「改革」の炎を求めて

〜この五年間をふりかえって〜
1993.3-1998.3の総括(98年5月記)に表題を加筆

生徒会指導の「原点」

 この五年間の生徒会指導をふりかえる時、実践・研究と共に大きく変化してきたものと、一貫して求め続けてきたものとを振りかえることができる。「一貫して求めてきた」ものは何かと問われるならば、自分で口にするのは多少おこがましいが、「改革」を求める生徒会指導である、と言うことができると考える。生徒の参加する生徒会活動、組識活動の発展、生徒会行事の改革、協議会の発掘と復活…年度によって展開した重点に違いはあるが、「決して前の年と同じではないもの」として、生徒諸君と活動を模索し絶えざる「改革」を求めてきたのである。
 これは、そもそもにおいて私の生徒会担当「主任」としての役割そのものが、「教育基本法・学校教育法にふさわしい学校へと改革をすすめる」とした「機構改革」の中で始まった事に一つの要因がある。誤解を恐れずに述べれば、「学校改革」をすすめるために私は生徒会の指導を担当したのである。だが他方では、同時に今日の子どもと教育をめぐる状況の変化は、「改革」を求めることなしには、指導のリアリティを持ち得ないものとなっている事にも大きな原因があると思う。
 だから、93年度から今日までの中で、私の「生徒会観」「民主主義観」あるいは「学校観」もまた、実践と現実とのかねあいの中で大きく変化せざるを得なかった。いま、五年間の「年間方針」と「年間総括」を読み直すと、それは次のような点に明瞭になっていると思われる。

学校・教職員集団と生徒会

 特にその中心は、学校づくりの中で教員と生徒をどう位置づけるかという問題であろう。93年度の方針では「教員会議での指導方針の決定」→「全教員によるその方針の実践」→「各教員による指導実践の点検」→「指導の総括」という構図が求められていた。これは機構改革の中で、「教師の指導性」にこだわり、「学校らしい学校」となる事で指導の展望がひらけるとの見方に立つものであった。これは1980年代初頭、校内暴力的事態が全国的に問題化した中で、民主的な全校集団づくりの実践と共に確立されてきた考え方に深く影響されたものであった。しかし、この構図は実践すると共に矛盾が現れてきた。方針の決定・実践・点検・総括という事項は、それ自体としては組識活動の基本となるものである。だが、これらの決定が真に教育的であるためには、教育活動について一人一人の主体性を保障し確立できるだけの民主的討議が必要であり、そのためには職場に実践をすすめる原動力となる民主的な教育運動がひろがっている事が前提であった。こうした前提を欠いた中での、「民主集中的運営」は土台となるものがないために形式的なものとなりやすく、職場の現実との間で矛盾を引き起こすことになった。また、今日、学校そのものの価値性が根本から問われている中にあって、「指導的価値の決定」から初めて展開するこのスタイルの追求は、一般化するには現実にあわない、と考えることができるだろう。

 さらに、この構図の中では、生徒たちはあくまでも「教育の客体」としてとらえられるにとどまっていた。しかし現実には、93年度の実践は、何よりもY総務委員長のように、「生徒会改革元年」を宣言して、新しい生徒会活動を創造するためにすべてをかけた生徒諸君に支えられていた。この年はしばしば、夜中までの会議が終わってから帰りの電車でY・N両君と議論の続きをやり、町田駅で降りては「うまいラーメン屋があるんだ」というY君の言葉で、またラーメンをすすりながら議論の続きをやった。まだ生徒会活動の担い手として立ち現れる生徒諸君はわずかであったかも知れないが、あの日々は生徒会改革への黎明期であると共に、この五年間の指導への原点となったものである。そしてこの点を強く認識させられ、「生徒たちの可能性にかけてみること」をはっきり自覚した契機は、94年暮れの高生研・関東ブロック長野集会であった。私にとっての第一に転機がこの関東ブロック集会にあった。

 こうして、その翌年度、ゲン総務委員長、パリラ副委員長たちと求めた生徒会活動は、「参加と自治を求めて」と題して、96年神奈川高生研春ゼミ・全体集会において報告させていただいた。この一年を通じて、新しい生徒会指導への展望が開かれた。それは何よりも、「生徒の可能性に注目し、みんなが参加することにこだわって指導をすすめる」という事であったと思う。こうした中で、「協議会」についての位置づけがより明瞭なものになっていった。それは、「生徒の学校参加」をすすめる中核としていこうという事である。また、そこから決定された「指導目標」からはじめて「あるべき活動」を追求するのではなく、生徒たち(そして教師たち)と共に「どんな内容や文化的価値を求めるかをゆるやかに模索する」という視点への転換が求められた。その具体化としては、学園祭企画審査にかわって「学園祭企画相談会」を追求してきたことがあげられよう。教員会議との関係についても、「全員が一致して一つの目標と方針にそって指導することを決める」という「審議事項」での議案が減り、指導経過と今後の方針を報告し意見を聞くが、最終的には担当したものとしての教育権限に基づいて指導をすすめる、という形式をとることになっていった。さらに生徒会の活動を通じて、有志型の組識活動やNGO的・市民的活動をできうる限り取り入れようと考え、ユネスコ委員会・エレキ委員会などが生徒自身の手によって創られていったのである。

どのように生徒会を彼らのものとしていくか

 しかし、まだこの段階では、学校と生徒会との関係、生徒会執行部と全校生徒とがいかなる接点で結びつくべきか、などの諸点は必ずしも十分に自覚されていたとはいえない。これが「行事再編」の中で生徒会がどのような立場をとるべきかをめぐって、総務だけで問題をかかえこんで考えた挙げ句、彼らが孤立する局面を作ってしまった大きな背景であった。のちにこの点は、高生研青森大会の分科会で厳しく批判をあびた。それは、この校内紛争の挙げ句になされた「一方的行事再編」という中で、教師側からどのような指導が可能であったかという事以上に、それまで活動の中で生徒会執行部を全校生徒、具体的には中間代議機関の生徒たちと共に考え、そして活動を創り出す存在として育ててきたのかどうか、ということを問うものであった、と考える。この点で言えば、全生研の実践「学校のみんなで決めたことなのに」や京都・桂高校生徒会の国連・人権委員会へのアピールまで発展した活動の中に、多くの点で学ぶべきものがある。

 こうした意味で、青森大会は私にとっての大きな転換点であった。クラス委員会での価値的な問題を含んだ討議と意思決定の追求は、秋の「前夜祭から間夜祭へ」の全校クラス委員会での実践から始められた。また、95年秋の企画委員会での激しい議論にうちかって実現したエレキ問題での協議会も96年秋には開催できた。そしてそこから、97年度、教員の意識と衝突して挫折したとは言え、エリカ委員長による「全校的討論活動を求める方針」が生まれてくる。その後、98年度総務委員会が「ロードレース廃止または改革を求める」という声をあげだした事も、ここから始まる一連の活動であると言うことができるだろう。学年クラス委員会やクラス委員会で、みんなで議論して解決を求めていくという構図は、まだ不十分かも知れないが、定着しはじめている。学年クラス委員会で「みんなで考えてみる」という事に、97年度の高2の総務たちはそれまでの学年での指導経過から生まれたあつれきによってなかなか積極的になれなかった。しかし、98年度の高2総務たちは、自然に総務と学年クラス委員会の話の中で自分たちの方向をさぐることができる「身体」を持つようにいたっている。

 また97年度は、学園祭実行委員会総会においても「屋台でのデポジットを導入するか否か」をめぐって価値論争的な討論を含めた討議が行われ、運営組識としての実行委員会へと一歩だが確実な前進を生み出した。ここで求めてきたものは、単なる「諸活動の担い手」ではない。「何を創り出すか、何を求めるか」を考え、議論しあう事から始まって、共に活動を創り出していく主体としての実行委員会を求めようとしてきたのである。生徒会を、実行委員会組識を、あるいは体育祭や学園祭を、生徒たちが真に自らのものとしていくために、彼らに最大限の要求をし、指導しつつ、彼らを自らの組織における主体者としていく事が望まれる。そして、それは彼らを学園自治の担い手として位置づけていく事と不可分なものとしてあるのであろう。

学校への「参加」をすすめる生徒会を求めて

 こうして今日、「生徒たちの目から学校の価値を問い直す」という視点が、生徒会の活動の中に次第に生まれてきている。私たちはより意識的に、いかなる価値を求めるのかを生徒たちと共に真剣に考えるべき時代にたちいたっていると思うのである。問題は生徒と教員がそういった価値的論争において向かい合うことのできる局面をいかにして学校の中でつくりだしていくのか、という事である。生徒と教師が真に出会うことをめざし、全校での生徒会の指導はいかにあるべきなのか、「学校五日制度」「教育改革」の渦が広がってくる中で、次の五年への大きな課題であろう。今日の状況において私たちは、権利としての自治を求める中でしか教育としての自治が成立し得ないという事を基底において生徒会実践を展望する必要があるのだろう。

縦割り集団における民主主義の追求

 さて、こうした学園自治を担う生徒会自治を核心とする問題とともに、この五年間のもう一つの大きな柱に「縦割り活動」と「縦割り集団における民主主義」の問題があげられる。これは特に「野活」と「体育祭」、さらには「縦割り行事」「新入生歓迎会」などの中で追求されてきた課題である。学年クラス委員会やクラスでの活動を横の糸とすれば、いわば縦糸ともなる活動である。

 92年度までの状況では、体育祭はクラスを解体された四色で行われていた。これは特活導入に伴う学校による一方的行事再編に対して、生徒側の反発が「体育祭はクラスにとらわれないでやる」「選抜クラスや文理の男女差・人数差から自由でありたい」という形をとって現れた結果、であったと思われる。しかし、実際には「生徒の色がお互いにわからず、運営できない」「実行委員会は全く運営力をもたず、総務でも運営しきれない」という現実を前にして、クラスを土台にした五色の縦割りの導入を生徒側もようやく認めたのであった。また、体育祭での応援団の活動は活発に行われていたが、それが「色の全体を統率する」とか、体育祭の運営を担うという捉え方はされていなかった。一方、野外生活活動は、2回程実施されてはいたが、教師の側にもその教育的目的が何かは明確でなかった。それどころか、野外での活動にあたって当然に求められる安全配慮や指導責任のあり方すら不明確な状況であった。生徒たちにもこの行事の意味は当然、自覚される土台が無く、体育祭と野活との兼ね合いはまったく自覚されていなかった。

 こうした中で、93年度の野活では「野活本来の趣旨の徹底、教師の指導性・安全配慮義務の追求」がめざされた。「野活〜安全な実施のために」は、そのために教員向け資料として日本勤労者山岳連盟の中でも先進的な教育活動をすすめてきた神奈川県勤労者山岳連盟や文部省登山研修所の教育・遭対活動の成果に依拠して作成したものである。私にとっては、これは「山屋としての自分のすべてを費やした」資料であった。しかし、これはほとんど活用されなかったと思われる。そして現実には、逆に本来の設定に近い計画を進めたところ、様々な問題も発生した。「山屋」として考えると事故についての究明は当然必要であり、この年はこれを大いにすすめたが、それは「方針・実践・点検・総括」というスタイルを自らのものとしていない職場の現実では、理解されるものとはならなかった。その後、生徒たちにとっての野活は、94年度をへて95年度には生徒会総務委員や高2の生徒たちには「体育祭まで続く縦割り活動の土台となる人間関係を培うもの」として自覚されるようになっていった。その意味では野活そのものは95年度に一定の「完成」をみたと言うことが出来るだろう。「野外生活活動の手引き・1995年度版」は、一つの縦割りでの野外活動としての野活についての最終的な到達点を示したものである。もはやこの行事にはいじれる余地はほとんどなくなった。しかし(だから、という事もできるだろうが)、同年度末の行事再編によって野活の存続は不可能となった。これは学校・教員側の問題である。

 ここから縦割り活動についての新たな模索が始まった。カリキュラムでは「新入生歓迎会」における縦割り集団形成の追求があげられたが、総務委員会の生徒たちは「縦割りの色全体が出会う場面はやはり必要である」と主張した。これについて基本的には認める方向での指導方針が、1996年1月末の教員会議で可決された。これが今日の縦割り行事の出発点である。それは生徒総会で行事再編を知った生徒たちの怒りが爆発するはるか以前のことであり、「生徒が騒いだから縦割り行事ができた」というのは実際のプロセスを無視した暴論・俗論である。こうした経緯から96年度・97年度と縦割り活動が追求されてきた。だが、4月末に行われる行事である限り、縦割り全体あるいは縦割り班の行動中心であっても、この行事が充実したものとなることは難しい。野活はそれだけの時間と手間をかけて生徒同士の関係性をつくっていったのであるから、同じレベルのものになれるかどうかという点では本質的には難しさをもっているのである。98年度においては、「縦割り行事」の中での班での活動を重視するという方針を生徒たちは掲げている。準備委員会の活動や縦割り活動の実施を通じて、生徒たちは少なくともその充実という方針を追求したいとしている。だが、こうした矛盾から考えるとこの行事そのものが定着して「完成」を見られるのか、あるいは全く別のものに吸収されていくべきものかどうかという事は、まだ数年間の実践的模索を必要とする段階にあると思われる。

 またカリキュラムに新たに盛り込まれた新入生歓迎会をつくりかえていくという方向については、2年を経た98年度新入生歓迎会方針において、生徒たちの「中学一年のクラスで仲良くなれるようにしよう」という意見から取り組まれることになった。これが可能となったのは、98年度高2の中心となる生徒たちが「クラスのみんなでつくる活動の楽しさ」に確信を持つことが出来ているからである。これは新しい挑戦であり、いかなるものとなるかまだ明確ではない。しかし、こうした活動の展開の中に新たな縦割り活動への展望がひらけてくるかも知れない。その展望を切り開く当面の焦点は98年度高2がどのような実践を展開できるかという事にある。

 さて、しかし「縦割り集団の形成」が「縦割り集団における民主主義」という実践的課題をともなっていることを、私は当初、自覚していなかった。93年度における「応援団の役割の明確化・人数規制」という方針では、縦割り集団はもっぱら高校二年生が全体を動かすことを中心に考えられていた。この年の体育祭は、始めて「中心学年」としての高2がその存在を確立した場面であったから、縦割りでの民主主義という意識はまだ追求する土台を持たなかった、と言ってもよいのかもしれない。だが、94年度に高2が恣意的・独占的に応援団の構成を決めたという事から、95年度から「縦割り集団の民主主義」の問題が追求されるようになったのである。縦割りでの調整会議という方法は、95年度、96年度をへて97年度に一定の「完成」をみた。それは応援団長から示された「人数調整案」に対して、中学一年生をも含めた下級生から異義が表明され、それを高2の生徒たちが受け入れてコンセンサスを求めることができるようになった事に示されている。その土台は、縦割り行事での縦割りクラス委員会の実質化への努力と共に、前述した「学年クラス委員会の機能化と追求」という事にあったと思われる。上級生が下級生の合意をえる中で全体としての調整をはかる、という関係が、「応援団の人数調整」という限定した場面ではあるが、つくりえたのである。

 しかし、ここにも様々な課題が残されている。それはまずもって現在の体育祭そのものがどうすすめても、「応援団中心」を抜け出しえていないという事である。縦割り集団全体が有機的に結びついて全体として行動するという実践をどのように求めていったらよいのであろうか。そして、そこにおける民主主義とは何であろうか。そこに80年代全校集団づくり実践の「雄」とも言うべき、新潟短大付属高校の「チャリドロ・マサの逆襲」を現代的に継承できる実践が生まれるような気がするのだが、まだその姿は見えてこない。
 
クラブ活動の可能性を求めて

 さて、こうした生徒会活動の「王道」から考えるとやや「周辺」となるのかも知れないが、この五年間、模索を続けてきたものに「クラブ活動」の問題があると思われる。先にも述べたが、機構改革の中でまずもって93年度に求められたものは、「教師の指導性」であった。クラブについて言えば、それは「顧問の指導」「活動に於ける安全性」などが確保された活動であるべきだ、という議論となってあらわれた。この議論の積極的な面は、「コーチ制度の導入」「学校の指導下・管理下にあるクラブとしての諸原則の確立」という面にあった。しかし、それが人事における「任命制度」のもとで、形式的な「均等化」という名目での機械的な顧問への「一方的任命」となって現れた時には、その顧問制度はクラブそのものの持つ自発的・自主的な性格と本質的に矛盾したものとならざるを得なかった。今にして考えれば、それは学校において教員の自発性や自主性をどのように考えるか、という本質的な問題を含んでいたのだと思われる。その意味では93年の時点で、「機構改革」を推進した勢力の中に含まれていた「教育的積極性」と「権力的問題性」を峻別して、この問題の検討にも貫く事が、真に「教育基本法・学校教育法にもとづいた子どもに責任を持つ学校への改革」のために必要であったと思われる。この点に十分に自覚的でなかったことが、様々な積極的な側面にもかかわらず機構改革そのものが学校全体の教育力を必ずしも高めるものとなっていかい大きな原因ではなかったかと思うのである。

 その後、クラブ活動の条件整備としては「合宿規定の整備」「コーチ制度の拡充」などをすすめることができた。また、この人事における矛盾を顧問会議で問題点を集約する中で、94年度にかけては顧問は「本人の同意をへて任命する」と変更する事にもなった。しかし、この問題の本質的な解決は97年度まで持ち越した。それは「自発的・自主的な生徒と教師による自由な文化活動」を学校の中でどう位置づけるかという問題を本質としていたのではないか、言いかえれば学校運営の民主化という問題に関係したものではなかったか、だからこそ容易に認められなかったのではないか、と現在は考える。

学園民主化と生徒会指導

 以上に述べたように、この五年間、「改革」を求めて試行錯誤を繰り返してきた。そしてその試行錯誤は、一方では「改革」が求める本質的な価値からして、「学園民主化」を求めて行動することを求めるものであった。特に教育研究と教師の研修の自由に関しては、何度となく断固たる主張を展開することが必要となった。これは93年の就業規則改定問題の中で教職員会の書記長として、学園長・理事会の姿勢を最も厳しく追及しなければならなかった問題である。書記長として交渉においてこれらの点を厳しく追及したのは、学園の歴史上に教育実践の自由・教育研究活動の自由が侵害されるという愚行が繰り返されてはならないと考えたからである。だがその後の経過は、この教育研究活動への幾多の妨害や攻撃の動きと対峙することなしにはすまなかった。いくたびも私はこの問題で闘うことになった。私は周囲からは頑固にすぎると思われたかもしれない。だが、これらの点については原則を貫いて闘ってくることができたと思う。教師としての人格と良心に関わる教育研究・研修の自由と権利・教育の自由を侵害しようとする者は、本質的には教育への敵対者とならざるをえない。私たちはそうした「不当な支配」と闘ってこそ、生徒会を生徒たちのものとしていく指導を展開できる。これが機構改革から五年を経て私が確信する事である。

 今日、生徒会活動が「権利としての自治」を追求できるものとなってきた中で、その指導が真にリアリティのあるものとなりうるためには、我々自身が学園民主化の担い手となり、それを実現する民主主義の主体となっていかなければならない。学園民主化の進展なくして、真に「生徒会改革」が発展する事はできない。これが、「企画委員・生徒会指導主任」を離れるにあたって、この五年をふりかって、私の教育労働者としての現在における結論である。

 *1998年3月末をもって私は「生徒会指導主任」を離れ、99年3月以降は生徒会の担当そのものから離れた。それから五年が経過したが、その後の推移をふりかえっても私の基本的な認識はかわってはいない。ただ、この間の事情はまだ公にするには「過去」となってはいないようだ。しかし、今こそ「新しい時代」が求められていることには違いがないだろう。