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 Chapter 12 たとえ報われなくても(未定稿)

12−1 ゼロ査定


 さて,私の仕事場のほうも,年度変わりの時期は雑用が多い。その中に,業績評価がある。
 研究機関の実績は,やはり,研究成果を形にすること。論文,学会発表,普及誌やメディアへの掲載,講演などが,形ある実績として評価を受ける。そこで問題になったのが,私が博物館や教育機関に出向き,講師あるいは共同作業を行ってきた「普及活動」の実績である。私は鳥の博物館以外にも,公的機関の講師を引き受けたりしているので,あれこれと普及実績がある。職場の肩書きを背負って担当しなかったものはともかくとして,依頼主が職場に講師依頼を送り込んできて対応をしたものは,研究機関の実績として,とにかく何でも出せ,と言うことだった。
 しかし,個人評価の段階で,これらの普及活動実績は,バッサリ「評価ゼロ」を食って帰って来た。研究機関としては,実績としてカウントする一方,研究者個人としてはゼロ査定,と言うのは,いささか矛盾している。理由は簡単だった。

「評価マニュアルに出ていないので,評価対象外」

 つまり,研究所の研究課題にそぐわないものは,個人評価の対象とならない,とのこと。そう言えば,過去にも,職場で「サイエンスキャンプ」を何年か受け入れた実績をまとめて学会に出したことがあったが,これも評価ゼロだった。自分の研究所が主体的に行った仕事でも,たとえ,その成果を学術団体に公表しても,ゼロはゼロ。

 研究所の評価システムの不都合を嘆くべきなのか,こうした普及活動は研究者の仕事ではない,とでも言いたいのか……。なるほど,これでは,誰も「パブリック・アウトリーチ」など,思いつくわけが無い。
 とは言うものの,「自然観察会」は,どう贔屓目に見ても,研究所の仕事ではなく,「頼まれ仕事」でしかないのだが……。
 組織としての「業績」と個人の「業績」の扱いに食い違いがあることが問題なのだが,根本的には,研究所が「普及活動」の意義と必要性と社会的波及効果を認識していないところに,大きな問題があるように思う。

 私はこう考える。研究成果は,学術的には論文で評価を受ける。が,社会的には,普及活動を経由して,社会の評価を受けることになる。研究成果は,一般市民に普及,浸透して,はじめて「市民権」を得るものなのだから。具体的に製品や品種などの形になる技術ならともかく,新理論や「しくみ」の解明など,市民にとっては形として見えにくい研究成果はどうするか。そこには「パブリック・アウトリーチ」が必要なのである。我々は天動説を知らなくても日常生活には困らないが,教養として知っている。それが「普及」なのだ。
 例えば,鳥インフルエンザの研究の場合は,どうだろう。この病気が鳥の病気として認識されていた時代には,畜産関係者が知っていれば済むことだったのだが,人の感染例が出てから,事態は一変した。一般の人にも,リスクコミュニケーションが必要になったのである。だがしかし,研究機関では,相変わらず,診断や感染経路の解明がメインで,市民の不安に明快に答えるリスクコミュニケーション技術は置き去りにされている。その結果,風評被害が起こる。診断法の改善による経済効果と,リスクコミュニケーションによる風評被害抑制効果の,どちらに経済効果が高く,どちらに市民生活の安全,安心を担保する力があるのか,考えてみればすぐに想像がつくことだが,市民にとっては圧倒的に後者の必要度が高いことは,明らかだ。
 普及活動とは,そのためのものである。しかも,市民の不安を軽減するために,研究機関がどんなに良い安全情報を出したとしても,その研究機関が社会的に認知され,信頼されていなくては,役に立たない。研究所の信頼を担保するためにも,日ごろの普及活動が重要な意味を持つ。それが無ければ,どんなにリスクコミュニケーション技術が向上しても,市民に信頼されている機関が発信しなければ,情報の受け手である市民にとっては,それは何の意味も持たない。

 普及活動は,重要かつデリケートな作業である。市民との信頼のパイプも,一朝一夕に出来るものではない。これからは,研究機関や研究者ひとりひとりに,普及活動の技術やノウハウが問われる時代になる。

 論文評価は,同業の専門家が,学説の正当性を認定する作業に過ぎない。その,学術的に認められた成果を,どう生かし,どう伝えるのか,と言う視点が,現在,多くの研究者から欠落している。


 たとえ評価ゼロであっても,私は,普及活動を重視する。理由は明快だ。これからの研究者にとって,これからの研究機関にとって,必要なことだから。あと10年もすれば,時代の流れは,この主張について来るはずだ。既に日本国内でも,パブリック・アウトリーチを研究したり,アウトリーチを担う部門を設置している研究機関もある。それが出来ない研究機関は,社会から忘れ去られるだけだ。たいして出来の良く無い私の脳味噌でも,そのぐらいのトレンド予測は出来る。


 そして,普及活動の重要性を痛感させられることが,この後,実際に起こるのだが……。

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