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小人閑居して不善を成す

「戦争映画あれこれ」

ココログの方はマメに更新しているけど、こっちは久しぶり。
いやあ、ブログだねえ。
楽すぎるから、いつにもましていい加減なことを書き殴っているわけだが。
この3連休は、初手からいきなりつまづいて、
できれば記憶に残したくない3日間だったりしたが、
3日目の今日、空気の色が変わっていることに気が付いた。
もう、夏だな
なんかねえ、猫の額ほどの庭先に置いたSSの輝きが違うのよ。
連休2日目に洗車したからとか、そういうことではなく、
たたずまいが、いわゆる夏色の空気をまとっていた。
梅雨明けも間近らしくて、暑さも本格化。
今日は風もあって、さわやかな暑さ。
ほんの数分、バイクで出かけるか、酒飲むかを迷って、
結局、酒飲みました。
来週は久しぶりのキャンプツーの予定だし、仕事も順調。
わりと充実した夏になりそうです。

と、本題が暗い話題なので、無理矢理明るい話題にしてみた。

ココログの方はだらだら書いていたのだが、こちらはそれなりにまとめる。
そもそもの発端は、「ターンAガンダム」だった。
なんとなく呼ばれたような気がして、春先からTVシリーズを見直していたのだが、
やっぱり面白い。
今やロボットアニメの代名詞でもある「ガンダム」。
その最大の功績(と罪)は、アニメに 戦争を持ち込んだことだ。
そんでもって、トミノ監督自身も、他の監督も、いろいろとガンダムで戦争やってきたのだが、
「ターンA」はちょいと変わっていた。
事実上、是も非もないまま戦争状態に突入するのだが、
主人公を中心とした物語の中核にいる人々が「戦争を否定」している。
どうすれば、戦争を回避できるのか、それを模索しつづける。
だから、案外戦闘シーンもほのぼのとしていたし、
戦争という状況での健気な人々をきちんと描いていたと思う。
これが「ガンダム」として評価が高かったのかどうかは知らない。
そして、これと好対称をなし、今では不可分かと思えるほど面白い小説が、
「月に繭、地には果実」
今や人気作家の福井晴敏氏の「ターンAガンダム」の小説。
こっちは、「皆殺しオチ」
主人公を含める人物の立ち位置は変わらないのだが、
戦争は避けようがないほどに拡大の一途をたどり、
核兵器も毒ガス兵器もフルに投入され、本当にイヤになるほど人が死んだ。
まさに、正統な反戦作品というか、暗黒版「ターンA」。
人がむごたらしく死んでいく。というショッキングな映像は、
リアルに描写すればするほど、ただの刺激になっていくし、人は「これは映画だから♪」と慣れていくか、
精神的にショックを受けないように映像を信じなくなるような気がする。
が、文字は死んでいく人、遺された人の内面を描いていくから、慣れることがない。
ここまで人が死んで、どうして戦争をやめないのか?
と、読みながら何度も声が出たが、それは傍観者の視点なのだろう。
相手がやめない限り、やめるわけがない。
これをふまえて、ほのぼのとしたアニメ版「ターンA」を見るのが、正しいような気がしている。
これで、戦争に憧れる人はあまりいないのではないかと思う。
そうして、トミノ監督はガンダムを黒歴史に埋葬したはずだった。
(なんかまた「Zガンダム」作っているとか、種はどうなんだ? とかは別の話)

今回のメインテーマでもあるのだが、戦争映画は基本的に反戦映画で、
うんざりするほどの殺人シーンや死んでいく人間を残酷に描写することで、
戦争の愚かしさを訴えるという側面があると思う。
その方向で名作、傑作も山ほどあるし、それはそれでいい。
ただ、誰もが「反戦」というメッセージをきちんと受け取るかは別だ。

俺の場合、「ガンダム」は単純にカッコよかったし、
正義とか大義のために命をかける というシチュエーションは憧れがあった。
10代までなら、喜んで徴兵されただろうね。
俺の親は戦争を体験しているので、
「何故こんな戦争マンガばかり見るのか?」と、よく言われたものだ。
親父にしてみれば、戦争は思い出したくもないようなひどいもので、
映像作品で(しかもアニメだ)戦争を描くことは、
その悲惨さを訴えるどころか、賛美しているように見えたのだろう。
むろん、夜中の東京に来襲したB-29の編隊、
それを迎え撃つ高射砲やら照明弾がきれいだったとか、
幼少の興奮を語ることも少なからずあるから、
ガキの俺が戦争に憧れる気持ちもわかるのだろう。
戦争映画もアニメもこのへんは書くけど、この先は書かないよな。
(それをやった「はだしのゲン」は凄かったが、万人にお薦めはできない。)
B-29が落とした焼夷弾(周辺を焼き払うタイプの爆弾)は、
親父の話だから専門的ではないが、
ようは、ゼリー状というか粘着質というか、
まき散らされると対象にへばりつくらしい。
で、発火する。爆発的に炎上する。
焼け出された人々が隅田川に逃げ込んで・・・、という話は有名だが、
つまり、水面にゼリー状の炎上物質が敷き詰められているわけ、
窒息するか、水面に出ればその物質が身体にへばりついて身体が燃えるのだ。
とんでもない数の焼死体が隅田川をうめたらしい。
ここで死んだ人も不幸だが、生き残った人も不幸だったわけで、
まあ、誰も幸せにしなかったんだろうと思う。

ここまでやらないと反戦映画ではないわけで、やっぱり戦争映画=反戦映画ではないのかもしれない。
そういう意図は少なからず含まれている、という程度なのかな。

日本も連合国側もいろいろな意味での価値(戦争をする意味)はあっただろうが、
さすがに第2次世界大戦という奴の規模には驚いたのだろう。
少なくとも、領土拡大のための戦争は終わったと思う。
だが、次は民族主義とか民主主義と社会主義の対立とか、難しい戦争が始まった。
独立運動とかは重要だと思うが、選択肢として戦争を選ぶのは悲しい。
民主主義と社会主義の対立となると、
大義名分はともかく、難しくてよくわからない。
それでも、朝鮮戦争やらベトナム戦争やら、各地の民族独立戦争があって、
規模そのものは小さくなっているけど、戦争はなくなっていない。

そんな混迷をそのまま映像化してしまって、しかも成功してしまったのが、
「地獄の黙示録」
ベトナム戦争=難しい戦争というイメージを俺に植え付けたのもこの映画のせいかもしれない。
昔、ちょっと見て、ほとんどわけがわからず、最後のシーンは記憶にさえなかったのだが、
「ターンAガンダム」の映画版で、
ちょうど時期的に重なった「地獄の黙示録 特別完全版」について、
トミノ監督が言及していた(あれに負けてはいないと言い切った)ので、見直した。
わかりやすくなってました
「2001年宇宙の旅」が神話化したのも、ひとつには明確な説明を放棄していたことがあったと思うが、
この映画は本当に迷っていたらしい。
カーツが川の上流に王国を気付いて何をしようとしていたのかも、(当時は)明確ではなかった。
ベトナム民族の独立戦争にかこつけた、社会主義の駆逐とか、
爆撃しておいて、傷病者を保護するめちゃくちゃな軍への疑惑、
政治的な思惑がすべてのはずの介入を、「自由のため」とかよくわからん理由で正義を気取る国への不信、
こういうもろもろの欺瞞というかよくわからん思惑のために、大量 に人が死ぬ。
その戦争の真実に迫ろうとしたのではなかろうか、と。
(正確かつ、ただしい分析および論評ではありません。ただの感想です)

と、こんな感じで、絶妙なタイミングで戦争について大まじめに考え始めたわけだ。
というか、戦争映画を好きな自分がちょっと嫌になってきていた。

そのタイミングで見たのが、「キングダム・オブ・ヘブン」
十字軍の戦いをモチーフとしたこの映画は、当時はただの侵略戦争だったわけだが、
現代に制作された意図を深読みすれば、民族間の対立というものが頭に浮かぶ。
現代の戦争の原因となるひとつだ。
案外、最近のキリスト教は悪役にされることが多く、
宗教で禁じた殺人などを肯定するための
「異教徒は人ではない」発言
とか出てしまうわけだが、
まあ、中世の話だからな
そんな、欲得まるだしの原始的な戦争の中でも、宗教的にも人間的にも正しい傑物が、
キリスト教国側にも、イスラム教国側にもいた。
というところに物語としてのカタルシスがある。
この映画も、最後の最後は潔い討ち死にではなく、
土地を明け渡すから、殺人と略奪はしないでくれ。
という戦争の放棄で終わる。まさに現代的。
あとは、同じ人間だから、言葉や考え方は違っても、意志疎通はできるんだよ。
そんなことを言いたかったような気もする。
リドリー・スコット映画で、映像的には見応えも十分なのだが、盛り込み過ぎたかな。
もっと地味な反戦映画にするか、派手なエンターテイメントに徹しても良かったかも。
後者だったら見なかったわけだが。

そして、現代。
今でも民族間の対立による内戦は多いが、ここにも欺瞞はある。
国連や諸外国の援助や介入を否定するわけではないが、
直接利害の対立する民族や国同士で話し合った方がよくないか? とさえ思える。
石油が欲しくて戦争を始めたと揶揄されている国もいるくらいだから。
そして、対テロという不思議な戦争が起こっているのが現代。

テロリズムというのは、まあ手段としては昔からあるのだが、
極端に言えば、アメリカ対某テロ組織の戦争。これはよくわからない。
9.11やこの間のイギリスのバス爆破が、国による攻撃なら、その国に対して報復となるのだろうが、
テロ組織にはどう報復するのか?
乱暴に言うと、本拠地があると思われる国の協力を仰ぐか、なんくせつけて進駐するか、そんな感じなのかな。
いずれにせよ、攻撃したテロ組織は撲滅するぞ と。
ただ、テロ組織も「お前らがやったから、報復した」だったりして、
先に手を出したのはどっちだよ!! と、自体は泥沼になっていく。
こうしている間にも、人が死んでいるというわけだ。

で、ふと思ったのは、イスラム教を揶揄するわけではないが、「聖戦」という都合のいい表現とか、
前述のキリスト教の「異教徒は人ではない」発言とか、
どう考えても、戦争をやっている人の中枢にいる人の頭の中が中世だという気がする。
すべて話し合いで解決しろと言うつもりもないし、できるわけもないだろうが、
対立する相手を「人ではない」 と思っている限り、話し合いの余地もないような。
そうでなければ、そういう御題目以外の思惑があるんだろうね。

そんな気がしているうちに、「宇宙戦争」
名作であることは間違いないが、なぜ今更!?  なぜスピルバーグが!?
という大いなる疑問。
予告編でもやっていたのだが、スピルバーグといえば「未知との遭遇」や「E.T.」の人。
ずっと友好的な宇宙人を題材にしてきた人が、
なぜ非情にして冷酷な宇宙人を題材にするのか?
この答えのヒント(というか多分正解)は、「トップをねらえ2」にあった。
たまたま偶然タダで手に入った第1巻の鶴巻監督インタビューには、
今の世の中に突然発生する、謎の人、つまり町中で無差別に他人に斬りつけるような人、
話し合うどころの騒ぎじゃない、 これこそ宇宙怪獣なのではないか、というような発言があった。
(困ったことに、ハマってます。次巻が楽しみ。パート2モノは見ないようにしてたのに)
ああ、スピルバーグも同じことを考えたのかな、と。
もちろん、「テロ組織の連中が人間であることを否定する 」わけではないだろう。
俺は人間扱いしないでいいと思うけどね。
劇中でも、宇宙人の攻撃に対して、何度となく「テロか? テロなのか?」という言葉が飛び交ったが、
被害を受ける人にとっては、テロ組織も宇宙人も大差がないということだ。
映画は、人類はひたすら蹂躙されるがままなわけで、
宇宙人は何ら目的を表明しない
侵略かどうかもよくわからない。
これに対しては、もうどうしようもない気がする。
映画は映画だから、当時としては画期的なアイデアで人類は救われるわけだが、
テロの場合、敵も実は人間だからな。
テロを行う正統な理由があるとして、あなた方は誰ですか? 目的は何ですか?
こちらに悪い部分があるなら、直すべき部分は直すでしょう。
姿を見せずに、そんなことをされてもどうしようもないじゃないですか。
戦争というものが実はどんどん身近になりつつあり、
しかも、その意義はいろいろな思惑や欺瞞のために、不明瞭になっている現代。
正体不明の敵がもっとも恐ろしいのかもしれない。
戦争を回避する手段は、両者の認知と意志疎通しかないのに、それができない。
だから、そのようにふるまう集団は卑怯なのだと思う。
そういうふうに思い至った結果、
俺にとっての「宇宙戦争」は、
エンターテイメント作品でありながら、実にリアルな戦争映画になった。
これこそ、現代の戦争なのではないか?

有名なネタだが、かつて、この原作はラジオで放送され、
あまりのリアルさに信じる人が続出してちょっとしたパニックになったそうだ。
現代ではありえない話だが、
すでに「宇宙戦争」は始まっている

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