〜鳴戸の渦の巻〜

「さぁ、わらわの渦にお入り。」

 手足をばたつかせていた男の肢体から力が抜けていった。
「そう..それでよい。お前も..わらわの虜の一人になったのだよ..」
男の髪を、白い指で優しく梳いてやりながら、鳴戸屋渦女は歌うようにささやき続ける。
見苦しいばかりに歪んでいた断末魔の顔が、みるみる安らかな表情に変わってゆく。
狙いをつけた通りの、美しい若者だった。水夫らしい、鍛え上げた鋼のような筋肉、浅黒い顔。
「ほほ、また一人、わらわの気に入りが増えた。そば近く可愛がってやろうぞ。」



 人は彼女を、海の女神、あるいは海上の魔女、と呼んだ。

 「女神さま、どうぞ無事に通してください。」
船上から酒や花の供物をまきながら、大きな商船が鳴戸の渦のそばを航海してゆく。
「あぁ、いいよ、お通り、お通り。」
神である彼女のいらえが船上の人間たちに聞こえるわけもないのだが、渦女はうるさそうに手を振りながら答えを返してやる。
「まったく、あたしがそんなに生けにえに飢えているように言われても困るわ。何十年も何もしないでいてやったことだってあるのに。」
ため息をつく傍らには、彼女が今まで命を奪った人間の男たちが、ある者は団扇で風を送り、ある者は飲み物の入った杯の盆を捧げ持ち控えている。新しく入った若者は渦女の脚をさすり、足の指に口づけを繰り返している。

「渦女どの、元気かぃ?」
海の泡の壁をひょいとめくって亀の甲羅を背負った少年神が顔を出す。
「なんだぁ、退屈してるかと思ってのぞいて損したなぁ。また新しいお兄さんが増えてらぁ。」
「ふんっ、男と女の事などわからぬ子供のくせに。」
「へいへいっと。竜神さまが近々お渡りになるそうだよ。おいたはたいがいにしてお渡りを待つように、だって。じゃ、伝えたからね、またねっ。」
そう言うと万屋玄亀は泳ぎ去った。

「...何だって。...竜神さまが、なんだって今になって。..あたしに何の用が..」
渦女はふと遠くを見る目になった。
「今日はもうお下がり。みんな、次に呼ぶまでそれぞれの貝の中でおとなしく眠っておいで。」
そばにはべる男たちを追い払い、渦女は一人きりになると、物思いに沈んだ。



 神は眠る必要がない。
だが、外界との接触を断ち、うつらうつらと、夢のはざまに漂うかのように夢想に浸ることはできる。
いつしか渦女は自らの思いに深く沈み込んで行った。

 「助けて。早く来て...どうして来てくれないの....どうして、...。」
そこではっと目が覚めた。
永らく、口にした事もない、だがひとときも忘れた事のない、その名前。
まだ、渦女が、限りある命の人間の女であった頃、渦女の全てだった人の名。この人のためなら命を捨てても惜しくないと思い、一途に愛した、あの人。
「いとしい..。けれど憎い。あたしを、こんな死ねない体にした、憎い憎い、あの男。」
渦女は眠っている間にこぼれ落ちた一粒の涙をそっとぬぐった。

 その時、竜神がやってくる先ぶれが、渦女のいる大渦に到着した。



 「渦女よ。」
大海原を轟かせて、大きな竜巻の姿をした竜神が、鳴戸の渦を見下ろして重々しく語りかける。
「はい。」
渦女はつつましやかに目を伏せ、竜神を迎える。
「どうだ、困っている事はないか。」
「何も不自由はございません。」
「そうか。お前がこの渦を守ってくれるおかげで魚どもも隠れ家を得る事ができる。小さき海の命たちを守ってやってくれ。」
大渦があるおかげで周囲の海流は季節ごとの流れを保ち、渦の下の海底は、人間の漁船を近づけないので魚たちの良い産卵場所となっているのだ。
「私は、しばらくこの海を留守にするぞ。」
「..はい」
「人間たちと、自然界を統べる我々神との間で何か揉めそうな気配があるのだ。」
「えっ、..。」
「おそらく、人間の味方をする神とそうでない神との間で争いが起こり、私の力を利用しようと、どちらもやっきになって私を探す事だろう。だが、私がどちらかに組みすれば、この世界は滅びる..私は、姿を隠す。渦女よ、お前は介入せず、ただここにいて渦を守っておれ。万一、海を滅ぼすほどのひどい争いにまで発展する時には、私を呼び出すのは渦女、そなたの役目だ。」
「...はい。わかりました、竜神さま。」
事の重大さを噛みしめるようにゆっくりと、渦女は返答を返した。



 「人間..騒ぎを起こすのはいつも人間だよ。」
竜神が姿を消してからほどなく、神々は二つの勢力に分かれて争い始めた。人間に関わったせいだ。
争いは海の仲間の神々も巻き込んでいた。玄亀がどちらかに加担してうかうかと敵に捕らえられ、また、人魚一族の姫が行方不明だとも聞いた。
渦女は、だがじっと、鳴戸の大渦を守って動かなかった。

 やがて、太照天の養女が天界の女王におさまりかえったらしく、渦女も表立っては逆らわず、その新女王、太照天昼子に従った。

「なんだって。あたしに、人間の男と交われと言うのか。」
さすがに、昼子の図々しい申し出には最初は驚いたが、それも面白かろうと、渦女は承諾した。
「生身の男なんてまったく久しぶりだよ。」

枕語りにその男は、紅后一族の悲願のこと、実の娘のように思って育ててきた娘が当主を継いだばかりである事、などをぽつりぽつり、話した。
「ふぅん...。家族ねぇ。」
半ば退屈そうに聞いていた渦女だったが、
「渦女さま、あなたにも家族がおありだったのだろう?」
男にふいに訊かれて、渦女はどきりとした。
「なんだって。...何を..人間のくせに..無礼な。」
だが男はじっと澄んだ目で渦女の目を見ている。
「あなたは、昔、一人の人間の女だったのでしょう?」
「なぜわかる。」
「..あなたが、哀しい目をしているから。あなたは、はじめから全てを超越した神々とは違う、哀しい目をしている。」
「月竜、と言ったな、そなた。」
「ええ。」
「わらわは..そう..あたしは、人間だった。..もうずっとずっと昔のこと。..月竜、抱いておくれ、あたしを、人間だった頃あの人がそうしてくれたように...」
一緒に逃げよう、と言ってくれたあの人、外海に漕ぎ出した小さな船の上で、愛を確かめた、あの人。
「だけど、あの人は結局あたしを助けに来てくれなかった。網元の婿になり、一族が一生遊んで暮らせる財産を約束されて、欲に目がくらんで、私を見捨てたんだ。」
小さな岩にくくりつけられて、竜神の生けにえとして差し出された、あの日のことを頭から振り払うように、渦女は夢中で月竜の腕に身をあずけた。
「憎い、あの人が憎いよぅ、..だけど、..愛しい。好きだったんだ..」
「渦女さま..」
「あぁ、....!」
忘れられない男の名を叫ぼうとして、渦女は愕然とした。
「どうしたの、..渦女さま?」
ふいに目を見開いた渦女をいぶかしんで、月竜がその顔をのぞき込む。
「月竜..あたし..。あの人の名前を忘れている..あんなに憎くて、ひとときも忘れた事が無いと思っていたのに..。」

 月竜は、黙って渦女に優しく口づけをした。


















関連のある他の巻:朱雀大路の巻(月竜)

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