神功皇后02

2026年02月

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02/01/日
今年も2月に入った。先月は多忙であっという間に一箇月が過ぎた。通常の会議に加えて、年に数回の会議が1月に集中していたこともあるし、文藝家協会の文士劇の稽古というのもあった。これは5月の本番まで続きそうだ。多忙な人が多いので、都合のつく人だけ参加ということにしてあるのだが、ぼくは責任者なので毎回参加している。昨年から続けてきた『崇神戦記』四部作は、昨日ようやく第三部までが完了した。この三作は二十年前の新書版のノベルとして発表した作品のリライトで、自分のベストの作品として手元に残しておきたいという気持から、昨年の正月から取り組んできたものだ。シリーズの4作目を途中まで書いたところで、3作までの売れ行きがよくなくて企画が打ち切りになった。その4作目を完成させたいというのが出発点だったのだが、既存の3作は20年前の作品なので不備が目立つ。どうせなら3作とも書き直してから4作目に取り組みたいという思いからリライトを始めたのだが、1年では完成しなかった。締切のある作業ではないので仕方がない。とにかく1年と一ヶ月で作業が完了し、これからただちに第四部に取りかかることになる。この四部作は日本書紀を下地にしていて、崇神天皇、垂仁天皇、日本武尊、神功皇后を主人公にしている。ぼくはイエス・キリストを主人公にした『地に火を放つ者』、釈迦を主人公にした『デーヴァ』を始め、空海、日蓮、親鸞などを書いてきた。宗教や存在論を小説で表現するというのが生涯のテーマだったからで、その流れのなかで日本の神々についても書いておきたかった。そのなかで、崇神天皇が渡来人だという直観から『角王』という作品を書いた。これが『崇神戦記』の原典になっている。日本は神々の国だ。到るところに神社がある。というよりも山や川はすべて神なのだ。仏教寺院の境内にも必ず神社の社があるし、ビルを建てる時は地鎮祭を執り行う。日本の国土には必ず神が宿っているということだ。そのことを改めて意識したいと思っている。この四部作は、ぼくにとって最も重要なもので、自分の代表作になるはずだと思っている。さて本日は日曜日だが、歴史時代作家協会の理事会および新年会がある。この協会は事務所がないので理事会はそのつど会議室を借りる。小人数の時はワンルームマンションみたいなところを借りるのだが、今回は宴会の前で会員も出席できる理事会なので、教室みたいな広い部屋を借りた。いいところだった。去年の新年会で「代表代行」をやってくれと頼まれたのだが、今日の会議で新任の代表理事が決まったので、こちらは解放されたが、「名誉会長」ということになった。よくわからないが、まあ名誉なことなのだろう。飲み会はなじみの店で、ここではいつも飲みすぎる。注文するのが面倒なので、最初に運ばれたハイボールのジョッキに、置いてあるウイスキーをたっぷり注いで飲んでいるうちに、やっぱり飲みすぎた。

02/02/月
近所の医院でいつもの薬を貰う。しばらく車を動かしていないのでいつもの深川ギャザリアで買い物。文庫本2冊買う。『崇神戦記』の三部作が完了したので少し休みたい。文庫本のミステリーを読んでいる。今週は金曜日にNET会議があるだけで、のんびりした日が続くことになるが、スーパーボウルが迫ってくるのでだんだんドキドキしてくるだろう。ペイトリオッツ対シーホークスの対戦になるなど、シーズン前には誰も予想しなかっただろう。2年目QBのドレイク・メイが長足の進歩でベテランQBのような冷静な判断で試合を仕切るようになった。ダーノルドは昨シーズンはバイキングスで大活躍したのだがプレーオフではあっさり負けてしまった。だが今年は49ナーズに圧勝、ラムズにも競り勝って勝負強さを示した。この2人のQBはシーズン前には予想できなかったほどの脱皮をした。新しい時代が始まったという印象が強い。この二人だけでなく、ボー・ニックス、ストラウド、ヤング、ケイレブなど、2年目、3年目のQBが大活躍し、マホームズ、バロー、ラマ―・ジャクソン、ジョシュ・アレン、ゴフ、ハーツ、ラブ、プレスコットなどの中堅QBを圧倒するほどになった。まあ、楽しいシーズンだった。プレーオフも面白かった。スーパーボウルはどちらを応援してもいいので気楽に楽しめる。

02/03/火
去年はSFの『三体』シリーズを読んで感動したので、今年はミステリーを読もうと思っている。Footballを見るためにスカパーと契約すると、基本料金で見られる映画チャンネルがいくつかあって、そのなかにWOWOWプラスとミステリーチャンネルというのがあって、『主任警部モース』『ルイス警部』『刑事モース』などを見ていた。もちろんポアロやマープルも見ている。イギリスのミステリーはおもしろい。とくにここにタイトルを挙げた3作はオクスフォードミステリーと呼ばれ、大学が舞台になることが多くて興味をもって見ていた。早稲田で15年、武蔵野大学で10年、教員をしていたので、大学というものにはなじみがあり、教授と呼ばれる人々の生態についても知見がある。オクスフォードは街の全体が大学で規模も違うし伝統の長さも違うのだが、そこに殺人事件が発生するところが楽しい。で、それらのテレビドラマの脚本家として有名なホロヴィッツという作家の作品を読むことにした。いま『カササギ殺人事件』というのを読んでいるのだが、アガサ・クリスティーへのオマージュみたいなものがつめこまれていてなかなか楽しい。クリスティーは小学校から読み始めた。テレビのシリーズはたぶん全部見ていると思う。ただいま読んでいる作品はテンポが遅く、読むのが疲れる。テレビドラマを見慣れたせいかもしれない。今週はわりとひま。少しのんびりしたい。

02/04/水
年に一度の眼科検診。何事もなし。目は大事だ。日本点字図書館の理事をしているので視覚障害者の問題に関わっている。いま健常者でいられる人も、高齢になると視覚に支障が出る可能性が高い。緑内障、白内障、加齢性黄斑変性、糖尿病による視覚障害など、年齢とともに誰もが危険水域に近づくことになる。実際に眼底の写真をとると、目というものがいかに危険と隣り合わせになっているかがわかる。幸いにして本日の検査では、進行はしていないとの判断であったので、とりあえずいまは無事だということだ。しかし老眼鏡なしには本が読めないし、目が疲れやすくなっていることも確かだ。

02/05/木
スーパーボウルが4日後に迫ってきた。チーフスの出ていないプレーオフは客観的に見守ることができた。そのなかでペイトリオッツとシーホークスを応援していたのだが、双方の対決となった。この組み合わせは十数年前の劇的な結末を思い出させる。ラッセル・ウィルソンがペイトン・マニングのコルツに勝ってスーパーを制した翌年、2連覇を狙ったシーホークスの前に立ちはだかったのがブレイディーのペイトリオッツだった。終了間際まで4点か5点リードしていたペイトリオッツだったが、ラッセル・ウィルソンはエンドゾーン直前に迫っていた。ランニングバックに突っ込ませてもいいし、QB自身が突進してもいいという、1ヤードほどを、なぜかシーホークスはパスを選択し、バトラーというラインバックにインターセプトされてしまった。どう考えてもランニングという状況で、敵の裏をかくという狙いだったのだろうが、ラインバッカーは自分の活躍を想い描く。ランによる突入に備えるよりも、自分がインターセプトできるチャンスにかけるということは、充分にありうる場面で、実際にバトラーは英雄になった。まあ、ラッセル・ウィルソンは前年に覇者になっているので、痛恨の失敗というわけでもないだろうが、ブレイディーにとってはペイトリオッツ時代の6度の制覇のうちの貴重な制覇となった。ぼくのいまの心境は、どちらかというとシーホークスに傾いている。それはダーノルドというQBの苦労を知っているからだ。マホームズやワトソンが新人であった年の翌年、ドラ1はQBのメイフィールドだった。メイフィールドは2年間で1勝しかできなかったブラウンズを、たちまちプレーオフに導いた。この年、ドラ2はランニングバックのバークレーで、ジャイアンツで大活躍し、昨年はイーグルスをスーパー制覇に導いた。で、ドラ3だったのがダーノルドで、ジェッツに入ったものの病気で活躍できず、やがて放出されて流浪の民となった。2年前は流れ流れて、49ナーズでパーディーの控えを務めていた。この時に出会ったのがいまのシーホークスのオフェンス・コーディネーターで、控えのダーノルドを精神面で鍛え上げた。翌年、ダーノルドは49ナーズから放出されてバイキングスで新人QBの控えを務めることになったのだが、その新人の怪我で開幕から先発を務めることになり、14勝3敗の成果を挙げたのだが、プレーオフ初戦で負けたため放出された。その時に、49ナーズのオフェンス・コーディネーターがシーホークスに移っていて、声がかかり先発を任された。今年も14勝3敗の成果を挙げたダーノルドは、古巣の49ナーズを撃破し、ラムズにも競り勝った。長い雌伏の時代を耐えたジャーニーマンが、ようやく陽の当たる場所に出た。こういう苦労人に花をもたせてやりたいという思いがある。ペイトリオッツのメイはまだ2年目のQBだ。ブレイディーの再来などといわれているけれども、いまのペイトリオッツはディフェンスで勝ってきた。まあ、スーパーボウルの舞台で開花するということもあるだろうが、できればダーノルドの活躍を見たい気がする。

02/06/金
SARTRASの共通目的委員会。ぼくは副委員長なので、数日前に委員長と事務局とともに事前審査というものをやっている。委員全員が合否の判定をする前に、合にするか否にするか、それとも審議事項にするかの目安を予め決めておく。ということでぼくはいちおう審議の内容を事前に考えているので、必要な意見を述べることになっている。これが結構疲れる。委員の意見を聞きながら、ずっと書類を睨んでいないといけない。いろいろと意見が錯綜してえらく時間がかかることもある。今日もけっこう疲れてしまった。妻がいないので一人で昼食。昨日、懸案の第四部『神功皇后』の出だしの部分を試しに書いてみた。というか、前作『日本武尊』の終わりの部分、仲哀天皇が父の分身の白い鳥を追いかけていくところを再現して第四部のオープニングとした。いい感じのオープニングになった。これで先に進める。どんどん書き進んでいきたいところだが、今日は疲れてしまった。SUPERBOWLも迫っている。集中力がないのでミステリーを読むことにする。今日の午後と、週末は何もすることがない。SUPERBOWLは月曜日だ。選手名鑑でも見ながら、試合展開を予想したりして時を過ごしたいと思う。

02/07/土
この週末は寒いといわれているが、本当に寒い感じがする。といっても高層の集合住宅だから、隙間風などはない。この正月の寒気を築45年の木造住宅の仕事場で過ごした身にとっては、この集合住宅は天国だ。さて、SUPERBOWLの2日前。テレビでは冬季オリンピックの情報を伝えているけれども、そんなものはどうでもいい。といいながら女子ホッケーの結果に気にしたり……。ホッケーは中継を見てもパックが見えないので何をやっているかわからない。結果を見るしかない。スノーボードやフィギュアスケートも、何回転しているのか、スローを見てもわからない。Footballはボールが見えるし、選手の動きも見える。プレーオフの試合を何度も見ているけれども、シーホークスの攻撃システムはよくできている。シーズンのMVPはラムズのスタッフォードだったが、攻撃の最優秀選手にシーホークスのレシーバーのインジグバが選ばれた。この選手の位置取りが神出鬼没で、どこにいるかわからない。クーパー・カップという大スターがいるので、インジグバは忍者のようにプレーごとに位置を変えている。これにランニングバックのケネスウォーカー、それにもう一人、とてつもなく足の速いレシーバーがいて、QBがどこに投げるかがまったくわからない。こういうシステムを作った攻撃コーディネーターのクリント・キュービアックは、次期はレイダーズのヘッドコーチになることが決まっている。レイダーズは今シーズン3勝14敗でカーディナルス、タイタンズと並んだものの、対戦相手との関係でドラフト会議では1番に指名できる。ということはナンバーワンのQBが採用できるということで、すごい攻撃チームを作ることができそうだ。ということで、シーホークスはこのコーディネーターがいる今回のSUPERBOWLでどうしても栄冠をゲットしないといけない。ぼくの気持がシーホークスに傾いていく。

02/08/日
SUPERBOWL前日。というか日本時間だと前日だが、現地の日曜日のナイトゲームなので、もう当日になっているということもできる。自分がいつからSUPERBOWLを見るようになったのか。モンタナが逆転タッチダウンを通した瞬間もリアルタイムで見ているし、控えQBのホステトラーが制覇した場面も見ている。20世紀のことだから、もはや歴史の領域だ。ブレイディーやロスリスバーガーやマニング兄弟の姿も目に灼きついている。いまも自宅で現役で動いているテレビはハードディスク内蔵で簡単に録画ができるようになった。この集合住宅に引っ越す前から前の家にあったので十数年前のことだ。簡単にビデオに録れるので何度も再生して見ている。チーフスを応援するようになってからは、一喜一憂することもあったが、今回はとくに応援するチームがないので、冷静に見られる。長い低迷の時代から再起したダーノルドを応援したい気持もあるが、2年目のドレイク・メイが制覇するところを見たいという思いもあるので、どちらが勝ってもいい。今回は両チームとも守備が強いので、守備のシステムを競う戦略ゲームのようなところがあって楽しい。ただ日本将棋の駒の性能は平等だが、人間の選手が動くFootballの場合は、駒の性能に差がある。レシーバーに駒を揃えたシーホークスがやや有利だと思えるのだが、モメンタムというものがあるので、流れによって思わぬ展開になることもあるし、7点差以内で進行した場合は、第4クォーターの残り5分になってからの時間の使い方で勝敗が決することもある。Footballという競技のすべてを楽しみたいと思う。それはさておき、妻がもっていた『メインテーマは殺人』(現代は「その言葉はマーダー」)というミステリーを昨夜読み終えた。これはおもしろかった。まったく無駄と思われる長い描写や細部が、最後になってすべてが輝き始める。ワトソン役が作者本人という趣向が生きていて、犯人も含めて登場人物のすべてにリアリティーがある。失踪した猫(空き家に迷い込んで出られなくなったということなのだが)までが意味をもってストーリーに関わってくる。これはいままで読んだミステリーのなかで最高傑作ではないかと思う。同じ作者の『カササギ殺人事件』は劇中劇のような趣向で、リアルな世界の方はよくできているのだが、小説のなかの小説の方は少し無理があった。昨夜読み終えた作品は、すべての人間に存在感があって、鮮やかなドラマになっているだけでなく、作家や脚本家、演劇や映像の世界の細部が描かれていて、ぼくにとってもリアリティーがあった。著作権関係を通じて脚本家とも交流があるし、姉が俳優なので演劇人とも接触したことがある。作者自身が登場人物という私小説の手法もうまく活かされている。いい作品だと思う。ホロヴィッツの出世作は『刑事フォイル』の脚本で、何本かは見たことがあるのだが、スカパーで第一作から再放送することがあればしっかり録画して最初から見たいと思っている。

02/09/月
いよいよSUPERBOWL。朝8時からテレビの前で前座の歌手や国歌の演奏を見守る。守備システムの戦略ゲームとなるというこちらの予想どおり、タッチダウンのない守備合戦になったが、シーホークス有利というこちらの予想どおり、ペイトリオッツのメイはひたすらサックされて一歩も前に進めないのに対し、シーホークスのダーノルドはパスは決まらないものの、ランニングバックのケネス・ウォーカーに渡せば少しずつ前進してくれるので、キックが4本決まって12対0になった。すでに第3クォーターに入っていて、残り時間が減っていく。ここで1本でもメイのタッチダウンパスが決まれば接戦になるところだったが、ダーノルドの方が先にタイトエンドにタッチダウンパスを決めて、勝負はそこまでだった。ケネスウォーカーというランニングバックはステップを踏むのがうまく、ラインの穴を見つけて前進したり、タッチライン沿いに走り込むのがうまく、結局MVPを獲得した。相棒のランニングバックの怪我で孤軍奮闘だったこともあり、ペイトリオッツがシーホークスのレシーバー陣を警戒して引き気味に守っていたこともあって、ボールを持つと短い前進を重ねていった。振り返ってみればNカンファ決勝のラムズ戦が事実上の決勝戦だった。Aカンファの方は準決勝のビルズ対ブロンコスが山場だと見ていたのだが、ブロンコスが辛勝した上にQBボー・ニックスが負傷するということで共倒れ状態となり、ペイトリオッツがスーパーまで進むことになった。ボー・ニックス対ダーノルドのスーパーになれば、接戦になったのではと思われる。しかし2年目QBドレイク・メイにとっては貴重な経験になっただろう。ダーノルドはMVPは逃したが、長い苦労が報われてスーパー覇者のQBになれた。同期のメイフィールドに実績で負け続けていたのが、一気に追いついた感じだ。さて、来シーズンの展望も書いておく。シーホークスの攻撃コーデのクリント・キュービアックがレイダーズのヘッドになる。ドラ1の新人QBを擁して、プレーオフ進出を狙う。Aカンファ西地区は、ボー・ニックスのブロンコス、ハーバートのチャージャーズが今季はプレーオフに進出したのだが、ここにレイダーズが加わり、怪我の癒えたマホームズのチーフスを加えて、すごい地区優勝争いになる。スーパーを制したシーホークスでギャラの高そうなのはクーパー・カップだけなので来シーズンも戦力を維持するだろう。ラムズ、49ナーズも加えて、Nカンファも西地区は激戦となる。一人負けのカーディナルスもベテランQBマリーを諦めて、ドラフトで新人QBを採ることになるだろう。来シーズンはともに西地区の争いが焦点になる。あとは今シーズンの新人QBを擁するタイタンズとジャイアンツにも注目。ぼくは久し振りにジャイアンツを応援してみたい気がする。それと怪我をするまではコルツの快進撃を支えたQBダニエル・ジョーンズと、パーディーが怪我で出られなかった期間の49ナーズを支えたマック・ジョーンズという、2人の「ジョーンズ」の行方にも注目したい。ダニエルはコルツに残るだろうが、マックはパーディーの控えに甘んじたくはないだろうし、古巣のペイトリオッツが若いQBでスーパーまで到達したので、悔しい思いも秘めて居るはずで、バイキングスやファルコンズ、あるいはドルフィンズ、ジェッツ、セインツ、ブラウンズなど、QBの手薄なところに活躍の場を見いだしてほしいと思っている。

02/10/火
SUPERBOWLから丸一日が経過した。まだFootballロスという状態ではない。2025年シーズンの静かな余韻が残っている。シーズン前、勝ち越しも難しいと予想されていたペイトリオッツとシーホークスが対決したというそのこと自体が、戦国時代の到来を物語っている。ペイトリオッツは前年の成績が 4勝13敗だった。QBは2年目のメイで、大きな成長は期待できない。防御も守備も新戦力が入ったわけではない。それでいて鉄壁の守備で10連勝を含む14勝3敗の好成績だった。シーホークスは10勝7敗という好成績だったが、勝ち星の並んだラムズと対戦成績の差で地区優勝を逃し、ワイルドカードには1勝の差で出場できなかった。そういう状態で、先発QBのスミスがレイダーズに移籍してQBがいなくなった。バイキングスで14勝3敗の成績を挙げながら放出されたダーノルドを引き取ったのだが、パス攻撃が不安定で、それ以前の実績がほぼゼロのQBだった。これを守備の強化によってチームを安定させ、2人の強力なランニングバックを擁してとりあえずラン攻撃で小さな得点を狙い、守備力で勝ちきるという戦略でシード1位を獲得した。シーズン終盤のラムズ戦で、2ポジション差を追いついて延長にもちこみ、先に7点とられながら、逆転の2ポイントを決めた試合が、実質的な決勝戦だったと思う。この結果で地区優勝とシード1位を確保した。カンファ決勝のラムズ戦を地元で戦うことができた。接戦になると地元チームが有利になる。QBのオーディブルの指示が観客の声で届かなくなるからだ。観客の声援に関しては、フェアプレーの精神といったものはアメリカにはない。シード1位になることは重要なのだ。ペイトリオッツはシード2位だったが、デンバーブロンコスのQBボー・ニックスの思いがけない負傷退場と、おりからの豪雪に救われた。3点差でリードした直後から吹雪になって、両チームともパス攻撃ができなくなった。まあ、いろいろなことがあったが、チーフス、ビルズ、レイブンズといった強豪チームがスーパーに届かなかった。ビルズは惜しいところまで行ったのだが、チーフスとレイブンズはプレーオフにも届かなかった。新旧交代の時期がいま到来したという感じがする。そのなかで、マホームズより一歳若いだけのダーノルドがスーパーを制したことは評価しないといけない。苦労人が控え目に活躍する。MVBもランニングバックのウォーカーだった。ペイトリオッツの鉄壁の守備に阻まれてパスはまったく決まらなかった。フィールドゴール3本で9点差をつけて前半を折り返した時点で、シーホークスの優位は明らかだった。シーホークスの守備陣がメイを完封した。見応えのあるスーパーだった。さて本日は西銀座の交通会館に出向いてパスポートを入手。いまはスマホのマイナカードのサイトから申請できるのだが、写真を撮るのが難しくて苦労をした。自撮りをしようとすると手がぶれ、目を開いているのが難しい。妻にシャッターを押してもらってようやくOKが出たのだが、受け取ったパスポートの写真を見るとやっぱり目が開いていなかった。これで大丈夫かという気がする。夜は文藝家協会で文士劇の稽古。今回は本読みを通しでやったのだが、ぼくの担当はセリフが多くとても疲れた。座ったままの本読みでこれだけ疲れるようでは、立って動く舞台はたいへんだと思う。

02/11/水
SUPERBOWLのことばかり考えていたので、衆議院議員選挙の情報が頭に入ってこない。自民党大勝で、憲法改正も可能かといわれているのだが、ぼくはいまの憲法はまさに理念があっていいと思っている。敗戦のどさくさでアメリカの意向を反映した内容だが、結果として平和を理念とし、人権を大事にする素晴らしい憲法になっている。これを少しでもいじると、現実に即した妥協的な改悪になる。今回自民党に投票した人々はそのことをどれほどわかっているのか。ヒットラーのナチス政権が絶対的権力を掌握した時、第一次大戦の敗北から学んだワイマール憲法という理想的な憲法があった。しかしナチスが選挙で絶対的多数となったために、全体主義国家が成立してしまった。憲法は人権を守ってくれるのだが、人民が自ら投票で人権を棄てるということが起こってしまう。いまの日本もアブナイ状況になってきた。憲法を守るはずの立憲民主党が「中道」などという仏教用語を唱えるようになって、何やらアブナイ予感がしていたのだが、本当にアブナイことになってきた。この事態にペンクラブはどのように対応するのか。文藝家協会は政治には関わらないことを信条としているので、何が起ころうとも文士劇をやっていればよい。ぼく自身はもはや余命のない後期高齢者なので、ただ眺めていることしかできない。このノートでは引き続き、宇宙論みたいなことをやっていきたい。SUPERBOWLが終わったいま、ぼくが何より興味をもっているのは、宇宙の起源だ。しかしぼくの周囲にFootballに興味をもつ人がいないように、宇宙の起源について興味をもっている人もいないので、誰かと語り合うということもできない。宇宙の起源というのは煎じつめると、重力と電気力の発生ということにつながる。なぜプラスの粒子とマイナスの粒子があるのか。プラスの陽子には質量があり、マイナスの電子にはほとんど質量がないのか。これは哲学の問題なので死ぬまでこのことを考え続けたいと思っている。ただ宇宙の始まりが不明なのと同じくらい不明なのが、自分というものの起源だ。自分が生まれた時の記憶はない。気がついたら自分はこの世にいた。最も古い記憶は三歳の誕生日の直後だ。たまたま自宅の居間を通り過ぎていった叔父が、「キョッちゃん、年いくつ」と聞いて、「三つ」と答えた。それが三歳の誕生日の直後だったという記憶がある。なぜ叔父が通り過ぎていったのかとか、なぜ「キョッちゃん」と呼ばれていたのかといったことについては説明しなければならないが、いずれ何らかの作品で描き残しておきたいと思っている。とにかくその程度の記憶が残っているだけで、自分がここに存在しているということの証しは、三歳の時からしかたどることができない。それ以前はどういう状態だったのか。しかしぼくもいずれ認知症になるだろうから、最終的な記憶もぼやけてしまうことだろう。何もないところから自我が生じて、いずれはぼやけた確率の雲のなかにフェードアウトしていく。まあ、そういうことになるのだろうが、とにかくいまはものを考えているしこうして言葉を書き記すこともできているので頭が回転している間は考え続けたいと思っている。

02/12/木
一年かけて取り組んできた20年前の三部作のリライトが終了し、第四部を書き始めた。半分くらいは草稿があると考えていたのだが、第三部のエンディングを改えたので、第四部のオープニングにも影響が出てきて、そっくり新しいオープニングが必要だと考えている。少年(仲哀天皇)が父の分霊の白鳥を追いかけていくところから話を始めて、日本武尊とともに旅をしたナナツカハギから話を聞く、という展開で、第三部と第四部をつなげていく。そこから第四部の主人公的存在の葛城襲津彦を登場させる。およそそういった段取りを考えている。ヒロインの神功皇后はまだ出てこない。『神功皇后』というタイトルではあるが、襲津彦が主人公で、神功皇后は神の領域に近い存在ととらえている。仲哀天皇にも出番を与えたい。この少年にも神秘性が宿っている。

02/13/金
まだスーパーボウルの余韻を引きずっている。シーホークスの制覇は、Nカンファ決勝のラムズとの激闘に勝ったことが最大の勝因だが、試合はシーホークスのホームで実施された。接戦になればホームチームが有利だ。観客の声による妨害でアウェイの方はオーディブルによる作戦変更が難しくなる。シーホークスがホームで闘えたのはシード1位になったからで、それはシーズンの第16週でのラムズとの決戦に勝ったからだ。この時点では両チームとも3敗だったが、ラムズは残り2戦は楽勝が予想され、この一戦に勝てばシード1位がほぼ確定という状況だった。シーホークスは最終戦に49ナーズとの試合があり、ラムズに勝ってもこれに負ければ49ナーズがシード1位ということになる。それでも、ラムズに負けるか引分でもシード1位はないというぎりぎりの闘いだった。第4クォーターに入ってシーホークスは16点差で負けていた。タッチダウン2回にいずれも2ポイントコンバージョンを成功させないと追いつかないという状況。それでもホームゲームなので観客の声が高まり、ラムズの攻撃は連続して短く終わっていた。タッチダウンに成功して2ポイントも決め、さらに時間ぎりぎりでタッチダウンに成功。しかし2ポイントを狙ったダーノルドの横パスは、手元が狂って飛び出した相手ディフェンスのヘルメットの後頭部に当たってエンドゾーンに転がっていった。パス失敗。これで勝負は決まったと思われたが、エンドゾーン上のボールをシーホークスのランニングバックが何気なく拾い上げた。怪我でスーパーには出られなかったシャボーネーだが、このランニングバックは得点チャンスには必ず登場して、タッチダウンの数ではMVPのウォーカーを上回っていた。しかしパス失敗の場合はそこでプレーが止まるので、ボールを拾うことに意味はない。ボールを拾い上げたのは、たまたま足もとにあったボールを持って審判に返したという、ゴミを拾うような行動だった。ところが手元が狂ったダーノルドの投球は、ラグビーのようなバックパスではないかと審判がビデオを確認すると、確かにわずかに後方へのパスで、それがディフェンスの後頭部に当たって前に跳ねて、エンドゾーンに転がったという判定となった。バックパスの場合はファンブルと同じ扱いでボールは生きている。エンドゾーン内でシャボーネーがボールを拾った瞬間に、2ポイントのタッチダウンが決まったということになり、試合は延長戦に突入した。この何気なくボールが拾ったという行為が、最終的にスーパー制覇につながったと考えると、偶然というのは恐ろしいものだと感じてしまう。さて本日はまた夜に文士劇の稽古がある。体調を調えないといけない。さて、その文士劇の稽古。いちおうの配役は決まっているのだが、本日は始めは役柄を替えてやるということで、ぼくに割り当てられたのスカーレットの妹の役。これはおもしろかった。女の子のセリフをしゃべるというのは新鮮な体験だった。もっとも小説家というものは、頭のなかでは女のセリフも発信しているので、実は女性の気持ちになってセリフを書いている。頭のなかで芝居をしているようなもので、だから女性の気持ちもわかるということなのだろう。

02/14/土
スーパーボウルが終わったので、そろそろちゃんと哲学をしようと思う。ずっと前に、いまぼくが関心をもっているのは3つのテーマだということを書いた(と思う)。一番目は「宇宙の生成」、二番目は「DNAの生成」、三番目は「私の生成」。この三つ目は「人間の生成」とか「人類の生成」ということなのだが、人間にもいろいろあるし、結局のところぼくはぼく自身のことしか知らないので、「このぼくの生成」について考えてみたい。で、今日はDNAについて考えてみる。DNAがなぜできたか。これはまだ誰も解明していない謎だ。DNAは4つの情報単位でできている。「文字」といってもいい。A(アデニン)、C(シトシン)、G(グアニン)、T(ティミン)の4文字だ。DNAはデオキシリボ核酸の略で、リボースという糖質のヒモ状の物質が2本あって、その間にハシゴ段のような連結部分がある。Hという構造が立てに重なってハシゴを形成していると考えてもらいたい。そのHの横棒のなかに、文字が2つ入っているのだが、Aの隣にはT、Cの隣にはGがあると決まっている。この文字列が何なのかは当初はわからなかったのだが、このHが重なったヒモが縦に裂けた時に、文字は1文字ずつに分裂するのだが、リボースのヒモにはずらりと文字が並ぶことになる。そこに細胞内に浮遊しているアミノ酸がくっついていく。その時、3文字がセットになって1つのアミノ酸が固定されていく。アミノ酸が並ぶとタンパク質ができる。タンパク質が並ぶと細胞ができる。人間だけでなく、あらゆる生物は、このDNAの文字列によって生成される。たとえばこの「ぼく」という生物の設計図も、DNAの文字列によって記録されている。「ぼく」はいまも細胞分裂によって、新陳代謝しているわけだが、それはメッセンジャーRNAという読み取り装置がDNAの情報を伝えてタンパク質に変換しているからで、「ぼく」が「ぼくという生体」を維持できるのも、DNAの文字列に情報が固定されているからだ。赤ん坊のぼくが生まれてきたのもDNAの文字列の情報によるものだし、その情報読み取り装置が壊れると、ガン細胞ができたり、臓器の衰退が起こったり、細胞の再生産ができなくなって、死に到ることになる。人間はもとより、単細胞の微生物からウイルスに到るまで、すべての生命活動はDNAによって成立している。RNAだけの生物も存在するが原理は同じだ。リボースのヒモの組成が少しだけ違っているのがデオキシリボースで、紙にプリントされて固定されいるのがDNA、情報の変換が可能なテキスト文書がRNAと考えてもいい。で、問題は、なぜDNAなどというものがこの世界に存在しているのかということだ。一番目の問いの「宇宙の生成」とは、簡単に言えばプラスの陽子とマイナスの電子がなぜ宇宙に生じたかということなのだが、陽子と電子によって構成された原子の配列によって、高分子と呼ばれるものができる。高分子というのは、大きな分子と考えてもらいたい。水とか、二酸化炭素とか、食塩といったものは、シンプルな分子だ。もちろん氷とか、ドライアイスとか、塩の塊みたいな大きなものができることもあるが、それはごくシンプルな単体が寄り集まっていると考えることができる。高分子というのは、たとえばタンパク質とか、脂肪とか、セルロースといった、複雑な構造をしている分子のことだ。DNAの高分子の一種と考えることができる。昔、ボルツマンという人がいて、エントロピーは必ず増大するということを言い出した。これは熱力学の第二法則とも呼ばれている。第一法則はエネルギーが不滅だということなのだが、エネルギーは不滅でもエントロピーは増大していく。お風呂のお湯のなかに氷の塊を投入したと考えてほしい。氷は融けて、ぬるま湯になる。これがエントロピーの増大で、その逆の反応はけっして起こらない。ボルツマンの考えによれば、宇宙の全体が時間の経過とともに「ぬるま湯」になっていくということだ。だがそうはならない。なぜか。「ぬるま湯」の反対は、「温度差がある状態」だが、ぼくたちの頭上には太陽があって、ものすごい温度差が生じている。なぜ太陽が存在しているかはまた別の話で、とりあえず太陽によって温度差が生じると考えてほしい。たとえば海の水は、太陽によって蒸発して、雲となり、雨となって海に戻る。その途上で地上の高地に降った雨が、河となり、やがて海に注ぐ。この時に、棚田のようなものがあると考えていただきたい。要するにダムみたいな構造があると、そこに水がたまる。山に降った雨が斜面を流れて海に注ぐのは「エントロピーの増大」だが、ダムや棚田があると水はそこに固定される。高分子というのは、棚田のようなもので、そこで「エントロピーの増大」が止まる。そのエントロピーが止まった状態の高分子のなかに、DNAが生じると、このDNAという構造体は、文字列のコピーを作って増殖していく作用があるので、「ぬるま湯」から「温度差」が生じていくことになる。すなわちDNAによる複製作用は、熱力学の第二法則に逆らってエントロピーを減少させていくことになる。体内に入ったウイルスがあっという間に増殖することを考えれば、情報そのものが増殖して「温度差」が生じるということがわかっていただけると思う。DNAは情報そのものであり、情報がつねに増殖していくので、エントロピーは時間とともに減少していくことになる。従って、たとえば地球の表面という領域では、エントロピー増大の法則とは反対に、エントロピーはつねに現象していき、ぬるま湯から温度差が生じ、生物がはびこっていくということになる。で、問題は、このDNAというものが、なぜ生じたのかということだ。遠い宇宙から隕石によって地球に運ばれた、という説があるが、それでは問題の解決にはならない。宇宙の始まりの段階では、陽子と電子という単純な粒子したかなかったはずで、DNAなどというものは存在しなかった。どこかで、DNAが生じたのだ。いま候補と考えられているのは、海底火山とか、海の底の割れ目から出てくる熱水といったものだ。たとえば大西洋は大陸に生じた割れ目が拡大したもので、大西洋のまんなかには、いまもマグマが噴き出している領域がある。その海底の泥のなかで、新たな微生物が生じているのではないか。とにかくDNAというのは、そのような熱を帯びた泥のなかで培養されたのではないかという仮説があるのだが、本当かどうかはわからない。話はとぶが、コロナの予防接種というのは、コロナウイルスのメッセンジヤーRNAを体内にぶちこむという乱暴な試みで、異生物が体内に入ることで、人間が本来もっている免疫作用が活性化されるというものだが、去年の接種でぼくは高熱を発し、それ以後しばらくの間、心臓が不調だった(いまは治った)。何だかよくわからないが、とにかくDNAというのは、生命のもとであると同時に、深い謎を秘めた物質だといっていいだろう。

02/15/日
DNAのすごいところは、全体のコピーが一瞬にしてできてしまうということだ。たとえばぼくが一年がかりで作品を完成させたとする。作品とは文字情報のシークエンスにすぎない。そこに一年間の労苦がこめられている。完成した作品は、パソコンが壊れた時のために、SSDやUSBやメモリーカードなどにコピーする。担当編集者にメールに添付して送信する。これもコピーということだが、複製作業は一瞬で終わってしまう。生命というのも同様で、何億年もかかった進化のプロセスが、細胞内で一瞬にしてコピーされる。ただ高等生物の場合は、オスの遺伝子とメスの遺伝子がシャッフルされて、新たな組み合わせのDNAが生まれる。シャッフルするのは環境の変化に対応するための保険みたいなもので、こういうシャッフルによって生き残った生物が自然淘汰されたということだ。で、ぼくというものを構成している遺伝子があって、赤子としてぼくは生まれた。これは簡単にいえば、新品のパソコンみたいなものだ。Windowsなどの基本ソフトやワード、エクセルなどもプレインストールされた新品のパソコンを購入して起動させる。そこから「ぼく」という生体機械の進化が始まる。DNAは4文字の文字情報にすぎないのだが、生体機械はもっと多様なものを学習していく。パターン認識と呼ばれるもので、目で見た画像や、耳で聞いた音を、パターンとして認識して、これを言語化していく。最初は、母親の鼓動とか、抱かれた感触とか、母親の声、笑顔といったものだろう。やがて母親以外の存在、父親や家族や近所の人、さらには周囲のさまざまな物の形や意味をもった音を認識するようになる。本で読んだことや、学校で習ったことが蓄積されていく。そこから小説を書くという行為に到るには、少し飛躍があるかもしれない。ふつうの人は小説を書かない。それでもぼくは大学で小説の書き方を教えていたから、誰でも小説を書くことができるということを、感覚として把握している。それでも新人賞や芥川賞をとる作品を書くのは、けっこう難しい。売れる小説を書くというのはもっと難しい。そのことと並行して、ぼくは人と関わってきた。妻がいて、息子がいて、孫がいる。それから編集者や同業者とつきあってきた。著作権関係の人とも闘いながら協調してきた。いまは文士劇の稽古をしているので、同業者の顔や声に直接触れることができて、貴重な体験をしている。これらが生体機械としてのぼくの記憶媒体に蓄積されていく。世の中には数多くの生体機械があるが、どれもが個性をもっている。一卵性双生児というものがある。高校時代の仲間で詩人となった佐々木幹郎には一卵性の弟がいた。彼が文学賞を受賞した時に授章式の会場に行くと、本人は外国旅行中で、弟が代理で出席していた。ぼくは知らずに佐々木幹郎だと思って話しかけたら、弟だと言われた。弟は建築家だったと思うのだが、外観は詩人の佐々木幹郎そのままだった。彼らは同じDNAをもっているが、異なる人格をもっている。一人は詩人で、一人は建築家だ。これは同じパソコンでも、なかに入っている情報が違っていれば、まったく異なる装置になってしまうのと同じことだろう。ぼくには息子が二人いるが、顔は少し似ている。DNAも半分くらいは共通している。去年は孫娘と三ヵ月ほど一緒に暮らした。彼女のDNAは、ぼくと、妻と、スペイン人の祖父、祖母からコピーされたものだ。ぼくと彼女は、DNAを4分の1ほど共有している。しかしスペインで育っているので、さすがに外国人という感じはするのだが、顔はぼくに少し似ている。DNAというのは、見ることはできない。ゲノムとして分析することはできるようだが、4つの文字情報を見てもそこから意味が読みとれるわけではない。ぼくが編集者に送った作品も、送信されている時には数字に変換されている。最終的にはゼロか1かの2進法の情報になっているから、そこから作品の内容を読み取ることはできない。しかし作品は作品として存在している。いま書いている四部作になるはずの作品の三部作は完成しているのだが、いまのところぼくのパソコン内に存在しているだけだ。いま本屋に行っても、ぼくの作品は存在していない。『いちご同盟』の文庫本と、『星の王子さま』の翻訳はあるかもしれないが、半世紀にわたる作家としてのぼくの奇蹟は失われてしまっている。それでも大きな図書館には、何冊かは本が残っているだろう。そういうことは、いまここにいる「ぼく」とは切り離されたことだと思っている。ぼくはまだ生きていて、これからも何かを生み出したいと思っている。ぼくにとっては、そのことが大事であるし、それ以外にも、来シーズンのフットボールとか、いま楽しんでいる英国ミステリーとか、それから当面の文士劇なども、楽しみながら対応している。それから妻との日常生活を楽しみ、たまに孫の顔を見たりといったこともあるだろう。宇宙の生成、DNAの生成、「ぼく」の生成……。なぜかはわからないが、不可思議な生成があったからこそ、いまこの文章を書いている「ぼく」が存在している。しかしこの三種の生成は、謎のままだ。そこがまあ、おもしろいといえばおもしろい。

02/16/月
妻の運転で深川ギャザリアへ行く。妻は高齢なので(ぼくと同じ年齢だが)、知ってる道しか運転しなくなった。浜松の仕事場への経路と、深川ギャザリアと、あとは整備点検の工場、この三箇所しか行かない。住んでいる住居の同じ敷地にスーパーはあるのだが、車を動かすために月に二度ほど深川へ行く。ここは小さいけれどもショッピングモールなので、散歩するのにいい。室内で着るベストがそろそろ暑くなってきたので、少し薄いものを買おうと思っていたのだが、冬物なので値下がりを待っていたら、本日、値下がりしていたので購入。あとは英国ミステリー1冊。本日は夜の6時からフォーラムがあるので、早めに食事をするため弁当を買う。これで一日の仕事が終わる。夜中の寝酒のおともにいまもまだFootballの録画を見ている。カンファ準決勝のブロンコス対ビルズ戦を何度も見ている。ビルズのジョシュ・アレンは、いつもプレーオフで負けているマホームズがいないし、ラマ―・ジャクソンもバローもいない。今年こそはスーパーに出場するチャンスだったが、ボー・ニックスに競り負けてしまった。ファンブルが多く、インターセプトもあった。それでも延長までもつれこんだ。延長で長いパスが決まってフィールドゴールで勝ち、と思えた瞬間、プロンコスのディフェンスが、レシーバーの掴んだボールをもぎとった。二人がボールを掴んだままで倒れたので、解説の村田さんが二人が同時に掴んだ場合はレシーバーが優先、と解説したのだが、審判はボールがまで手のなかで動いていたと見たようで、最終的にボールをもぎとったディフェンスのボールとなり、インターセプトの判定だった。そこからボー・ニックスの長いパスが、パスインターフェアランスの判定、次のパスも反則となって、フィールドゴールが簡単に決まった。ホームディシジョンという言葉があるが、審判はホームチームに有利な判定を下しがちだ。熱狂的なファンに囲まれていれば、アウェイチームに有利な判定を出すと命の危険を感じるのだろう。ジョシュ・アレンにも気の毒だったが、だからこそすべてのチームが首位の座を目指してレギュラーシーズンを闘うのだから、仕方がないというしかない。

02/17/火
高校のころにシュレーディンガーの『生命とは何か』を読んだ。同じころにジュリアン・ハックスリーの『進化とは何か』も読んだ。猫箱で有名なシュレーディンガーは哲学や存在論もやっていて、ここでは「ニゲントロピー」という概念を提出している。「ネガ・エントロピー」ということで、「ぬるま湯」から「温度差」の方向に進む推進力のようなものだ。熱力学の第一法則はエネルギー不滅の法則だが、エネルギーは変わらなくても、温度差が生じれば活性化するので、一種のバイタリティーが生まれる。これが生命力だとシュレーディンガーは提言したのだが、ハックスリーの「進化」の概念も同様で、世界は「ぬるま湯」に向かうのではなく、進化によって特異なものが生じていく。けっして「ぬるま湯」にはならない。そこにはDNAによる情報のコピーと、自然淘汰による選択によって、より環境に適合した性質をもった生物の進化の過程があるということだ。さてその温度差の推進力は何かと言えば、結局は重力ということになるだろうか。超新星の爆発によって鉄などの生成物がチリとなり、残った水素ガスなどのガス雲が生じたとしても、結局のところ物質は重力によって集まってくる。ガスが濃くなると核融合が始まり、生成したヘリウムから鉄にいたる元素は重力によって恒星の中心部に集中する。すると強大な重力が生じてさらなる核融合が進み、金や鉛、さらにはウランなどの重元素が生じる。これがまた爆発してチリとなり、地球のような惑星が生まれ、その惑星の表面上で生物の進化が生じる。地球の中心はほぼ鉄だが、ウランもあってその放射性によって融けている。金、白金、鉛なども大量にあることから、いまの太陽は、二代目か三代目で、すでに何度かの超新星爆発によって重元素を生み出したことがわかる。これらはすべて「重力」が生み出したものだ。地上に降った雨が山を削り、川となるのも、重力が働いているからだ。もちろん、生物は、電気力によって動いている。われわれは糖質を体内に摂取して、その糖質が分解してアデノシン三リン酸となり、そこから運動エネルギーが得られるのだが、これはすべて電気力による化学反応によって起こっている。われわれが立って歩けるのは骨格があるからだが、骨は炭酸カルシウムやリン酸カルシウムによって形成されている。これは強固なイオン結合によるもので電気力によって推進されている。重力と電気力。この2つの力によって、宇宙、DNA、自己が生じたということは間違いない。そうすると結局のところ、重力と電気力はなぜ存在するのか、という問題に戻ってしまう。もちろんいまぼくが語っていることは、生体機械としての「ぼく」が70年以上にわたる演算作業の末に獲得した世界観だが、これらはすべて、与えられた情報にすぎない。情報だけがあって実体はないということもできる。ぼくが見ているFootballの試合も、すべて虚構なのかもしれない。ドストエフスキーの作品はもちろん虚構だが、ドストエフスキーという作家が書いたということも、虚構の物語なのかもしれない。「ぼく」とは何かということを一言でいえば、与えられた情報を楽しんでいる存在ということかもしれない。突然だが、明日は高齢者のための運転教習を受けにいく。自動車を運転するというのも虚構なのか。すでに認知機能の検査は受けて合格した。前回は筆記試験だったが、今回は端末にタッチペンで入力する方式になっていて、より虚構という感じが強くなった。どうせなら自宅にいてスマホでできればもっといいのだが。パスポートの申請は自宅でできた。スマホでは何でもできそうだが、これもすべて虚構なのかもしれない。

02/18/水
中央線に乗って武蔵境の教習所へ。武蔵野大学に勤務していたころ、大学前を通るバスは学生で混んでいるので、ひばりが丘行きのバスに乗ることにしていた。本数が多くて空いている。ただ大学前には行かないので少し歩くことになるが、散歩にはちょうどいい距離なので、行きも帰りもそのバスに乗っていた。駅前からバスに乗ると、最初の停留所が教習所前なので、そこに教習所があることは知っていた。高齢者になって高齢者教習が必要になって今回で3回目だが、いつもここを使っている。教習そのものは3回目なので慣れたものだ。ぼくはふだんは運転をしない。浜松の仕事場に行くのも、深川ギャザリアに行くのも、すべて妻の運転だ。ということは、もう長い間、ハンドルを握っていない。高齢者教習の1回目の時は、その直前に仕事場に行った時に、別荘地内を少し走ってみた。それで車の運転というものは、ブランクがあっても忘れるものではないということがわかったので、それ以後は練習ししないことにした。2度目の講習の時に、アクセルとブレーキを同時に触ると最近の車はエンストすることがわかったので、今回は気をつけて、ブレーキペダルに触らないようにした。ぼくが免許をとった時は、ゴーカートのように左足でブレーキを踏むことが推奨されていた時期があって、ぼくは左足でブレーキを踏んでいた。それだと踏み間違いの事故は起きない。ただ車種によってはブレーキペダルが右に寄りすぎているものもあるのだが、教習車は左でも踏めるようになっていた。教習は無事に通過した。これで誕生日前に免許センターに行くだけでいい。久し振りに武蔵境に行って、こんな遠くまでほぼ毎日通っていたのだなと改めて思った。ただ大学の夏休みや春休みなど、長期休暇があるので、ふつうのサラリーマンよりは楽だった。ただ学部長をつとめた6年間は、入試の度に本部に待機する義務があった。お台場の校舎で待機したこともある。まあ、待機その事態は、行ってしまえばそこで自分の仕事ができたので、困ることはなかったし、コーヒーなどが用意されていたので、快適だった。センター試験の総責任者というのも1回務めたことがある。それもいい思い出だ。

02/19/木
昨日の運転教習は実はややプレッシャーを感じていた。若いころは暴走気味に運転していたのだが、妻に危険だと言われて運転を自粛することにした。それ以後、一人で車を利用することはなく、妻の運転に同乗するだけになった。運転を妻に任せてぼくはナビゲーションに徹した方が効率がいい。ぼくは地図を見るのが好きで、ひまな時はiPadで地図を見ている。新幹線に乗った時も地図を見る。地図のなかに現在地が青い点で示され、その青い点が移動していくさまを見ていると快感がある。さて、最近、ホロヴィッツの作品を読むようになって、時々、ロンドンの地図を見るようになった。テレビの「刑事モース」のシリーズは舞台がオクスフォードなので、狭い地域の物語だが、ロンドンは広い。移動はたいてい地下鉄だ。ロンドンの地下鉄路線図を見るのも楽しい。ロンドンはたぶん2回くらいしか行ったことがないので、乗った地下鉄は限られている。長男が留学していたブリュッセルや、パリ、バルセロナは頭のなかに入っているのだが、ロンドンは中心部しか知らない。もう1回くらいロンドンに行きたいと思っている。

02/20/金
衆議院議員選挙がスーパーボウルの時期と重なったので、何の興味ももてなかったが、自民党が大勝したようだ。それで憲法改正と皇室典範の改正が議論されるようになった。たぶん焦点となるのは第九条だろう。平和憲法といわれるように、日本は侵略戦争はしないと定められている。しかし自衛はしていいのだという勝手な解釈によって自衛隊というものができた。いまなぜ憲法を改正するのか。人権というものを縮小する方向に進むのではないかと思われる。農地や山林の管理が私権によって進まないとか、労働者を簡単にクビにできないのでかえって派遣社員や短期間労働者が増えてしまうとか、いろいろと不具合があるのだろう。この人権とか私権といったものを憲法が支えているのだが、これは民衆が蜂起して勝ち取った権利ではない。戦争に負けたために実現したものだ。といっても戦勝国のアメリカに一方的に押しつけられたものではない。古き良き時代のアメリカには理念があった。その理念に共感する人々が合意の上で憲法の草案を作ったと考えられる。この憲法が制定された直後に冷戦が始まって、米軍関係者は、しまったと思ったはずだ。日本の憲法は絵に描いたような理念によって構成されている。人権が強すぎるという欠陥は、敗戦でゼロから出発した経済界にとっては何の支障もなかった。出発点がゼロだから会社はつねに発展していく。出発点がゼロだったから人手は余っていて賃金は安い。安い賃金で働かせて、終身雇用や年功序列という絵に描いたモチで労働者に労働意欲をもたせる。それで半世紀近くの高度経済成長が続いた。そこで経済がストップした。さらに発展する企業もあるが、衰退する企業もある。そのあたりで労働者の人権がじゃまになってくる。会社がつぶれるか、つぶれそうになるまでは、労働者をクビにできない。自主退職を募っても、割り増しの退職金を払う必要があって、ますます経営が厳しくなる。いまはそういう状況だから、憲法を改正すると、国民の暮らしは厳しいものになるだろう。そのことを承知で国民投票で改正することになるのか。国民はそれほどバカではないだろうという気もするが、自民党の大勝という事実を見ると、この国の国民はバカになってしまったと思うしかない。人権を縮小するということは、全体主義に一歩踏み出すということだ。ぼくは全体主義のことを「きずな主義」と呼んでいる。東北の震災などでは、「きずな」ということが声高に唱えられた。オリンピックなどでも、チームワークということが協調される。ぼくが小学生だったころ、小学校の先生の大半は、軍隊帰りだった。戦争に負けたけれども、全体主義に対する反省はなかったと思われる。「民主主義」によって国を復興させる新しい全体主義が理念とされていたようで、企業ごとに社員が「きずな」をもって全体主義的に一丸となった働くということが推奨されていた。日本人は全体主義が好きな国民性をもっている。チームプレーが好きなのだ。それは小学校からの教育でつちかわれる。インバウンドの外国観光客がいちように驚くには、日本の道路にはゴミが落ちていない。電車に乗る人が列を作って順番に乗り込んでいく。車内では人に迷惑をかけないように静かにしている。それは悪いことではないが、私権を自分で守るという意識の欠如した人が多いことも確かだろう。実はぼくは、そういう全体主義が好きでもある。各地に神社というものがあって、時にお祭りをする。お祭りはチームプレーだ。ぼくは浜松に40年以上仕事場を構えているけれども、浜松の市民は全員が進軍ラッパを吹ける。浜松間祭りでは小学生の全員が進軍ラッパを吹きながら走り回るからだ。それが何なのかは誰もわかっていない。みんなで同じことをするのが、気持がいいということだろう。昔の学生運動も、お祭りみたいなものだった。色とりどりのヘルメットをかぶって、街路を進撃したものだ。進軍ラッパの代わりに、インターナショナルとか国際学連の歌とか、学生の「軍歌」を歌っていた。ぼくはすでに後期高齢者になっている。免許更新の認知試験と運転教習を受けた直後なのでそのことを痛感する。もはや国歌というチームプレーには参加できない、人間としてはリタイアした存在ではあるのだが、ちょっと困った状勢になるかもしれないという予感はある。幸いなことに、文藝家協会ではいま文士劇の稽古をやっていて、チームプレーの仲間がいる。出版物を作る作業にも参加している。SARTRASという組織でも仕事を与えられている。歴史時代作家協会でも顧問として意見を求められている。作家としてはほぼリタイアしているのだが、仲間がいるというのはありがたいことだ。ただ孤独を感じている若い人が、戦争というチームプレーに生き甲斐を感じたりしないか、少し心配をしている。

02/21/土
週末。今週は運転教習がありSARTRASの理事会もあったが、来週はわりとヒマ。文藝家協会の百周年記念出版のエッセイ集のセレクトの作業を頼まれていたのだが、昨日完了した。ぼくは文士劇の担当で、出版物は出久根さんの担当なのだが、いちおうお手伝いはすることにしている。会員通信という小冊子に会員のエッセーを載せるページがあって、そのなかからダイジェストして一冊の本にすることになっているのだが、協会の歴史がわかるもの、文学史に関する証言、エッセーとして内容がおもしろいもの、有名な作家のものなど、すでに担当者全員で手分けしてセレクトしてあるのだが、一人の作家が二作、三作選ばれているところを、一人一作に絞るというのと、本の厚みを少し抑えたいので最近のもののなかからいくつかカットする、という指示に従って、カットすべきものに印をつけたものを事務局に送った。これで手が離れた。文士劇の方は理事の女性陣に参加していただいてキャスティング委員会というものを作り、女性のキャストは揃ったのだが、男性の何人かに断られたので、こちらから何人かに声をかけて出演していただけることになり、すでに稽古が始まっている。ぼくも小さな役で参加する予定だったが、忙しい人が多く台詞の多い訳が敬遠されがちで、まあ何とか、自分にできることはやろうと思っている。そこまでがぼくの仕事で、あとは専門の演出家やプロデューサーに任せておけばいい。すでに会員向けのチケットの申し込みも始まっていて、来月には記者会見をして新聞などにも公表することになっている。

02/22/日
朝起きると妻がテレビで大阪マラソンを見ていた。マラソンそのものには興味はないが、故郷の大阪の街が見えているのでずっと見ていた。戎橋、千日前、上本町六丁目、鶴橋、今里……。ぼくが生まれ育ったのは玉造の近くで、玉造の商店街は鶴橋までつながっていて、地続きという感じがする。小学校の親友が今里にいたのでそのあたりも土地勘がある。ゴールは大阪城内だった。ぼくは私立の追手門学院、府立大手前高校と、大阪城のすぐそばにの学校に通っていて、徒歩で大阪城内を抜けて通学していたので、懐かしかった。もっとも大阪で暮らしていたのは高校までで、二十歳ごろから現在までずっと東京で暮らしている。二十数年前に実家がなくなってからは、大阪とは縁がなくなった。妻の方は妹が箕面に住んでいるので時に大阪に出向くことがある。二年ほど前に大阪文学学校で講演したことがあったが、それ以来、大阪には行っていない。自分が大阪に生まれたということも、考えてみれば不思議というしかない。なぜ大阪なのか。父は大阪で生まれたが、祖父は新潟出身だと聞いている。母は鳥取に住んでいたのではないか。だからぼくは純粋の大阪人ではない。私立の小学校に入ると、純粋の大阪人の子どもとつきあうことがあって、言葉の違いに途惑った記憶がある。お茶のことを「おぶう」と言ったりする。大阪の子どもは二人寄ればマンザイになる。つねにギャグを失し、つっこんだりボケたりする。ぼくも中学校まではそんな感じだった。高校に入って、ドストエフスキーを論じたりするようになると、大阪弁というものが合わなくなった。ぼくは小学校の時に児童劇団に入っていたので、標準語の訓練を受けていた。大阪の人は「美しい」と言えないが、ぼくは言える。関東出身の人は自分では気づかずに「うつくしい」の「つ」と「く」は無声音になる。つまり母音がなく子音だけになる。大阪の人はこれができない。すべての子音にしっかり母音をつける。だから「スクランブル交差点」もすべて母音をつける。英語の「スクランブル」は一音節の単語だ。「ラ」だけに母音がつく。「スク」と「ンブル」に母音はつかない。だから大阪の人の英語は、大阪弁の英語になる。ぼくの妻は大阪生まれだが、両親は高知系で、純粋の大阪人ではない。大学から東京にいるので、大阪人の発音はぬけているのだが、自宅でぼくたちは大阪弁で会話している。しかし二人の息子は、大阪弁は話せない。友だちと話すことが多いからだ。次男は八王子で育ったので八王子弁をしゃべっていたことがあった。いまはそんなことはないが。次男のところの孫は四日市や名古屋で育っているけれども、とくに名古屋弁をしゃべっているのを聞いたことはない。二人はレゴの番組でテレビに出たことがあるが、インタビューには標準語で応えていた。去年、三ヵ月滞在していたスペインの孫はとてもおもしろいカタコトの日本語を話していた。ぼくは孫娘に向かっては、日本語の標準語に英語の単語を混ぜて話していた。ヘンな言語だったと思う。さて、今日は床屋に行った。かなり混んでいた。

02/23/月
今日は祝日。平成天皇の誕生日は年末であわただしい感じだったが、2月の祝日はいい。大学はもう休みに入っているので、大学の教員にとってはありがたみがないのだが。今週はネット会議が1件だけでのんびりできる。高校時代の友人が出す本の「解説」を書く約束をしているのでとりかかる。高校と大学時代を通じての親友だった。ぼくの作品にも登場するのでそのことをまず書いておきたい。

02/24/火
トランプという人物がアメリカの大統領になってから、世界は確実に悪い方向に向かっている。トランプという人物に個人的な問題があるということではなく、あのような人物が大統領になるというところに、アメリカ合衆国という国の疲弊が露呈したということになり、同時にその疲弊はヨーロッパにも拡がっている。その疲弊の端的なあらわれが「理念の崩壊」ということだろう。理念というのは、「絵に描いたモチ」みたいなもので、フランス革命の時に提唱された「自由」「平等」「博愛」といった概念がまさにそれだ。農業中心の中世から、商工業に重点を置いた近代への移行の要点となるのが、「労働力の流動性」ということで、中世においては農民は土地に縛りつけられていて、引っ越しの自由、職業選択の自由が与えられていなかった。イギリスでは400年以上前に、ジェントリーと呼ばれる新興地主が、毛織物工業を起こし、労働力の流動性を必要とした。彼らが大学に献金したりしてハヤらせたのが「自由主義」で、要するに農民は土地に縛られた奴隷ではなく、自由に移動することができるという思想だ。流動性が確保された結果、イギリスは近代化を為し遂げ、スペインの無敵艦隊を破ってインドや北米に進出した。インドで得た綿花をイギリス国内の工場に輸入して、毛織物の機械を改良して綿織物の産業化に成功した。さらに綿花のアメリカ南部での栽培も推奨した。アメリカ南部の農民は労働力不足を補うためにアフリカから輸入された黒人奴隷を購入した。南部の農民がお金を出して購入した奴隷は、リンカーンは解放した。その時に提唱されたのが「自由」だ。確かに人間には自由が必要だ。しかしリンカーンや北部の工場主が求めたのは労働力の流動性ということであって、自由は理念ではなく、「タダで得られる労働力」ということにわかならない。この「タダで得られる労働力」は移民の推奨ということにつながる。世界はこの「タダで得られる労働力」というもので動いているのであって、「自由」とか「平等」とかいった理念で動いているわけではない。理念を推進しているのは恵まれた中産階級の知識人だけであって、底辺の労働者にとっては「自由」は「絵に描いたモチ」にすぎない。自由だけがあってお金がなければ奴隷以下の生活になってしまう。トランプが大統領になったということは、アメリカにおいて理念というものが崩壊したことを意味している。ヨーロッパでも同じようなことが起こっている。ドイツは最も進歩的な国とされ、大量の移民を受け容れてきた。そもそも分裂した国家の統一によって東ドイツの国民に自由が与えられたというのは、西側の工場主が「タダで得られる労働力」を獲得したということで、この東ドイツで自由を与えられた労働者によってドイツ経済は発展し、さらに人手不足が続いたので大量の難民を受け容れたということだ。「自由」「平等」「博愛」というのは、要するに労働力の流動性ということであり、「タダで得られる労働力」ということだ。ぼくは大学を出て数年間、労働者をやっていたが、サラリーマンというのはまさに「タダで得られる労働力」だ。一ヵ月間、タダで働いて、後払いの月給を貰う。その月給も低賃金であって、退職金という途方もない後払いが約束されているだけだ。そらには年金への拠出金もとられて、国家ぐるみの後払いシステムに加入させられる。もっともいまは後期高齢者なので、大学を退縮した時に8年分の労働に対する退職金を貰ったし、年金も貰っている。日本は戦争に負けたけれども「きずな主義」の仕組みは残されていて、低賃金で国のために尽くし退職金や年金で埋め合わせするということを国民は受け容れてきた。その意味では日本は半分は社会主義の国家だったのだが、小泉政権の時に郵便局を民営化して社会主義を放棄してしまった。完全資本主義の世の中になると、資金の大きいものが自由競争で肥大化していくことになる。いまは資本がひたすら肥大化し、中産階級の知識人が無力化している時代だ。理念が崩壊してしまうと、いちばんわかりやすいファシズムだけが生き残っていく。いまトランプは白人労働者の支持を受けているけれども、国内の産業が活性化すると労働賃金の高騰が起こり、結局は移民を受け容れることになるのではないかとぼくは思っている。理念というものがなくなってしまうと、大貧民が増加する。困った時代になったものだ。さて今日は、名古屋の孫が止まりに来た。明日が大学受験だとのことだが、浪人覚悟だとかで、あまり勉強していないのではとジイサンは心配している。去年の秋から冬にかけて、スペインの孫娘が泊まっていた。それ以来の孫だ。孫とはいえもう大人だから存在感がある。名古屋の孫は日本語が通じるので安心だし、男の子なのでこちらが気をつかうこともない。とにかくベストの状態で送り出してやりたい。

02/25/水
朝から雨。受験生は傘をもって出かけたようだ。頑張ってほしい。SARTRASの会議1件。来週の会議のための事前審査。一つ一つ議論していくので時間はかかるが、これをやっておけば来週の会議がスムーズに進行する。昨日「労働力の流動性」ということについて言及したのは、いま文藝家協会で文士劇の稽古を始めたからで、演目が「風と共に去りぬ」なのだが、会員から、なぜいまこれをやるのかという問題提起があったからだ。あのビビアン・リーの名作映画は、アメリカ本国では批判の対象になっている。ヒロインたちの奴隷に対する態度が、ふつうに奴隷がいた時代そのままなので、明らかに差別を肯定しているように受け止められる。日本でいえば時代劇なのだから仕方がないともいえるが、今回稽古を始めた台本では、ヒロインの恋愛と、向上心によって変身していく姿を肯定的にとらえていて、奴隷はまったく登場しない。ヒューマニズムによる差別の撤廃というのはまさに「絵に描いたモチ」みたいなもので、リンカーンの意図は明らかに「労働力の流動性」を求めたものだが、奴隷解放と同時に綿花の輸出禁止という措置をとることで、労働力だけでなく原材料も格安で取得することができる。これがアメリカの産業が発展する基盤となったことは確かだ。実はまったく同じ時期に、ロシアでは皇帝の命令で農奴解放令が出された。日本では明治維新で農民は土地から解放された。これは世界的な近代化の流れで起こったことで、差別の撤廃とかヒューマニズムの問題ではない。そういうことをぼくは公に発言するつもりはないけれども、スカーレットの父親はアイルランドからの移民で叩き上げの人物だ。彼らはリンカーンの近代化政策の被害者だといえる。日本でも敗戦のおりに農地解放と財閥解体、さらには預金の引き出し制限が実施された。これは「戦争に負けたので仕方がない」という諦めムードのなかで実施された制度改革なので、国民は従うしかなかったのだが、南部の農民にとっては、自分たちが築き上げてきたものをそっくり北部の資本家に「ただどり」されてしまうことになるわけで、内戦は避けられなかったのだろう。まあ、われわれはヒロインの身勝手な恋愛と、南部の若者たちが愚かにも戦争に突入していくさまを、一つの悲劇として演じていけばいいと思っている。

以下は随時更新します


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