その感覚は突然やってきました。 私は、中学の時に通学で乗っていた路線バスに何年ぶりかで乗り用事を済ませ、帰りのバスに乗っていました。 降車口のすぐ横の、一人がけの座席に揺られ、よくこうしてこの席に座っていたものだった、と感慨にふけっていた、その時でした。 「今帰りなの?」 そう運転手がマイクを通じて話しかけて来た時、車内には私一人でした。 えっ、と思い、そして、どういうことかと運転席をよく見ようと座り直した、その時。 (時間が、戻る。) そう感じたのです。 そんな馬鹿なことが、と思う間も、どうして、と思うこともなく、事実は事実として、その認識は突然に、降ってわいたのです。 中学に入学して間もない頃でした。 昼過ぎに下校した私は、同じようにただ一人バスに揺られていて、運転手さんと話をしたことがありました。 さわやかな5月の風が吹いていました。 「今帰りなの?」 「はい。」 「中学、一年生?」 「そうです。」 「いいね、今が一番いい時だね。」 「そうですか」 「そうだよ。」 ぶかぶかの制服に重たい鞄を持った一年生の私に、運転手さんはまったく他意もなく思わずそう話しかけたのだということが、なぜかその時わかりました。 (今答えたら、あの時に、戻る。) どっと汗が吹き出しました。どうしてだか、それが紛れもなく本当に起こる事だと、はっきりわかりました。 喉がカラカラになって、ごくり、と唾をひとつ飲み込みました。 バスは走り続けます。 中学一年に戻ったら。 ..もう一度やり直したい、そう思ったのは一度や二度ではありません。 そんなに前から何もかも、やり直せるのなら。 (それだったら、何でもできる。) 私の胸は早鐘のようにドキドキと動悸を打ちました。 嫌なこと。 もう取り戻せないこと。 今も後悔すること。 やっておけばよかった、と、今もあきらめられないこと。 ああしなければよかったと、今でも悔やまれること。 たくさんの「やり直したいこと」が心をよぎります。 (はい。) そう今にも声にしようと思ったその刹那。 (記憶も、戻ってしまうのだろうか。) その問いが頭をよぎったのです。 中学の、しかも一年に入りたての頃までしか、記憶が残らないなんて。 私の人格ともいうべき部分は、そのほとんどが中学時代からそれ以降に形作られたものです。中学に入って部活に入り、そこから私は今に続く様々な経験をしてきているのです。 入りたての5月では、まだ何も始まっていません。 そして、それから以降の「やり直し」部分を、自分の記憶なしでもう一度たどったとしても、..今より上手くやれるはずもありません。第一、それを知って「やり直し」に満足すべき自分というのは、その時には消えてしまっているのです。 今まで生きてきた自分が抹殺される...。 気が付くと、窓の外が真っ暗でした。 まだ正午を回ったばかりのはずです。 ぞっと、うなじの毛が総毛立ちました。 自分の顔が映っているはずの窓ガラスを、怖くて見ることが出来ませんでした。そこには、とてもとても恐ろしい、邪悪な何かの顔があるはずです。 「仕方がない、じゃぁ、今の意識を保ったままならいいのか。」 いきなりマイクの声が響き、私は跳び上がりました。 恐怖で口もきけません。 「もう一度、やり直せるんだぜ、いい話だとは思わないか。」 声はお構いなしに続けます。 確かに、今の自分の意識を保ったままあの頃に戻るなら、もっとずっと上手くやれそうです。 「人生、もうだいぶん来ちまって、この先大して見通しあるわけじゃなし、もっと前にいろいろやっておいたら今ごろは..、って思うことばかりだろ。」 それは、そうだけど。 「どうなの。無駄に過ごしたこの時間を、違う勉強していたら、とは思わないの。」 痛い所を突かれ、私はいつしか恐ろしさも忘れて考え込み始めました。確かに、言う通りなのです。あの頃、もっと広い視野で様々な勉強をしていれば。 本当に、そうなのです。 「結局モノにならなかったレッスンにつぎ込んでいた金で、当時、まだ走りだった高いパソコン買ってがんばってみたら、今ごろはその筋の第一人者だろうな。今のコンピュータ社会の到来を、誰も予測すらしなかったもんなぁ。」 それこそが、今まさに思っていることです。 声は続けます。 「好きだった馬の現役の走りを、今度は見に行けるもんなぁ。」 確かに、確かに。 あの馬が引退してしまってから、今現在の馬たちにどうしても今ひとつ夢中になれないのは、不満のひとつでもありました。 今なら、今からなら。 何もかも、自分の満足いくように人生を塗り替えられる。記憶は保ったままなんだから、どうすれば成功するか、よく知っている。 こんないい話、もうあるもんじゃない。 私は、返事をしようと思いました。 バスは走り続けています。 窓の外は、闇の中に真っ赤な渦が空いっぱいにうねり、悪夢そのもののようです。 こんな恐ろしい風景から早く抜け出したくて、私は答えを急ぎました。 そんな私の心中を見透かしたかのように、声までもがあおりたてます。 「早く決めないと、歪みが閉じちまうがなぁ。」 ガタガタ、ガタガタ、..バスが走ります。ひょうひょうと、風が耳を打ちます。 (戻る、戻るんだ、あの頃へ。) (今のこの時代に、しばらくはさようなら、だ。) 今知り合っている人のほとんどとはしばらく会えなくなります。今一緒に住んでいる相手と会うのも、当然ずっと後のことです。 (また出会うまでに、今度はもっとましな人間になっとくよ。) それでも出会って最初の頃はさんざん喧嘩を繰り返すことでしょう。 仕事も、もうすぐ納期なのに。 おかしなことに、さっさと真っ先に捨て去りたいはずの今のうまくいかない仕事のことが気になります。 明日になればこれをやってあれを持っていって、あの人にこの指示を出して、あとは相談、..段取りが一瞬で頭に浮かぶようになるまで、結構経験を積みました。 (あとちょっとでできるんだがなぁ。) つまらないこともたくさんあったけど、明らかに遠回りだったけれども、何の得にもなってないけれど、あの頃やっていた仕事で出会った人達、今度は要領よく近道を行くから、会わないで行くんだろうな。 大きな失敗をして、こっぴどく怒られて嫌な思いをしたことがありました。けどあそこでの実践経験が今の財産だもんな。 ゆうべ出したあのメールの返事、読みたかったな。 (さよなら、もう一度出会うまで。) なぜか涙が出て来ました。 明日からは。 はっとしました。 13才に戻った私に待っているのは、中学生活。 両親に養ってもらい、勉強し、..子供の、狭い世界に戻らなくてはならないのです。 もちろん、周りは正真正銘の13才の精神構造しか持たない中学生たち...。 耐えられるはずが、ありません。今の私に、一日たりとも。 日々あったことを話し合うべき相手もいず、同じ価値観を持った友人のただ一人もいない世界。 たった一人、子供の体に大人の心を持ち、そんな孤独に耐えられようはずがありません。 また、未来からの知識を活用するにも、社会的な自由がありません。 一体いつまで耐えれば社会に出て行けるのでしょう。高校卒業でしょうか。 楽しかった高校生活も、もう一度やれ、と言われたら、苦痛以外何者でもないことでしょう。 そして、それに、..一体、以前と違う道筋を通って現在に到ったとして、この「今」と全く同じ現実が待っているわけはないではないですか。 タイムトラベルの法則を持ち出すまでもなく、私一人のたどってきた行動の軌跡は全体に影響を及ぼすはずです。私が、行くはずだった大学に進まずに情報専門学校に進むとしたら、...いえ、もっと些細な違いさえもが、この今現在いる世界と私との因果律を断ち切るに充分な要素です。 ここで戻ってしまったなら、この世界は永遠に失われてしまうのです。 そこで初めて私は、「声」の意図する所がまったく邪悪なものであることを確信したのです。 「!!」 そしてその瞬間、空気の色が変わりました。「邪悪なるもの」が今までの仮面をかなぐり捨て、一瞬のうちに本来の貌を現わしたのです。 バスは風にもまれる木の葉のように揺れ、窓ガラスが恐ろしいくらいにたわみ、この世のものと思われない悲鳴が空気をつんざきます。 私は手摺りにしがみつき固く目を閉じ、恐怖でかすれる声を振り絞り、それでも叫びました。 「嫌だ、戻らない!」 「終点ですよ。」 運転手の声で私は目を覚ましました。 明るい日差しが窓ガラスから差し込んで、窓の外はがらんとした広い操車場でした。 手摺りを握りしめていた手をやっとのおもいで離し、私はめまいを感じながら立ち上がりました。 思わず自分の服装を改めました。もしも中学の制服に変わっていたら...。 ..ジーパンとデッキシューズの足元が目に入りました。 「お世話様でした。」 タラップを降ります。5月のさわやかな風が吹いてきます。 助かったことがまだ信じ難くて、手を見てみました。 目の前には、ちっとも美しくない、関節の出っぱった手がありました。血管が透けて見え、日光の下で見るともう爪には縦に細かい溝がいっぱい出始めています。ほんの1、2年前まではずっと白磁器のように綺麗な手だったのに、いつの間にかこんなになっていた手です。 でもこれが、働く大人の手です。 キーボードを打ち、書類を書き、人に物を取ってあげたり受け取ったりする、力強く重い荷物を持ち、電車の吊革を握り、..表面の美しさよりも大切なことがあることをよく知っている手です。 成人式なんてとっくに過ぎて、ちょっとばかりくたびれ始めた、これが、今の私の手です。 これからだって、どんどんくたびれていくばかり、なのにこれからまだやらなくちゃならない事を山ほど抱えて、だけど、それが私です。 闘い方は結構ずいぶんと覚えて来ました。 多少の難題が来たってもうおたおたせず、なめてかかってくるずるい大人とだって充分に渡り合えます。 だって、もういい大人なんですから。 自分のこの手ひとつで、なんとか渡っていこうじゃありませんか。 自分の周りにいてくれる人たちの、この絆を、大事にしようじゃありませんか。 これからを良くするも悪くするも、自分にかかっているのです。 大きく深呼吸をひとつして、私は、駅に向かって歩き始めました。 |