ある年の春のことです。 その年の木々の芽たちが、地面から顔を出しました。 どれも弱々しい小さな双葉です。 カチは、そんな木の芽のひとつです。 今ようやく実の殻を破り、やっとこさ、双葉を拡げたところです。 「やぁ、よろしくね。キミは何の木だい?」 ぜいぜいと喘いでいるカチに、隣りの双葉が声をかけました。 「僕は、スギだよ。今日から、さぁ競争だ。」 朗らかに言うスギに、カチは何と返事していいのかわかりませんでした。 みんな口々にあいさつしています。 今日からみんな、誰よりも大きくなろうとしのぎを削るのです。 気温は日増しにぐんぐん上がり、地面はほくほくと暖かくなりました。 カチたち木の芽は、もうずいぶんとたくましくなりました。 「ははっ、みんなちびだなぁ、オレさまがこの中では一番高いや。」 カチのはるか上の方でかん高い声がします。 「なにおう。」 スギが顔を真っ赤にしてどなり返します。 「お前なんかひょろひょろじゃないか、嵐が来たら、ひとたまりもないぞ」 その夜は、スギの言った通りに嵐が来たのです。 春の気まぐれな嵐は、カチたちをさんざん吹きなぶっていきました。 強い風に葉がちぎれそうになります。 カチもスギも必死に根をふんばり、耐えました。 その嵐もようやく去り、夜が開けた時。 「おおい..誰か..」 弱々しい声がしたのです。 「オレはもう駄目だ..」 あの、いばりんぼうです。 「どうしたんだい..」 ちょっとおびえながら、カチはそれでも返事をしてやりました。 「根元からひっくり返されてしまった..」 「しっかりしろ、起き上がれないのか」 スギも励まします。 「駄目だ、根をやられた。高くなることばかりに気を取られていて、根をしっかり張らなかったからだ..」 声はどんどん弱くなります。 朝の光がさし始めました。 「..さようなら..」 それっきり声は途絶えました。 その日は誰も口をきく者もなく過ぎてゆきました。 |
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スギは、真っ直ぐにすくすくと伸び、がっちりとした立派な若木になりました。 少し離れたところの木にも声が届くようになり、カチは、スギの会話から、向こうにも若木たちがいることを知りました。 「元気か、アスナロ。」 近頃スギには、競争相手ができたようです。 「お前、あの向こうの川が見えるか?オレは見えるぞ」 得意そうに精一杯背伸びをして話すスギを、カチはうらやましいと思いました。 「スギのおかげであたりの様子がわかっていいよな。」 隣りでシダが皮肉たらしく言いました。 「オレなんか、これ以上大きくならないもんな。」 見るとシダの葉先はくるくると丸まって、たしかに、もう丈は高くならないようでした。 「でもさぁ、そんなに繊細できれいな葉っぱをしている木なんて他にないよ」 カチは精一杯励ますつもりで言ったのですけれど、 「ふん、お前なんか、だんだん低くなるんだもんな。」 と逆に毒づかれてしまいました。立ち尽くすカチの心中などお構いなしに、シダはつんとそっぽを向いてまた一人でぶつぶつと不平を言い始めました。 「どうした。」 スギがカチの顔をのぞき込んで言いました。 カチは涙が溢れそうなのをこらえていたので、何も言えません。 「ははぁ、シダに何か言われたな。あいつはひねくれ者なんだ、気にするな。」 カチはもう我慢ができなくなって、スギの幹にもたれて泣き出してしまいました。 だって、シダの言うことは本当だったからです。 みんながすっくりと真っ直ぐに天を目指しているのに、カチの幹といったらくねくねとたわんでしまって、いくら踏ん張って立とうとしても駄目なのです。 葉をたくさん茂らせて伸びれば伸びるほど、アタマは地面に近くなってしまうのです。 「なんだいあいつは。」 「もうちょっとで地べたに付いちゃうね、何やってんだろ」 「真っ直ぐ伸びようって努力がたりないんじゃない」 「あんなの不良に決まってる、つき合ったらこっちまでおかしくなる」 近頃周囲の木々がひそひそとカチのことを噂しているのを、カチは聞いていたのです。 スギにそのことを言えば、実直なスギはみんなを怒ってくれるでしょう。 皆に一目置かれているスギが言えば、みんな、表向きはカチに優しくすることでしょう。 けれど...。 カチはもう、駄目なのです。皆が空を目指してより高く、うれしそうに伸びて行くのに、自分だけが取り残されて行くのです。こんな変な木なんてありません。 堰を切ったように涙があとから湧いて来ます。 スギは、黙って立っていましたが、やがて、静かに言いました。 「伸びるんだ、地面に付いたらそこからまた、伸びればいいじゃないか。」 カチは、そんなこと言ったって、と思いましたが胸がいっぱいで返事ができませんでした。 翌日、憂鬱な思いで地面に付いてみたカチは、あたりの景色がずいぶんと違うことに驚きました。根元のよく知っている地面より少し離れたところに着地したからでしょう。うんと伸び上がって見ると、少し向こうが開けた斜面になっているのがちらりと見えます。 (ようし、あそこまで伸びてやろう。) カチはぐいとアタマをもたげると、葉をいっぱいに拡げ、伸びてゆきました。 「おおい、見えるかぁ」 ふり仰ぐと、スギのてっぺんがこちらを見下ろしています。 カチは晴れやかな笑顔で精一杯あいさつを返しました。 もう、この辺に来ると知っている木はありません。日当たりもぐんと良くなって、今度はカチはいっせいにあたりに生い茂り始めました。 地面から立ち上がらなくたって、伸びていけば視界はどんどん開けます。 もの珍しい景色にカチは夢中になりました。スギが見たという川にも降りて行きました。カチの知らせる遠くの様子に誰もが耳を傾けます。 そうです、もうカチを悪く言う者などいません。 さて、栄養が良くなったので、カチは根元の方からも枝を出してみました。 すぐにスギの幹に突き当たりましたのでカチはスギの幹を迂回しようとしました。すると、スギはカチを呼び止めてこう言ったのです。 「オレの幹を昇って来てみろよ、眺めがいいぞう。」 スギは嫌がりもせずにカチを昇らせてくれました。 なるほど、高く高く伸びたスギの幹からの眺めはやはり素晴らしいものです。 スギは今日も向こうのアスナロと競争しています。ライバルではありますが、スギとアスナロの間には友情が育っていました。 どちらも若いリーダーとしてそれぞれの森を守るようになっていました。 そんなスギの肩に巻きついて葉を揺らしていると、カチまでがすがすがしい気持ちになれるのでした。 「スギよ、お前には連れがあっていいなぁ、なかなか見事な眺めだぞう」 「アスナロよ(ヒノキのことを今でもそう呼ぶのはスギだけでした)、ありがとう」 スギは誇らしげにカチのことを見やりました。カチはうれしくて宙を舞ってしまいそうになりました。 |
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そんなある日のこと、里からニンゲンがやってきました。 ニンゲンは下草を踏み荒らしやって来ると、まず、ヒノキに目をつけました。 「ほほぅ、これは素晴らしい。」 「本当だ、この森で一番かもしれん。」 ヒノキは、ほめられてすっかり得意になってしまいました。 次にニンゲンは、スギのところへもやって来ました。 「これもまた見事な。」 「しかしこいつがこんなに巻きついたんじゃ、使い物になるかどうか」 「まったくえらく巻きついたもんだな、これでは駄目だろう」 「うん、これは駄目だ駄目だ。」 ニンゲンは口々に言い合って行ってしまいました。 カチは、震えていました。スギもまた、黙って立ち尽くしていました。 「おおい、スギよぅ、お前もほめられたのかぁ」 そんな二人のことも知らず、ヒノキが楽しそうに話しかけて来ます。 スギの顔は心なしか青ざめていました。 気が付くと日はとっぷりと暮れ、空に鎌のような三日月がかかっています。 (今夜、ここを離れよう。) カチは決意しました。自分から、スギの幹を離れるのです。それはとても痛い苦しい作業でしょうが、スギのことを思ったらそのくらいの痛さがなんでしょう。だってスギは生まれてから一度もヒノキに、いいえ、誰にも負けたことなんかなかったのですから。立派だとほめられはすれ、駄目だなんて、あのスギが、今まで言われようはずがなかったのですから。 (自分がいるせいで、スギがそんなことを言われるなんて。) カチは、つるをほどき始めました。ニンゲンがむしっていったところがしくしくと痛みます。スギの幹にしっかり食い込んでしまった気根を引き抜こうと踏ん張って、カチは痛みにうめき声をあげました。 「なにをしている。」 スギが、鋭い声をあげました。 「今離れるから、できるだけ早く。」 歯を食いしばりながら、カチは答えました。 「やめろ」 スギが厳しく言いました。その声があまりに苦しそうだったので、カチははっとしました。 「カチのせいじゃない..お前がいなくなってしまったら、オレは独りぼっちだ。」 「だって..」 「ニンゲンに駄目だと言われたオレを、明日からは誰も尊敬してくれないかもしれん。ヒノキも、もうオレとは口もきいてくれないかもしれない。」 カチは、スギの苦し気な言葉をじっと聞きました。 さわさわと、川の水の流れる音が、風に乗って聞こえて来ます。 カチは、それこそ本当に全身全霊を込めて、考えに考えました。 カチを形作る葉の一枚一枚が夜の空気を深呼吸し、風にそよぎます。 斜面を隠れ家にして眠っていた小動物たちが、カチの葉むらの中でうーん、と寝返りを打ち、また夢の続きをむさぼります。 根が柔らかな土の暖かさを感じます。 (地面に付いたらそこからまた、伸びればいいじゃないか。) いつかのスギの言葉が、カチの脳裏に響いて来ました。 「そうか。」 カチもまた、一度はもう駄目だと思ったのです。地面に付いてしまった日が、自分の終わりだと思い込んでいたのです。 「ねぇ、もっと伸びよう。もっともっと立派な木になろう。今はいったん失ったものも、取り戻すまで伸び続ければいいじゃないか。」 カチは、か細い、それでも透る声でスギにそう言いました。 スギは、聞こえなかったのかと思うほど長い間、黙っていました。 そして、そのあとで、にっこりと笑うと言ったのです。 「そうだなぁ、お前みたいな蔦っぱのひとつ絡んでいたってかすむくらいの大木になるかぁ。」 カチはうれしくて、クスクス笑いながら、スギを思い切りくすぐってやりました。 「あっ、やめろってば、くすぐったい」 「なんだって、かすむくらいだってぇ、その頃にはこっちだって、すごく大きくなってやる、もう斜面では王様なんだぞ」 「やめろ..あははは..」 その晩は遅くまで、カチとスギのふざけ合う楽しげな声が森に響いていました。 翌朝、まだ朝もやも晴れぬ早朝のことです。 森の木々は、ただならぬヒノキの悲鳴に跳び起きました。 「助けてくれ!」 のこぎりを引く音がすぐに悲鳴をかき消してゆきます。 皆は固唾をのんで成り行きを見守ることしかできません。 「アスナロっ、アスナロっ、どうしたんだぁぁ」 スギだけが葉を揺らし、必死で呼びかけます。 「オレは木材にされる..さよなら..仲間を頼む..」 それがヒノキの最期でした。 その声も消えぬ間に、大きな重い物が、どう、と倒れる音があたりを揺るがしました。 「アスナロぉぉ..」 スギは号泣しました。森の木々は皆うなだれ、喪に服しました。 カチはといえば、向こうの森にもつるを伸ばしていましたから、その一部始終を見つめていたのです。 むごたらしく倒されたヒノキが、もう物を語ることもないただの物と化し、あたりの弱い木々を巻き添えにしながら引きずって行かれる様を、カチは食い入るように見ていました。 「いんやぁ、これでひともうけだぁ」 「他には目ぼしい木はないもんかね、せっかく来ただに」 「ないない、代りにここ植林に入るかぁ」 「うんにゃ、昨日も見たけど駄目だ、ここの斜面がもうちっとなだらかだったらよかったんだが、それにこう蔦が茂っちゃ、刈るのもホネだ。」 ニンゲンの一人が、カチの占拠する斜面をぐるりと示して言います。 (何を勝手なことを。) カチは怒りに燃えて、そいつの足をひっかけてやりました。 「おっとっとっと..わぁぁ」 「ははは、そら言わんこっちゃない、この山は険しすぎて駄目だ」 (二度と来るな、ニンゲンめ) カチの葉という葉が、憎しみにいっせいに震えます。 「うう、なんだか寒くなってきた。」 ニンゲンたちは急に無口になり、ヒノキをソリに乗せるとそそくさと引き上げ、そしてもう二度とやって来ませんでした。 |
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今日も、暖かないい一日です。 「わぁ、きれい。」 この春生まれた鹿の子が、日に照らされて輝く蔦の斜面を見上げて歓声を上げます。 「そう、蔦の王様よ。敵に追われたときはここを駆け上がるのよ、オオカミも熊も、この険しい斜面は上がれないわ、ひづめのある私たちだけが昇れるの。」 鹿の母親は、こうして幾たび命拾いしたことでしょう。それに、そういう時にはなんだか蔦の根が、必死で昇る足元を支え励ましてくれるように感じるのです。 (今年もいい仔を生んだね、母さん。) カチは、葉っぱの匂いをかぐ子供の頭をちょいと撫でてやります。 「さぁ、次は、森の王様に会いにゆくのよ、いらっしゃい。」 そう言って親子の分け入る森の奥には、樹齢何千年という一本の古代杉があります。 けぶるように苔むした、その堂々たる幹には..そうですもちろん、王者の参謀としてこれも立派な大きな蔦の木が、しっかりと絡んでいるのです。 |