからない人にはまったく通じない理由でごまかしたりして。
  私は、おおむねすべての動物が好きだ。ただ、野生の動物にずかずかと近づけるような勇気はないから、
 ごく普通に、(人間に危害を与える可能性の低い)おとなしい動物とか、
 愛玩動物が好きな程度なのかもしれない。
 しかし、飼おうとは思わない。育てることができないから。
 それはさておき、動物のなかでもなによりも可愛らしいと思うのが、
 動物の赤ちゃんだろうと思う。
 人間の赤ちゃんもそうだけれど、どうして生まれたて赤ちゃんは黒目が大きいのかね。
 あのつぶらな瞳がもう・・・。
 誰が言ったか忘れたが、赤ちゃんが可愛いのは唯一の武器なのだという。
 仮に親とはぐれて外敵の脅威にさらされたとしても、
 その「可愛らしさ」で敵の攻撃心を萎えさせるとか。
 (このあたり、動物学とかそういう学問的に正しい話ではないと思うよ)
  ただ、世の中には例外ってやつもあって、 鳥類。これの赤ちゃんはダメだ。
 生まれたてで、産毛も生えていないようなのは
 「肉屋に並んでそうな雰囲気」だし、
 産毛が生えても、どうもあの貧相な「手羽先」が、別の生き物を連想させる。
 可愛くない。
 つまり、私が鳥の赤ちゃんをダメだと思う理由が、「翼」がないからだと思う。
  ミロのビーナス。あれが素晴らしい芸術品であることは万人の認めるところだと思う。いろいろな本を読んだりしていると、 実はそんなに立派な芸術品というわけではなく、
 ごく普通の職人が作った量産品だとか、
 (文化的、歴史的な価値はゆるがないわけだが)
 完成品としてのそれは、決して美しいと呼べる代物ではなかったとも言われる。
 では、どうしてあれが現代では「最も美しい」と評されるのか。
 もちろん、理由はいろいろあるのだろうが、
 素人的にもっともドラマチックだと思える意見が、
 おそらくは、両腕にあたる部分が欠損しているためだということだ。
 欠けた部分を人間の創造力が埋めることで、実物以上の何かを感じさせるのではないか。
 もちろん、現在残っている部分に創造力をかきたててる何かがあることも事実だ 
            。
  そして、バイク。 道ばたにひっそりとたたずむバイクの姿。私はそれを美しいと思う。
 特に、自分の好きなバイクであれば、一日中眺めていても飽きないと思う。
 いや、それは「嘘」か。そんな時間があれば乗ってしまうだろう。
 止まっているバイクの「美しさ」は、ミロのビーナスのそれに近いと思う。
 未完成な、何かが欠けているが故の美しさ。
 だから、バイクは走っている姿がやはり一番美しいと思う。
 飛べない雛が翼を得て、やがて巣を飛び立つように。
 バイクは乗り手を得て、飛び立つのだ。地平線の彼方を目指して。
  それは、バイクが乗り手という「翼」を得るということなのか、 
            それとも、乗り手がバイクに乗ることによって「翼」を得るのか?
 現代の、しかも日本で、「ウイングマーク」といえばホンダである。が、俺も最近知ったのだが、メーカーのエンブレムに「翼」をあしらったメーカーは多い。
 かつてのドゥカティもそうだし、モト・グッツィなどは今でもそうだ。
 (モト・グッツィは鷹そのものだが)
 特に、人間がまだ空を飛べなかった時代、バイクは翼だったのだと思う。
 私にとっては、今でもバイクは翼だと思う。
 その想いは不変だ。
 あるいは、人はバイクにまたがった瞬間に、別の生き物へと変わるのかもしれない。
 バイク乗りという、翼を持った者に。
 だから、走っているバイクの姿、「バイク乗り」はとても美しい。
 ただ、両腕を取り戻したミロのビーナスが、
 もしかすると美しくはないかもしれないのと同じように、
 美しい「バイク乗り」もいれば、美しくはないそれもいるだろう。
 私とかね。
  翼を得た美しき者に、私はなりたい。翼よ、私に力を与えてくれ。
 強く、美しく、いつまでも走り続けられるように。
  いつかやってみたい夢。 ユーラシア大陸横断とはいわないが、ヨーロッパを自分のバイクで走ってみたい。
 目的地は何故かフランス。
 一言いってやりたいじゃないか。
 「翼よ、あれがパリの灯だ」
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