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 ・国家論他についての論考

 

552 :佐藤総研 :02/05/11 12:03
明治維新以降の日本近代史観の大きな幹に、

小室直樹の
「日清戦争開戦の過程で、日本は実質的に専制絶対君主制からイギリス型の立件君
主制に変化したので、天皇に一切の戦争責任はない。」と言う理論と、

渡部昇一の
「統帥権が天皇にあるプロシア型憲法の下で、君臨すれども統治せずのイギリス型
君主として振舞った事が議会にも天皇にも統帥されない軍隊を作り出し、勝算のな
い戦争拡大に日本を導いた。ここに、昭和天皇の誤りがある。」と言う理論がある。

私は、現在この双方になるほどと思う。
今後、日本近代史はこの2つの本質的理論の勝敗を着けて行く事になろう。
もしくは、この2つの理論をより高次に統一して行く過程になるだろう。
 
268 :佐藤総研 :02/04/06 12:43 ID:Iea82cC6
>>263
「新保守主義」の日本的新定義が必要。

保守、リベラルの定義は各国の政治情勢によって違い、また各時代で変遷して来て
いる。保守を産みの親とした新保守の定義が、変遷しても少しも悪くない。
サッチャー、レーガンの使った新保守概念にとらわれる事無く、亀井、中曽根、小
沢を結び付け、野中、青木等旧経世会的なものを切り捨てて行く政界再編のキーワ
ードとして、「新保守主義」(Neo Conservatism)は有用なツールになり得ると
思う。

「現実政治の必然として耐用年数の過ぎた保守に、新たな命を吹き込む運動」
「堕落した「保守」の背骨を入れ直すための、一種伊勢神宮の式年遷宮のようなもの」

と文字通り「新しい保守」あるいは「保守を改める事」と定義したい。
もともと、エドモンド・バーグの当初保守概念に、ダンテの神曲の台詞を借りれば、
「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない」というように維新
(リフォーム)の要素が含まれている。
だがバークの漸進的な維新では弱いと捉え、敢えて急進的要素を意識的に取り入れ
たものを「新保守」と位置付けたい。

この定義ならば日本の現状に合わせ、具体的な政策として限定された範囲で弱者保
護の要素を入れる事も出来る。民主党等のリベラルと結ぶ事も可能だ。
日本的新保守革命を成功させれば、歴史的具体的記述は後から貨車でついて来る。

 

・憲法改正時の国軍についての規定 (2002/3/16)

憲法改正時には、国軍についての役割は前文他で理念的書き方とし、軍事出動の国会承認等規制の手続部分と明確に分け書きにする2階建て構造とするのが適当だろう。

 

>永住外国人参政権に賛成ですか。
投稿者:
KOZEN37 (30代歳/男性/東京近郊)
2002年3月04日 午前 6時41分
メッセージ: 178 / 179

まずは地方参政権ですが、これも今は慎重に行った方がいいでしょう。
理由として下記の事が挙げられます。

・地方分権の姿がまだ見えない。
・帰化の簡素化との関係が整理できていない。
・これを含めた「移民政策」全体の方針の国民的議論が不足している。
・一度与えたら再び取り上げる事は出来ない。

ただし、在日韓国人等の特別ないきさつがある人に限定して与えるのは賛成です。

これは popotopopopoto さんの 177 に対する返信です

 

・けい さんへ 投稿者:鴻全  投稿日:11 9()015453

>なんで新保守主義では戦後の福祉国家を批判し見直したんですか。

主にイギリスの事を仰っているんだと思いますが、端的に言って国家財政が持たなくなったためです。また、失業保険等が手厚すぎて英国病といわれるように人々が怠惰になり、社会の生産性が落ちたためです。

ご存知のように、サッチャー革命でこれを見直しました。
さらに、サッチャー革命の揺り戻しで、現在EU諸国では第三の道が主流になっています。

この辺は、発展と調和の同時実現を、具体的にどういう制度で実現するのかが今後の課題となると思います。

そして、これを上手く作り上げ実行できた国が、やがて21世紀を制して行く事になると思います。

 

Dokyu さん 投稿者:佐藤 鴻全  投稿日: 9月26日(水)02時11分02秒

新保守主義については、下記をご覧下さい。(リンクが壊れているのに気づきました。示唆ありがとう。)

・「新保守主義」の定義について−試論1 (2001/2/10
http://www.asahi-net.or.jp/~EW7K-STU/sinhosyusyugi-teigi-siron1.htm


自由経済重視、国家権力重視の半面小さな国家指向、道徳重視の傾向を持ちます。

余計分からなくなったかも知れませんが、要するにサッチャーであり、レーガンです。
日本で言えば、中曽根であり、小沢であり、亀井です。(敬称略)

ですが、現在の日本にサッチャー、レーガンをそのまま適用するのは、脆弱な日本社会では上手く行かないと予想されます。
落ち着いたら、日本的に適合する「新保守主義」の新定義を行い理論的根拠を与え、広く社会に方向性を示したいと考えています。

プロフィールは、例えば会社の人に知られるといろいろ面倒なので、匿名性を考慮しています。
ですが、要は普通の会社員です。少し書物をするところが加わりますが。
種明かしをすると、例えば国立大学理科系卒と書けば東大も有り得る訳ですが、実際にはピンからキリまであります。
嘘は書く訳には行きませんが、少し幅を持たせればイメージを膨らませていろいろ遊べます。
結局は、書いた内容で勝負だと思います。

 

・お世話様でした。

投稿者: KOZEN37 (30代歳/男性/東京近郊) 2001年6月12日 午前 1時53分
メッセージ: 257 / 275 ホーム>政治>政治>政党、団体>偏狭な’ナショナリズム’について考える

皆様 お世話様でした。

当トピックに寄らしていただいて、早半月になりました。
皆さん方との議論を通し、意見は異なりますが、不十分ながらナショナリズム、国家、公についての自分なりの意見を整理できた様に思います。

さて、そろそろ、「かぐやは月に帰らなければなりませぬ。」ではなく、
そろそろ、形而上の世界を去り、現実の世界に帰る事といたします。

浮世での生臭いテーマが待っています。

・竹中大臣への公開質問状 −骨太の方針について−

・憲法改正私案 −第9条:国防、国際貢献−

・重層史観 −対ヘーゲル直線史観−

・国家における都市と地方 −地方分権のクリティカルポイント−  

・NTT分割私案 −競争政策と国家戦略を踏まえ−

等々の執筆をし、新聞雑誌、各種ホームページへの投稿、議員、有識者へのメール絨毯爆撃等、さらに亀井を励まし、小沢に意見し、中曽根を煽て(敬称略)、「新保守革命」の成就を計るべく微力ながらこの種の言論活動に暫くは専念するつもりです。

「小泉政権は、新保守革命の前触れ、バプテスマのヨハネだ。」(絶叫)

取り乱しました。

士別れて三日なれば、即ち将に刮目して相待つべし。

また、いつか何処かでお会いしましょう。

では。

                                     2001/6/11 佐藤 鴻全

                                                     以上

・>疑問が深まったので。

投稿者: KOZEN37 (30代歳/男性/東京近郊) 2001年6月10日 午後 3時15分
メッセージ: 249 / 251 ホーム>政治>政治>政党、団体>偏狭な’ナショナリズム’について考える
これは mikumoshinzaemon さんの メッセージ 240 に対する返信です 

>申し訳ありませんが、その議論では人を説得することは無理なのではないでしょうか。ほぼ全ての解釈は現実世界との整合性にあらかた成功し、いくつかの点で失敗しているのですから、それらの解釈ではなくあなたの解釈である理由をお聞かせください。

私の提示した命題を繰り返しますと以下の内容です。

「公」の背後にある「宇宙の大原則」とは、「発展と調和の2大原理によって宇宙が成り立っており、歴史は両者が交代しながら進展してきた。個人の幸福、集団の健全さは両者の善き組み合わせをもって、行動、思考し、組織されたときに実現される。」(加筆)という事と考えます。

「公」とは、この大原則を実現維持させる事であると考えています。

私の命題は言わば、イッちゃってる理論ですから、おっしゃる通り理解共感する方はごく少数でしょう。

最近いい言葉を聞きました。

『考えるな、感じろ(byブルース リー)』

まず、宇宙の彼方から地球を眺めている事をイメージしてください。

次に、太古からの人類の歴史の興亡を Visualize してください。

さらに「宇宙の大原則」があると仮定して下さい。(どうしても仮定できない人は、ないとしてください。)

「宇宙の大原則」があるとした場合、いったいそれはどんなものでしょうか。またどんなものが望ましいでしょうか。

それは、先ほどの「発展と調和の原理」ではありませんか?

『考えるな、感じろ(byブルース リー)』(再出)

さて、これで先の命題への共感者がすこしだけ増えました。(ホントか?)

また、発展と調和の原理が、世の中の事象の中に普遍的に内在している事例は、いろいろ挙げられます。

新保守に対するリベラル、人体の交感神経に対する副交感神経、骨格に対する筋肉等、動物に対する植物、お肉に対するお魚、男性原理に対する女性原理、戦国時代に対する江戸時代、春秋戦国に対する漢王朝、猪木に対する馬場さん、浜崎あゆみに対する倉木舞、深田恭子に対する優香、小泉首相に対する塩爺、後藤マキに対する吉田麻美、サッチャリズムに対する第三の道、構造改革に対するデフレ対策、自由経済に対するセーフティーネット、市場経済に対するナショナルミニマム、戦争に対する平和、陽に対する陰、ボケに対するツッコミ・・・。(順不同)

『考えるな、感じろ(byブルース リー)』(3回目。しつこいか)

さて、上記の様に帰納法的には完璧に証明できたところで、次に行きましょう。(オイオイ)

>絶対精神に至りうる者は誰でしょうか。もしかしてKOZENさんだけなんて事はないですよね。

釈尊によれば、上求菩提下化衆生を極めれば可能性としては誰でも仏(ブッダ)に成れると言う事ですが、ヘーゲルにおける絶対精神はそれ以上のもので、誰も「至り得る」事は出来ない始原のものとして想定されています。

因みに、仏教においては、それに該当するのは法(ダルマ)とされています。

>それとは異なる、より積極的な「公」を定義づけるとしたら、「公」=「宇宙の大原則=「絶対精神(その他)」(すいません合理的にお話を読むとこうせざるを得ない様に思います)の内容を「有権的に」解釈する存在を措定しなければならなくなる(循環に陥るのではないか)と思います。

???

mikumoshinzaemonさんは、「有権的な解釈をなしうる主体」という用語を「公」の背後にある宇宙の原理、価値体系(在るとすれば)を定め、司る根本神、創造神、主宰神、絶対神の様な者という意味で使ってらっしゃったと思っていましたが。誤解がありましたでしょうか。

繰り返しますが、私は上記の意味での「有権的な解釈をなしうる主体」としてヘーゲルにおける絶対精神、仏教における法、スピノザにおける汎神の様なものの存在を想定しています。

>私は「公」というものに明確な根拠を与えようとすれば、結局「公」をリベラリズムから導かれるいくつかの(少数の)原則として読むしかなくなってしまうと考えています。

「リベラリズムから導かれるいくつかの(少数の)原則」を導く「リベラリズム」の明確な根拠とは何でしょう?

そして「リベラリズム」の明確な根拠を導く、そのまた明確な根拠とは何でしょうか。

というように、どこかで打ち止めにしないと理論の無限連鎖に陥ってしまいます。

一般に、理論の無限連鎖を断ち切り、打ち止めにする方法に二つあります。

(1)一つは、根本神、根本原理を想定して打ち止めにする強引な方法。

(2)もう一つは、「歴史を帰納法的に観察すれば、概ねそういう事が言える」とする弱い方法。

私は(1)をメインディッシュにして、(2)を付け合わせにしています。

ところで、mikumoshinzaemonさんは、

「懐疑的ながら、「公」というものは、プラグマティックに見ると必要なものに思われる。

もし明確な根拠を与えようとすればリベラリズムから導かれるいくつかの(少数の)原則というのが精々だが、明確な根拠は必ずしも必要ではない。」というお立場とお察ししました。(多分大きく外れていないと思いますが。)

私は、『「公」の根拠、内容に何とか理論づけをして強力に打ち出し、政治的、社会的諸問題を切り分けて行く際の縁としたい。

そうしなければ、諸問題の具体的策に方向性を見出しがたい。』という立場です。その意味では一種のプラグマティストでもありますが、立場に違いがあるようです。

今後のご活躍を祈念いたします。

                                                     以上

・>考えるな、感じろ(byブルース リー)

投稿者: KOZEN37 (30代歳/男性/東京近郊) 2001年6月09日 午後12時12分
メッセージ: 235 / 251 ホーム>政治>政治>政党、団体>偏狭な’ナショナリズム’について考える
これは RapidEyeSyndrome さんの メッセージ 232 に対する返信です

>考えるな、感じろ(byブルース リー)

「学んで思うわざれば即ち暗く、思うて学ばざれば即ち危うし。」(大学)

「感じて考えざれば即ち暗く、考えて感じざれば即ち危うし。」(KOZEN37)

「蟻、在りのままに生き考えざれば即ち蟻のままに終わり、鳥、地上の様を感じざれば即ち墜つ。」(KOZEN37)

>>そして、「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」と思います。

>ふ〜ん。俺にはよくわからん。本当にそうなのか。時間があったら説明して下さい。

例えば昨日俺がやったこと。電車にのって店で働き、帰ってテレビ見て投稿してセックスして寝たこと。これらは理性的なのか。習慣は理性的なのか。本能は理性的なのか。

理性的です。

例えば電車にのると言う高度に組織化された活動は蟻には出来ません。

しかし、勿論「理性的」にはレベルが在ります。

「投稿する」は「電車に乗る」より高度な活動です。

少なくとも、現実「的」であるためにはレベルに応じた理性の裏付けが必要です。

また、真に「理性的」であれば、「本来」現実にも適合するはずです。(実際は時期が適当であったり、「現実」が作用を受けて変化する事が条件となりますが。)

より組織化された活動、高度化された思考、認識力の拡大は、例外は在れどトータルで観れば、その逆よりも人々により高度な幸福をもたらすと思います。

また歴史の変遷を俯瞰すれば、「一般的に」そういう事が言えるのではないかと思います。

「人類全体の認識力の拡大とそれを可能にならしめる国家社会の建設」が世界の向かうべき方向であると考える所以です。

                                                     以上

・>>>>国家観についての3設問

投稿者: KOZEN37 (30代歳/男性/東京近郊) 2001年6月08日 午前 2時15分
メッセージ: 226 / 251 ホーム>政治>政治>政党、団体>偏狭な’ナショナリズム’について考える
これは mikumoshinzaemon さんの メッセージ 219 に対する返信です

>>さて、ところでこの前提に立った場合、この様な構造自体を尊重し、そこに「公(パブリック)」が宿るものとし、その背後に大いなる宇宙の大原則を観てとり、それと常につなっがってありたいと思う気持ちが、「全体」と「個」をあるべき形に関係づけるものではないかと思います。

>次に「公」についても、その根拠があいまいなまま、かつその内容もあいまいなまま至高の存在に祭り上げられているという気がします。

>「公」とは個人にとっていかなる価値を持つのか(価値の重さによっては根拠ともなりましょう)、「公」の背後にある「宇宙の大原則」とはいかなるものなのか、が明らかにされなければなりません。

「公」の背後にある「宇宙の大原則」とは、「発展と調和の2大原理によって宇宙が成り立っており、個人の幸福もそれに沿って行動、思考をしたときに実現される」という事と考えます。

「公」とは、この大原則を実現維持させる事であると考えています。

>またそのような解釈問題においては多様な解釈が生じることが予想されますが、それをどのように整理してある解釈に導くことができるのか、それとも有権的な解釈をなしうる主体が想定されているのか。

このように解釈し想定すると、世の中の物事や、諸概念、諸価値が肯定的に一応の一貫した説明がつくと思われるので、正しい解釈であると推定しております。

しかし、究極的な理論的証明は出来ないと思います。

また、お察しの通り、「有権的な解釈をなしうる主体」としてヘーゲルにおける絶対精神、仏教における法、スピノザにおける汎神の様なものの存在を想定しています。

>解釈問題が解決したとして「宇宙の大原則」はどの程度個人の善き生の構想の指針となるのか。もしかするとそれは「公」の場での討論のルールを設定できるに過ぎない、弱いものなのではないか。

>このように考えていくと「公」なるものに実体があるのかという疑問がわいてきます。

私たちの共同体の決定過程におけるルールとして「公」を観念するのなら、それは普通「あるべき民主過程」と呼ばれるものに過ぎなくなります。

「公」の背後に、前述の様に「宇宙の大原則」を観ており、それゆえ「公」は進化拡大し得る動的なものであると考えています。

>まずこの考えかただと、歴史的、政治的文脈で形成されたに過ぎない体制を論証抜きに普遍のものとして承認するものであり、疑問があります。(「この様な構造自体を尊重」)

>そもそも「統治権力、警察力、軍隊及び公的な福祉の主体として、相対的に強い主権国家と、相対的に弱い国際調整機関または世界連邦政府の組み合わせ」がどういう理由で要請されるとお考えですか。

およそ予見し得る未来において、上記の様な体制が、より現実的なものであると思うからです。

そして、「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」と思います。

ヘーゲル同様、私もこの考えを採っています。

                                                     以上

・>>国家観についての3設問

投稿者: KOZEN37 (30代歳/男性/東京近郊) 2001年6月07日 午前 2時03分
メッセージ: 218 / 251 ホーム>政治>政治>政党、団体>偏狭な’ナショナリズム’について考える
これは mikumoshinzaemon さんの メッセージ 198 に対する返信です

>全く同じ選択をしました。

>それに世界政府批判はもうはやらない(というか世界政府構想を持っている論者がほぼいない)と思うのですが、長尾龍一先生がまだ若かった20年前ならともかく。

すると、少なくともこのトピックスにつどっている皆さんは、ほぼ「統治権力、警察力、軍隊及び公的な福祉の主体として、相対的に強い主権国家と、相対的に弱い国際調整機関または世界連邦政府の組み合わせが望ましいものである」との前提に立って議論なさっていると考えてよろしいのでしょうか。

RapidEyeSyndromeさんは、いかがですか?

少し違った前提に立っているのではとお察しいたしますが。

さて、ところでこの前提に立った場合、この様な構造自体を尊重し、そこに「公(パブリック)」が宿るものとし、その背後に大いなる宇宙の大原則を観てとり、それと常につなっがってありたいと思う気持ちが、「全体」と「個」をあるべき形に関係づけるものではないかと思います。

ナショナリズムは、その純化されない形での形而下での顕れであり、純化される過程の中で是とされ、そこから後退するもしくは止まる中で否とされるべきものではないかと思います。

問題の焦点は、ここに在ると思うのですがいかがでしょうか。

                                                     以上

・ナショナリズムの5段階発展説

投稿者: KOZEN37 (30代歳/男性/東京近郊) 2001年5月31日 午前 1時11分
メッセージ: 112 / 118 ホーム>政治>政治>政党、団体>偏狭な’ナショナリズム’について考える

下記の様なモデルを発想しました。
議論のよすがとして頂ければ幸いです。

「ナショナリズムの5段階発展説」 (マズローに倣い)

「主権国家」「国民国家」という概念の中に、普遍的な価値、絶対精神の自己展開を見る。

    ↑ 
健全なナショナリズム、健全なグローバリズム・コスモポリタニズム (並存)

    ↑ 
偏狭なナショナリズム

    ↑
安全のために実際的に国家の必要性を意識

    ↑
「ナショナル」に対し無意識

−ご参考−

http://www.asahi-net.or.jp/~EW7K-STU/#憲法改正私案−前文−

http://www.asahi-net.or.jp/~EW7K-STU/#国家と個人の関係の構造的位置づけ

                                                     以上

・Re:健全なナショナリズムを伺いたかった

投稿者: KOZEN37 (30代歳/男性/東京近郊) 2001年5月28日 午後11時20分
メッセージ: 95 / 253 ホーム>政治>政治>政党、団体>偏狭な’ナショナリズム’について考える
これは RapidEyeSyndrome さんの メッセージ 90 に対する返信です

両世紀俯瞰 佐藤総研 

http://www.asahi-net.or.jp/~EW7K-STU/

アドレスの尻にスペースが入っていました。すみません。

とりあえず、下記の記事等あります。

・「開かれたナショナリズム」観拝見致しました。  −HP 「鈴木邦男にガツンと言ってやろう!!」への投稿−

投稿者:佐藤 鴻全(30代 会社員、思想家) 投稿日:2001/04/14(Sat) 15:11

前略

はじめまして、新保守主義者の佐藤と申します。

本日、4/14(土)朝日新聞朝刊の「Opinion面」「私の視点」◆歴史認識で鈴木様の「開かれたナショナリズム」観のご意見を拝見致しました。

今まで鈴木様のお考えをよく存じ上げませんでしたが、私も常々「偏狭なナショナリズム」では、今後の国際社会を勝ち抜けず、日本には今「啓かれたナショナリズム」こそ必要だと考えておりましたので、我が意を得たりと言う気持ちです。

「開かれたナショナリズム」という言葉からは、数年前、小沢一郎氏が安重根(実は別の義士)の墓に墓参した姿がイメージされます。

私は、「開かれた(啓かれた)ナショナリズム」を持ち「ソーシャルミニマムを伴った自由な社会」を上手く構築出来た国家こそ21世紀を征すると考えております。

この観点から、私もたとえ微力であっても国家社会について責任ある発言をして行きたいと思います。

今後益々のご活躍を祈念いたします。

                                 草々

要は、他国民のナショナリズムを認めた上でのナショナリズムが健全な開かれたナショナリズムであると言う事です。

政治家でいえば、中曽根康弘、小沢一郎、亀井静香各氏が該当するでしょう。

石原慎太郎は、偏狭なナショナリズムの気味がありちょっと危ない。

小泉総理は、理論面が弱いのでちょっと心配です。

個人に置き換えれば「他人のプライドを認めるのが、開かれたプライドだ。」

単純ですが、そんなものです。

いずれHPの方に、国家論も交えてもっといろいろ書いてみたいのですが、多忙、疲労、多感につき、今晩はこれで勘弁してください。

                                                     以上

・Re:偏狭なナショナリズムに対抗は?

投稿者: KOZEN37 (30代歳/男性/東京近郊) 2001年5月27日 午後 9時57分
メッセージ: 89 / 253 ホーム>政治>政治>政党、団体>偏狭な’ナショナリズム’について考える
これは ScarletMirage さんの メッセージ 85 に対する返信です

健全なナショナリズムで、社会を満たすのが適当でしょう。

                                                     以上

・「開かれたナショナリズム」観拝見致しました。  −HP 「鈴木邦男にガツンと言ってやろう!!」への投稿−

投稿者:佐藤 鴻全(30代 会社員、思想家) 投稿日:2001/04/14(Sat) 15:11

前略
はじめまして、新保守主義者の佐藤と申します。

本日、4/14(土)朝日新聞朝刊の「Opinion面」「私の視点」◆歴史認識で鈴木様の「開かれたナショナリズム」観のご意見を拝見致しました。

今まで鈴木様のお考えをよく存じ上げませんでしたが、私も常々「偏狭なナショナリズム」では、今後の国際社会を勝ち抜けず、日本には今「啓かれたナショナリズム」こそ必要だと考えておりましたので、我が意を得たりと言う気持ちです。

「開かれたナショナリズム」という言葉からは、数年前、小沢一郎氏が安重根の墓に墓参した姿がイメージされます。

私は、「開かれた(啓かれた)ナショナリズム」を持ち「ソーシャルミニマムを伴った自由な社会」を上手く構築出来た国家こそ21世紀を征すると考えております。

この観点から、私もたとえ微力であっても国家社会について責任ある発言をして行きたいと思います。

今後益々のご活躍を祈念いたします。

                                 草々

                                                          以上

・支配構造の是と非(2001/4/5)

 −せいろん談話室:テーマ「16歳高校生の「熱血教師」否定論についてどう思いますか」への投稿− 

教師と生徒の問題を越えて、そもそも人が人を命令、支配する事は是なのか非なのか?

親の子に対する、国家の国民に対する、上司の部下に対する、指揮官の兵卒に対する。
それは是であり、また同時に非であるのだ。

個々の人格を持った個人を命令系統、支配構造の中に置く事は自由な意志、思考、行動を特徴とする人間に対し、本来のものではない。
しかし、その強制力の前提に、真の意味でのより善き目的が意志として又は制度(システム)として存在すれば、必要悪として程度次第で是とされるべきものである。

教師、生徒の問題に限定されず、その命令、支配構造が是であるか非であるかは伝統、理論、歴史、現状社会全体に及ぼす影響、関連事象、一貫性、本来性、またそれをシステムとして続けた場合果たして将来社会はより善き方向に向かうのか、またその結果、個人は本来的な意味で幸福になり得るのかによって判断されるものなのである。

教師は、生徒に社会に対する自分としての全体像を語れる必要がある。
また、生徒は教師の言う事のレベルが低いと感じても、伝統、制度、システム(道具)として社会に照らして有用と言える面はないか、大人の視点も持つ必要がある。
是であり、かつ非の要素が在る。

これに対し、深く思索するべきは何も教師と生徒だけではない。

                                                          以上

・Re:いつもながら真面目な・・・

投稿者: KOZEN37 (30代/男性/東京近郊) 2001年2月17日 午後12時44分
メッセージ: 66 / 72  
これは esakunda さんのメッセージ 61 に対する返信です 

>なぜ?(日本がトータルな方向性を得る事が無ければ、今日の政治、経済、社会秩序、各面での様々な行き詰まりを打開する事は出来ず)(ここまではOKだが)⇒新保守主義的政権となるのか?
そもそも保守主義とは何なのか?
と言うことで質問しました

→ 「変わらなく存在し続ける為には、変わらなければならない。」(ダンテ神曲)
今日の特に日本における「保守」の実態は、エドモンド・バークの当初の保守概念から、懸け離れた堕落したものになっています。
野中経世会の様に、理念無き「守旧」に堕しています。

>*現在の日本状況は、戦前・戦中・戦後と一貫して続いている保守イデオロギーおよび保守政治−明治期に建設された近代国家としての日本そのものが破綻をきたしている、というのが私の認識なのですが、保守主義そのものが破綻をきたしているのになぜ「新・保守主義」なのか、と思って居ります。(メッセージ44より)*
つまり、この方の意見とかぶるんですが、
新しい方向性を見つける前にまず自分たちの居る場所・方向をしっかりと確認しておかないと後々迷うことになるのでは?
この方のレスを借りると「現在の日本状況」「(保守)イデオロギー」をしかっりと把握しておく事が
「日本がトータルな方向性を得る事」の作業の準備では?

→ 現状の保守主義そのものが破綻をきたしているので、その処方箋としての新保守なのです。
現在の堕落した「保守」の背骨を入れ直すためにはエドモンド・バークの漸進的な当初の保守概念では不足であり、敢えて急進的要素を意識的に取り入れる必要があるのです。
結果、「保守」を「維新(リフォーム)」すると言うパラドキシカルな事になり、「新保守」の概念が少なくとも世論上では不明確な概念になっているのです。

>ぼくの意見を言っておきますと, 保守⇔リベラルより 保守⇔革新の方が「現在の日本の状況」「イデオロギー」を認識する時に有効な方向性の対比じゃないかと思います。

→ 保守⇔革新は、2者対立のイメージです。
小沢一郎氏の云うように、「旧い廃屋をまず壊すために野党連合をする」ためには有効でしょう。
しかし、日本の政局の現状においては、何を壊し、何を守るか自分自身おそらくよく分かってない今の民主党では、「中学生の正義感」よろしく、日本を方向付けられないと思います。
橋龍不況の原因になった消費税率の引き上げ、医療費負担増等、時期を観ない緊縮財政に賛成を公約に、総選挙を行ったのも彼らです。
堕落した「保守」同様、未熟な「リベラル」しかいない未熟国家日本の不幸であり、日本国民の自業自得でした。

>これからの10年で重要な概念は「流動的(性)」又は「多中心性」及び「多様性」これに伴う発想で「共存」「棲み分け」(まず共存を目指しそれが出来なければ棲み分けを行う)
そして何より1番重要なのは「失敗を活かせる社会」にするということではないでしょうか?
現在の失敗を活かさないどころか「失敗すら認めない社会」ではこれ以上の発展は無いと思います。

→ 基本的に賛成です。
その際、繰り返しになりますが、何を守り、何を壊すかを念頭に置く必要があります。
別の側面から云えば、経済活動他を基本的に自由に任せた上で、最低限制限すべき部分、あるいはソーシャルミニマムとして保護、保障する部分を明確にし、自己責任を基本としたメリハリのある社会構造を実現する必要があると言えましょう。
それを、しっかりと認識している者を私は「新保守主義者」と呼んでいるわけです。

日本を方向づける概念は、サッチャー革命を経ていない日本の政治思潮の現状を観る限り、「新保守主義」概念が最も適当であろうと思います。

付け加えて、「リベラル」について触れますと、「新保守革命」成就後、その行き過ぎた振り子を戻す時に存在意義を得ると思います。
また、現在の日本政治の「旧い廃屋」を壊すときに、世論を集約する際の仮の乗り物、よすがの一部となって、歴史的役割を果たす事になろうと予想します。

                                                          以上

・Re:新保守主義のイメージ

投稿者: KOZEN37 (30代/男性/東京近郊) 2001年2月16日 午前 1時59分
メッセージ: 12 / 14
これは yasuo_2360051 さんのメッセージ 11 に対する返信です

>現在の日本では新保守主義というと小沢氏を連想します。彼のイメージに引きずられる為か、弱者切り捨ての感覚をどうしても持ちます。アメリカ的特に共和党的な考えが世界の考えであるような宣伝がされますが、如何なものでしょうか。

日本政界の中では、相対的には、確かにそうかもしれません。
小沢氏は、破壊論者です。破壊の後の建設を考えています。
しかし、消費税の福祉目的税化等の共産主義的安全ネットも考えています。
ここが、同氏のダイナミック(力学的)、構造的なところです。
しかし、サッチャー革命に見られるように、欧米では、急進改革と大減税カンフルの組み合わせのように、構造的手法は、常識的手法とも言えます。

>ユーロコミュニズムなどは全然思想として評価されない日本は偏っているのではないかと思われます。

>日本共産党ではないですが、55年体制の崩壊した今でも対米従属的にマスコミがあるような気がします。民主党も社会民主主義的スタンスに立つことで存在意義があるように感じるのは不自然でしょうか。
是非教えてください。

そもそも、日本の「保守」は、野中経世会の様に思想無き守旧であり、単なる生命維持装置、湯でガエル、もしくは死体そのものです。
一度、急進改革に振る必要があります。
但し、壊し変える所は変え、守るべきは守る新保守でなければなりません。
さらに別の側面で云えば、兵站を厚くし、陣形を組み替え、攻勢に転ずるような立体的、鳥瞰的思考を持って臨まなければ、特に日本の脆弱な社会は持ちません。

小沢新保守革命成就後、その行き過ぎの振り子を戻す意味でなら、民主党の「リベラリズム」も意味があるかもしれません。
しかし、今の民主党は、何を壊し、何を守るか自分自身おそらくよく分かってないでしょう。加藤紘一氏同様、「中学生の正義感」とも言えましょう。
社会が方向性を失っている時代、方向性を失っているままに任せる事は勿論、将来の全体像を現実的な形で示せない事も、指導者の罪、そして国民一人一人の責任に帰すると思います。

PS.「リベラル」を理論付けて論ぜられる方、投稿頂ければ幸いです。議論等したく思います。

                                                          以上

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