その2


 常設展示室に入ると、檜の薫りであろうか、古典を上演する劇場のような、しっとりした良い香りが漂ってくる。入ってすぐ日本橋の復元があり、これを渡ると「江戸ゾーン」という江戸の文化や生活等を紹介しているコーナーにいける。さっきの良い香りは、どうやらこの日本橋の匂いのようである。

 早速江戸ゾーンを観覧。ゆっくり見ようと思っていたのだが、うかうかしていると、後ろから次々に修学旅行生がやってくる。さすがに元気のいいのもいて、どんどん抜かされていく。中にはやっぱり疲労困憊しているものもいて、ソファーでぐったり寝ている中学生もいる。もちろん僕はそんな子供には目もくれず観覧を続行。

 実は今回ゆっくり見過ぎて3つの「ゾーン」のうち最初の「江戸ゾーン」しか見ることができなかったことを白状しておく。残りの2つの「通史ゾーン」「東京ゾーン」については、また機会があれば言及したい。その前に見に行かなくちゃダメであるが。



 ここで断わっておくが、このページも景気づけに館内の展示物を写した写真をのせようと思っていたが、それは無い。
 原則的に館内でフラッシュをたいた撮影は「遠慮」しろ、ということになっている。この辺は実に微妙である。実際「遠慮」せず、バシャバシャと派手に撮りまくっている紳士もいた。

 僕はというと、ちょっと話はそれるが、常設展示室では無く、「映像ライブラリー」というビデオルームがあって、江戸に関する各種のビデオを無料で観覧できる場所があり、別な機会に、そこでデジカメ写真を撮ろうとしていた。

 しかし一枚撮るや否や、お姉ちゃんがエイトマンのような(例え、古〜)素早さで飛んできて、冷ややかな口調で「写真は御遠慮願います。何かシステムに関することでしょうか?」と詰問してきた。
 僕はうろたえてしまい、「い、い、いや、その、全然、あの、個人的なことですんで、・・・」と語尾が尻切れとんぼになりつつ、そそくさとカメラをしまったので、お姉ちゃんは「わかったようね。」という感じで戻っていった。

 恐かった・・・。よくよく見たら、観覧するボックス席の上方にちゃんと監視カメラが「いつでも来い!」という感じで光っているではないか。失敗・・・。

 というわけで、館内の展示物の写真は一切無い。ま、それもなんなので、美しい女性の写真でものせておく。いや違った・・・えーと、その時撮った唯一の写真を載せておく。
 てなわけで、展示物を見たい人は御自分で江戸博に足を運ばれるがよかろう。

「映像ライブラリー」の話が出たので、ちょっと触れとくと、ここは先程も述べたように、江戸・東京の歴史に関するいろいろなビデオを無料で観覧できる場所である。
 本数は忘れたが、かなりある。どれも10〜30分程度のもので、僕の好きな都電のビデオもある。
 リストブックから見たいやつを選んで申し込み用紙に記入して、受付に渡せばいい。コンピューターを扱える人なら画面から、選択していけば、申し込み用紙が自動的にプリントされるやつがあるので、こっちの方が便利である。
 ビデオを見る時は、写真のようなボックスで見るわけだが、ここでは一人一本しか見ることはできない。でも続けてみたい場合は、その都度受付で申し込めば良いから心配はない。
 ここは無料だし、江戸好きには結構いい暇つぶしポイントである。但し写真撮影はやめようね。


 さて、また常設展示室の話に戻る。中学生をはじめ、多様な人が訪れているが、ちょうど僕と歩調を併せるような感じで、老人達にガイドをしている若い娘さんがいた。大学で専門の勉強でもしたのであろうか、結構僕にも耳寄りな話をしていて、思わず聞き入ってしまいそうになる。しかしあまりやりすぎるとストーカーのように思われそうなので、やむを得ず少し距離を置く。
 それにしても、若いのに小娘のくせに「やるなおぬし」という感じである。

 その他にも発音はちょっとお世辞にもうまいとはいえないが、元気なドイツ語風英語をあやつって、外人にガイドしているサラリーマン風のおっさんがいた。このドイツ英語おじさんは、パンフレットを見ると、どうやら外人向けのボランティアのガイドさんらしい。なんだ、そうか!僕も美しい女性のガイドを頼めば良かった(・・・と、ここでも妄想は止まないね、この人は)。
 ちなみに僕のような不純な輩に対する女性コンパニオン、いや違った、えーと、ボランティアガイドの案内は無いようである(温泉旅館じゃねえぞ!コラ)。

 そうそう、コンパニオンといえば、いない訳では無い。黄色の制服を着たお姉ちゃんが受付けや案内係にちゃんといるのである。時間制で展示物の説明をやってくれていたりもする。

 その間の時間つぶしと見回りを兼ねていたのかわからぬが、制服のお姉ちゃんが手持ち無沙汰そうに後ろに手を組んで我々と同じようにブラブラと展示物を見ていた。このお姉ちゃんが丸顔でポチャっとして好みのタイプだったので、何とかならないかとも思ったが、もちろん何ともならなかった。


 ところで江戸であるが、歴史でも習ったかと思うが、徳川家康が幕府を開いてから、徐々に発展をし世界有数の大都市にまで成長した。
 それまでは普通の漁村だったようである。当時の漁村の人達は、まさか今東京がこんなことになっちゃっているとは思いもよらなかったろう。

 幕府が開かれた1603年から1638年くらいまでで、一応新興都市としての江戸の城下町が完成したそうである。大体35年位かかって「ニューシティ江戸」が完成された。
 当時としてはかなり先端の桃山風の豪華絢爛な都市だったようである。このころから東京はつねに日本の政治文化をリードする都市だったようである。
 これからちょうど今の都庁のように当時としては豪華絢爛な五層の天守閣を持つ江戸城を中心に発展していく。・・・はずであった、ところが、である。
 焼けちゃいました。
 わずか50年程でニューシティは瓦礫になっちゃいました。1657年の明暦の大火である。
 これには相当ショックを受け以後火事対策にはかなり力を入れるようになったらしい。
 それでも江戸に火事と喧嘩は絶えなかったというから、江戸はよほど火事と因縁が深かったのかもしれませんな。
 

 江戸時代には参勤交代の制度があったのであるが、諸国大名は相当これを嫌がっていたことと推察される。
 資料によると因幡鳥取藩の1812年当時の帰宅時費用が1957両、ざっと今のお金に換算すると8000万円!。

 ところでこの参勤交代で江戸に来ていた武士の内、藩主が帰るまで一緒に江戸の藩邸に勤務しているものを「江戸詰」というそうだが、この江戸詰武士の江戸での勤務というのが何とも興味深い。
 藩邸での勤務日数が月最大で13日、何と0という月もある。しかも勤務は全て昼まで。あとはフリー!
 これだけ聞くとなんとのんびり優雅な暮らしであろうと思う。実際非番の時は江戸の名所めぐりが娯楽であったというから、今の我々には何ともうらやましい限りであるが、裏事情は経済的な余裕があるわけでは無かったので、ほとんどは御長屋での単調な生活を余儀無くされた、とある。
 一年間の支出が27両というから、大体110万円位、これは今の我々と比べても、結構質素な部類に入るのではないだろうか。成る程ね、人生そう甘くは無いっちゅうことだね。金が無くちゃ、せっかく江戸に来ても吉原にも行けないだろうしね。

 でもそれにしても現代のあくせくした社会生活を強いられているお父さん達にはもしかしたら、この参勤の武士の生活は今では夢のようなものなのかもしれない。
 僕がもし江戸詰だったら、金が無くとも、とにかく江戸中を暇にまかせて歩き回っていたことだろうな。


 さて、ここらで写真は無い展示物にも目を向けてみたいが、まず目に入ったのが、江戸時代の貿易で使用していたらしい、英語の単語の虎の巻のようなもの。
 例えば「ふゆ(冬)」は「ういんてる」(winter)、
 貿易の意である「あきなひ(商い)」は「とれえど」(trade)、
 「あし(足)」は「れき」(leg)などとある。
 なかなかほほえましいが、苦肉の策といえなくもない。
 

 今も同じだな、と思ったのが、当時の大店である三井越後屋の模型。
 結構大きくて威容を誇っている。2階立てのようだが、3階位の高さはあり、横に大きい。
 今でこそ高層建築がたくさんある東京であるが、この位でも当時は充分庶民を圧倒していたに違いない。
 きっと僕が初めて上京し池袋で横に長い西武本店を見て(地元には細〜い西武はあった)圧倒されたような印象を、この越後屋を見た当時の人達も受けていたにちげえねえ!「越後屋でっけ!」と。

 なかなかいい感じだったのが、両国の橋詰めあたりの模型。
 今は国技館や江戸博などの施設があり、盛り場というほどのイメージではないが、江戸時代は見せ物小屋や市などが立ち並び、大道芸人なども多くいて、江戸随一の賑わいだったらしい。特に川開きや納涼シーズンはそりゃもう大変なことになっちゃってたらしい。
 きっと今の渋谷・新宿みたいなもんだったんだろうね、両国は。


 「江戸ゾーン」に入ってから半分くらいで、何と2時間が過ぎているのがわかった。
 休憩していないのでかなり疲労してきた。さっきの疲労困憊中学生にはすまなかった・・・という気になる。
 本当詳しく見ていくとかなりの量がある。
 結局後半は駆け足で見ましょうということで、かなりすっとばしてしまった。

 ただありがたかったのが、公式ガイドブックと館内の資料を網羅した「図表で見る江戸東京の世界」という本が、館内の売店で販売されているので、僕のように後半すっとばして見てしまった人、江戸のことを勉強してみたい人などには、これは助かることでしょう。


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